岐阜市
加納城今が彼岸花が満開です。
令和二年九月二十九日撮影
初代城主には長女亀姫(かめひめ)の婿である奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じ、10万石を与えました。その後奥平氏3代、大久保氏1代、松平(戸田)氏3代、安藤氏3代、永井氏6代といずれも譜代(ふだい)大名が城主となり、明治を迎えます。明治5年から6年にかけて、城内の建物は取り壊されてしまい、その後堀も埋められてしまいましたが、本丸周辺や二の丸の北側など石垣が残り、当時の姿を偲ぶことができます。
本丸は東に出っ張りを持つ、凸の字形をしています。これは出枡形(でますがた)という防御施設を、本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴で、加納城はその初現にあたることから、「加納城型」ともいわれています。
昭和58年本丸が国の史跡に指定されて以降、発掘調査を実施しています。平成11年度の発掘では、南門の土塁(どるい)の跡が見つかると同時に、江戸時代の加納城の下に戦国時代の城館の土塁が見つかりました。言い伝えの裏付けができた大発見といえます。平成16・17年度には、大手口北の堀から堀障子(ほりしょうじ)が見つかりました。今まで全く想定されていなかったもので、新たな事実が明らかとなっています。平成19年度には、大手口の石垣や櫓門(やぐらもん)の柱を支えた礎石(そせき)が発掘されました。石垣はこの部分だけ綺麗に平らに割った石を使っており、本丸正門の美観を意識したものと見られます。
現在の二の丸は北側を除き、石垣が埋められてしまっているので正確な範囲が分からなくなっています。発掘調査で、東側の石垣や厩曲輪(うまやぐるわ)との通路の石垣が見つかり、範囲が明らかになっています。また二の丸には城主が暮らす御殿がありましたが、平成12年度の発掘調査で、その一部と見られる礎石が発見されました。