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浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

聞の宗教

2023-03-03 21:35:49 | 法話

皆様、こんにちわ!

今日は、暖かい、春の訪れを感じさせる日になりました。明日は、気温が下がり、天気が下り坂なようです

昨日、3月3日は、ひなまつり、そして、耳の日でした。

その耳の日にちなみまして、浄土真宗は、「聞」の宗教と言われます。

ということを、ブログに載せようと思いついたのですが、昨日は、ご相談、打ち合わせ、病院など、

いろいろあって、断念してしまいました。

私が、お浄土に救われるのは、阿弥陀如来様のおはたらきによるものです。私の力は、まったく、役に立ちません。

お浄土に生まれたいという願いも、そのための修行の功徳もすべて、阿弥陀如来様が、私に代わって

成就して下さって、私に、「任せよ、お浄土参りは引き受けました」と呼びかけて下さっています。

そもそも、私には、お浄土に参りたいという願いすらありません。まして、修行も出来ません。

いつまでも、長生きしたい、お浄土に参ることを、少しも有難いと思えない者を救うのですから、

阿弥陀如来様のご苦労はたいへんなものです。

それが、南無阿弥陀仏です。南無が「任せよ」阿弥陀仏が「救う」とすでに、はたらいてくださっています。

その救いを、お聞かせて頂くだけです。

聞いて救われるのではなく、救われていたことを聞くのでございます。

それを、よく、「聞くより先のお助け」と言われます。

南無阿弥陀仏の音を聞くのではなく、南無阿弥陀仏とはどんな意味があるのか、南無阿弥陀仏とは、何かを聞くのです。

「聞」とは、むこうから聞こえてくるものを、そのまま受け取るという意味があるそうです。

大無量寿経にいわく、阿弥陀如来様が、かつて、法蔵菩薩という名の修行者であった時、48の願いを師の前で誓いました。

法蔵菩薩は、すべての者を、仏にさせることが出来ないうちは、阿弥陀如来とは名のらないと誓われました。

その誓いは、成就し、既に、阿弥陀如来と名のられているのです。それは、私の救われる道が成就したことなのです。

法蔵菩薩は、ご自身の悟りと、私の悟りの両方を成就されました。

浄土真宗の教えには、いくつか特徴がございます。その一つに、

私が、阿弥陀如来様に、何かをお願いするのではなく、阿弥陀如来様の願いとは、何かを聞かせて頂く教えなのです。

なので、「聞」の宗教と言われます。浄土真宗では、聴聞(ちょうもん)=法話を聞くことを、もっとも大事にしております。

聴聞しなければ、阿弥陀如来様とは出会えません。

私が師と仰ぐ、小林顕英先生は、「私に生まれてよかったという喜びと、安心の毎日を与えてあげたい」

それが、阿弥陀如来様の本心の願いと教えて下さいました。

私が、この世に生まれてよかったと思えるのは、さまざまな出逢いだと思います。

その中で、阿弥陀如来様に出会えた喜びは、格別なものがあります。

阿弥陀如来様との出会いは、永遠なるもので、別れはありません。

私が、忘れていても、常に、私に至り届いて下さっています。

 


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