皆様、こんにちわ!
今日は、暖かい、春の訪れを感じさせる日になりました。明日は、気温が下がり、天気が下り坂なようです
昨日、3月3日は、ひなまつり、そして、耳の日でした。
その耳の日にちなみまして、浄土真宗は、「聞」の宗教と言われます。
ということを、ブログに載せようと思いついたのですが、昨日は、ご相談、打ち合わせ、病院など、
いろいろあって、断念してしまいました。
私が、お浄土に救われるのは、阿弥陀如来様のおはたらきによるものです。私の力は、まったく、役に立ちません。
お浄土に生まれたいという願いも、そのための修行の功徳もすべて、阿弥陀如来様が、私に代わって
成就して下さって、私に、「任せよ、お浄土参りは引き受けました」と呼びかけて下さっています。
そもそも、私には、お浄土に参りたいという願いすらありません。まして、修行も出来ません。
いつまでも、長生きしたい、お浄土に参ることを、少しも有難いと思えない者を救うのですから、
阿弥陀如来様のご苦労はたいへんなものです。
それが、南無阿弥陀仏です。南無が「任せよ」阿弥陀仏が「救う」とすでに、はたらいてくださっています。
その救いを、お聞かせて頂くだけです。
聞いて救われるのではなく、救われていたことを聞くのでございます。
それを、よく、「聞くより先のお助け」と言われます。
南無阿弥陀仏の音を聞くのではなく、南無阿弥陀仏とはどんな意味があるのか、南無阿弥陀仏とは、何かを聞くのです。
「聞」とは、むこうから聞こえてくるものを、そのまま受け取るという意味があるそうです。
大無量寿経にいわく、阿弥陀如来様が、かつて、法蔵菩薩という名の修行者であった時、48の願いを師の前で誓いました。
法蔵菩薩は、すべての者を、仏にさせることが出来ないうちは、阿弥陀如来とは名のらないと誓われました。
その誓いは、成就し、既に、阿弥陀如来と名のられているのです。それは、私の救われる道が成就したことなのです。
法蔵菩薩は、ご自身の悟りと、私の悟りの両方を成就されました。
浄土真宗の教えには、いくつか特徴がございます。その一つに、
私が、阿弥陀如来様に、何かをお願いするのではなく、阿弥陀如来様の願いとは、何かを聞かせて頂く教えなのです。
なので、「聞」の宗教と言われます。浄土真宗では、聴聞(ちょうもん)=法話を聞くことを、もっとも大事にしております。
聴聞しなければ、阿弥陀如来様とは出会えません。
私が師と仰ぐ、小林顕英先生は、「私に生まれてよかったという喜びと、安心の毎日を与えてあげたい」
それが、阿弥陀如来様の本心の願いと教えて下さいました。
私が、この世に生まれてよかったと思えるのは、さまざまな出逢いだと思います。
その中で、阿弥陀如来様に出会えた喜びは、格別なものがあります。
阿弥陀如来様との出会いは、永遠なるもので、別れはありません。
私が、忘れていても、常に、私に至り届いて下さっています。