皆様、こんばんは!
料理は、愛する方のことを思って作ると美味しくなる。読経も亡くなった方の事を思って称えると良いと思います。亡くなった方の事を思い、読経するのは、良いと思うのは、亡き方は、今、称える私に何を願っているのかを聞かせて頂くためだからです。その願いとは、浄土真宗の僧侶の立場から申し上げれば、南無阿弥陀仏を称えて欲しいと願っておられると思います。しかし、そこに、大事な事がございます。念仏にも二種類あります。他力の念仏と自力の念仏です。南無阿弥陀仏の中身は、同じですが、称える私の側の心持は違います。私が称えている(自力)と、私が称えさせて頂いている(他力)の違いです。浄土真宗は、他力の教えです。私が称えて救われるという教えであれば、一回で良いのか?それとも何万回?という数が問題になりますが、浄土真宗には、回数は決まっていません。他力の念仏とは、阿弥陀如来様がはたらいて、私の口に出て下さるのが南無阿弥陀仏ですから、私が称えているのではありませんので、称える回数に決まりはありません。
昔、いつ死んでもいいと思っている人は、長生きするという話を、ホンマでっかTVという番組でやってました。逆に、死にたくない死にたくないと思っている人は、早死にするというのです。原因は、ストレスだそうです。私は、早死にすると、番組を見ながら思いました。ただ、長生き=幸せとは、限らないということも、最近、思います。
私は、もし、浄土真宗の教えに出会えてなかったら、今、どうなっていたのだろうかということを、ふと、考えます。やはり、死んだらどうなるのかという事に心配したり、悩んだりしているのだろうか?それとも、何も考えないように誤魔化しているだろうか・・・
前に、ご法事のご相談にみえられた方から、こんな胸の内を打ち明けられました。私は、今も現役で仕事をしています。仕事をしていると、ふと、浄土真宗で良かったと思います。もし、あれをしなきゃいけない、これをしなきゃいけない、そうしなければ、亡き妻は、成仏出来ないとか、亡き方が、悲しんでしまうという事を言われたら、辛くて、仕事など手に付きません。でも、住職が言われるように、私の妻は、既に、阿弥陀如来様に救われ、成仏をしていると思うと安心できます。私が、お参りしなければ成仏出来ないとか、法事をしなければ、成仏出来ないと言われたら、常に、脅迫されているように感じます。でも、浄土真宗は、亡き妻は、仏様と成って、私のことを見守ってくれていると思うと有難いです。と私に語って下さいました。