皆様、こんばんわ!
いつもの美容院が、先週あたりから、私の都合の良い時間に予約が取れません。どうしてだろう?と考えたら、今は、卒業式シーズンだからだと思いました。私の長女の勤める幼稚園も昨日、卒園式だったそうで、年長さんの担任のため、とても、緊張したそうですが、無事に、終わって、昨晩は、ホッとした様子で、帰ってきたので、私も安心致しました。
ところで、私は、法事や葬儀などで、絶対にしてはいけないことは、数々、あれど、もし、一つを選べと聞かれたら、お名前を間違えてしまうことこそが、絶対にしてはいけないことです。とお答えすると思います。法名(浄土真宗では戒名とは申しません)の間違えは、何とか、苦し紛れに誤魔化せますが、俗名(生前のお名前)を、間違えに気付かずに、法事や葬儀を勤めたら、後ほど、大クレームです。どんなに、素晴らしい声で、読経をしても、有難い法話をしても、ご家族の耳には響きません。なぜなら、お名前を間違えることは、他人の法事をしているのと同じだからです。お名前というのは、その方自身なのです。その方の人生そのものなのです。名前には、その方の、今までの人生すべてが、込められているのです。ご遺族にとっても、亡き方のお名前は、その方との思い出がすべて込められているのです。
私も、伊東英幸という名前を、両親から頂きましたが、たとえば、伊藤英幸とよく、間違えられます。私が間違えを指摘すれば、相手は、「東」も「藤」も、大して変わらないだろう位に思うかもしれませんが、私にしてみたら、伊藤英幸は、私ではないのです。
入学式や卒業式、学校の先生は、最大限の注意をはらうはずです。私も、法事や葬儀の際、同じです。卒業証書を書く、書道の先生も同じ事をおっしゃっていました。字を、絶対に間違えてはいけないのです。
浄土真宗でもっとも大事なのは、南無阿弥陀仏です。これを、名号(みょうごう)と申します。名号とは、阿弥陀如来様のお名前です。しかし、名前であれば、阿弥陀仏だけで良いのですが、阿弥陀仏の上に南無が付いているところが、大事なのです。浄土真宗では、阿弥陀如来様=南無阿弥陀仏なのです。法徳寺の永代供養墓にも、正面に南無阿弥陀仏と彫ってあります。
親鸞聖人様は、南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来様からの呼び声であるとお示し下さいました。南無=帰命(きみょう)=帰せよの命令。阿弥陀仏に任せよ必ず救うという意味です。南無阿弥陀仏は、常に、私の元に至り届き、呼んで下さっている仏様という意味なのです。私の口に、南無阿弥陀仏と称えさせて頂けるのは、常に、私に阿弥陀如来様のはたらきが届いているからなのです。私が称えている南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来様そのものなのです。私が称えていると思ってはいけないのです。
大無量寿経によると、阿弥陀如来様は、元は、法蔵菩薩という修行者であって、師の前で、48の願いを誓われました。
48の願いを、一言でいえば、すべての者を無条件で、救う力を得るまでは、私は、仏とは名のらないという誓いです。
そして、その願いは、十劫という遠い遠い昔に、成就し、法蔵菩薩は、阿弥陀仏と成られたとお釈迦様は、大無量寿経にご説法されています。そして、すべての者を救うことの出来る、修行の功徳のすべてを、法蔵菩薩は、阿弥陀仏という名に込められたのです。私は、先ほど、人間の名前も、その方の人生すべてであると申し上げましたが、その意味は、この法蔵菩薩の救いから学びました。法蔵菩薩も、すべての者を救うことの出来るご修行の成果(功徳)のすべてを、名に込められたのです。そして、今、我が名、南無阿弥陀仏を称えよと呼びかけておられるのです
南無阿弥陀仏は、動いているぞ、南無阿弥陀仏は、動いているぞ。
稲城選恵和上が、生前、おっしゃっておられたと、大阪の安方先生が、ご法話でお話下さいました。