■ヒカリ文集 2022.9.5
松浦理恵子 『 ヒカリ文集 』 を読みました。
友人が、ヒカリのような悪魔的女性に絡め取られていく。
ぼくは、どのような助言をするだろうか、と思いながら読みました。
この歳になれば、無視するに越したことはない。 彼女は魔女だ!そう助言するだろうことは分かる。
若ければ、ぼくもうっかり手を出し、グチャグチャになり、最期は血を見ることか。
かって、一人の女性がいた。
数年後、その女性に恋した6人の男女が真実、フィクションを問わず自由な形式で思い出をしたためることにした。
名付けて「ヒカリ文集」。
鷹野裕
悠高は二年前に東北で横死した。厳冬の夜泥酔して戸外で倒れたまま凍えたらしく、朝方路上の遺体が発見された。「そんな無頼な死に方をする人とは思ってなかったのに」というのは妻であり劇団の役者であった久代の弁である。
「でもね、前はそれほどヒカリを懐かしんでる様子もなかったの。あんな思い出に踏み込む戯曲を書こうとしたのがいけなかったんじゃないかな。たぶんあれを書き始めてからだと思うけど、『今、日本にヒカリがいるとしたら被災地にいるだろうな』ってぼそっと呟いたことがあったの。そのへんからだよ、おかしくなったのは」
「…………いったん東北にヒカリがいるんじゃないかと想像したら口実を作ってでも行かずにはいられなくなったんだよ。私の妄想かも知れないけど。自分の書いた物のせいで変になるってこと、あると思う?」
「自分の出した毒に自分がやられることはあると思うよ。」
実は私が考えたのもおなじようなことだった。うっかりヒカリを生々しく思い起こす作品を書き始めたせいで、悠高はヒカリを探しに行きたくなってしまったのだ。ヒカリがいるはずの想像上の東北と、現実の東北を混ぜこぜにして。
「裕、あの戯曲の続き書かない?」
「途中で終わってるのが気持ち悪いんだよね。私たちの思い出に真っ黒な穴があいてるみたいで。あれが完成したら穴が塞がってさっぱりするような気がするの。……」
「書けないよ。悠高の作品じゃないか」
「いっそみんなで書くのがいいかな? それぞれのヒカリの思い出を。無理に戯曲の続きにしなくてもいいかも知れない。戯曲形式である必要はなく、全体の統一性なんかもどうでもよくて、バランスも気にしない方針で」
「ヒカリ文集か」
ヒカリ文集は企画された約二年の月日をかけて完成した。
破月悠高
順平 ヒカリさんってのがみなさんのマドンナ?
雪実 マドンナ? 誰がそんな気持ち悪い言葉使ったの?
裕 すまない。僕だ。通じやすいかと思って。
久代 みんなに興味と愛情を向けられる女性って意味なら間違ってないよね。
雪実 そんなに小ぎれいなことだった? 誰もが遠巻きにして憧れてるだけの人じゃなかったでしょ、ヒカリは。みんなそんなに純情じゃなかったわよ、ヒカリも含めて。
悠高 優也な、それを言うなら同じ女性を好きだった男女が時を経てこうして集まってるのも相当変わったことだぞ。そう思わないか?
順平 そうですね。笑顔が素敵で人を依存させるほど優しい。人に愛されるのが好きで男とも女ともつき合うけれど、一人の人間と長期にわたる親密なパートナーシップを持つことはない。どこか弱さがあって暗い。…………こんなまとめでいいでしょうか?
鷹野裕
ヒカリは、数日後「そろそろ一区切りつけない?」と言い出した。「嫌いなったわけじゃないけど、もう二人で見つけられるものはあんまりないと思う」「ずっと二人きりでいて煮詰まって行く感じが苦手なの」「好きなまま別れて友達でいたい」といった言のどこまでが本心だったわからないが、別れたいと言われたら承諾するほかはない。
飛方雪実
人を嬉しがられる習慣がしみつているからこそああした台詞が口をついて出て来るのだと思う。
小国がやるとテロ、大国がやると制裁と呼び方が変わることにはとうてい納得がいかなかった。
ヒカリの磨き抜かれた社交術は人が怖くてたまらないことの裏返しにも見え、あそこまで社交術を磨かなければならないほどの心の傷があるのかと疑えば深読みもしたくなった。どちらかと言えば傷があってほしい。傷のある人の方が傷のない人よりも他人を必要としていて濃密な関係が結べるから----と、まだ人間を大して知らなかった二十歳の私は単純に考えていた。
ヒカリは「嫌いになんかなってない。離れられなくなる前に離れておきたい」と小ぎれいなことを言い続けた。
ヒカリへの感情はさまざまに移り変わったが、結局のところ、恨みではなく楽しませてくれたことへの感謝が残っている。自分でも意外だった。他の人もそうなのか知らないけれど、私は自分をとびきり気持ちよくさせてくれた相手を心底嫌うことはできないようだ。
この先何一ついいことがなかったとしても、私の人生は最低最悪というわけではない。ほんとうに、地獄でも天国にでも一緒に行きたかった。
小滝朝奈
それでもあれこれ質問を投げかけるうちに、雪実はとうとう苦笑いしながら「ねえ、わたしを使って自分探しをしないで。」と言った。
きっちりコントロールされていて、鏡に前で練習して完成させたのではないかと思うのだけど、それがまた「少なくとも今はあなたが大好きなので、よかったらここにいさせてください。」と語っているようなはかなさを感じさせ、笑顔を向けられた方は「今だけでいいからこの笑顔を前に置いておきたい。」と願ってしまうのだ。
鷹野さんの意気消沈ぶりから鷹野さんが一方的に振られたのだと察せられた。雪実の時も振ったのはヒカリの方だったようだから、ああ見えてヒカリは人を誘惑しては捨てる残酷な遊び人なのではないか、とあたしは疑い、俄然ヒカリに興味を持った。
雪実が口を開いた。
「わたしは、はっきり言う。かっこ悪くても言う。嫉妬で苦しい。」
雪実は続けた。
「ヒカリが男とつき合うんだったら諦めもつくけどさ。女とつき合うのはこたえる。」
真岡久代
あの稽古場でいくつもの恋愛劇を見た。私たちが作っていた作品ではなく実際の、とりわけ次々と相手を替えるヒカリを中心とした恋愛模様は注目を集めていた。
基本的に優しい子だというのは間違いない。気が小さいほど人を傷つけるのを恐れていて、身についた習慣のように人を喜ばせ力づける。人と仲よくなりたいという気持ちもあふれ出ている。それなのに親密な関係を結んでは自分から壊すのがヒカリだった。惚れやすく冷めやすいのかと言えば、そういう浮わついた感じでもなく、親密になりたい相手を厳選しある時期までは誠意を尽くす真摯なイメージがあった。なぜじきに別れるのか。飽きるのか。幻滅するのか。関係が重荷になるのか。愛されたいと願いながらいざ愛されると嫌になるのか。愛情を勝ち得るのが目標で、つき合い続けるのは退屈なのか。いずれにしても、奇妙な癖のあるヒカリは決して心が健全な人間ではなかった。
悠高がヒカリを好きになるとは思っていなかった。悠高は人と、特に女性とじっくり話すのが趣味で、女性の心の奥底の気持ちを引き出すのも巧みだったが、他の人にはできないような話を存分に聞いてもらって悠高にすっかり心を預けた女性がつき合いたがっても、悠高は気づかないふりをした。どの女性も聞き出した話を参考にして役を当て書きしてもらっていたのに、それだけでは満足でぎないらしく、ほぼ全員が失望を面に浮かべてNTRを辞めて行った。ある子は怒りをこらえきれず、打ち上げの席で悠高に向かって「あなたは人の体験を利用しただけじゃない体験泥棒!」と叫び、悠高の脇腹を蹴りつけて走り去った。最後の台詞がいたく気に入った悠高は「体験泥棒」というタイトルの台本を書いた。
「つき合わなくてもいいじゃない。つき合ったらいずれ終わるけど、つき合わなければずっと変わらず仲よくしていられるよ。私は悠高さんがだいじだからその方がいい」
ヒカリはそう言ったのだという。
「ほかにもいろんな口実を並べてたけど」悠高は私に向かってぼやいた。「俺とつき合ったら枕営業みたいになるとかさ。でも、最大の理由は俺じゃつまらないからだろうな」
ヒカリが帰った後、お姉さんは「あの子、見た目は可愛いし人あしらいもうまいけど、真っ暗闇でひらひらと舌だけがそよいでいるような無気味さがあるね」と評し、「あんたみたいな坊やの手に負えるような女じゃないわ。好きにならない方がいいよ」と忠告した。悠高は姉の見る目に感心しつつも「もう遅い」と心の中で呟くしかなかった。
「だけど、君は俺のこと好きじゃないよね?」
「恋とは別の意味ですごく好きだよ。それじゃ不満?」
「不満じゃないけど…………」
「重ね重ねごめん。君がうま過ぎた」
「うまいとだめなの?」
「俺みたいに未熟で嫉妬深い男にはね」
ヒカリの腕が悠高の首に巻きついた。
「もっと早く合ってればよかったね」
好きじゃないくせに白々しい、と思いながらも上辺の優しさにすがりつきたくなるほど、その時の悠高は弱っていた。
秋谷優也
「私はカルメンも十分悪いと思う。殺すのは論外だけど、あの調子で誰彼かまわず気に入った男を誘って冷めたら捨ててたら、いつかは刺すような相手に当たるかもしれないって普通考えない? ドン・ホセみたいな遊んでない純情な男に手を出したのがカルメンの落ち度だよ。遊ぶなら人を選んで遊べってこと。」
雪実さんはヒカリさんへの当てこすりを言ったつもりでは全くなかったと思う。NTRの人たちはドン・ホセに負けないくらい純情だったけど、みんな恨みも未練も飲み下して友好的な関係を続けていたし、だいたいヒカリさんはカルメンのような性欲優勢の肉体派ではなかった。それなのにヒカリさんの表情は瞬間すっと暗くなった。すぐに何でもない表情に戻ったので、気づいた人がどれだけいたかはわからない。
平凡とはいえそれなりに人生経験を積んだ三十代半ばの今、ヒカリさんとのつき合いを思い返すと、かつて僕がヒカリさんに言った「伝わらない本物の愛より、偽物であっても目に見える笑顔の方が人の役に立つ」ということばは間違いではなかったと感じる。ヒカリさんは優しくて悲しくてとてつもなく魅力的な偽物の恋人だった。
鷹野裕
「もしかして、それが恋人と別れた原因?」
「違うと思うよ」雪実は笑った。「純粋に二人の問題。鷹野さんは?」
「『あなたが見てるのは私じゃないわ。私の肩越しに昔の恋人を見ているのよ』なんてドラマみたいなことは言われなかったな。たぶん僕の人間性に問題があったんだ」
「人間性か。……鷹野さんと私は自己肯定感が高くて一人で生きて行けるって思われてたらしいね」
「だとしても楽に生きてるわけじゃないのにな」
「ヒカリは人間性よかったと思う?」
「人間性がいい悪いの次元じゃ測れない人だったと思う」
「うん。優しい人だったけど、心の深いところに根ざした優しさじゃないからね。性格とか人格とか本心のようなものとは必ずしも繋がってない優しさだった。みんな書いてた通り」
「それなのに、あそこまで人を心地よくさせられるんだからな」
「メンタル・クリニックにかかれば何らかの診断名が下されるかもしれない。養育者との関係が健全ではなかったためうんぬんかんかんって。それは私だって同じだろうけど」
「僕もだろうな。でも、ヒカリはそういう心のひずみが他の人たちにとっては全部プラスの方向に働いてたのが凄いよ。いや、全部ではないか」
「人を捨てるからね、次々に」
私たちはふっと笑いを吐いた。
「雪実はヒカリとの思い出を護符って書いてたっけ?」
「うん」
「僕は胸に埋め込まれた木の実のように感じてるよ。割ると甘い汁が迸る。ヒカリのことを書いててそう思ったな」
「そういうものをもらえてよかったよね。悪魔の実かもしれないけど」
『 ヒカリ文集/松浦理恵子/講談社 』
松浦理恵子 『 ヒカリ文集 』 を読みました。
友人が、ヒカリのような悪魔的女性に絡め取られていく。
ぼくは、どのような助言をするだろうか、と思いながら読みました。
この歳になれば、無視するに越したことはない。 彼女は魔女だ!そう助言するだろうことは分かる。
若ければ、ぼくもうっかり手を出し、グチャグチャになり、最期は血を見ることか。
かって、一人の女性がいた。
数年後、その女性に恋した6人の男女が真実、フィクションを問わず自由な形式で思い出をしたためることにした。
名付けて「ヒカリ文集」。
鷹野裕
悠高は二年前に東北で横死した。厳冬の夜泥酔して戸外で倒れたまま凍えたらしく、朝方路上の遺体が発見された。「そんな無頼な死に方をする人とは思ってなかったのに」というのは妻であり劇団の役者であった久代の弁である。
「でもね、前はそれほどヒカリを懐かしんでる様子もなかったの。あんな思い出に踏み込む戯曲を書こうとしたのがいけなかったんじゃないかな。たぶんあれを書き始めてからだと思うけど、『今、日本にヒカリがいるとしたら被災地にいるだろうな』ってぼそっと呟いたことがあったの。そのへんからだよ、おかしくなったのは」
「…………いったん東北にヒカリがいるんじゃないかと想像したら口実を作ってでも行かずにはいられなくなったんだよ。私の妄想かも知れないけど。自分の書いた物のせいで変になるってこと、あると思う?」
「自分の出した毒に自分がやられることはあると思うよ。」
実は私が考えたのもおなじようなことだった。うっかりヒカリを生々しく思い起こす作品を書き始めたせいで、悠高はヒカリを探しに行きたくなってしまったのだ。ヒカリがいるはずの想像上の東北と、現実の東北を混ぜこぜにして。
「裕、あの戯曲の続き書かない?」
「途中で終わってるのが気持ち悪いんだよね。私たちの思い出に真っ黒な穴があいてるみたいで。あれが完成したら穴が塞がってさっぱりするような気がするの。……」
「書けないよ。悠高の作品じゃないか」
「いっそみんなで書くのがいいかな? それぞれのヒカリの思い出を。無理に戯曲の続きにしなくてもいいかも知れない。戯曲形式である必要はなく、全体の統一性なんかもどうでもよくて、バランスも気にしない方針で」
「ヒカリ文集か」
ヒカリ文集は企画された約二年の月日をかけて完成した。
破月悠高
順平 ヒカリさんってのがみなさんのマドンナ?
雪実 マドンナ? 誰がそんな気持ち悪い言葉使ったの?
裕 すまない。僕だ。通じやすいかと思って。
久代 みんなに興味と愛情を向けられる女性って意味なら間違ってないよね。
雪実 そんなに小ぎれいなことだった? 誰もが遠巻きにして憧れてるだけの人じゃなかったでしょ、ヒカリは。みんなそんなに純情じゃなかったわよ、ヒカリも含めて。
悠高 優也な、それを言うなら同じ女性を好きだった男女が時を経てこうして集まってるのも相当変わったことだぞ。そう思わないか?
順平 そうですね。笑顔が素敵で人を依存させるほど優しい。人に愛されるのが好きで男とも女ともつき合うけれど、一人の人間と長期にわたる親密なパートナーシップを持つことはない。どこか弱さがあって暗い。…………こんなまとめでいいでしょうか?
鷹野裕
ヒカリは、数日後「そろそろ一区切りつけない?」と言い出した。「嫌いなったわけじゃないけど、もう二人で見つけられるものはあんまりないと思う」「ずっと二人きりでいて煮詰まって行く感じが苦手なの」「好きなまま別れて友達でいたい」といった言のどこまでが本心だったわからないが、別れたいと言われたら承諾するほかはない。
飛方雪実
人を嬉しがられる習慣がしみつているからこそああした台詞が口をついて出て来るのだと思う。
小国がやるとテロ、大国がやると制裁と呼び方が変わることにはとうてい納得がいかなかった。
ヒカリの磨き抜かれた社交術は人が怖くてたまらないことの裏返しにも見え、あそこまで社交術を磨かなければならないほどの心の傷があるのかと疑えば深読みもしたくなった。どちらかと言えば傷があってほしい。傷のある人の方が傷のない人よりも他人を必要としていて濃密な関係が結べるから----と、まだ人間を大して知らなかった二十歳の私は単純に考えていた。
ヒカリは「嫌いになんかなってない。離れられなくなる前に離れておきたい」と小ぎれいなことを言い続けた。
ヒカリへの感情はさまざまに移り変わったが、結局のところ、恨みではなく楽しませてくれたことへの感謝が残っている。自分でも意外だった。他の人もそうなのか知らないけれど、私は自分をとびきり気持ちよくさせてくれた相手を心底嫌うことはできないようだ。
この先何一ついいことがなかったとしても、私の人生は最低最悪というわけではない。ほんとうに、地獄でも天国にでも一緒に行きたかった。
小滝朝奈
それでもあれこれ質問を投げかけるうちに、雪実はとうとう苦笑いしながら「ねえ、わたしを使って自分探しをしないで。」と言った。
きっちりコントロールされていて、鏡に前で練習して完成させたのではないかと思うのだけど、それがまた「少なくとも今はあなたが大好きなので、よかったらここにいさせてください。」と語っているようなはかなさを感じさせ、笑顔を向けられた方は「今だけでいいからこの笑顔を前に置いておきたい。」と願ってしまうのだ。
鷹野さんの意気消沈ぶりから鷹野さんが一方的に振られたのだと察せられた。雪実の時も振ったのはヒカリの方だったようだから、ああ見えてヒカリは人を誘惑しては捨てる残酷な遊び人なのではないか、とあたしは疑い、俄然ヒカリに興味を持った。
雪実が口を開いた。
「わたしは、はっきり言う。かっこ悪くても言う。嫉妬で苦しい。」
雪実は続けた。
「ヒカリが男とつき合うんだったら諦めもつくけどさ。女とつき合うのはこたえる。」
真岡久代
あの稽古場でいくつもの恋愛劇を見た。私たちが作っていた作品ではなく実際の、とりわけ次々と相手を替えるヒカリを中心とした恋愛模様は注目を集めていた。
基本的に優しい子だというのは間違いない。気が小さいほど人を傷つけるのを恐れていて、身についた習慣のように人を喜ばせ力づける。人と仲よくなりたいという気持ちもあふれ出ている。それなのに親密な関係を結んでは自分から壊すのがヒカリだった。惚れやすく冷めやすいのかと言えば、そういう浮わついた感じでもなく、親密になりたい相手を厳選しある時期までは誠意を尽くす真摯なイメージがあった。なぜじきに別れるのか。飽きるのか。幻滅するのか。関係が重荷になるのか。愛されたいと願いながらいざ愛されると嫌になるのか。愛情を勝ち得るのが目標で、つき合い続けるのは退屈なのか。いずれにしても、奇妙な癖のあるヒカリは決して心が健全な人間ではなかった。
悠高がヒカリを好きになるとは思っていなかった。悠高は人と、特に女性とじっくり話すのが趣味で、女性の心の奥底の気持ちを引き出すのも巧みだったが、他の人にはできないような話を存分に聞いてもらって悠高にすっかり心を預けた女性がつき合いたがっても、悠高は気づかないふりをした。どの女性も聞き出した話を参考にして役を当て書きしてもらっていたのに、それだけでは満足でぎないらしく、ほぼ全員が失望を面に浮かべてNTRを辞めて行った。ある子は怒りをこらえきれず、打ち上げの席で悠高に向かって「あなたは人の体験を利用しただけじゃない体験泥棒!」と叫び、悠高の脇腹を蹴りつけて走り去った。最後の台詞がいたく気に入った悠高は「体験泥棒」というタイトルの台本を書いた。
「つき合わなくてもいいじゃない。つき合ったらいずれ終わるけど、つき合わなければずっと変わらず仲よくしていられるよ。私は悠高さんがだいじだからその方がいい」
ヒカリはそう言ったのだという。
「ほかにもいろんな口実を並べてたけど」悠高は私に向かってぼやいた。「俺とつき合ったら枕営業みたいになるとかさ。でも、最大の理由は俺じゃつまらないからだろうな」
ヒカリが帰った後、お姉さんは「あの子、見た目は可愛いし人あしらいもうまいけど、真っ暗闇でひらひらと舌だけがそよいでいるような無気味さがあるね」と評し、「あんたみたいな坊やの手に負えるような女じゃないわ。好きにならない方がいいよ」と忠告した。悠高は姉の見る目に感心しつつも「もう遅い」と心の中で呟くしかなかった。
「だけど、君は俺のこと好きじゃないよね?」
「恋とは別の意味ですごく好きだよ。それじゃ不満?」
「不満じゃないけど…………」
「重ね重ねごめん。君がうま過ぎた」
「うまいとだめなの?」
「俺みたいに未熟で嫉妬深い男にはね」
ヒカリの腕が悠高の首に巻きついた。
「もっと早く合ってればよかったね」
好きじゃないくせに白々しい、と思いながらも上辺の優しさにすがりつきたくなるほど、その時の悠高は弱っていた。
秋谷優也
「私はカルメンも十分悪いと思う。殺すのは論外だけど、あの調子で誰彼かまわず気に入った男を誘って冷めたら捨ててたら、いつかは刺すような相手に当たるかもしれないって普通考えない? ドン・ホセみたいな遊んでない純情な男に手を出したのがカルメンの落ち度だよ。遊ぶなら人を選んで遊べってこと。」
雪実さんはヒカリさんへの当てこすりを言ったつもりでは全くなかったと思う。NTRの人たちはドン・ホセに負けないくらい純情だったけど、みんな恨みも未練も飲み下して友好的な関係を続けていたし、だいたいヒカリさんはカルメンのような性欲優勢の肉体派ではなかった。それなのにヒカリさんの表情は瞬間すっと暗くなった。すぐに何でもない表情に戻ったので、気づいた人がどれだけいたかはわからない。
平凡とはいえそれなりに人生経験を積んだ三十代半ばの今、ヒカリさんとのつき合いを思い返すと、かつて僕がヒカリさんに言った「伝わらない本物の愛より、偽物であっても目に見える笑顔の方が人の役に立つ」ということばは間違いではなかったと感じる。ヒカリさんは優しくて悲しくてとてつもなく魅力的な偽物の恋人だった。
鷹野裕
「もしかして、それが恋人と別れた原因?」
「違うと思うよ」雪実は笑った。「純粋に二人の問題。鷹野さんは?」
「『あなたが見てるのは私じゃないわ。私の肩越しに昔の恋人を見ているのよ』なんてドラマみたいなことは言われなかったな。たぶん僕の人間性に問題があったんだ」
「人間性か。……鷹野さんと私は自己肯定感が高くて一人で生きて行けるって思われてたらしいね」
「だとしても楽に生きてるわけじゃないのにな」
「ヒカリは人間性よかったと思う?」
「人間性がいい悪いの次元じゃ測れない人だったと思う」
「うん。優しい人だったけど、心の深いところに根ざした優しさじゃないからね。性格とか人格とか本心のようなものとは必ずしも繋がってない優しさだった。みんな書いてた通り」
「それなのに、あそこまで人を心地よくさせられるんだからな」
「メンタル・クリニックにかかれば何らかの診断名が下されるかもしれない。養育者との関係が健全ではなかったためうんぬんかんかんって。それは私だって同じだろうけど」
「僕もだろうな。でも、ヒカリはそういう心のひずみが他の人たちにとっては全部プラスの方向に働いてたのが凄いよ。いや、全部ではないか」
「人を捨てるからね、次々に」
私たちはふっと笑いを吐いた。
「雪実はヒカリとの思い出を護符って書いてたっけ?」
「うん」
「僕は胸に埋め込まれた木の実のように感じてるよ。割ると甘い汁が迸る。ヒカリのことを書いててそう思ったな」
「そういうものをもらえてよかったよね。悪魔の実かもしれないけど」
『 ヒカリ文集/松浦理恵子/講談社 』
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