今日もいい天気です。
朝起きて、温泉に入ってからバイキングの朝食です。
朝食会場はほぼ満席で、大勢泊まっていたみたいです。カップルや家族連れ、外国の方など色々です。
種類は豊富で、おせち料理や、お雑煮、おでん、明石焼き、その場で焼いてくれるオムレツなどもありました。
コーヒーをテイクアウトできるので、部屋に持ち帰って、テレビを観たりしながら11時前頃までゴロゴロしました。
ホテルをチェックアウトして、赤穂の大石神社に行くことにしました。
昨晩の日本料理店の夕食代金、飲み代込みで、二人で2万円以下だったのでコスパが高いです。
赤穂城跡の近くにある、大石内蔵助の旧宅の隣に、大石内蔵助を祀って建立された神社です。
30年ぶり位なので、ほとんど憶えていませんでした。
御朱印をいただきました。
参拝のあと、周囲を散策してみました。
大石内蔵助の旧宅跡です。
歴史博物館があったので、入ってみました。赤穂の塩業と、赤穂浪士討ち入りに関する博物館です。
300年くらい前、赤穂藩 浅野藩主が、江戸城で天皇の勅使を迎える大役に任じられた際に、吉良上野介が作法の指導係でしたが
、浅野藩主から吉良上野介へのお礼の品物が少なかったことから、作法をわざと適当に教えられて、大恥をかかされてしまいました。
更に、吉良上野介から、こんな事も知らんで、この田舎者が、とかからかわれたことで、とうとうぶち切れて、刀で切り掛かって怪我をさせてしまいます。
ただ、理由についてははっきりしておらず、諸説あるようですが、浅野藩主は極度の女好きで、放蕩ばかりする上に、短気者であった様です。
当時も、天皇が将軍を任命するという立場で、今の日本の天皇が総理大臣を任命している様に、形ばかりではありますが、将軍よりも天皇が上の立場でした。
天皇の勅使を迎える重要な式を、めちゃくちゃにされ、面目まるつぶれになった将軍は激怒し、ろくに取り調べもせずその日の内に、浅野藩主を切腹させ、赤穂藩を取り潰しする事にしてしまいました。
取り潰しになったため、家老だった大石内蔵助や家臣も赤穂の住まいを追い出されて、プータローになってしまいました。
しかし、トラブルの原因になった相手の吉良上野介には、当時の権力者であったこともあり、なんのおとがめもなかったことから、大石や元家臣の吉良への怒りは収まりません。
今で言えば懲戒免職みたいなもので、侍としての再就職もままならず、とうとうヤケになって処刑覚悟の上、集団で武装して、吉良上野介の家を夜中に襲撃する事になりました。
目的を達成後、武士の鏡でよくやったとか、逆に無法者で処罰すべきとか賛否が別れましたが、最終的には全員処刑されてしまいます。
事件後、江戸時代の民衆の人気は高く、歌舞伎や人形浄瑠璃で、忠臣蔵として演目になったり、版画の絵本が出版され、広く知られるようになりました。
この事件から150年後、新選組が京都の警護をする際に、忠臣蔵の衣装を参考にパクッて、同じ様なだんだら模様の衣装を作ったりしています。
だいたいこんな感じが討ち入りの概要でした。
今まで、大石内蔵助は年配の60歳位かと思っていましたが、事件の際、まだ45歳だったそうで、人望が高く温厚で、放蕩者の藩主の代わりに、赤穂藩を取り仕切っていたそうです。
岡山との縁もあって、高梁市にある松山城に、取り潰しになった城主の代わりに、城代として一年半位いたこともあります。
松山城は、高い山頂にあって、明治以降も取り壊すのが面倒だったためか放置されて、ボロボロになっていましたが、昭和になって修復されて、今ではお城好きの人気になっています。
お腹が空いて来たので、赤穂城跡の近くにあるホテルの、イタリアンレストランで昼食です。
周りは、住宅地が広がっています。
この辺りが、赤穂城の舟入場だったそうです。大石内蔵助も散歩したりしたんでしょうか。
討ち入りのため、家族に処分が及ばないように、奥さんと離縁し、切腹も覚悟の上で
自分を捨ててまで、信念を貫き通したのですが、色々な葛藤に苦しんだことが想像されます。
そんなことを考えながら歩いて、赤穂ロイヤルホテルに到着しました。
パンが焼きたてで、美味しかったです。
トマトパスタ
デザートにコーヒー
のんびりしていたら、3時近くになったので、岡山に帰ることにしました。
二日間のんびり過ごして、少しリフレッシュすることができました。