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咸臨丸航海長「小野友五郎」

2024年12月28日 12時35分59秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 私は小学校のころにそろばんを習い、その関係で日本古来の数学である和算に関心が有った。算盤は手動式の計算機でこれは現代の電子計算機を除けは、世界で最も発達した計算機である。しかもこの手動式計算機は電気も要らず、どんな山奥にも持って行ける。珠算一級の方のその速度は物凄いものです。さらに、珠算は頭の働きを活発にして、何桁もの暗算を一瞬のうちに算出し容易にさせる。珠算の超一級の人は、頭の中に算盤を思い浮かべて、それを弾くことで頭の中で計算機が作動すると云う。和算の起源を勘案すると、奈良時代に「九章算術」という書物が隋より渡来している事がある。東洋の自然科学はシナの科学に端を発しているが、それは未だ科学とは呼べない代物であり、古代支那科学の分析と解説は、藪内清先生や吉田光邦先生の様な方の研究が素晴らしい。なぜ古来の数学である和算に興味を抱いたかに附いては、江戸時代に算学は驚くべき速度で急速に発展し、なんと庶民の間にも大流行があったことなど、また各地の神社に奉納され算額を見る機会が有った為です。

江戸時代は徳川の世で、身分や作法、年貢などの掟は有ったが年貢さえ支払えば、他には身に詰まることは無かった。ただ農業経営が主であったので収穫は気候に左右される事が多く、大冷害の年は大変な事態になり、飢えに晒されて悲惨にも村が消滅するような事さえ発生した。これは冷害に備えて一年を遣り過す備蓄が無かった為でもあろう。全国300藩の中には、予め冷害を予想して備蓄米を米蔵に備えて、餓死を防ぐ策を取った藩もある。だが或る程度の余裕が無ければ取れない施策だが、領民の飢え死には、藩の名誉としては大恥の筈であろう。冷害に強い品種改良も江戸時代を通じて行われ、また肥料の関係も農民はよく知ってゐたが、「肥料公社」があるわけでは無く、肥料は百姓が工夫して自分たちで揃える必要があった。木の葉を集めて堆肥とするなど、現代では肥料の三要素として窒素・リン酸・カリウム、が必要な事は子供でも知ってゐるし、茎中の窒素を固定する技術さえあるが、当時は経験から試行錯誤を繰り返した。そして歴史に名を残す大飢饉だけではなく、不作の小飢饉は常に存在した。

天体物理学の観測から言えば、太陽活動は江戸時代を通じて低調で、中期からは小氷河期の時期に当たる。大飢饉と小飢饉が平均すると30年ごとに発生した。敏感な者は今年が飢饉かどうかを手近に有る兆候から、ある程度予想できたという。長期的な予想は無理でも経験がものを言った。飢饉の実相は太陽の光が弱い、曇天が多い、干ばつ、洪水、台風、と様々であるが、稲の品種改良が格段に進んだ訳でもなく、飢饉は常に直ぐそこに在ったと考える。過去の飢饉の記録を見ると、誰もが知って居る記録に出くわす、それは鴨長明の方丈記の記述にある「養和の飢饉」である。方丈記を読むと養和元年(1181年)に起きた飢饉は全国規模で、その年は春先から雨が降らず、旱魃が続き作物は実らなかった。源平の鍔迫り合いが続いた時代である。飢えた人々は都へ行けば何とかなるだろうとの希望から京に集まったが、そこでも食べ物は無かった。餓死者は特に東北は酷い惨状だったらしい。京都に流れ込んだ人々は結局は飢えて死に、臭き臭いが満ち満ちて、洛中には四万二千三百人の死骸が洛中に在ったと長明は書いている。日本国では日米戦争のあと、天候不順による作柄と収穫量の減少は存在したが、この様に大量の人が飢えて死ぬ事は無かった。

此処で江戸時代の飢饉の実情を詳しく調べれば、享保・天明・天保、3大飢饉だけではなく、その他にも多くの小飢饉があったのだ。先ず、元和五年(1619)、寛永十九年二十年(1642、1643)、延宝三年(1674~1675)、延宝八年(1680)、天和期(1682~1683)元禄期(1691~1695)、享保の大飢饉(1732)宝暦期(1753~1757)、天明の大飢饉(1782・1787)、天保の大飢饉(1833・1839)、飢饉で亡くなった人々は数百万人近い。天明の大飢饉では東北地方で40万人が亡くなったと当時の旅行家である菅江真澄が日記に残している。江戸時代だけでなく、飢饉は身近に在ったのだ。

小野友五郎は、私の在所から東に益子を経て、仏の山を越えればもう笠間のお稲荷さんです。車で行けば道の混み具合もあるが凡そ40分で行ける。友五郎の時代は笠間藩牧野氏の支配する八万石の小藩であった。友五郎はその笠間藩の一代限りの下士で、永続的な武士としての籍は無かった小守家に三男として生れた。父が亡くなれば兄がその後を継ぐのであるが、それは雇われることが保証されたものでは無くて。継続伺いを申し願いそれが代々許可されて来たと言うだけに過ぎない。友五郎は三男であったので家を継ぐ希望は無かった。それでどこかの家の養子に入る事で身を処する以外に道は無かった。友五郎の性質は温厚で熱心な性質であったのだろう。二十俵三人扶ちで生活はカスカスであり、元より贅沢をする等という事は有り得ない最低の武士であった。友五郎が15歳の時、笠間藩の算家である甲斐駒蔵に弟子入りした。15歳にもなって初めて学問をするのは、だいぶ遅過ぎる様に感じられるが、小守家では藩校に出す余裕も無かったのだろう。藩校に通わせるには、それなりの身だしなみも居るだろうし、学用品も掛かる。それで本来ならば7歳位には塾なりに出すべきが、貧乏でそれが出来なかったのだろうと想像する。

それで甲斐駒蔵の家に教えを受けに行く訳だが、入門してから友五郎は、一日とて休むことなく3里の道を通ったらしい。師匠の駒蔵は町場の賑やかな所が好きで、たまには酒を飲んだり芝居が掛るとまた足を向ける。そう云う性格だから、出歩くことが多くてなかなか家に居ない。そうすると友五郎は駒蔵が帰るまで家で待って居るわけだ。それが度々重なる。それでも友五郎は師匠が帰るまで待って居るので、流石の駒蔵もこの若い弟子の為に出歩くことを幾らか控えたらしい。3里と謂えば12キロメートルである。もちろん江戸時代の事であるから徒歩である。12キロを一時間で歩ける訳がないから、幾ら早く歩いても時速6キロメートル、2時間は掛かる。そして帰りも2時間で、何とも和算の勉強に往復4時間を費やしている。そして、それは通学時間に過ぎない、駒蔵に教えを受ける時間が2時間として、帰りも2時間、駒蔵が遊びに出て居なければ、家で待って居る。友五郎は、家の用事か、病気にでも為らない限り、雨の日も、風の日も、雪の日も、夏の盛りの暑い日も、駒蔵の家に教えを受けに出掛けたのである。15歳の食べ盛りの年頃では腹も減る事だろう。如何して居たのか?。この熱心さが、2年位で師匠の駒蔵の学力を追い抜く。学問の出発は晩かったが元々地頭は良かったのだろう。やがて、彼は藩の勘定方に採用され、藩の勘定所の下働きを熱心に遂行する。やがてそれが認められて笠間藩の江戸藩邸勘定役に抜擢される。

江戸に着任した友五郎は藩の扶持米の管理に仕事に精を出したが、勤務以外に暇を見つけては、精力的に数学の研究に邁進する。その頃に江戸は神田橋に在る長谷川寛の「算学道場」に入門した。当時の長谷川道場は全国から数学好きが集まった有名な道場であった。そこでは世の中の武士や町人百姓などの身分は一切考慮されなかった。ただ、そこで基準に成るのは数学の実力一本だった。だから全国から数学好きが集まった。中には農家の次男坊なども居て月謝が払えないので、天秤棒を担いで魚屋をやったり、大工の下働きをやったりして、何がしかの金を得てそれを月謝に宛てていた。長谷川寛は実に物の解った指導者で、入門して困窮してゐる者は道場の寮の賄や掃除などをさせて僅かだが給料を支払い塾生の生活を助けた。その頃、友五郎は長谷川道場に入門すると同時に、伊豆の江川英龍(太郎左衛門)の所に出掛けて西洋式の反射炉で鉄を作る技術とか蘭学などを学んでいた。英龍も友五郎が見どころの或る青年であるので可愛がった。

時は幕末である、嘉永五年にPerryが江戸湾に現れて強引に外交開国を迫った、そんな時代である。もう家柄がどうしたとか謂って居られない時代であった。実力のある人材が求められる危機の時代でもあった。時の老中筆頭、阿部正弘は、家柄を越えて真に実力ある賢人を抜擢した。いま迄は家柄が役職を独占していたきらいがあった。安倍老中はこの様な危機に時代に遭遇しストレスの為か若くして亡くなった。その後を継いだのがあの井伊掃部守直弼である。老中筆頭はやがて大老となる。何人かの目付は井伊直弼の大老就任に反対したが、それはごり押しで通って仕舞い、歴史は安政の大獄を演出する事に成る。

 
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