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光とはなにか。

2025年01月07日 21時12分32秒 | 天文学と宇宙論

 光りは私たちの生活と常に共にあるので、「光とはなにか」、と問われても、あまり驚くことはない。寧ろ、陳腐な問いと思われかねない。だが本当は我々は光に附いて何も知らないに等しい。光は波動である、然り、光は粒子である、然り、波動であると同時に粒子でもある。光の実体はなんなのだろう。光の速度は最も速いとされる。光の粒子は質量がごく少ない。なぜ光は存在するのか?、光は電磁波である。電磁とは電気と磁気、電子の誘電率と磁気の透磁率が、交互に互いを誘発させその連続が電磁波であり、光は電磁波のある段階の波動である。ヒトの眼に見える光とは、或る範囲の周波数で後の周波数はヒトの眼には見えない。この世界には様々な周波数の電磁波が溢れているのだ。物事も異なる周波数の下では見え方がまるで違うのだ。

更に光は、我々の心に強い影響を及ぼす、心理的な物であは有るが、その影響はとても大きい。それは我々というよりも地球生命全般であろう。光の無い世界は暗黒の闇である。それが宇宙ではごく当たり前の常態だ、光りは有意な現象と言えるのだろう。人もも光り依って覚醒し、光りによって世界を見ることが出来るのだから。智慧は見ることを通じて光の中から現れる。闇の世界には生まれ乍らの方でない限り中々耐えられないであろう。勿論光以外にも世界を把握する力を持つ者もゐるが。光りは反射を通して世界を見ることが可能だ。そう言うことから宗教的感情を励起させ、信仰がうまれた。光りを崇拝する多くの宗教がある。古代イランのゾロアスター教、通称、拝火教だ。仏教にもその側面があり、密教は火を崇拝する。火は神聖であると共に智慧の象徴なのだ。

我々の感覚器官である眼は、ひかりに起因して現れた。我々の眼は、太陽のひかりの中の或る周波数に反応する様につくられた感覚器である。むかし、古代インドに興った原始仏教の中に「唯識」という学派があった。唯識派はそのコトバの如く「識の本質」を大系付けることを目指した学派であった。識とはいわゆる感覚器により得られる「認識情報」のことであるが、それだけに留まらない自我意識を超える潜在意識を想定した。それで唯識派は、人間の感覚器の分析を始めた。先ずは正常にうまれた人間ならば持ちえる感覚器、眼、耳、舌、鼻、皮膚感覚(触覚)、そしてそれをお統一して現れる自覚的意識、に分けた。更に、生れながらに持ちえた末那識という潜在意識をいれ、更には、最も深い存在の意識である阿頼耶識を最終精神の究極とした。そして此の阿頼耶識には個人的な意識は残されていない。この一つの葉が経験したすべての記憶の蔵は、その死と共に消え去るとした。個人的な記憶が存在するのは末那識までであるだろうとした。勿論それが正しいものかどうかの結論は出ていない。飽く迄も、その論を作った物の見解に過ぎない。

原始仏教のコノ様な論は、人間の認識力の概容とその限界を問うことの必要性から生まれたと思う。「知るとは何か」、「知れる限界は何処までか、それは何故か」という意味をこの問いは指示している。実に深く豊かな奥行きがある問い掛けだ。例えば、それはこの様な根源的な問いが為される、将来の数学は、人間の数学を超えるものであろう。人間の数学はまだ知力の展開の上では幼児期に在る。現在の数学とはまったく別な数学が存在して何ら不思議ではない。もっと根源的な数学の事を言っている。いま僕がこの様な事を書き記しても、たぶん解ってくれる人は限られているのではなかろうか。哲学とは根源を考察する分野であるので、それは数学も物理も天文も化学も生物の遺伝学もすべてをふくむものだ。

光りが自覚的意識を生み出し、更には物事の現象を広く感知しその原理を探る意識が生まれる事は智慧が生まれる事に等しい。依って光りは智慧を生んだという俗説もあながち間違いではない。

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