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江戸時代の教育ー日本人はどう学んできたか。

2024年12月31日 08時46分27秒 | 日本文明と文化

 2万年前の縄文時代はどうか分からぬが、生れた子供の教育という物が、遠い古代に於いても無かった訳ではないだろう。子供を育てる過程で社会的動物である人間は、社会の掟(規範)という物を学ぶはずである。それを教育と呼んだところで仕来たりとか規範と呼んだところで、根は同じ物である。現在の日本人の規範の半ば以上は、江戸時代の規範と仕来たりからの影響を強く受けている。日本文明と振り被れば、遠く二万年の縄文期に行き着く、大自然と共にその懐に抱かれて暮らした自然と一体になった時間である。その文明から得られるもので最大の物は自然神道の考え方である。それは永い紆余曲折の経過が有った筈だが依然として日本人の心の最も深い部分を形成している。古代のは多くの国が有った。それを束ねる目的から争う事が起きて、一応大君の世の中に成った。それは見方に差があるが、秀真伝などが語る所では紀元前1600年辺りが始まりであるという。神武帝よりも千年以上前のことである。その辺りに統一日本の枠組みが出来たと、まあ考えても好いだろう。

紀元前1600年代と言っても、たいして古いわけでは無い、20000年前の縄文期から数えればつい昨日のことである。其れ程、日本人の歴史は永い。実を云えば二万年では済まない。というのは長野県の妙高野尻湖ではNaumannゾウを狩っていた人々が居た。Naumann象はおよそ35000年前に絶滅したと言われている。それを狩りしていた人々が居たとすれば、4万年前には原日本人が長野県の野尻湖のほとりで暮らしてゐた。またそれどころか、島根県では12万年前の磨製石器が出ている。こうなると原日本人の起源は、もう捉え所が無くなる。遺伝子解析に於いても日本人はモンゴロイドとしては極めて古い人種に属する。当然の事だが日本語の起源も其れと同様にきわめて古い。

前置きが長くなり過ぎたが、主題は江戸時代の文化と教育である。直近の日本文化は室町期に発するというのは解る気がする。と謂うのは、書院造、石庭、茶道、大和絵などの絵画、猿楽、能、を始めとした多くの現在も継続している芸道の多くが、この時代に発している。足利義政が多くの芸道を進めたのは功績だが、然し乍ら応仁の乱の遠因をを醸成し、やがては戦国時代に突入する統制の無い時代をつくったのも義政の将軍時代に発する。戦国が終わり家康の江戸幕府が開府すると、殺伐として世の中はようやく安定し、人々は文化を楽しむ余裕が見え始めた。江戸期は様々の飢饉などの悲惨な事態も多く起きたが、それでも何とか文化を高める努力が為された。やがて人々は教育の必要性を感じ、様々な教育の試行がなされた。江戸期は95%が庶民であり、武士は5%しか居なかった。庶民と言っても百姓だけではなく、商人も大工も工人も役割の違いだけで庶民の部類に入れる事が出来る。

当時江戸に住む町人層は、商売を家業にする以上は、「読み書きソロバン」は必須の習得科目であった。それは主に寺子屋という所で行われた。寺子屋という今で言う一種の学校は、江戸時代以前も存在して居たが、江戸が幕府の本拠地になり、そこに住む人々は文字が読める事、文字を書けること、計算が出来る事、が必要であった。寺子屋といってもすべてお寺で授業をする訳ではない。40人位の生徒が入る部屋が有ればそれで十分なのである。どこの寺子屋でも教える事は「読み・書き・ソロバン」が主で、一つだけでも教えるところが有ったらしい。寺子屋の教師も特別な資格が必要ではなかった。

ただ、15~16歳位までの生徒に読み書きソロバンを教える事が出来れば、それで十分だった。地方にも村には一つか二つの寺子屋が有った。だが江戸には寺子屋の数が多く、名前の付いた寺子屋も多く在った。江戸末期には日本全国で寺子屋は一万校ほどあったと謂う。それに各藩には藩校が有ったから、相当な数の教育機関が存在した。和算研究家、佐藤健一先生のご著書を引用すると、江戸に関しては、寺子屋の教師の身分は、士族ー41・9%、平民ー52・4%、神官・僧侶ー5・7%、という割合であったそうだ。また、女性教師も多く、江戸の寺子屋の教師の39・4%は、女の先生だった。私は此処にこそ、日本文明の本質、惹いては、日本文化の母系的な核心的部分が有ると感じる。男は外に出て働き、女が賢く家を守ると言う縄文以来の基本線がある。

ここで二つの例を挙げて見たい。一つは、江戸末期の安政二年(1855年)に神田で開業した「東雲堂」という寺子屋では「松原セイ」という女性が教えている。寺子屋の修業年限は9年であった。生徒の数は男32名、女46名、合計78名で、同地区の寺子屋の教師一人が教える平均生徒数は81・5人だという。これは大変だ、躾から読み書きソロバン迄、成長過程に即して教え育てる事が要る。女が賢い國は必ず発展する。それが日本だった。男よりも女の方の賢さの方が国家と言う様な大集団に取っては大切なのだろう。

もう一つ例として、文化十年(1813年)甲州山梨郡勝沼村に寺子屋を開いた、「小池ミサゴ」を取り上げる。文化年間と言えば、我が家の繰込み位牌にある、一番古い6代前の位牌(平吉)の生まれが文化三年だったから、その時代のころなのだなあ~と思った次第です。ミサゴは寛政九年(1797年)三月十六日、甲州八代郡、市川大門村に依田清造の長女として産まれた、父は娘を可愛がり諸芸を学ばせたが、賢く頭の良いミサゴは、人並み以上の成績であったという。寺子屋を開いたのは17歳の時であり、翌年は藩主の内室の侍女として祐筆までこなしたという。文政四年(1821年)勝沼村の薬種商小池忠右衛門と結婚し、再び寺子屋を開いた。寺子屋では寺子からの謝礼で経営する。然し、幕末の大凶作は寺子屋の経営にも影響を及ぼし、生徒が減少し寺子屋の廃業も多く見受けられたという。ミサゴの寺子屋が明治まで継続し得たのは、嫁ぎ先が薬種屋という商売をやってゐた為に、寺子の謝礼だけで運営せずに済んだせいらしい事が挙げられる。全国で一万以上の寺子屋があった。これは世界史的に見れば驚異的である。また、この様に教える先生が居たという事は素晴らしい事であり、更には女の先生が40%以上あった。これ又凄い事で、教えられるだけの素養を身に付けた女性が居られたこと。例えば暮しは貧しくても、持ち切れぬほどの高い志と教養があった為だろう想像します。

* 30年以上も前に、寺子屋に掲げられた諺を知った。そこにはこんな諺が掲げられていたようだ。

1ー 三つの心(こころ)

2ー 六つの躾(しつけ)

3ー 九つ言葉(ことば)

4ー 十二で文(ふみ)

5ー 十五で理(ことわり)

* ー 『ひとの末は、それで決まる』。

この様な諺が掲げられていたらしい。これは人間がこの世に生まれて学ぶべき基本ですね。

少し、私の考えを書いてみます。

*「三つの心」とは、ー 人が人として成長する段階の、最も大切な時期である。子供に愛情を注ぎ、美しいものを見せることが肝要です。優しく接し、教えだ諭す。三つ子の魂なんとやらで、人間の人格の土台を作る時期です。美しいものに感動する感受性を育てる時期です。

*「六つの躾」とは、ー 生活の作法と物事の基本である、善悪を教え諭す時期。世間を渡る上で、基本となる躾が身に付く様に教え諭す事が肝要です。

*「九つ言葉」とは、ー 正しい言葉使いを教える。言葉は心の鏡である。相手に対する思いやりのある言葉使いが出来るように指導する。言葉の乱れはこころの乱れに通じる。常に正しい言葉使いが身に付く様に、愛情を持って導くこと。

*「十二で文」とは、ー 美しい文字が書ける様に、また教科書(往来物ー昔のお手紙の事です)が過不足なく読めるように指導する。多くの古典を読ませて、考えや物事を表現する力を付けさせる。友達と文をやり取りし、豊かな情操を養成すること。

*「十五で理」とは、ー 寺子屋では六つ位からソロバンを教えて来たが、そのソロバンに加えて、算法(数学)を指導する。将来、どんな職業に就こうとも、ソロバンと算法(数学)は、身を立てる手立てと成る。シッカリと習得させ、数理的な思考法を身に付けさせる事。

* 「ひとの末はそれで決まる」とは、ー こころの豊かさと物事の表現力と数理的な思考法が出来るように、寺子屋では先生が愛情を持って指導した。掲げられた諺が身に付けば、この子の将来を良い方向に決定するだろう。

これが当時の寺子屋に掲げられていた諺(教育目標)であったらしい。いま考えても実に素晴らしい識見である。江戸時代の人々は決して愚人ではなかった。人間の内的成長の段階を永い経験から深く知ってゐたと思えます。

それに江戸時代は、子供だけではなく大人も大いに学んだ。例えば「心学」である。心学とは石田梅岩が始めた、人倫の普遍倫理である。梅岩の心学は「石門心学」と呼ばれ、江戸中期以降には、武士、農民、商人、等によって分け隔てなく学ばれた修養の学です。梅岩の出自は農民だったが、若い頃に江戸に出て商家の丁稚となり、そこで其れなりの苦労を重ね人間間の諸事を体得した。その時代の経験が心学の土台に成った。梅岩の説く心学は、人が世の中に生れ、成長し、世間に出て身を処する場合の身に付けなければならぬ倫理が整然と説かれる。彼は云わば優れた人間学の教師でもあった。

江戸期の寺子屋の教育は、日本人に「読み・書き・ソロバン」という技術を指導し、一人前の人間に育てる基礎であった。国民識字率90%は、世界で最も高かった国である。明治になって学制が布かれて、尋常小学校、尋常高等小学校、旧制中学、高等専門学校、高等中学、帝国大學、と変遷したが、それらが順調に進み得たのは、江戸時代の寺子屋の貢献が大きく、その様な土台があった為です。この心学を江戸の商人・庶民や武士・浪人が学んだわけです。それは地方にまでは波及して日本人の倫理感の土台を築き、嘘はつかず、正直・誠実に生きることが人の道である事に気が付かせた。石門心学は今現在でも、人を作るには重要な教えなのです。

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