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お彼岸の日に

2020年09月24日 16時28分15秒 | 日記

はや、父が逝って18年、母が逝って5年、
だがいまだに私の脳裏には、父の歩く姿も、母のまなざしを、
昨日のことのようにあざやかに浮んでいる。
今日はお彼岸である。

仏教の開祖、ゴータマ仏陀の出家は、彼の重い鬱病に発しているという。
あるとき、釈尊の弟子は師に訊ねた。
「先生、個人的自我は死後も保存されるのでしょうか」と。

師はその問いに直接答えることが無かった。
だが、師は間接的に弟子の問いに応えて、

「それを知ることは、おそらく、
我々の人生にとつて根本的なことではなかろう。
我々にとって大切なことは、
現に出来る最良の行為を行い続ける事なのだ」。

質問した弟子には不満も残った事だろう。
師は、それが何か知って居るのに教えてくれないのだと。
では、弟子は何を期待してその問いの答えを求めたのだろうか。

個我ー「自己意識に起因するあらゆる記憶と為した行為のすべて」

もしも、個人的な個我は、死ののちに残らない。とするならば、
弟子は、人の道に反れて悪行のすべてを為しても、
死後の地獄で審判官の、何らの報復を得ることは無いと解釈するだろうか?。
弟子は、地獄の恐怖の為に、彼は見せかけの善を為し、
閻魔庁を欺けると思うのだろうか。
そんなものは地獄の審判官には丸っきり見通しである。
およそ考えられる以上の責め苦を科すだろう。

だが、多くの檀家や門徒は、この答えを聞きたがる。
殆ど答えようのない、生きている者には答えられないこの問いを。
唯物論的に、或いは物質科学的に言えば、
個我が死後残らないのは明白である。物質を超えた何かが
在れば別の話だが。

個人的な我の意識は唯識の中でも色(感覚)によって
一番表面に展開される識のひとつに他ならない。
ゆえに、死後に生理的機能が停止し
焼却によって肉体が蒸発する際には
表層の識は記憶の元が消滅する。

(色)ー しきとは、生きてある、その個体が発散し、
また感受する全感覚機能を言う。

では、何が消滅し、何が残る、のだろうか。

我々の現世的な物の価値一切は消滅する。
個人的意識(個我)は勿論の事、肉体に起因する
その業の全て、容貌、知能、教養、博識、美声、
利己心、性欲、憤怒、吝嗇、虚言、強欲、狷介、
収集癖、詐欺癖、窃盗、破産、脅し恐喝、名誉、
勲章、預金残高、博士号、助平好色、すぐやる課、
名車、妾、友情、借金、恋、妄想、狂信、悪友、良友
権威、痴呆、
グラムシ、ミノムシ、サナダムシ
ありとあらゆる表層的なもの、
フィネガンの通夜に出て来る俗人たち、
諸々の業(カルマ)のすべてが、消え去る。
われわれは、みんな、青い交流電流の幽霊
の効果だ。

では、何が残るか、

それは、弟子の問いに還ることになる。

個人的自我は保存されない、死は生理的機能の停止である。
脳神経活動は停止する。体は焼却され
残るのは骨のカルシュウムと化合物のみである。
そのような中で人間の生理的機能が生成するという、
心は残らないのだろうか。

残るのか、残らないのか、それを弟子は、師に聞き質したのだ。
残るとすれば化学元素か化合物のかたちである。
デオキシリボ核酸も、焼却の熱で構造はバラバラに成る。
遺伝情報は保持されない。

では、行く先が不明なら、
来た道を帰ってみょう。

遠い記憶の種子のすべてがそこに在る
永い永い命の発展史である
仏教が謂う種子とは種で、それは正しく遺伝子であろう
燻重とは遺伝子の中に含まれる分子のもつ
塩基情報であろう。
我々は、いのちのはじまりから生命体の全歴史を
受け継いでいる。

われわれは、0.2ミリの卵と0.05ミリの精子の合体である
そこに心は常在している。古来から物質とこころの関係は
議論されてきた、仏教しかりである。

さらに心とか精神と呼ぶものは物資に起因するものか、否か、
心は物質に起因しないものであるとしたら、それは残る。
というより、元々消滅しないものである。
それは唯識の阿頼耶識に相当するものか。
阿頼耶識は、存在の最小単位でありうるか、
宇宙の意思を体現するものであるか。

それは比喩的に言うのならば原子であり、
実体は原子核を構成する陽子であり、
現代的にいうなら、super・stringのDブレーンであり、
単位でいえば涅槃示寂である。

そこには、もう我々がいう意識はないのだろう。
我々は、なにゆえに、この宇宙と世界に在るか。
風がドゥと吹き、木の葉はその緑をキラキラと光らせていました。

仏教はこの様に、存在の究極を探求する、また常に心を探求する。

ショーペンハウエルは、仏教を心理学と呼んだ。
この感想は正しかった。
現世に生きるひとのこころは、
生きる為の活動と闘争、欲望と打算のために泡立っている。

泡立ちの濁りをときには澄ませるために
一人座るのも好いだろう。
禅はその療法のひとつである。

例えば、禅の公案に

「人間にとって、数とは何なのだろう」という公案があるとする

たぶん外的世界に数という物質は無い、
それは、外に投影した人間の「内的概念の展開」に過ぎないのではないか。
数とは何か?、と謂うこと自体、数というキーワドを使い
意識が合理性的基準の下に、数という概念の構造化をする為の内部展開である

たとえば、数が外的に存在するとするなら(数は人間のイメージであって、外的な存在では無いと思うが)
仮にそれが、存在するなら、それは、惑星や岩石と同じ。
人間は好い自然把握の手段を持ちえたものだ、
数概念は、思念を展開するための謂わば駒のようなものだろう。


父と母への思い出を抱いて、
お彼岸の日に。

 

死とは何か?

進化の果てに積み上げられた生理的機能の停止である。それはもう生理的な円環の活動を停止することだ。死という事に関して直ちに具体的な想像では、意識が停止し無くなるという事だ。では意識とは何か?それは五感の感覚の幻影である。それらの総合された感覚が、謂わば存在の幻影を創り出している。空間が在るというのも幻影だ。我々は腕を振り回せる空間があるではないか?と人は謂う。然し、空間は幻影なのだ。五感の齎すものは幻影である。然しこれが事実だとしても、生きて社会的存在でいる間は、間違っても幻影だなどと主張してはならない。空間はある物として、物質はある物として、この社会が機能しているからだ。死とは何かを問う場合、それは意識とは何かを問う事と似ている。

コメント (2)
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