多分、皆さんは佐藤春夫氏の「西班牙犬の家」という不思議譚の作品を読んだ事が有ると思います。佐藤春夫は、若い頃は絢爛たる詩人の質を持つ人でした。私は詩人佐藤春夫の詩を好みます。彼の感受性がわたしの心に響くのです。詩人は持って生まれた感受性と美しいことばが全てなのです。多少の知識は要るでしょうが、それは詩を創る際の本質的な物では有りません。他には何も要りません。むしろ博識は詩作の邪魔をするかもしれません。彼は後年は名高い小説家に成って居ます。タイトルに挙げた「西班牙犬の家」は、おそらく少年少女の読む雑誌に掲載された作品なのでしょう。この異境の物語を読んで見ると、実に夢想的と言うかとても面白いのです。
詩人を始めとした孤独な夢想家や、憂鬱な日々を過ごしている人は、遠い子供の頃に見たことや、今は亡き父や母に会って見たいと望む事もあるでしょう。もしかするとこの異境譚はそんな望みを叶えて呉れそうな話です。
愛犬は何よりも忠実で主人思いですから、いつ如何なる時も頼りになるものです。いつもの散歩や狩猟の際に通る道の脇に、ふと気が付くと今まで気付かなかった細い道が口を開けていて、それが奥へ細々と奥につながって居たりすると、それが異界への道であるかも知れません。詩人と言う人種や白昼夢を見る夢想家は、時々その様な道を見つける事が多いようです。
この話の主人公は、彼の愛犬のフラテと共に、いつもの散歩の途中に常には入らない道を愛犬に導かれて選ぶ事に成ります。はて?、いつも通る道なのに、こんな脇道があったかな? そしてフラテに連れられて主人公はドンドン異界へと導かれ、小高い丘や灌木の密生する曲がりくねった道を小一時間も辿り、やがて深い森の中の開けた広場に建つ、瀟洒な煉瓦造りの西洋風の家を発見します。しかも森のどこからかサラサラと水の流れる音までが聞こえてきます。変だな?、こんな所に、こんなにも洒落た家が在ったかな?と、不思議に思い、興味を抱いて彼はその家に近づき、そっと格子窓からつま先立ちして家の中を覗きます。誰も居ないようだが、樫の木で出来たたたみ一畳もある大きなテーブルには、湯気が立てたコーヒーカップが載っています。更に煙草盆には、足ったいま火を点けたばかりの高級そうな葉巻が、青い煙を細く部屋の上に立ち上げているではありませんか。
主人公は、そっと格子窓の端からつま先立ちして家の中を垣間見て居ましたが、募る興味に絆されて、大胆にも重い木のドアを引き部屋に入る事を決心する。木の陰などの近所に、人が居て主人公をコッソリ見ていて、警察に連絡するかもしれません。然し、泥棒でないことは、いま主人公が背負っているキャンバスと三脚や絵具のパレットが証明して呉れるだろうという安易な気持ちになり、誰か居ませんか?と、声をかけ乍らドアを引くと、鍵の掛かって居ない重い木のドアは、ギッ、ギッ、ギーと音を立てて開きました。部屋の片面には、格子ガラスで出来た出窓が在り、20畳ほどの部屋の中には、中央に水盤が置かれて居て、その中心部からは綺麗な水が滾滾と流れ出して居る。部屋の外ではイヌのフラテが、家の周りの森の中を、何かを探るようにガサガサと嗅ぎまわって居ます。主人公は部屋を見まわした後で、突然に大机の下に大きな黒い西班牙犬が居る事に気が付き驚きます。オッ!と、驚いてのけ反り乍ら後ろに下がりますが、西班牙犬は微睡んでいるように動きません。この犬を置いて、ここの主人はどこに出かけたのだろう?と、主人公は考えます。
ここは第一に、この部屋は誰かの書斎の様な風体です。部屋の壁側には大きな本棚が設えてあり、そこには古びた羊皮紙で装丁された、分厚い大きなBritannica百科事典が五十冊もゾロリと並んでいて、皮特有の独特な匂いが部屋に厳粛な雰囲気を醸し出して居ます。何か17世紀の西洋の修道院か、城館の様な趣なのです。再び、誰かいませんか!と、声を出したが、部屋の中は水盤から落ちる水の音がするばかりで、何の気配もありません。主人公は仕方なく、部屋を見まわして、ここで一服して立ち去ろうとしますが、机の下の黒い大きな西班牙犬は、相変わらずおとなしく絨毯の上に寝そべっている。だが然し、もしも自分がこのまま部屋を立ち去ろうとした瞬間に、ウヮーンと吠え、犬は突然自分に襲い掛るのではないか?と、主人公は少し不安を抱くが、用心しながら手持ちの葉巻に火をつけて、ああ!自分にも、こんな立派な書斎が有ったらな~、と夢見心地に成りながら、葉巻をくゆらせたあと、四方を見渡し静かな一時を過ごした。そして満足して部屋を出ました。ああ!ここの主人には、また会いに来ようと決心して部屋を出た。外にはフラテが待っていて、盛んにしっぽ振って居る。さあ、もう帰りましょう。云っているかの様だ。
ああ!本当に、今日はなんて変な所に来てしまったのだ。家の周りを一回りして、さて帰るとするかと決心し、また林の中に入って行ったフラテを呼んだ。主人公は、もう一度来る時の為に、この洒落た家の中を見ようと、再び背伸びをして窓から中を覗き込むと、例の真っ黒な西班牙犬はのっそりと起き上がり、机の方に向かいながら、自分が見られているのに気が付かないのか、(ああ…今日は、妙な奴に愕かされた)、と、犬は人間の声で謂ったような気がした。
果てな…?と、思って居ると、よく犬がするように、あの、おお欠伸をしたかと思うと、私の瞬きした間に、奴は、「五十がらみの、縁無しの眼鏡を掛けた黒服の中老人になり」、大机の前の椅子に寄り掛り、悠然と、まだ火を付けぬ葉巻を咥えたまま、あの大型の百科事典の一冊を開いて、頁を繰って居るのだった…。
「お日様がポカポカと、暖かい春の日の午後である。ヒッソリとした、、信州の山のなかの雑木林の中である…」。
*-夢見がちな読者へ!、という副題のついた、不思議なお話です。
誰しもこんな体験をして見たいでしょう。子供だけではなく大人も案外に多いかも知れませんね。少し注意して見てください。若しかすると、あなたが普段に通り慣れた道のすぐ脇に、突然こんな道が通じているかも知れませんよ…。あの黒い大きな西班牙犬や、そこを訪れた主人公は、果たして「佐藤春夫自身」なのでしょうか?。そうです、今の都会の喧騒の中では決して得られない、こんな静かな異境に出会いたいと私も秘かに願っています。何と素晴らしい世界でしょうか?、果たして皆さんは如何でしょうか?
この作品は、大正五年(1916年)十二月に書かれ、翌年の大正六年(1917年)一月、春夫たちが創刊した文学雑誌「星座」一月号に発表されました。彼が二十五歳の時の作品です。実を言えば主人公が見た様な書斎を、自分も持ちたいと思う方は案外多いのではないでしょうか。
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