今回のカテゴリーは「死生観」なのですが、「死ぬ前に最後、何を食べたいか?」など冗談ぽく質問してくる人がいます。
人間には原始的欲求や基本的欲求、生理的欲求などという言葉を用いて、ここの食欲を3大欲求で表現したりします。
①食欲②排泄欲(性欲)③睡眠欲
と呼ばれるものです。
欲とは何か?と問われると、
「欲を解消する行動によって、脳内に快楽物質が放出されて、一時的に気持ちよくなる=幸せになる行為を得る手段」
と定義できます。
動物はある意味において「快楽を求めて生きている」生き物です。
他の動物よりも発達した脳を持ち、物事を深く思考できるのが人間です。
ですから、単純な繰り返しでなく、創意工夫をしながら物事を考える事ができ、新しい事、考えを生み出すことができるのもまた人間の特徴です。
そして、それらの高度な思考能力をき組み合わせ、人間は他の動物に比べて「より次元の高い快楽を感じる事ができる生き物である」と考えられます。
しかし、残念なことに、人間やは、「楽して快楽を得続けたい」という考えが優先されます。
「怠惰」という考え方がどうしても風潮としてはびこっています(どうしても「効率化、生産性を高める」という競争力の言葉が、効率よく金稼ぎするという、怠惰につながってしまうからかもしれません)
人間は他の動物と違って、なぜこのように発達した脳を持って生まれたのか?という理由はより高度な次元で快楽を感じることができるように作られたのだと考えると、人間以外の他の動物と同じようなことをしていてはいけませんね。
「どうして人間が生まれたのか?つ人間がつくられた理由」について知りたい方はこちらの記事をどうぞ。
RAPT有料記事69 (2016年5月21日)神様がこの世を創造した目的を共に成してこそ、人生の虚しさから脱却できる。
RAPT有料記事250(2018年2月12日)主が天地万物を創造した目的はただ一つ。私たち人間と愛を成すためだ。
RAPT有料記事353(2019年2月23日)主はとても知能の高い方だから、知能の高い人間とだけ愛を成し、共に御心を成していかれる。
(答えは全て、上記のリンク先に書いてあるようなものですが、記事を進めます。)
人間は3つの生理的欲求が存在します。
アブラハムマズローという人が自己実現論の中で欲求の階層について以下のことを語っています。
「人間はせ一時的欲求(生理的欲求)が満たされないと、それ以上の高度な欲求(社会的欲求)を求めない」という内容です。
これはある意味正解でもあるのですが、間違ってもいます。
(マズローがおかしなことを言っている理由については以下のリンク先記事を参考にしてください↓
マズローの欲求階層を採用している時代遅れの看護学について)
人間は貧しくても幸せを感じて生きているい人はたくさんいますよね?
それは「お金を使うことがもったいないから」
「ケチでお金を貯めることに喜びを感じているから」
ではありません。
お金はあったほうが便利に決まっています。
しかし、「お金を支払って手に入る物だけで、人間は完全に満たされない」と知っている人がいるのです。
これはこのように言い換えできます。
「お金で得られる快楽よりも、もっと高い快楽が存在する」のです。
物質で得られる快楽でなく、精神的なもの=脳機能を使って得られる快楽のことです。
物質的な快楽は、実はその物質が手に入らないと「快楽は得られない」ことになります。
しかし、「精神的な快楽」創造的な快楽は無限大でお金もかかりません。
つまり、想像力で得られる快楽が高度な快楽となります。
例えば、以下の画像で人間はどちらが脳に快楽を惹起させるでしょうか?
(待ち時間3分 ¥170 代表的なインスタントラーメン)
(待ち事件1時間 ¥1,000 ビブグルマンに選ばれたラーメン)
(待ち事件1時間 ¥1,000 いわゆる二郎系ラーメン)
同じラーメンなのですが、これらのラーメンの違いは「快楽を得られる量の違い」です。
それは旨味や付加価値、希少価値などがそれら快楽を加速させるものにあたります。
私たち人間は「美味しい!」と感じる感情に何段階も細かな階層が存在しているのかもしれません。
「生命維持するために外部からエネルギーや細胞材料を摂取する手段」が食事の目的であるならば、これら美食やグルメは実は無駄の塊です。
ではなぜ、このような美食、グルメブームが今なお続いているのか?というと、私たちが日々、テレビメディアやネット、雑誌でそういった「欲望を駆り立てる情報」に触れ、知らず知らずのうちに「脳にこ快楽を得られる情報を詰め込んでいるから」他なりません。
つまり現代人は、テレビやマスコミなどの情報機関が「これは美味しいよ!」「これは今、最新のグルメだよ」と発信した情報に価値があると錯覚し、その情報を手に入れると、「快楽が得られる」という報酬回路が脳の中にできあがってしまった状態であると考えられます。
テレビが無い国、貧しい国では、そのような欲望を駆り立てるものがありませんから、いちいち大金をはたいたら、何時間もかけて有名店に食べに行かなくても、普段の食事で十分に喜びを得られます。
「安物を食べて満足しろ」
と言っているわけではありません。
「情報の焼け太りを起こして、日常において喜びを感じられない人は不幸だ」
と話しているのです。
美食、グルメブームは普段私たちが「満たされない心を持っているから」流行するという面と
「何もみ楽しみも目的も持って生きていない人に、手っ取り早く生理的欲求の1つ、食欲に溺れさせるため」
に仕掛けられたものです。
人間は、快楽を得られる報酬回路が複雑であると、それを得ることに喜びが大きく感じます。
しかし、簡単に手に入ると満たされなくなる傾向があります。
しかし、誰しもが複雑な報酬回路を経て快楽を得ようとはしません。
簡単に欲望を満たすことができることに固執してしまう傾向もあります。
ファーストフードやコンビニが良い例です。
実は食事は「何を食べるか?」ではなく「どういう心理状態で食べるか?」
でも喜びや快楽の度合いが変わってきます。
何も楽しみもなくただ寂しい気持ちで食べると、ついつい食べ過ぎてしまうかもしれません。
アルコール依存症になる人も、寂しい思い、虚しい思いを抱えながら飲酒するため酒量が増えていき、飲酒に溺れてしまうのです。
私たちは「何かを得て幸せになる」のでなく「脳をフル活用して幸せになること」のほうが、快楽の上限はなく、余分なお金を稼ぐ必要もなく、その分、会社の奴隷になる必要がなくなるため、トータルして幸せな人生を歩むことができるのではないでしょうか?
「生きているだけでい幸せ」と言える人になるには「何も楽しみがない年寄り」になることでなく、物質や生理的欲求欲求に頼らずとも毎日喜びを感じられるくらい、「脳がフル活用されている人」のことなのです。
ですから、私たちにとって、「食べ物」とは「脳で感じるもの」であり、最後は感情を呼び起こす「言葉」となると考えると、私たちにとっての最高に快楽を感じる食べ物とは「言葉」であると考えられます。
私たちの脳は「言葉」でできており、「言葉によって、喜びや希望に満たされる」のです。
ある意味において、認知症とは「脳が機能しなくなり”言葉”を処理できなくなり、快楽がなくなった状態」に近いです。
私たちはそれぞれ一人ひとりが、脳の機能を最高次元にまで高めてこそ、喜びや幸せを感じることができるのであり、「死ぬ前に何かを食べて快楽を感じること」は極めて低次元な話をしているのです。
高級食うや美男美女と共に過ごすことや、名声を得る、威張ることで快楽を感じている段階で低次元の喜びしかもっていない、「子供のような幼稚な脳、精神機能の持ち主」であるということになるのです。
私たちが死ぬまで「脳を成長させることが人生の一つの目標にある」だとしたらどのように生きればよいのでしょうか?
その方法はこちらにあります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます