心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

キリスト教的看護についてのいくつかの考察③ 無神論者ナイチンゲールとは何者なのか?

2018年08月14日 | 看護学について

今回の記事は看護の起源とも呼ばれる「フローレンス・ナイチンゲール」についてです。

学生時代は何も教えてもらえませんでした(というか、大学教授が何も知らなかった」ため、「なぜ、このような人が偉人となったのか?」という理由についてわかりませんでした)

医療環境、療養環境というものと、公衆衛生という考え方を進化させた人物ですが、彼女が偉業をなしたとは言い難く、フリーメイソンに祀り上げられていただけの人物のようにも思えました。

クリスチャンで、マザーテレサもいましたが最後「悪に利用されて終わってしまう」という悲惨な人生ばかりのように感じます。

フローレンスナイチンゲールを看護の中心的人物に仕立て上げたのは、彼女を通して、「誤ったキリスト教を広めること」が目的であるといえます。

その細かい根拠は後述しますが、彼女はキリスト教徒ではなく、父親から「プラトン哲学」なる「プラトニズム」を学び、神秘崇拝、ヘルメス信仰やグノーシス主義に目覚め、フリーメイソンの人脈を使って、名声を得ただけの人物だからです。

 特に彼女の名言で「病人を救うのは、宗教の愛ではなく、衛生環境を整えることだ」と発言したり、

「世界で初めての無宗教(無神論)の看護師養成学校を創設した」

という歴史的事実があります。

そして、彼女がやってきた、「病院の衛生環境を整える」という行為は既にドイツでやられていたこともわかっています。

ではなぜ彼女なのか?

それは「神を愛さず、プラトン主義を愛している人を宣伝するためだった」としか言いようがありません。

本来ならば「人間の命」を守るのが医療であり、看護婦であるのにも関わらず、「戦争」を容認し、「戦争によって負傷した兵士」を治療して、再び戦地に送り込むという悪魔の所業をなしています。

フローレンスナイチンゲールを理解するには、キリスト教を理解しなくてはいけませんし、彼女の資料は少ないですが、「生涯独身を貫きとおしたこと」「神から4度啓示を受けていること(この場合啓示でなく霊感を受けている)」などから、多少のキリスト教の知識があった人なのかもしれませんが、これも後付けではないかと疑うしかありません。


仮に、人助けのためと思ってやっていたとしても、いつの時代もこういった人は政治利用されてしまう傾向があります。

「統計学を使った」など言って、崇めていますが、それがいかほどのものなのでしょうか?

統計学とは、最低の学問である。 - The Nameless City

詐欺師の手引書、あるいは自衛のために「統計はこうしてウソをつく」

グラフでウソをつく方法――統計リテラシーのための基礎文献

 

 

また、ナイチンゲールとは学術名ルスキニアと呼ばれ「墓場鳥」と呼ばれる夜になる鳥です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(サヨナキドリ (小夜啼鳥、学名:Luscinia megarhynchos)

スズメ目ヒタキ科に属する鳥類の一種。 西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しい鳥で、ナイチンゲール(英語: Nightingale)の名でも知られる。また別名ヨナキウグイス(夜鳴鶯)や、墓場鳥と呼ばれることもある。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

このスペルが「ルスキニア」と呼ばれ、「ルシファー」とスペルが似ています。

「Lucifer」「Luscinia」

ですから、「ナイチンゲール、ナイチンゲール」と発するだけでも、「ルシファー、ルシファー」と呼んでいるのかもしれません。

ナイチンゲール家については、父親のウィリアムが改名していますが、改名の理由まではわかりませんでした。

ひょっとすると、悪魔を拝んでいるメディチ家から「ナイチンゲール」という姓を授けられたのかもしれません。

そして、フローレンスナイチンゲールの姉は「精神病」にかかっていると書いてあります。

家族が、プラトニズムという悪魔を信じていて、「姉は気が狂ってしまった」のが実情なのかもしれません。

 

彼女はイタリアのフィレンツェに拠点を置く、大銀行家のメディチ家と強い関わりのある一家に生まれ育ち、有名になった人物です。

看護覚書というアメリカ人がヒポクラテスの誓いをオマージュして作ったものを見るとキリスト教とは程遠い内容が描かれていてガッカリしてしまいます。

クリスチャンでない人が作った内容であるとわかります。

まずはそこから見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ナイチンゲール誓詞(Nightingale Pledge)

ナイチンゲールの偉業をたたえ、その教えを基として、1893年アメリカ・ミシガン州デトロイト市にあるハーパー病院(Harper Hospital)のファランド看護学校、校長リストラ・グレッター(Lystra Gretter)夫人を委員長とする委員会が、『ヒポクラテスの誓い』にならって作成した。

看護に対する精神を基とし、医学に携わる看護師としての必要な考え方、心構えを示したもの。

看護師の戴帽式や卒業式に、ナイチンゲール誓詞により誓いをたてる。

【全 文】
・われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん━━━

・わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。

・われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。

・われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。

・わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、 わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。

・われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

クリスチャンであればわかるのですが、聖句に「誓ってはならない」とあります。

堂々と誓わせています。しかも「神」の存在を信じない人に「誓わせる行為」などは、論外です。

脱線しましたが、このようなことからも、彼女も例に漏れず、広告塔として政治利用されているとわかります。

現在では「看護=人助け」という皮を被り、圧力団体、製薬会社と養成学校のライセンスビジネスという金儲けの道具として看護は成り下がってしまっています。

「様々な科学技術や軍事技術は戦争の中で生まれている」などという科学者や評論家がいますが、現実的に科学や医学の進歩は軍事技術の進歩やまじないやシャーマンなどの行為の進化系であることが多いことは間違いありません。

あまりにも美化され続けるナイチンゲールに疑問を感じない人はいないと思いますのでこの際、調べてみようと考えました。

まずは、彼女の出自についてみていきましょう。 

・・・・・・・・・・・・・・・(フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)

イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。

クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。

国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。

ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。

ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(英語版)とも親しく交流した。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ギリシャ哲学とキリスト教とは全く違います。

しかも、ナイチンゲールの建てた看護学校は宗教系ではない「無宗教」だとすれば、彼女自身の理念つまり「哲学」が反映され建てられた学校である可能性は高いです。

プラトン主義を調べてみると「実存論」に辿り着きますが、これまた抽象的で煙に巻いてきます。

プラトニズムは中世ヨーロッパではメディチ家によってネオプラトニズムに変わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(副島隆彦 誰も書かない世の中の裏側 イルミナティ=フリーメイソンとは何か4月刊ザ・フナイ2010年10月号)

フッガー家とメディチ家はアルプス山脈で各種の鉱山を掘り当てて、鉛や銅や錫などの鉱物資源を自分達の富の源泉にした大商人の名家である。メディチ家は、鉛製の鉄砲の弾を販売してヨーロッパ最大の富豪になった。

メディチ家はレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロやガリレオ・ガリレイたちを匿って庇護した。

そして、ローマ法王(カトリック教会)と対立して、近代の自由思想の先駆けとなった大商人(大市民)である。メディチ家は決して貴族ではない。

だから、フリーメイソンたちの活動の理解者である。
 メディチ家は、フローレンス(フィレンツェ)の都市の支配者(執政官)であるが、ローマ法王派の有力市民たちに政争でフィレンツェから追放されたりもした。

メディチ家は、「新プラトニズム」という思想運動の主宰者である。

フィレンツェに「プラトン学院」という学問研究所をつくって、暗にローマ教会と対立し、「もっと、普通の人間を大切にせよ」という自由思想を始めた。

これを“ルネサンス(renaissance 文芸復興)と言う。

別名をユマニズム(humanism)と言い「人間復興」と言う。

人道主義、人権思想の始まりだ。
 新プラトニズムは、グノーシス教(Agnosticism 不可知論の思想集団)と一体である。

カバラの思想とも一体である。

だから、これらネオ・プラトニズムやグノーシスやカバラを悪魔主義や神秘主義だとして忌み嫌い、「悪魔の集団である」として、排除することをローマ教会側が仕掛けられたのである。

メディチ家やそのあとを継ぐロスチャイルド家たちは、」確かに金融財閥になっていったのだが、決して「闇の支配者」や「世界を操る悪魔集団」などではない。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ここまで読んでみて、つながったと思いませんか?

「1820年5月12日(0歳)両親の新婚旅行中のフィレンツェ(英語名:フローレンス)で次女として生まれた。」

とあるように、フローレンスナイチンゲールは、両親が新婚旅行中、イタリアのフィレンツェで生まれたため「フローレンス」と名付けました。

生まれた都市名をわざわざ子供に名付ける親がいるでしょうか?

凡人の私には理解できません。

彼女の父はウィリアム・エドワード・ショー、母はフランシーズ・スミスといいますが、父は改名します。

姓を「ナイチンゲール」として改姓するのです。

その時期については不明ですが、ショー家はナイチンゲール姓を名乗り、メディチ家から使命を貰ったのかもしれません。

フローレンスナイチンゲールが生まれた都市であるフィレンツェ(フローレンス)はメディチ家が支配しており、「プラトン学園(プラトンアカデミー)」が反キリスト教として建てられています。

そして、ルネサンス=メディチ家であり、フローレンスナイチンゲールはルネサンスに関わった一人であるためこれだけ英雄視されていると考えられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(プラトン・アカデミー(Accademica Platonica)

ルネサンス期にフィレンツェ・メディチ家の周囲に集まった人文主義者らによる私的なサークルをいう。大学のようなものではなく、フィチーノの友人たちの集まり、と言ってもよい。


概要
メディチ家当主のコジモ(1389年-1464年)は、古代ギリシア哲学、特にプラトンの思想に強い関心を持っていた。1439年のフィレンツェ公会議の際に東ローマ帝国の代表団の一人としてやってきた哲学者プレトンが行ったプラトン講義をきっかけに、フィレンツェではプラトン哲学への関心が高まっていたのである。

コジモは侍医の子であるフィチーノに語学の才能があるのを見抜き、1462年頃からフィレンツェ郊外カレッジ(Careggi)にあるメディチ家別荘の近くに別荘を与え、プラトンのラテン語翻訳に従事させた。フィチーノはプラトン全集やヘルメス文書などの翻訳により、名声を博した。そしてカレッジの別荘ではプラトンに心酔し、古代のアカデメイアに憧れる人文主義者らの会合が開かれるようになった。

メディチ家のこの別荘は現存しているが、アカデミーの建物については記録もあまり残っていないとのこと。
プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論を行った。

異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」もこれらの知的風土の中に生まれた作品である。

1468年には(カレッジのアカデミーではないが)カマルドリ会系修道院でフィチーノ、アルベルティらにより「至高の善」をめぐる討論会が開かれ、ロレンツォも加わっている。ランディーノの著作が討論の様子を伝えている。

また1475年11月7日(プラトンの命日)にはプラトン当時を偲んで、カレッジに集まり『饗宴』を朗読し、その解釈を各人が述べるという催しも行われた。

ロレンツォの死(1492年)の後にはアカデミー活動は不活発となった。その後、メディチ家復帰(1512年末)後、プラトンアカデミーの再興が試みられたこともある)

影響
プラトン・アカデミーは後世に理想化され、組織だった教育・研究機関のように捉えられた。各国の知識人にとって模範と考えられ、研究団体などにアカデミーという語が付けられるようになった

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ヘルメス主義とは「悪魔崇拝」のことです。

そしてルネサンスとは神を冒涜し人間が支配するという考え方が含まれています。

中世以降、神を否定することが主流となってきます。

以下の解説をご覧ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(RAPT×読者対談〈第84弾〉自己啓発もスピリチャル系も悪魔崇拝。)

その「夢判断」は全ての夢が「性欲」とつながっているとする怪しげな話なので、全ては全く信憑性のないデマだと考えた方がいいでしょう。

で、「フロイト」の後に現れたのが、その弟子である「ユング」ですが、この「ユング」もスイス人。で、スイスといえば「ロスチャイルド」ですね。(詳しくは以下のリンク子をご参照ください。)

○世界を密かに支配するドルイド教の歴史。ドルイド教とゾロアスター教と古代エジプトと古代ギリシアと古代中国と永世中立国スイスとロスチャイルドと秦氏の奇妙なつながり。

しかも、ウィキペディアを見ると、「ユング」が影響を受けたとされる人物が「クラフト=エビング」「イマヌエル・カント」「ゲーテ」「アルトゥル・ショーペンハウアー」「フリードリヒ・ニーチェ」「易経」「グノーシス主義」「錬金術・ヘルメス主義」とあります。

「ニーチェ」といえば、ゾロアスター教の教祖を主役とした「ツァラトゥストラはこう語った」という本を書き、「神は死んだ」と言って神の存在を否定した人物です。

「易経」「グノーシス主義」「錬金術・ヘルメス主義」については、言うまでもありません、悪魔崇拝そのものですね。

特に「グノーシス主義」はそのシンボルマークが、ドルイド教と同じ「太陽十字」です。詳しくは以下のリンクをご覧ください。

グノーシス主義 – Wikipedia

「ヘルメス主義」のシンボルマークもこんな感じです。(出典はこちら)



で、この「ヘルメス主義」のウィキペディアの記事には、こんなことが書かれてありました。

----------------(以下、こちらから転載)

ヘルメス主義(ヘルメスしゅぎ、英: Hermeticism)とは、主として、ヘルメス・トリスメギストスという著者に仮託された古代の神秘主義的な一群の文献ヘルメス文書に基づく、哲学的・宗教的思想の総称。

ヘルメス文書で扱われる、占星術、錬金術、神智学、自然哲学などを含み、日本語では神秘学の名で呼ばれるような概念にも近い。

----------------(転載ここまで)

「神秘学」とは、まさに「オカルト学」のことです。以下、ウィキペディアの記事です。

----------------(以下、こちらから転載)

神秘学(しんぴがく)は、オカルティズムまたはオキュルティスム(仏: occultisme、英: occultism、独: Okkultismus)の日本語訳の一つである。

オカルト主義、隠秘学(おんひがく、いんぴがく)、玄秘学とも。Geheimwissenschaft の日本語訳でもある。

オカルティズムは、本来は占星術、錬金術、魔術などの実践を指し、これらを occult sciences (オカルト学)と総称することもある。

一般的には、オカルティズムの語は近代の西洋神秘思想、秘教的メイソンリーなどのある種の秘密結社、魔術結社などの教義、世界観、知識体系やその実践などに適用される。

事実上、しばしばエソテリシズム(秘教)と同じ意味に用いられる。

オカルティズムを諸実践・諸技法に限定し、その背景にある理論的信念体系をエソテリシズムと呼んで区別したり、エソテリシズムの下位概念とする向きもあるが、一般的には両者の意味・用法は錯綜しており、区別は曖昧である。

----------------(転載ここまで)

「ユング」が影響を受けたのが「グノーシス主義」とか「ヘルメス主義」などの悪魔教……。

そして、その「ユング」から現代の心理学が始まっている……。

これでは当然、この世の中が「うつ病患者」だらけになりますよね。

ちなみに「ユング」が影響を与えた人物(思想)として、ウィキペディアには「ニューエイジ」「精神分析」「ヘルマン・ヘッセ」「R・D・レイン」とあります。

で、「ニューエイジ」といえば、それこそ「スピリチャル系」の源流みたいなものです。

----------------(以下、こちらから転載)

ニューエイジ(New Age)とは、字義どおりには「新しい時代」であるが、神智学を淵源として1960年代にアメリカ合衆国西海岸を中心地とした霊(霊性・スピリチュアリティ)の進化論を唱えた思想のこと。

旧来の物質文明が終焉を迎え、新たな霊的文明が勃興するという「霊的革命論」をその根幹とし、ヒッピーと呼ばれた若者の間で流行した。

ニューエイジ思想の運動は、ニューエイジ・ムーブメント New Age movement・ニューエイジ運動、NAMという。

日本では精神世界の名で広まり、その後「スピリチュアル」と呼ばれるものにほぼ受けつがれた。

----------------(転載ここまで)

つまり、「スピリチャル系」のそもそもの発祥が「ユング」で、その「ユング」が「悪魔崇拝」と深く関係がある。

であれば、当然、「スピリチャル系」には「悪魔崇拝」の要素が数多く散りばめられているに違いありません。そして、実際にその通りです。

で、最近では「自己啓発」もかなり流行していますが、この「自己啓発」もまた「潜在意識」を利用して成功へと導くという思想ですよね。

で、この「自己啓発」のブームを起こした人物に「ジョゼフ・マーフィ」なる人物がいます。(ちなみにこの人は「マーフィの法則」とは関係ありません。)

ジョセフ・マーフィー – Wikipedia

で、この「ジョゼフ・マーフィ」は「ニューソート思想」なるものを広めた人物ですが、この「ニューソート思想」は一見するとキリスト教的な思想です。

それなのに、この日本で「ニューソート思想」を広めたのが、神道系の「生長の家」の教祖「谷口雅春」です。

要するに、「ニューソート思想」とはキリスト教っぽく見せかけた「悪魔教」というわけです。

----------------(以下、こちらから転載)

ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動で、現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系のカルヴァン主義への反発を背景として生まれ、ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透した。

アメリカのメスメリスト(催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビーやクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心とする。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつである。

ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求める思想が主流である。

「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といった主張を展開して異端視されたが、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らに影響を与えた。

「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるというポジティブ・シンキングや、日本でも著作がベストセラーになっているイギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の著者の多くがこれに属する人々である。

心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方は、現代の自己啓発やビジネス書の源流である。

禁欲を説いたカルヴァン主義への反発として19世紀に生まれた運動で、源流として、新教のカルヴァンに火刑にされた16世紀の神学者・医者・人文主義者セルヴェストス(ミシェル・セルヴェ)や、17〜8世紀の科学者・神学者・神秘家エマニュエル・スウェデンボルグを認める向きもある。

直接的には、フィニアス・クインビーというメスメリスト(催眠治療家)・心理療法家の治療哲学・病気観が元になっている。彼は、患者の心の在り様が病に影響しており、病気の本質は患者が持つ誤った信念であり、信念を正せば病気が治ると考えた。

ニューソート運動は「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、アメリカの価値観や成功哲学や自己啓発のルーツの一つとされている。

マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する。

・人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
・原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
・全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
・人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
・正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
・愛の力は神の意志の地上的表現である。

(註:東出融氏の言っていることと似ていますね。結局、彼の言説もまたここら辺から出ているというわけです。)

ニューソートの多くは説得を主な技法としたが、1893年シカゴの世界宗教会議でスワミ・ヴィヴェーカナンダが人気となってから、インドの心身訓練法もアメリカに伝わり、インド人ヨガ行者ラマチャラカを名乗り呼吸法の著作を刊行したウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版) (1862 – 1932)のように、ニューソートの中には呼吸法を取り入れたものもあった。

(註:ここでもまた「ヨガ」が出てきました。「ヨガ」と悪魔教の関係については「こちら」をご参照ください。)

----------------(転載ここまで)

このように「スピリチャル系」も「自己啓発」も、その源流は「ニューソート」思想にあり、その「ニューソート思想」を日本で広めたのが「生長の家」の「谷口雅春」。

で、「谷口雅春」といえば「ルシファー=国常立尊」を神と崇める「大本教」の出口王仁三郎の弟子だった人です。

----------------(以下、こちらから転載)

谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 – 1985年6月17日)は、新宗教系教団・生長の家創始者(初代総裁、生長の家では「教祖」「開祖」という名称は用いられない)。

旧名=正治。現在の兵庫県神戸市兵庫区鵯越に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。

(中略)

早稲田大学を中退して大本の専従活動家になっていた谷口は、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記を任せられたり、機関紙の編集主幹などを歴任するなど、教団内で嘱望されていたが、1922年(大正11年)の第一次大本事件を期に、浅野和三郎に従って大本から脱退。

浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ねていたが、当時流行のニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。

1929年(昭和4年)12月13日深夜、「今起て!」との神の啓示を受けたとして、当時勤務していたヴァキューム・オイル・カンパニーを辞め、文筆活動でニューソート流の成功哲学を全世界に宣布せんとの志を立て、『生長の家』誌の執筆に着手。

翌1930年(昭和5年)3月1日に、神道、仏教、キリスト教に現代科学を加味して完成したとする、『生長の家』誌1000部を自費出版。教団は、その発行日を立教記念日としている。

雅春は、真理の言葉の力による人類光明化運動の実現を目指し、「言葉こそ真理そのものである」として「声字(しょうじ)即実相」の真理を説き、言葉・文字を用いて「大宇宙の真理」を懸命に書き続けた。 雅春の説いた教えの根本原理は以下の2点である。

・人間はみな神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である。
・現象界は心の現れであるから、人間の実相は神の子であるという真理を悟れば、現象世界においても幸福が現れる。

また、神道や仏教、キリスト教など諸宗教は、その根本においては一致しているという「万教帰一」の立場を取っている。

第二次世界大戦期に急速に右傾。国家主義・全体主義・皇国史観・感謝の教えを説いた。

こうした教えを記述した雅春の著作は、信徒間で「愛国聖典」と呼ばれた。

「皇軍必勝」のスローガンの下に、金属の供出運動や勤労奉仕、戦闘機を軍に献納するなど、教団を挙げて戦争に協力した。なお当時の信者には、高級軍人の家族が多くいた。

----------------(転載ここまで)

「万教帰一」とは、このように「神」と「悪魔」をごちゃ混ぜにしようとする思想です。やはり彼らは、何が何でも「神」と「悪魔」を一緒くたにしたいようです。

で、この「谷口雅春」は見ての通り、「国家主義・全体主義・皇国史観」の教えを説いたとのことで、完全に「天皇崇拝」の人物です。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

フローレンスナイチンゲールの名前の由来は、イタリアのフィレンツェであり、フィレンツェはメディチ家という大銀行家が支配しおり、反キリストとしてプラトンアカデミーでヘルメス主義やグノーシス主義を広げていました。

わが子に、わざわざ生まれた土地の名前をつけるでしょうか?

姉にも地名ペルセポリスからとった、「パーセノープ」という名をつけています。

よほど、父ウィリアムには強い思いがあったのでしょう。

フィレンツェとはメディチ家の重要拠点であり、ナイチンゲールの両親がメディチ家のプラトニズム(ヘルメス主義)に傾倒していたからだとしか考えられません。

現実的に、父のウィリアムナイチンゲールは、フローレンスナイチンゲールに対して、プラトニズム、プラトン哲学を熱心に教えています。

ヘルメス主義をもとにしてできた、「人間復興」こそが、「ルネサンス」の源流となります。

また、ヘルメス主義は錬金術師と深いかかわりがあり、錬金術とは現在でい化学技術のことを指します。

しかも、なぜか、イギリス出身で、イギリスで活躍したナイチンゲールのお墓が、フィレンツェにあるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ナイチンゲールの生地フィレンツェと名前の由来 1/12/2016)

<サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)>

<サンタ・クローチェ聖堂 ナイチンゲール像>

<サンタ・クローチェ聖堂 ナイチンゲール碑>

 フィレンツェの重要な歴史的建造物サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂から、南東800mのところに位置するサンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)は、フランシスコ会の主要な教会として知られ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と同様にこの街にとっては不可欠な存在となっています。

なぜならサンタ・クローチェ聖堂はメディチ家の菩提寺であり、別名“イタリアの栄光のパンテオン”と呼ばれ、ミケランジェロ、ガリレオ・ガリレイ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった誉れある偉大なフィレンツェ人を埋葬・追悼する場所となっているからです。

もちろん、内部には彼らを祀った墓所が並んでいますが、いずれも荘厳で重厚な構え。生前の栄光を今に伝えるための格調高い装いで私たちを迎えてくれます。

その中でも注目したいのがフローレンス・ナイチンゲール追悼の記念碑です。その碑は1453年、ブルネレスキにより完成した回廊に飾られているのですが、なぜ彼女の記念碑が聖堂にあるのか、ご存知の方は少ないかもしれませんね。

その理由を彼女の半生の記録と共に下記に簡単にまとめましたので、ご覧ください。

☆フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale☆

フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日~1910年8月13日)は、教科書にも出てくることで、皆さま良くご存知かと思いますが、英国の看護師であり、社会起業家、統計学者、看護教育学者など、いくつもの肩書を持つ才媛でした。

でも、実は彼女は英国で生まれたのではなく、イタリアのフィレンツェの街で1820年5月12日に誕生しています。

というのも裕福な貴族だったフローレンスの両親は、2年間という長期に渡った新婚旅行を企画し、ヨーロッパ各国を歩いていました。そして、その新婚旅行中、妊娠が判明。

当時ですから、妊婦の旅行は胎児に危険が伴います。両親は当時トスカーナ大公国の首都であった芸術の街であるフィレンツェに長期滞在することを決し、初夏を迎えようとする爽やかな季節にナイチンゲールを出産したのです。

そして、フィレンツェでの出産を記念して、生まれてきた我が子の名前をフィレンツェの英語読み“フローレンス”と名づけたのです。

英国に戻った両親はフローレンスをこよなく愛し、出来る限りの教養を身につけさせました。彼女もその愛情に応えるかのように懸命に学び、多くの知識を得ます。

そして、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、フローレンスはいつしか人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになっていました。

30歳を迎えたある日、両親は大反対でしたが、ドイツに渡りカイゼルスウェルト学園に入学します。なぜならそこでは当時数少ない看護師の教育がなされていたからでした。そして、ロンドンに戻り、本格的に看護師としての活動を始めます。

その後、後の著書でフローレンス・ナイチンゲールの名前を世界に知られるようになった1854年のクリミア戦争(史上まれに見る凄惨で愚かな戦いとして知られていますね)に従軍看護婦として参加を希望し、フローレンスはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かいます。

でも、当時は看護師の仕事は病人の世話をする単なる召使として見られていたことで、戦場という現場に入ることを拒まれ、看護の仕事も断られます。でも、そんな彼女の行動をしっかり見ていた人がいたのです。

そうなのです。あのヴィクトリア女王がナイチンゲールの奉仕活動に敬意を払い、また、看護師としての仕事を認めて味方となったのです。それは戦地の上官たちにとって大きな圧力となり、ナイチンゲールはスクタリ病院の看護師の総責任者として活躍します。

《余談:内戦の完全なる終息はなかったのでしょうか。2014年クリミア危機でロシア連邦がクリミア編入をウクライナ国内法を無視する形で一方的に宣言したことで、両国による領有権をめぐる対立が今も続いていますね》

以来、ナイチンゲールは「クリミアの天使」と呼ばれ、そのことに由来し、看護師を「白衣の天使」と呼ばれるようになりました。

サンタ・クローチェ聖堂は16の礼拝堂を有するフランシスコ会世界最大の教会として誰もが知るところですが、元々は市の城壁の外側にある湿地帯だったここに、12世紀末、フランシスコ会の創設者であるアッシジの修道士フランチェスコの手によって創建されたと伝えられています。

その後、1294年5月、街の有志たちの寄付でアルノルフォ・ディ・カンビオの設計を元にして建設が始められ、1385年、約90年の歳月を経て現在の姿になりました。

とはいうものの、正式に教会としてスタートしたのは、ローマ教皇エウゲニウス4世により献堂式が行われた1442年のことでした。

また、鐘楼は創建当時のものが落雷によって破損したことで、1842年に再建され、ゴシック様式の大理石のファサードも1857年から1863年にかけて、ニッコロ・マタスが改修し、ネオ・ゴシックの壮麗な姿となり今に至ります。

フィレンツェを訪れることがありましたら、是非、聖堂に足を運んで下さい。カトリーヌ・ド・メディシスの家族を含め、メディチ家の一族がここに眠っています。そして、ルネッサンス期の名工たちの作品が一堂に集まっていますから、美術鑑賞のためにも是非。

画像はフィレンツェの街の南に広がるミケランジェロ広場から眺望した花の都フィレンツェです。広場からは大聖堂やシニョーリア広場などが遠望できます。

《註:これら歴史や年代などは各街の観光局サイトやウィキペディア、取材時に入手したその他の資料を参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「サンタ・クローチェ聖堂はメディチ家の菩提寺であり、別名“イタリアの栄光のパンテオン”と呼ばれ、ミケランジェロ、ガリレオ・ガリレイ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった誉れある偉大なフィレンツェ人を埋葬・追悼する場所となっているからです。」

とあり、そこにフローレンスナイチンゲールの墓があるのですから、メディチ家とナイチンゲールは強い結びつきがここでも示されるのです。

メディチ家が送ったエージェントである可能性が考えられます。

(余談ですが「サンタ」とはアルファベットで「SANTA」と書きます。これはアナグラムすると「SATAN」「サタン」となります。セイント、セントというのも悪魔崇拝者が聖人を”サタン”に変えて、曲解させるためにつけているのでしょう)


「ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。」

とあるように、キリスト教とは関係ない看護学校を作っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ナイチンゲールは看護学校設立の際に聖ト-マス病院を選びましたが、聖ト-マス病院には自分の計画に好意を持つ理事者団がいた?)

The Victorian Web

Florence Nightingale (1820 — 1910)Marjie Bloy Ph.D., Senior Research Fellow, National University of Singapore

http://www.victorianweb.org/history/crimea/florrie.html

<記事の抜粋:下から4ブロック目の記事の和訳>

1856年9月に、ナイチンゲールはバルモラルでビクトリア女王を訪ねて、女王とプリンスアルバートに

『必要である我々の現在の軍の病院システムと改革に影響を及ぼす』

すべてについて話しました。

1855年11月に、ナイチンゲール基金は、看護婦のために訓練所を設立するために準備されました。

これは、ナイチンゲールがどれを承認するかという彼女のサービスの唯一の認知でした。

1860年までに、£50,000(現在7,147,546.08 円)は集められました。

そして、Nursesのためのホームはセントトマスの病院で確立されました。ナイチンゲールの健康と他の仕事は彼女が本部長のポストを引き受けるのを防ぎました。

しかし、彼女は実際的な関心で新しい設定の進捗を見ました。彼女は、看護職業のためにクリミア半島の彼女の経験を使うことができました。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

『必要である我々の現在の軍の病院システムと改革に影響を及ぼす』

ために看護学校を作ったのですね。

つまり、キリスト教の視点でなく、戦争における死亡率を下げるために看護婦養成が必要だと訴えているのです。

彼女は、メディチ家由来のヘルメス主義信仰をしており、クリスチャンではありませんから、当然のことです。

本当のキリスト教が広まったら困ります。

実際、日本基督教団は、韓国のカルト宗教団体統一教会の出先機関であり、中世ヨーロッパから現在までキリスト教は間違った教理を広げることに心血を注いできています。

以下、彼女のモチベーションについて見ていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・(世界史用語解説 授業と学習のヒント ナイティンゲール)

帰国

 1856年3月、パリ講和会議で講和が成立し、戦地の病院は閉鎖となり、ナイティンゲールも帰国した。

36歳になっていた彼女はすでに有名人になっていて、各地で歓迎されたけれど、彼女自身は、看護婦たちを統率できなかったこと、軍医務局を敵に回したこと、そして多くの兵士が戦場の傷で死んだのではなく、病院でかかった病気で死んでいくのを防げなかったことに強い悔恨の情を抱いていた。

激しい涙とともに、自分の今後の生命を、軍隊の医療体制を変更させ、戦場での病院の改善と従軍看護婦を認めさせるという軍制の改革と、看護婦の養成のための学校を作ることに捧げようと決意した。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

美談のように見えますが私にはそうは思えません。

はっきり言いますが、「戦争によって人間同士が殺しあうことが一番の問題」であり、「負傷兵の衛生環境を改善することで死亡率を下げること」に一体何の貢献があるのでしょうか?

死亡しなかった兵士は再び戦地に赴き、敵国の兵士を容赦なく殺します。

領土拡大、資源搾取のための侵略戦争に反対することが、正しい活動であり、病院改革をすることは根本解決にはつながりません。

ですから、こういったナイチンゲールの活動は「殺し合いの助長」をしただけです。

結果として、医療が「自宅ベッドサイドの医療」から組織的な「病院施設での医療」へと変わっていきます。

ここまで読んでいただいてわかることは、ナイチンゲールは決して「愛」で生きた人ではないということです。

実際に彼女は看護婦は有給で働くべきだとシステム論のようなことを語っているそうです。

そして、「神を否定する」「神を見下す」発言をしています。

・・・・・・・・・・・(Seesa wiki ナイチンゲール

彼女は「病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境である」として、近代的な看護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。

彼女はまた自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということを実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。

彼女はまた女性にも家庭に引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだということを実践してみせてくれました。

彼女はそういう意味でクリミアの天使であっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもありました。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境である」などとは、神を信じる人なら口が裂けても言いません。

真のクリスチャンなら「衛生環境を整えるのは、愛があるからだ、人を救いたいからだ」と考えるからです。

つまり「病人を人類を救いたい」という「原動力」は「愛=神」から来るものであり、

「愛以外の動機(モチベーション)」による「人助け」はどこかしらに他人から認められたい、自分が栄えたいという

「名誉欲、名声や富を求める自己中心的な考えからきている」

と捉えるからです。

もっと突き詰めると、神を愛する人は神が作られた、「人類を」愛します。

愛するとは「愛する人の思いを共に成し遂げたい」「愛する人と思いを共にしたい、心を一つにすることで喜びを感じること」と考え、行動することです。

(この場合の愛とは、”男女が肉体を求めあう”という欲情のような低次元の愛、愛情ではありません)

神を愛する人なら、神が人類を愛しているため、人類を救いたいと思うことは自然です。

しかし、神を愛していない人は、「お金などの富や、名声や権力が自分の人生を豊かにしてくれる」という唯物論で生きていますから、

そんな人が、「人類を救いたい」と言っても、「人類を救うことによる見返り」は「愛」でなく、「物質や名誉」であることは明白なのです。

(おそらくこの感覚は、生涯をかけて、聖書を何度も何度も読んだり、毎日悔い改め、お祈りをしていないと理解できません。)

ですから、本当の信仰者から「病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境である」という言葉は口が裂けても出てこないはずなのです。

脱線しましたが、彼女が有名になったのは、メディチ家という、後ろ盾があったためであり、メディチ家が神を否定し、キリスト教を否定するために、有能な働きをした人を利用するために有名にしたと考えられます。

次回は、「ナイチンゲールと赤十字」について書いていきたいと思います。

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 標準化(マニュアル)の先に... | トップ | いじめ芸・ツッコミ文化によ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (鈴木)
2018-08-14 19:04:18
ナイチンゲールってイルミナティの人だったんですね。良いイメージを持ってました。騙されてました。今日もありがとうございます❗イケメンマッサンさんも、RAPTさんに迫る程の記事を書いていてすごいなと思います(*`・ω・)ゞ
返信する
Unknown (にわか読者)
2018-08-14 10:43:28
ユング=ニューソートだったんですね

少し前にブームになった嫌われる勇気のアドラーはどうなんですかね?
返信する

コメントを投稿

看護学について」カテゴリの最新記事