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旧精神科医療は思想警察なのか?

キリスト教的看護についてのいくつかの考察② 愛の実践による心理的環境となること「看護師は患者の人生を変えられるような存在を目指すこと」

2018年08月07日 | 看護学について

今回は、キリスト教と看護がどのようにつながっていくのか?については説明していきたいと思います。

 

過去記事はこちらから読んでください。

「死ぬのが怖いから、あの世のことを教えてあげる」ことだけが宗教の役割ではありません。(死生観についてはいずれ解説します)

簡単に説明すると、キリスト教を理解すると

「霊的な苦しみ=罪を重ねる生き方を続ける=ストレスが貯まり続ける」を解消するために、不適切な行動や嗜好、生活習慣をし続けることによって肉体が病気になるという疾病論をもって、対象理解をすることができるということがあります。

 

しかし、あなた自身、私たち自身が「愛の存在」となっていなければ、患者に対して

「あなたはこういった罪があるから、現在苦しんでいる、楽になりたければ、罪を悔い改めなさい」

といくら説明したところで、患者の行動は一向に変わりありません。

「お前なんかに言われたくないよ」

と言い返されるのが関の山です。

キリスト教を知らない医者が知識と権威を持ってして、患者指導したほうが、よっぽど行動は変わります。

日本では(医師=神的存在)という代名詞となっていますから。

しかし、「医師」の言うことを聞いて一時的に行動が変わったとしても、患者が真に救われることはありません。

症状が軽くなれば、悪い習慣は戻ってくるため、再発するからです。

医者の説教ほど即効性があり効果的なものはなく、看護師がいくら患者教育で「聖書」や聖書に書かれている「聖句」を引用したところで、だれも聞く耳を持ってくれないのです。

病気を「悪い習慣の積み重ねからくるもの」ととらえるならば、「悪い習慣=考え方」を変えることが「究極的な治療」となります。

つまり、「患者(人間)の考え方を変えられる存在」=「優秀な人間(看護師)」と言えるでしょう。

つまり、看護師は「患者の人生を変えられるような存在を目指すこと」が生涯求められるのです。

 

「この人の言うことなら素直に聞く」という人間(看護師)にならなければなりません。

 

スケートが好きな人なら羽生結弦選手に言われたらいうことを聞きます。

野球少年ならイチロー選手に言われたら言うことを聞きます。

サッカー少年なら本田選手に言われたら言うことを聞きます。

ましてや人間は生まれ育った環境や個性があるため「習慣・考え方を変えたくない生き物」です。

 

そして、悪いとわかっていても「認めたくない生き物」なのです。

しかし、悪い習慣を直さなければ、病気の根本解決=治療には繋がりません。

現代医療は慢性化を狙って、根治を目指しませんから、悪い習慣を本気で直そうとは取り組みません。

「身体の問題は心からくる」こと意図的に切り離して考えているのです。

ですから、再発を繰り返すのです。

 

看護論を少しかじると「看護とは環境を整えて、患者が持つ回復力を促進させて治癒に向かわせること」と説明されています。

つまり、「看護とは環境整備」することです。

くれぐれも注意してほしいのは、「ベッド周りを清掃したり整理整頓すること」だけが環境整備ではありません。

それは「住環境」「治療・生活環境」の整備です。

そのほかには、考えられるものとして

・恐怖・不安や不満に対しての「心理的環境」

・痛みや生活障害に対しての「身体的環境」

に対しての整備が必要となってきます。

「心理的環境」とは「霊的環境」と換言できます。

また、「身体的環境」とは「肉的環境」と換言できます。

人間は肉体と心(霊)が「脳」によって繋がっています。

ですから、肉体の影響は心(霊)につながるため、足浴や清拭、更衣などの清潔行動をすると、気持ちが良い(霊が喜ぶ)のです。

または、出血している部位を止血したり結紮すれば、生命が守られるため、心からも肉体の死から守らた安心感で喜ぶことができます。

 

自分の中でのわだかまりや不安や不満が解消されると、「心理的環境」を整備することになりますから、肉体的にも回復し活力がみなぎり、病状回復されたり、疼痛が収まるケースがあるのは、嬉しいことがあったり喜ぶと、人間の脳は「エンドルフィン」という痛みを抑制する物質を脳内に分泌されるからです。

ですから「心の悩み=霊的な悩み」が解決すると、身体も楽になっていくのです。

では、心の苦しみ=霊的な苦しみはどこからくるのでしょうか?

一言でいえば、「罪」から来ます。

 

「罪」とは何でしょうか?

罪には「行いによる罪」と「心の罪、考え方の罪」の2つが存在します。

「罪」と聞くと、他人の物を盗んだり、詐欺をしたり、他人に暴力を振るったりといった、「刑法」に触れることが第一に想起されます。

刑法199条には「 第199条: 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあるように、実際に殺人を犯したなら、「死刑」または「無期若しくは5年以上の懲役」という「罰」、つまり刑務所から出られない、刑務所の中で更生生活をさせられるような、「自由権のはく奪」を受けることになります。

 

一方で「心の罪」を犯すとどうなるでしょうか?

聖書には「心の罪」がたくさん書かれています。

例えば、「傲慢(高慢・不遜)」「自己中心的な考え方」「無知=真実を求めず、嘘を信じている」「不信仰(お金や権力がある人が偉い=神様より価値があると思い大切にする)」「情欲(強欲・貪欲)」「怠惰」「憤怒」「不安・憂鬱」「嫉妬」などがあげられます。

<体に悪い習慣 (アルコール、タバコ、ギャンブル)や刺青、ピアスなども不信仰の罪です>

「心の罪」には数限りがありませんが、これらの罪を犯すと人間はどうなるか?というと

「脳が働かなくなる」=「インスピレーションが受けられなくなる」状態になります。

 

インスピレーションとは、「新商品を開発する」ことや「画期的な考えが浮かぶ」といったような「閃きや発明すること」ばかりではありません。

「ひらめき」だけでなく「物事を真っ直ぐ捉える能力」のことも指します。

日々生活してく上で、目から入った情報(視覚情報)やそのほかの5感の情報を正しく認識し、対応していく「インプット・アウトプットシステム」が正常に働くこと「5感から収集・インプットされた情報に対して、正しい行動を選択してアウトプットしていくこと」も「インスピレーション」の役割なのです。

 

別に問題ないじゃん!と思ったら大間違いです。

 

思考回路が、罪の考えに支配されて「悩みや問題が解決できない状態」+「日常生活ができない状態にまで」なってしまうのです。

目の前で起きている事象が正常にとらえられない、正常にとらえられないとどうなるか?傍から見れば「異常な行動をとるようになる」のです。

まさに「生き地獄」を味わうのです。

「問題が解決しない」つまり「認知症・痴呆症と同じ状態」になるということです。

ボケるとは「目の前で起こっている現象を正しく理解できない状態」で、結果的に周囲と生活が合わせられない「生活障害が発生すること」を指します。

「記憶力が下がること」がボケではなく、「脳が正常にインプット・アウトプットしなくなること」がぼけるということです。

何気ないことですが、脳の活動が止まってしまうため、目の前で起こっていることを処理できなくなってしまうのです。

極端な例でいえば、

・ベッドをトイレと勘違いして排泄してしまう

・食事を摂ったのに脳が満腹感・満足感を感じられなくなり、食後に「飯はまだか?」と聞きなおすようになる

・他人が笑っているの見て、「自分が見下された」「バカにされた」と思い、思い悩んだり、怒って暴力に走る

・訪問販売や電話勧誘で、必要のない高額な商品を借金して買ってしまう

・外出しても帰ってこれなくなる

・人の顔と名前が一致しなくなる

上記のような「認知症症状」は大げさですが、「心の罪」に気付かないと、罪の思考から抜け出せない=悪い習慣から抜け出せず、いずれ身体も悲鳴をあげることになるのです。

つまりは、認知症の前駆症状が身体疾患、身体の不調であるとも考えられます。

その昔、自律神経失調症という病名がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・(自律神経失調症(じりつしんけいしっちょうしょう、英: Dysautonomia)

交感神経と副交感神経の2つから成り立つ自律神経機能の失調によると思われる病態の総称。

自律神経機能障害(autonomic dysfunction, autonomic neuropathy)とも呼ばれる。

 

概念
自律神経とは血管、リンパ腺、内臓など自分の意思とは無関係に働く組織に分布する神経系のことであり、呼吸や代謝、消化、循環など自分の意思とは無関係で生命活動の維持やその調節を行い、絶えず活動している神経である。

日本心身医学会では「種々の自律神経系の不定愁訴を有し、しかも臨床検査では器質的病変が認められず、かつ顕著な精神障害のないもの」と暫定的に定義されている。ただし、この病気は日本では広く認知されているもののDSMでは定義されていない。ICD-10 においては、G90 Disorders of autonomic nervous system に分類され、特定の病名に帰着しないものを G90.9 としている。

この病気は1961年ごろに東邦大学の阿部達夫が定義したものであるが、現在も医学界では独立した病気として認めていない医師も多い。疾患名ではなく「神経症やうつ病に付随する各種症状を総称したもの」というのが一般的な国際的理解である。

この病気は実際にはうつ病、パニック障害、過敏性腸症候群、頚性神経筋症候群や身体表現性障害などが原疾患として認められる場合が多く、原疾患が特定できない場合でもストレスが要因になっている可能性が高いため、適応障害と診断されることもある。また、癌などであっても似たような症状が表れることがある。

また、原疾患を特定できない内科医が不定愁訴などの患者に対し納得させる目的でつける、と言う否定的な見解もあり、内科で自律神経失調症と診断された場合は総合診療医などでさらなる診断を受けることを勧められている。

 

症状
めまい、冷や汗が出る、体の一部が震える、緊張するようなところではないのに動悸が起こる、血圧が激しく上下する、急に立ち上がるときに立ち眩みが起こる、朝起きられない、耳鳴りがする、吐き気、頭痛、微熱、過呼吸、倦怠感、不眠症、生理不順、味覚障害といった身体症状から、人間不信、情緒不安定、不安感やイライラ、被害妄想、鬱状態など精神的な症状が現れることも多い。

自律神経失調症には様々な症状があり、病態は人それぞれの為、判断しにくい。どの症状がどれだけ強いのか弱いのかは患者それぞれである。患者によっては、その他の症状はあまり強く現れないにもかかわらず、ある特定の症状のみが強く表れる場合もあり、症状はきわめて多岐に亘る。また、シェロンテストで異常がみられることも多い。

原因
薬物やアルコールの過剰摂取、著しい精神的ショックを起因とするもの、また女性では更年期が原因のホルモンバランスの乱れ等が挙げられるが、遺伝的に自律神経の調整機能が乱れている患者も存在するため一概に言う事は出来ない。しかし、少なくとも患者の半数は日常生活上のストレスがあると言われている。

機序
目前に捕食動物が現れたり、敵との闘争が必要な状況下になると、副腎髄質よりアドレナリンなど神経伝達物質が分泌され、交感神経を興奮させる。交感神経は脈拍や呼吸数の増加、体温の上昇などの反応を引き起こし、身体を予想される激しい活動に備えた状態にする。このため交感神経は「闘争と逃走の神経」などとも呼ばれる。

一方で副交感神経は、睡眠や休息を行う時に活性化し、脈拍や呼吸数の低下、身体の弛緩など、身体をリラックスさせ、休息に適した状態にする。睡眠や安静には、副交感神経の活動が必須である。

健康な状態では、これら相反する2つの神経活動の綱引きのバランスが保たれ、身体は問題なく休息と活動のそれぞれに適した状態に移行できる。しかしなんらかの理由により、これらの神経活動の調和が崩れ、休息し入眠したいのに交感神経が活性化し、異常な興奮や発汗で眠れない、また全く正反対に、副交感神経が過剰に活発化し、活動が必要な状況で極端な無気力・無反応になるなどの症状が現れたものが自律神経失調症である。

人体ではおよそ12時間交代でこの二つの神経の優位が入れ替わるとされているが、過労、ストレスなどで脳を休める時間が減ると自律神経が興奮し、結果的に交感神経と副交感神経の優位入れ替わりのバランスが崩れ、自律神経失調症となるとされている。

自律神経の中枢は脳の視床下部というところにあり、この場所は情緒、不安や怒り等の中枢とされる辺縁系と相互連絡していることから、こころの問題も関わってくる。

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

つまり「ストレス」が原因で、交感神経・副交感神経が正常に働かなくなり、身体に異常が生じる病気です。

交通外傷や、熱傷など原因が外的要因である病気以外は、自律神経失調症、つまり心の不調が根本原因であると気付きませんか?

例えば、心筋梗塞ですが、心臓を栄養する冠動脈が何らかの理由で血栓ができ、心筋が壊死していく病気なのですが

「血栓ができる理由」は何かと突き詰めていくと、「高コレステロール状態」「高血糖状態によるアテローム血栓」などが挙げられます。

では、なぜ「高血糖」「高コレステロール」になるのか?については「生活習慣」であるのです。

「生活習慣」は何から作られるか?というと「良い習慣」も「悪い習慣」も「その人の”考え方”=”価値観”」を元に作り出されます。

これだけ病人だらけの世の中を見てみて、

「いかに現代社会は、”価値観””考え方”が非常に悪い社会なのか?」ということがお判りでしょうか?

心筋梗塞をバイパス手術をして一時的に命を救ったところで、「悪い習慣・考え方」を直していないため、再発するに決まっています。

また、そういった社会で生活しているのですから、似たような境遇の人や考え方の人は潜在的に心筋梗塞予備群として存在し続けることになるのです。

こういった負の連鎖、罪の連鎖を止めることを現代医療だけでできるのかどうか疑問でしかたありません。

 

心の在り方、心の罪についてもっと看護はフォーカスしていかなくては患者利益につながらないと思いませんか?

ですが、既存の看護教育では、「心の在り方」についてはせいぜい心理学をベースにした

「カウンセリングテクニック」「積極的傾聴」

程度しか学びません。

問題は「誰に傾聴してもらうか?」なのです。

野球がうまくなりたい人が、サッカー選手にアドバイスを求めるでしょうか?

 

病気の問題は「悪い習慣・考え方にある」ということは調べた人なら誰でも薄々は気付いているのです。

しかし、一人では変えられないのです。

キリスト教を実践することで、「悪い習慣・考え方」が全くない存在になり、病気で苦しむ人を支える「心理的環境」になることができるのだという解説をしました。

 

 

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余談ですが、「ナイチンゲールとキリスト教」は大学時代講義を受けましたが、クリスチャンでない講師から講義を受けたため理解できませんでしたし、講義内容からキリスト教とナイチンゲールは実際繋がりません。

キリスト教=博愛精神などと言われますが、実際、聖書には「誰でもいいから愛しなさい」などとは書かれていません。

キリスト教における愛とは「第1に神様を愛しなさい、第2に隣人を愛しなさい」とあるのです。

「神様を愛する」という過程において、「私は神様を愛している」と宣言するだけの観念的なものではありません。

「神様を愛している」といいながら、この世の権力や富、異性に気を取られ、食欲や性欲や物欲に負けている人を「どうして愛している」と認められるでしょう?

「神様が愛しておられる人類を救うこと」を実践することが愛であると述べられています。

愛の実践についてはこちらを参考にしてください。

(そして、愛するとは男女の仲になるとか、優しくすることではなく、その人の心が救われるように正しい生き方に導いてあげることです。)

 

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