キリスト教と看護は繋がるのでしょうか?
おそらく、キリスト教を知らない日本人、そしてそもそも宗教アレルギーがある日本人には、「宗教と看護の結びつき」について論じることは、きわめて非科学的であり、「科学を基礎」とした医療分野において意味をなさないと感じられるかもしれません。
多くの日本人、いえ看護師は「キリスト教」と聞くと、「自由、平等、博愛の精神で、患者に尽くす看護を実践すること」
と考えやすいかもしれませんし、実際、キリスト教系の看護学校でもそのように教えられるかもしれません。
はっきり言いますが、
「優しい心、思いやりの心をもって、患者と接すること」
はキリスト教の考えではありません。
仏教でも「利他の心」で生きるという「心の在り方を示す教え」がありますし、
神道でも「浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目としたりしています。
しかし、そもそもがキリスト教とは一体何なのか?理解していない人が世の中には多すぎます。
宗教と看護について、今回は書いていきたいと思います。
まずは、「宗教」とは一体何か?について説明していきます。
簡単に言うと、宗教とは「目に見えないものを論理的に説明する道具」であると理解してください。
そして、科学とは「私たちが知らないことを、目に見える形で法則化すること」と定義できます。
例えば、「喜び、悲しみ、怒り、楽しみ」と呼ばれる「喜怒哀楽」は私たちの「感情」であるため「視覚化できない」目に見えません。
しかし、その影響は実際に私たちにダイレクトに行動や生命反応として現れます。
また、スケールという形で書き表すこともできます。
しかし、これらは、実際、人によって影響力に差が生じます。
つまり、ある程度科学で表現することはできますが、そのあらわれ方を法則化することは困難です。
つまり、世の中はこの「宗教」と「科学」の両輪で成り立っているということが理解できると思います。
私たちが生活していて、「喉が渇いた」という感覚がしたとします。
当然、脳からの命令で口渇感が来ますから、この口渇感を解決するためには、「飲料を摂取すること」により口渇感は解消されます。
しかし、この口渇感は一体どこからくるのでしょう?
・猛暑日で汗をかいたから口渇感があるのでしょうか?
・それとも、糖尿病などの高血糖が原因で口渇感を感じているのでしょうか?
・または何かに不安や緊張を感じており、交感神経が働いて口腔内が乾燥して口渇感を感じているのでしょうか?
・アルコール依存症のように、脳が安定剤を欲して、欲望を満たすために、口渇感を感じているのかもしれません。
このように列記しただけでも口渇感を感じる理由は様々です。
では、キリスト教について戻りましょう。
【キリスト教とは一体何か?】
キリスト教とは一体何かというと、一言でいうと、
「神様が存在するよ」
という考え方を持っている人たちの集まりのことです。
キリスト教には「聖書」というものが存在します。
その「聖書」には「神様」のことが描かれています。
そして、「愛」について書かれている宗教です。
「愛」については「神は愛である」と説明されています。
そして、一方で聖書には
「悪魔の存在」
が書かれています。
聖書は
「神」「愛」「悪魔」
これら目に見えない存在を、「言葉」「文字」を通して人間に伝えようとしている「宗教」なのです。
そして、キリスト教では私たち人間を「他の動物とは違った霊的な存在である」と説明しています。
「霊的存在」というと、幽霊やおばけなど、おどろおどろしい世界を考えてしまう宗教アレルギーな日本人ですのでもう少し説明します。
私たち人間だけが、「見た目もそして考え方にも世界人口と同じ、70億通りの個性才能を与えられている存在だ」ということです。
つまり、私たちも他の動物たちと同じ、人間という姿かたちをしていますが、その思考回路は千差万別ではありませんか?
他の動物たち、例えばペットの犬や猫も感情を持っているかもしれませんが、
「人間ほど高度な感情を持ってはいない」ですし、
「人間ほど高度な科学文明を持つ動物は、人間のような容姿をしているサル、ゴリラにも見られない」のではないでしょうか?
「霊的存在」を言い換えれば
「発達した脳を持ち、豊かな感情を持っている」ということ
そして他の動物たちとは違う「文明を発達させていく力=インスピレーション、閃きを受けられる脳を持つ存在である」ということです。
他のサル、犬や猫との違いはこの「インスピレーション」ではないでしょうか?
人間以外に、高度な文明社会を持った動物は歴史的に見たことはありません。
「猿の惑星」のようなSF作品(空想作品)くらいで実際には存在しません。
つまり私たち人間は食欲、睡眠欲、排泄欲といった生理的な欲求にだけ支配されているのではなく、目に見えない存在から何らかの影響を受けながら生活していると考えられるのです。
例えば殺人犯の行動を理解するには
「普段は優しくて、真面目に仕事もしていた挨拶もできる好青年」である一面があるにもかかわらず、
「悪い考えが閃いて、嘘をついてごまかしたり、残虐な行為に至った」という報道をみたことがあるかもしれません。
同じ一人の人間なのにこれだけ変わってしまう理由は何なのでしょうか?
私たち人間の脳は知らない間に、無意識下に目に見えない「霊的存在」から何らかの「インスピレーション」を受けて行動をしてしまうのです。
それは実際に「文章」や「映像」やニュース、友達や親の発する言葉などから「霊的影響」を脳に蓄えて、それが時として犯罪という「非社会的な行動」にまで及んでしまうのです。
私たち日本人は「神」や「愛」というものを「世間様」「他人様」に置き換えてきました。
そして私たちの行動の指針は「世間が見ているから」「他人が見ているから」という価値観で行動基準を決めます。
逆に言えば「誰も見ていないから」や「このことは誰もしらないから」ということで、悪い考えが浮かんだり、実際に悪事を働くような民族性、文化を持っています。
これが「本音と建前」の文化なのです。
日本人ほど、「表裏」がはっきりしておらず、「何を考えているのかわからない」文化や考え方を持っている民族はいないかもしれません。
キリスト教とはこの私たちの行動指針として影響を与えてくる存在を
「神から影響を受けると幸せに生きられますよ」
と説いています。
逆に
「悪魔・サタンから影響を受けた生き方をすると地獄のような人生になりますよ」
とも書かれています。
<7つの美徳と7つの大罪>
<霊定期存在を動物で比喩>
「神から影響を受けて生きる」とは一体何なのかというと、先述した通り、
「神=愛」であるため、「人間は愛を受けて生きることが幸せなのですよ」とも書かれているのです。
「愛を受けて生きること=神様とともに生きること」と「罪を重ね続けて生きること=悪魔とともに生きること」
について事細かく聖書には書かれています。
私たち日本人は「神」についての知識、聖書についての知識がありませんから、「愛」についての知識も乏しいです。
「愛とは何か?」と問われると、途端にしり込みしてしまいます。
「見返りを求めない奉仕の心」「思いやりの心」「困った人を助ける心」
せいぜいこれくらいしか「愛」について知っていることはないと思います。
聖書には「愛について」事細かく書かれています。
そして、結論として「神は愛である」と述べられているのです。
「愛しあう」
ということを聞くと、日本人は「男女の性的な愛」「親子愛」「ペット愛」などの「自己中心的な欲を満たす行為」つまり「愛情」のことを
想像します。
聖書、神の存在を知らない人は、「お互いが快楽を求めあう欲望を満たす感情的な行動」が「愛」だと思っているのです。
キリスト教と看護がどのようにつながっていくのか?については次回以降説明していきたいと思います。
ご自分で「神・愛についてしりたい」という人はこちらを参考にしてください。
「死ぬのが怖いから、あの世のことを教えてあげる」ことだけが宗教の役割ではありません。
簡単に説明すると、キリスト教を理解すると
「霊的な苦しみ=罪を重ねる生き方を続ける=ストレスが貯まり続ける」を解消するために、不適切な行動や嗜好、生活習慣をし続けることによって肉体が病気になるという疾病論をもって、対象理解をすることができるということです。
んな排他的な考え興味ないんすけどwww
さすがビリーブス信者www
あと、害しかないため、興味ないなら、コメントしないでくださいね。
私は、田中信二の信者ではありませんよ。