中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹《論語心得》を読む: 天地人之道(2)

2011年05月11日 | 中国文学

(クリックしてください。中国語文と、語句解説が見られます。)
   ↓


 □[1] 私たちは、教師が激しい口調で厳しい顔をして、いつも学生達にこれこれをしてはいけないと叱責しているのをよく見かける。それはこの教師がまだ然るべき境地に達していないということで、本当に良い教師というものは、孔子のように、穏やかに学生達と議論しながら、こうした天・地・人の“三才”の共存共栄の関係を充分に説明できる。このようなある種の、落ち着き払って慌てない風格、このようなある種の慎み深く抑えの利いた態度は、実は正に中国人の人格の理想である。西洋と異なり、中国哲学が尊ぶのは、ある種の厳かで、理性的で、優しく重厚な美しさである。《論語》の中での孔子のイメージは、このようなある種の理想の探究の象徴である。孔子のこのイメージには、その内面から導き出されるある種の飽和した力が凝縮されている。この力こそ、後に孟子が説いた「浩然の気」である。天地の気が一人の人の心の中で凝縮された時にのみ、それはこのように強大になることができる。 



 □[2] 《論語》の思想の神髄は、天の大なること、地の厚きことの清華を人間の内心に取り入れ、天、地、人を完全な一体物とし、人間の力をそれにより比類無く強大にしたことにある。私達は今日よく、天の時、地の利、人の和は国家の隆盛、事業の成功の基礎であると言うが、これは《論語》の私達現代人への啓発である。私達は永遠に天地が私達に与えた力を忘れてはならない。何を以て「天と人の合一(一体化)」と呼ぶか。それは人間の自然の中での調和である。私達は調和のとれた社会の建設に努力しているが、本当の調和とは何であろうか。それはただ単に小さな地域の隣近所の調和ではなく、単なる人と人の間の調和でもなく、必ず大地の上の万物が調和し、快適に共に成長することを含まなければならない。人間は自然界の全ての物に、ある種の畏敬の念を払い、それに順応し、ある種の気持ちの通じ合いを持たねばならない。これはある種の力であり、もしこうした力を引き出し、鍛えて作り上げることができれば、私達は孔子のような度量を持つことができる。私達はこのことから、孔子の態度はたいへん公平で、彼の心の中は非常に厳格であったことを知ることができる。それというのも、その中にはある種の強い力があり、それは信念の力であるからである。孔子はとりわけ信念を重んじた人である。



□[3] 弟子の子貢が質問をした。国を安定させ、政治を安定させるには、どういうことが必要ですか。この話は、《論語》の中で「子貢、政(まつりごと)を問う」と呼ばれる。 孔子の答はたいへん簡単で、「兵足り、食足り、民これを信ずる」の三つである。第一に、国家機関は強大でなければならず、十分な兵力による保障がなければならない。第二に、十分な食糧があり、一般大衆が豊かな生活を送れなければならない。第三に、一般大衆が国家を信用しなければならない。 この弟子はひねくれていて、三つは多すぎる、もし一つ削らなければならなければ、先生は先ず何を削りますか、と尋ねた。孔子は言った。「兵を削ります。」私達はこのような武力による保障は必要ない。子貢はまた問うた。もし更にもう一つ削らなければならないなら、先生はどれを削りますか。孔子はたいへん真面目に彼に言った。「食を削ります。」私達はむしろ食事を削ることを良しとします。続いてこう言った。「古(いにしえ)より、皆死すとも、民の信無くんば立たず。」と。 食糧が無ければ、死んでしまうだけで、古より今日まで、死ななかった者がいるか?だから、死が最も怖いものではない。最も怖いのは、国民がこの国への信用を失って後の崩壊と士気の低下である。物質面での幸福な生活は、ただ単に一つの指標に過ぎない。本当に内心から安定を感じ、政権が認可されるのは、信用に基づく。これこそ孔子の政治理念であり、彼は信用力こそ国家をまとめるに足るものと考えた。 



 □[4] 今日、一つの考え方があり、それによると、21世紀にそれぞれの国の人民の生活の良し悪しを判断するのは、もはやこれまでのように単純にGNP(国民生産総額)を指標とするのではなく、更にGNH、つまりGross National Happiness、国民幸福指数をみなければならないと言われている。つまり、一つの国家が本当に強大であるかどうかを評価するのは、単純に国民生産総額の絶対量と成長速度を見るだけではだめで、人民大衆一人一人が心の中で感じていること――安全と感じているか、快適であるか、今の生活を本当に認めているかを見なければならない。我が国は1980年代末に国際的な調査に参加したことがあり、そのデータによれば、当時、我が国の国民の幸福指数は64%前後に過ぎなかった。1991年に再び調査に参加すると、この幸福指数は上昇し、73%前後に達した。これは物質的な生活条件の向上と、多くの改革措置の実施の賜物である。しかし1996年に再び調査に参加すると、この指数が68%に低下した。この結果は、人々を困惑させた。このことは、たとえ社会の物質文明が極度に繁栄したとしても、この文明の成果を享受する現代人には、依然として極めて複雑な心の迷いが存在する可能性があることを示している。



□[5] 私達は2500年余り前に戻り、当時の物資が乏しかった時代、当時の聖人や賢人がどのようであったか見てみよう。孔子が最も好きだった弟子を顔回という。彼はこの弟子を褒めてこう言った。「賢なるかな、回は。一箪の食、一瓢の飲。陋巷に在り、人は其の憂いに堪えず。回は其の楽を改めず。賢なるかな、回は。」(《論語・雍也》)つまり、顔回の家はたいへん貧しく、着るものも無く食べ物も少なく、たいへん粗末な路地の奥で暮らしていた。このような辛い生活は、他の人にはまったく我慢できないものだったが、顔回は逆にそれを楽しむことができた。ひょっとすると多くの人がこう言うかもしれない。生活というものは、貧しき日々も富める日々も訪れるだろうが、それにどう対応したらよいだろうか。顔回は本当に人を感服させた。それは決して彼がこのような苦しい生活の境遇を我慢できたからではなく、彼の生活態度に依る。全ての人がこのような生活は苦しく、嘆き悲しみ、不平を言っている時、顔回はその楽観的な態度を変えなかった。本当の賢者のみが、物質的な生活に縛られることなく、心持がそのようにあっさりと無欲で、穏やかな気持ちを保つことができる。なるほど、誰しも苦しい生活は望まないが、単純に物質的に極めて豊かであることによっても、同様に心の問題を解決することはできない。私達の物質面の生活は明らかに向上したが、多くの人が益々不満を持つようになった。それというのも、周囲には俄か成金の階層が存在し、総じて自分と釣り合いのとれない事も見受けられるからである。



□[6] 実際、人の視力には、二つの機能がある。一つは外に向かい、無限に幅広く世界を切り開く。もう一つは内に向かい、限りなく深刻に心の内を見つめる。私達の眼は、総じて外界を見ることは多いが、心の内を見ることが少なすぎる。孔子は私達に快楽の秘訣を教えてくれる。それはつまり、如何に心の内の安寧をさがし出すかということである。人々は幸福で快楽な生活を送ることを望むが、幸福で快楽であるというのはある種の感覚に過ぎず、貧富とは無関係で、心の内面と関連がある。《論語》の中で、孔子は弟子たちにどのように生活の中の快楽をさがすべきかを語っている。こうした考えは伝承され、歴史上多くの著名な文人や詩人に対し大きな影響を与えた。子貢が先生に尋ねた。「貧にして媚びず、富んで驕らざるは、如何。」ある人はたいへん貧しいが、金持ちにこびへつらわない。金持ちだが、横柄な態度で人を侮るようなことがない。これはどうだろうか。先生は言った。悪くない。しかしまだ不十分だ。もう一つ高い境地がある。それは、「貧しくて楽しみ、富みて礼を好む者なり。」より高い境地というのは、貧しさに安んじるだけでなく、こびへつらって人に援助を求めることがないだけでなく、心の中にある種の清らかな喜びを抱くことである。こうした喜びは、貧しい生活によって奪い去られることがなく、金があっても驕り高ぶり、贅沢の限りを尽くすということがなく、こうした人は、依然として心の内に喜びと豊かさを持ち、雅やかで礼儀正しい君子である。


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于丹《論語心得》を読む: 天地人之道(1)

2011年05月06日 | 中国文学

  中国では、数年前から《論語》ブームが起きています。所得が増え、街に物が溢れるようになると、次に求められるのは、精神的な豊かさということになるのでしょう。この《論語》ブームの火付け役が、中国師範大学の女性教授、于丹です。

“心得”とは、学習の結果、会得すること。“論語心得”とは、《論語》を現代人の目線で読み解く、ということで、本当の豊かさとは何か、何の為に働くか、そうした現代人の疑問にぴったり答えることができたことが、このブームにつながったのだと思います。

ところで、ご存じの方も多いでしょうが、《論語》の“論”は、“lun2”と2声で発音されます。4声ではありません。“lun2”と発音するのは“論語”の時だけで、一字で“lun2”と言うだけでも、“論語”の略称になります。

 

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   ↓

クリックしてください。文字が大きくなります。(以下同じ)

[1]
 宋代の建国の宰相、趙普は、自分は《論語》半冊だけで天下を治めていると標榜したことがある。そこから、《論語》が昔の社会や政治の中で発揮した巨大な作用と、昔の人の《論語》に対する尊敬を理解することができる。この、嘗ては国を治める根本と称された《論語》は、現代の社会、現代人の生活にとって、どのような実際の意義を持っているのだろうか。皆さんは、孔子の《論語》は高尚過ぎて自分たちの及ぶところではなく、現在の我々はこれを仰ぎ見なければならない、などと思ってはならない。この世の中の真理は、永遠に純朴なもので、太陽が毎日東から昇るのと同じであり、春になれば種を播き、秋になれば収穫するのと同じである。



[2] 《論語》が皆さんに訴えるものは、永遠に最も簡単なものである。《論語》の真の意味は、どうしたら私たちの心が欲する快適な生活を送ることができるかを、皆さんに語ることである。わかりやすく言うと、《論語》は私たちが如何にして現代の生活の中で心の安らぎを得、日常の秩序に適応し、個人のあるべき基準を見つけるかを教えてくれる。




[3] それは、次のような一冊の語録である。2500年余り前、孔子が教鞭をとり生活する中でのごく一部のことを、弟子達が切れ切れに記録したものである。これら講義の筆記を主とする記録が彼の弟子達によって集められ編纂され、後に《論語》となった。《論語》には、厳密な論理性が無く、多くが事実に即して論じられ、その中には長篇の論説はほとんど無く、語録の一つ一つが簡単で短い。しかし実は、無言も一種の教育なのである。



[4] 子曰く、「天は何をか言わんや。四時行きて、百物生じる。天何をか言わんや。」(《論語・陽貨》)孔子は弟子達に言った。「ご覧、お天道様は空の上に在って、静かで厳かで何も言わないが、四季は移ろい、万物は成長する。お天道様はまだ何か言う必要があるのだろうか。」




[5] 皆さんがご存じのように、孔子には弟子が3千人おり、そのうちの72名は賢人であった。彼ら一人一人が一粒の種であり、あの生活態度、生活の智慧を広く伝播した。



[6] 私たちは、孔子は聖人であると言う。聖人とは、彼が生活する土地で最も行動力があり、最も人格的な魅力のある人物である。“神聖”神聖と言うが、“神”とは基本的に天空近くにいる人で、李白のような人物である。“聖”とは地面の近くにいる人で、杜甫のような人物である。孔子“聖人”が私たちにもたらしたのは、大地で生み育てられた信念であり、彼のような人は必ずや私たちの生活の中で自然に生み育てられ、また生まれ変わってきたものであるに違いなく、空から舞い降りてきたのではない。



[7] 中国の創世神話では、盤古(ばんこ)が天地を開闢したが、この開闢は、西洋の神話が語るような突然の変化ではない。例えば、大きな斧を手に持ち、パン、と割ると、金色の光が放たれ、様々な天地万物が現れる、というのは、中国人が叙述する情感とは異なる。




[8] 中国人がよくする叙述は、《三五歴紀》の描写のように、ゆったりと、穏やかで、憧憬するに値する長い長いプロセスである。天と地の混沌たること、鶏の卵のようで、盤古はその中で生まれ、18千年が過ぎた。天地が開闢し、陽気は清らかで天となり、陰気は濁って地となった。盤古はその中に居て、一日九回姿を変え、その智慧は天を上回り、能力は地を越えた。天は毎日一丈高くなり、地は毎日一丈厚くなり、盤古は毎日一丈背が高くなった。18千年後、天はたいへん高くなり、地はたいへん深くなり、盤古の背はたいへん高くなった。この話は、最初は「天地の混沌たること鶏の卵の如し」と言い、盤古はその中で18千年じっとしていた。後に、天と地が分かれるが、それは一つの固体が「パン」と真ん中で分裂するのではなく、二つの気体が次第に分裂し、「陽清の気」は上に昇って天となり、「陰濁の気」は下降して地になった。これは天地開闢の完成ではなく、こうした成長がたった今始まったのである。




[9] 中国人は変化を重んじる。盤古は天地の間で「19回変化した」とあるが、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊が、毎日微妙に変化していくようなものだ。こうした変化は、最後には一つの境地に達する。それが、“神于天、聖于地” (智慧は天を上回り、能力は地を越える)である。この6文字は、実は中国人の人格の理想像である。理想主義の天空を持ち、自由に飛び回り、現実世界のたくさんの規則や障碍に妥協しない。しかも、地に足のついた能力があり、この大地の上で自分の行為を広く展開することができる。理想はあるが土地の無い人は、夢想主義者であって理想主義者ではない。土地はあるが天空の無い人は、実務主義者であって現実主義者ではない。理想主義と現実主義こそが私たちの天と地である。




[10] 盤古の変化はなお継続し、このお話は次にこう語られる:天地開闢の後、天は毎日一丈高く昇り、地は毎日一丈厚みを増し、盤古も「日に一丈伸び」、天地といっしょに成長を続けた。このようにして18千年が過ぎ、最後には「天の高さはたいへん高く、地の厚さはたいへん深く、盤古はたいへん背が高くなった」。人の意味と、天と地は同じもので、“天・地・人”は“三才”と並び称される。それゆえ、孔子から見て、人は敬い重んじるに値するもので、人はまた自らを重んじなければならない。



[11] 《論語》を読んで、私達は次のことを発見する。孔子は弟子達を教育する時、顔をこわばらせ言葉を荒げることが少なく、彼はいつも穏やかに、順序立って教え導き、人と議論する口ぶりである。これが孔子の教育の態度であり、儒家の一種の態度である。

 

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“天地人之道”とは、要するに人間としての生き方、人と人との接し方は如何にあるべきか、ということがテーマです。次回は、この続きを読んでいきたいと思います。





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老舎《出口成章》を読む: 戯劇語言(7)

2011年04月12日 | 中国文学

 長い講演の結論として、老舎が芝居で使う言葉の理想として考えたのは、韻律の美しさ、調子の良さを活用した言葉で、これは古典文学を手本とすべきで、古典文学に関する素養が必要としています。
 それにしても、最後のところの、政治宣伝の話劇の脚本を書くよう強制され、自分の本当に書きたいものが書けない、という訴えは、胸に響くものがあります。改めて、当時の文化人の苦しみを再認識させる文章であると思います。

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■ 現在,譲我們談談語言的音楽性。

□ 次に、言葉の音楽性についてお話ししましょう。

■ 用文言写的散文講究経得起朗誦。四五十年前,学生学習唐宋八大家的文章都是唱着念,唱着背誦的。我們写的白話散文,往往不能琅琅上口,這是個缺点。一般的散文不能上口,問題或者還不太大。話劇中的対話是要拿到舞台上,通過演員的口,送到聴衆的耳中去的。由口到耳,必渉及語言的音楽性。

・経得起 jing1deqi3 試練や困難に耐えられる。[用例]真理~時間的考験(真理は時間が経っても変わらない)
・誦 song4 ①朗読する。[例]朗lang3~。②暗誦する。[例]背~。過目成~(一度読んだだけで暗唱できる。記憶力が良い形容)
・琅琅 lang2lang2 玉石のかち合う澄んだ音。そこから転じて、明るく澄んだ読書の声。朗々。
・上口 shang4kou3 すらすらと読める。朗読が流暢である。そこから派生し、詩文がすらすら読めるよう、流暢に書けている意味にも使う。

□ 文言で書かれた散文は、声を出して読むのに耐えるように書かれています。4、50年前は、学生は唐宋八大家の文章を勉強する時は、声に出して読んで、読みながら暗誦したものです。私たちが書く口語の散文は、しばしば朗々と読み上げることができません。これが欠点です。普通の散文が声に出してすらすら読めなくても、問題はあるいはたいしたことではないかもしれません。芝居の中の台詞は舞台の上に持って上がり、俳優の口を通じ、聴衆の耳に届けられます。口から耳まで、言葉の音楽性に関わらねばなりません。

■ 古体詩文的作者十分注意這個問題。他們都揺頭晃脳地吟詩、作文章。他們用一個字,造一句,既考慮文字的意象,又顧到声音之美。他們把毎個方塊儿字都解剖得極為細致。意思合適而声音不美,不行,必須另換一個。

・揺頭晃脳 yao2tou2 huang4nao3 [成語]独りで悦に入るさま。“揺頭”も“晃脳”も、頭を揺り動かすことで、得意そうな様子を表す。“揺頭擺尾”~ bai3wei3は、軽薄で得意然としたさま、独りよがりの様子を表す。
・意象 yi4xiang4 イメージ。
・方塊儿字 fang4kuai4r zi4 角張った文字。漢字のこと。
・解剖 jie3pou1 解剖する。転じて、細かく吟味する、という意味も持つ。

□ 古体詩の作者は、このことにたいへん注意を払っています。彼らは首を振り振り詩を吟じ、文章を作ります。彼らは文字一つを用い、語句一つを作るのに、文字のイメージを考慮し、音声の美しさを気にします。彼らは角張った漢字一文字一文字を細かく分解してみます。意味が適当でも、音が美しくなければだめで、別の文字に置き換えなければなりません。

■ 旧体詩文之所以難写,就因為作者唯恐対不起“文字解剖学”。到了咱們這一代,似乎又嫌過于籠統了,用字有些平均主義,拍拍脳袋就算一個。我們往往似乎忘了方塊儿字是有四声或更多的声的。字声的安排不妥,不幸,句子就聴起来不大順耳,有時候甚至念不出。解剖文字是知識,我們応該有這様的知識。怎様利用這点知識是実践,我們応当経常動筆,于写小説、劇本之外,還要写写詩,編編対聯等等。

・唯恐 wei2kong3 “惟恐”とも書く。……のみ恐れる。……だけが気にかかる。必ず、動詞、または主述句を目的語にとる。
・籠統 long3tong3 あいまいである。漠然としている。大まかである。
・順耳 shun4 er3 耳障りでない。聞いて気持ちがよい。通常は否定に用いる。

□ 旧体詩を書くのが難しいのは、作者がただ、「文字の解剖学」に申し訳がたたないことを恐れるからです。私たちの世代になると、また漠然とし過ぎるのを嫌い、文字の選択が幾分平均主義的で、頭をちょっと叩いたら一丁上がり、というようなところがあります。私たちはしばしば漢字には四声、或いはもっと多くの音があることを忘れがちです。文字の音声の配列が不適切だと、不幸にも、文を聞いてみると耳障りで、時にはうまく読めないことさえあります。文字を「解剖」するのは知識であり、私たちはこのような知識を持たねばなりません。どのようにこの知識を利用するかが実践であり、私たちは常にペンを持ち、小説や芝居を書く他に、詩を書いたり、対聯を作ったりしなければなりません。

■ 我們要従語言学習中找出楽趣来。不要以為郭老編対聯,田漢老作詩,是他們的愛好,与咱們無関。咱們都是同行,都是語言藝術的学習者与運用者。他們的楽趣也該成為咱們的楽趣。慢慢的,熟能生巧,我們也就習慣于将文字的意、形、音三者聯合運用,一斉考慮,増長本領。我們応当全面利用語言,把語言的潜力都挖掘出来,聴候使用。這様,文字才能既有意思,又有響声,還有光彩。

・楽趣 le4qu4 楽しみ。
・熟能生巧 shu2neng2 sheng1qiao3 [成語]何事も慣れれば、こつが分かる。
・本領 ben3ling3 腕前。技能。

□ 私たちは、言葉の学習の中から楽しみを見つけ出さなければなりません。郭(沫若)老が対聯を作り、田漢老が詩を作るのは、彼らの趣味で、私たちとは無関係だと思ってはなりません。私たちは皆同業者で、言語芸術の学習者であり、運用者です。彼らの楽しみは、また私たちの楽しみでもあります。ゆっくりと、慣れてこつが分かったら、私たちも文字の意味、形、音の三者を合わせて運用するのが習慣になり、いっしょに考えることができ、腕前が上がります。私たちは言葉を全面的に利用し、言葉の潜在力を発掘し、実際に聞いてみてから使用します。このようにしてこそ、文字は意味があり、響きがあり、しかも光沢が出てきます。

■ 朗読自己的文稿,有很大的好処。詞達意確,可以看出来。音調美好与否,必須念出来才暁得。朗読給自己聴,不如朗読給別人聴。文章是自己的好,自念自聴容易給打五分。念給別人聴,即使聴者是最客気的人,也会在不易懂、不悦耳的地方皺皺眉。這大概也就是該加工的地方。当然,一個人有一個人的写作方法,我們并不強迫人人練習朗誦。有的人也許越不出声,越能写的声調鏗鏘,即不在話下。

・鏗鏘 keng1qiang1 楽器などのリズミカルな音。
・不在話下 bu4zai4 hua4xia4 [成語]言うまでもない。

□ 自分の原稿を朗読してみるのは、たいへん大きなメリットがあります。言葉の意味が通じるか、正しいかが、分かります。音の調子が美しいかどうかは、読んでみてはじめて分かります。しかし、朗読してみて自分で聞くのは、朗読して他人に聞いてもらうのに及びません。文章は自分のものが良く思えるので、自分で読んで自分で聞くと、容易に五点満点を付けることができます。読んで他の人に聞いてもらうと、たとえ聴衆が遠慮深い人でも、聞いて分からなかったり、耳障りなところでは眉をしかめます。そういうところは、おそらく手直ししなければなりません。もちろん、各人には各人の執筆方法があり、私たちは全ての人に朗読練習を強制はできません。中には、声に出さない方が、音の調子が益々リズミカルになる人もいるのは、言うまでもありません。

■ 我們的語滙似乎也有些貧乏。以我自己来説,病源有三:一個是写作雖勤,而往往把読書時間擠掉。這是很大的損失。久而久之,心中只剩下自己最熟識的那麼一小撮語滙,像受了旱災的庄稼那麼枯窘可怜。在這種時候,我若是拿起一本偉大的古典作品読一読,就好似大旱之遇甘霖,胸中開拡了許多。即使我記不住那些文章中的詞藻,我也会得到一些啓発,要求自己要露出些才華,時而万馬奔騰,時而幽琴独奏,別老翻過来調過去耍弄那一小撮儿語滙。這麼一来,説也奇怪,那些忘掉的字眼儿就又回来一些,叫筆下富裕了一些。特別是在心里干枯得像焼干了的鍋的時候,字找不到,句子造不成,我就拿起古詩来朗読一番。這往往有奇效。

・貧乏 pin2fa2 文字通りの意味は、貧しいということだが、もう少し抽象的な意味として、“豊富”の反対語として、欠乏している、という意味でも使われる。
・擠掉 ji3diao4 オミットされる。締め出される。“擠”とは、ぎゅっと圧縮して、絞り出したり、押し出したりする動作。
・久而久之 jiu3 er2 jiu3zhi1 [成語]月日の経つうちに。
・一小撮 yi1 xiao3 cuo1 “撮”は量詞。“撮”とは指でつまむという意味で、指でつまめるわずかな量を表す。数字は通常“一”を用いる。“小”は量の少ないことの強調。
・枯窘 ku1jiong3 力や文才などが枯渇する。尽きる。
・甘霖 gan1lin2 慈雨。
・開拡 kai1kuo4 考えや気持ちが明るくのびのびしている。[例]胸懐~(心がのびやかになる)
・詞藻 ci2zao3 ことばのあや。
・才華 cai2hua2 才気。すぐれた才能。
・万馬奔騰 wan4ma3 ben1teng2 [成語]勢いが極めて盛んで、猛烈に前進しようとするさま。千軍万馬の勢い。
・耍弄 shua3nong4 もてあそぶ。
・字眼儿 zi4yan3r 文中の語や句。
・筆下 bi3xia4 “筆底下”bi3di3xia とも言う。文章を書く能力。

□ 私たちの語彙にも、欠乏しているところがあります。私自身について言うと、病の根源は三つあります。一つ目は、執筆は真面目にしていますが、しばしば読書の時間が取られてしまうことです。これは大変大きな損失です。月日の経つうちに、頭の中には自分が最もよく知っている、ごくわずかな語彙しか残っておらず、旱魃を受けた作物のように、可哀そうなほどに枯渇してしまいます。このような時に、一冊の偉大な古典作品を持ってきて一読してみれば、旱魃の時に慈雨にめぐり会ったかのように、心の中が随分とのびやかになります。こうした文章のことばのあやは憶えていなくても、何がしかのヒントが得られ、自分自身でも少しばかり才気を発揮せんと、時に千軍万馬の勢いを得、時に独りひっそり琴を爪弾くようにし、いつまでもわずかな語彙をひっくり返し、それを当てはめるようなことは止めにします。そうすると、不思議なことに、あの忘れてしまった語句が蘇ってきて、文章が豊かになります。とりわけ心の中が乾ききって、焼け焦げた鍋のようである時は、文字も思い浮かばず、文も作れないので、私は古い詩を持ってきて朗読をしてみます。これはしばしば奇跡のような効果があります。

■ 詩中的警句使我狂悦。好,尽管我写的是散文,我也要写出有総結性的句子来,一針見血,像詩那様一説就説到家。所謂総結性的句子就是像“山高月小,水落石出”那様用八個字就画出一幅山水来,像“欲窮千里目,更上一層楼”那様用字不多,而道出要立得高,看得遠的願望来。這様的句子不是泛泛的叙述,而是叫大家以最少的代価,得到最珍貴的和最多的享受。我們不能叫劇本中的毎一句話都是這様的明珠,但是応当在適当的地方這麼献一献宝。

・警句 jing3ju4 人生や社会、文化などについて、真理を簡潔な中に鋭く表現した語句。
・一針見血 yi1zhen1 jian4xie3 [成語]短い言葉で急所をずばりと言い当てる。“血”は通常、口語で単音節の表現の時は“xie3”と発音し、複音節の表現や書き言葉では“xue4”と発音する。“出血”、“血統”はxue4である。
・到家 dao4jia1 相当高い水準に達する。

・山高月小,水落石出: 蘇軾《后赤壁賦》の一節。意味は、「麓から見ると、山は高く聳えているが、月は逆に天に昇るにつれ小さく見える。渇水期に川の水位が下がると、川底の石が露出して見えるようになる。」事の真相が明らかになることの比喩。

・欲窮千里目,更上一層楼: 王之渙《登鸛雀楼》の一節。意味は、「千里の外を見ようと思えば、楼閣のもう一層上に登らないといけない。」もっと大きな成功を望むなら、一層の努力をしなければならない、ということの比喩。

□ 詩の中の警句は、私を狂喜させます。よろしい、たとえ私が書くのが散文でも、総括的な文句を書くことができれば、短い言葉で、詩のように急所を突いたことを言うことができます。いわゆる総括的な文句とは、「山高ければ月小さく、水落つれば石出づ」のように八文字で一幅の山水画を描くことができ、「千里の目を窮めんと欲すれば、更に上れ一層の楼」のように用いている文字は多くありませんが、言っていることは高きに立ち、遠くを見たいとの願望です。このような文句は、うわべだけの叙述ではなく、読む者全員が最小の代価で、最も貴重で最大の享受を得れるようにしようとするものです。私たちは芝居の中の一句一句を皆このような珠玉の名文句にすることはできませんが、適当なところでは、このように素晴らしい文句を献上しなければなりません。

■ 我的語滙不豊富的第二個原因是近几年来経常習写劇本,而没有写小説。写小説,我須描絵一切,人的相貌、服装,屋中的陳設,以及山川的景色等等。用不着説,描写什麼就需要什麼語滙。相反的,劇本只需要対話,即使交代地点与人物的景色与衣冠,也不過是三言五語。于是,我的語滙就越来越少,越貧乏了。近来,我正在写小説,受罪不小,要什麼字都須想好久。這是我個人的経験,別人也許并不這様。不過,假若有人也有此情况,我願建議:別老写劇本,也該練習練習別的文体,以写劇為主,而以写別種文体為副,也許不無好処。

・交代 jiao1dai4 説明する。
・衣冠 yi1guan1 衣服と冠。身なり、服装。

□ 私の語彙が豊かでない二つ目の原因は、ここ数年ずっと芝居の脚本を書く練習をし、小説を書いていないからです。小説であれば、人の容貌、服装、屋内の装飾、山や川の景色など、一切を描かなければなりません。言うまでもありませんが、何かを描こうと思えば、それに関する語彙が必要です。その反対に、芝居は台詞のみが必要で、たとえ場所と人物の景色や身なりを説明するにしても、二言三言で済みます。それで、私の語彙は益々少なくなり、益々欠乏してしまったのです。最近、私は小説を書いていますが、損害は小さくなく、どんな文句でも、長く考えなければなりません。これは私個人の経験なので、他の人はそうではないかもしれません。けれども、このような情況の人もいるのであれば、私はこう提案したいと思います:芝居ばかり書くのではなく、別の文体も練習しましょう。芝居を主にし、別の文体は副としても、おそらく問題は無いでしょう。

■ 第三,我的生活知識与藝術知識都太少,所以筆下枯渋。思想起来,好不傷心:音楽,不懂;絵画,不懂;芭蕾舞,不懂;対日常生活中不懂的事就更多了,没法在這儿報帳。于是,形容個悦耳的声音,只能説“音楽似的”。什麼音楽?不敢説具体了啊!万一説錯了呢?只挙此一例,已足見筆墨之枯窘,不須多説,以免涙如雨下!作一個劇作家,必須多知多懂。語言的豊富来自生活経験和知識的豊富。

・枯渋 ku1se4 無味乾燥で生気がない。
・報帳 bao4zhang4 清算する。
・筆墨 bi3mo4 文字や文章。[用例]難以用~来形容(筆舌に尽くし難い)。

□ 第三に、私の生活知識と芸術知識が少な過ぎるので、文章が無味乾燥で生気が無いのです。考えてみると、たいへん悲しいことです。音楽のことを知らない、絵画のことを知らない、バレーのことを知らない。日常生活で知らないことはもっとたくさんあり、ここでは全てを清算することができません。それゆえ、耳に心地よい音声を形容するにも、「音楽のようだ」としか言えません。どういう音楽なのでしょうか。具体的に説明ができません。万一、間違ったらどうしよう。この一例だけ挙げても、文才の枯渇が見てとれます。これ以上言うのはやめましょう。涙が雨のように流れ落ちないように。一人の劇作家として、多くのことを知り、理解していなければなりません。言葉の豊かさは、生活経験と知識の豊富さから来ています。

■ 朋友們,我的話已説了不少,不願再多耽誤大家的時間。請大家指教!

□ 皆さん、私の話が長くなりました。これ以上皆さんの時間を無駄にしたくありません。どうもありがとうございました。


【出典】老舎《出口成章》上海・復旦大学出版社 2004年7月


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老舎《出口成章》を読む: 戯劇語言(6)

2011年04月11日 | 中国文学

 老舎は喜劇の本質につき、頭を思い悩ましています。一時の流行に惑わされない、歳月が経ても、万人が理解でき、ユーモアが感じられて、しかも聞く者にとって有益である。そのようなことは果たして可能なのでしょうか。
 ここで、一つヒントとして挙げられているのが、当時、普通話(標準語)普及運動の一環で、普通話による相声(掛け合い漫才)が盛んに行われるようになったことです。老舎は、普通話の相声から、喜劇で使う言葉のヒントを得たものと思われます。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

■ 据我看,為了使喜劇的語言生動活潑,我們几乎無法完全不用具有地方性与時間性限制的語滙与説法。不過,更要緊的是我們怎様作語言的主人。這有両層意思:一是假若具有地方性或時間性限制的語言而確能幇助我們,使我們的筆下加一些色彩与味道,我們就不妨采用一些;二是最有味道的詞句応是由我們自己創造出来的。

□ 私の見るところ、喜劇の言葉を生き生きとして活発なものにするには、私たちは地域や時間の制約のある語彙や言い方を完全に用いない訳にはいかないと思います。けれども、もっと大切なことは、私たちがどうやって言葉の主体者になるかです。これには二重の意味があります。一つは、もし地域や時間の制約のある言葉が確かに私たちの助けになり、私たちの書いたものに色彩や風味を付け足してくれるなら、私たちはそれを使うのを妨げるものではないということ。もう一つは、最も味わいのある語句は、私たち自身で作り出すべきだということです。

■ 這種創造可以用普通話作為基礎。普通話是大家都知道的,用它来創造出最精采的詞句,便具有更多的光彩,不受地方与時間的限制。我是喜用地方土語的,但在推広普通話運動展開之后,我就開始尽量少用土語,而以普通話去写喜劇。這個嘗試并没有因為不用土語而減少了幽默感与表現力。

□ こうした創作は、“普通話”(標準語)を使うことを基礎にすべきです。普通話は誰もが知っていて、これを使って素晴らしい語句を生み出せば、もっと多くの色や艶を備えることができますし、場所や時間の制約を受けません。私は地方の方言が好きですが、普通話を広める運動が展開されてからは、できるだけ方言は使わないようにし、普通話で喜劇を書くようにしています。この試みは、決して、方言を用いないことでユーモアのセンスや表現力が減少したということではありません。

■ 我覚得,具有創造性的語言,帯着智慧与藝術的光彩,是要比借用些一時一地一行的俏皮話儿高超的多的。

看看
     “李白斗酒詩百篇,長安市上酒家眠,
     天子呼来不上船,自称臣是酒中仙”

 這几句吧,里辺没有用任何土語与当時流行的俏皮話,而全是到今天還人人能懂的普通話,可是多麼幽默,多麼生動,多麼簡練!只是這麼四句,便刻画出一位詩仙来了。這叫創造,這叫語言的主人!不借助于典故,也不倚頼土語、行話,而只凭那麼一些人人都懂的俗字,経過錘煉琢磨,便成為精金美玉。這雖然是詩,可是頗足以使我們明白些創造喜劇語言的道理。

・倚頼 yi3lai4 依存する。
・行話 hang2hua4 業界仲間の専門語。符丁。“行業語”とも言う。
・高超 gao1chao1 ずば抜けている。飛び抜けて優れている。

□ 創造性を備えた言葉は、智慧と芸術の光沢を備えていて、その時その場のしゃれ言葉を借りてくるのに比べて遥かに優れていると思います。

 これを見てください:

     李白斗酒詩百篇,長安市上酒家眠,
     天子呼来不上船,自称臣是酒中仙

   (李白は一斗の酒で詩を百篇書くことができる。
   長安の街の飲み屋で酒に酔って寝ている。
   天子が呼びに来ても、天子が船遊びをしている屋形船に上らない。
   そして、自らを酒の中の仙人と称している。)

 これらの語句には、方言も、当時流行っていたしゃれ言葉も一切無く、全てが今日でも人々が理解できる標準語で書かれていますが、なんとユーモアに満ち、生き生きとして、簡潔でいて言葉がよく練れていることでしょうか。わずかこの四句で、一人の詩仙を描き出しています。これこそ創造、言葉の主(あるじ)と呼ぶことができます。典拠、故事に頼らず、方言や業界用語に頼らず、これらの人々が皆知っている通俗的な文字だけを使って、それを鍛え、磨くことで、精緻で美しい宝石に仕上げています。これは詩ではありますが、私たちに喜劇で使う言葉を創造するということの道理を明らかにするのに甚だ十分です。

■ 所謂語言的創造并不是自己閉門造車,硬造出只有自己能懂的一套語言,而是用普通的話,経過千錘百煉,使語言得到新的生命,新的光芒。就像人造絲那様,用的是極為平常的材料,而出来的是光澤柔美的絲。我們応当有点石成金的願望,叫語言一経過我們的手就変了様儿,誰都能懂,誰又都感到驚異,拍案叫絶。特別是喜劇語言,它必須深刻,同時又要軽松明快,使大家容易明白,而又不忍忘掉,聴的時候発笑,日后還咂za1着滋味発笑。喜劇的語言万不可成為聴衆的負担,有的地方聴不懂,有的地方雖然聴懂,而覚得別扭。聴完喜劇而閙肚子別扭,才不上算!喜劇語言必須餡儿多而皮薄,一咬即破,而味道無窮。相声演員懂得這個道理,応当跟他們多討教。

・閉門造車 bi4men2 zao4che1 [成語]家に閉じこもって車を造る。客観的情況を考慮せず、主観だけに頼って物事を行う喩え。
・千錘百煉 qian1chui2 bai3lian4 [成語]鍛えに鍛える。詩文などで使う時は、推敲に推敲を重ねる喩え。
・光芒 guang1mang2 光。
・人造絲 ren2zao4si1 人造絹糸。人絹。レーヨン。
・拍案叫絶 pai1an4 jiao4jue2 机をたたいて、すばらしいとほめる。“拍案”は机をたたくことで、激しい怒り、驚き、賞賛、などの感情を表すこと。
・咂 za1 味をみる。吟味する。
・閙肚子 nao4 du4zi “腹瀉”fu4xie4のことで、腹をくだす、下痢をする、の意味。
・上算 shang4suan4 採算が取れる、そろばんが合う。
・討教 tao3jiao4 教えを請う。

□ いわゆる言葉の創造というのは、決して自分の殻に閉じこもって考え、頑なに自分しか理解できない言葉を作り出すことではなく、普通の言葉を使って、それを磨きに磨き、言葉に新たな生命、新たな光を与えてやることです。人造絹糸のように、用いているのはごくありふれた材料でも、出来上がってくるのは、光沢のある、軟らかで美しい糸です。私たちは多少なりとも石ころを金に変えてやろうとの思いを持ち、言葉を私たちの手を経ることで姿を変えてやり、誰もが理解でき、誰もが驚きを感じ、机を叩いて「すばらしい!」と絶賛してくれるようにすべきです。特に喜劇の言葉は、深刻でなければならず、同時に軽やかで明快で、誰もが容易に理解でき、しかも忘れてしまうに忍びなく、聞いた当座は可笑しく、日が経つと、今度は味わいが染み出て可笑しいという風であるべきです。喜劇の言葉は決して聴衆の負担になってはなりません。ある地方では聞いてもちんぷんかんぷんで、またある地方では聞いて理解はできますが、煩わしい感じがする。喜劇を聞いて、腹をくだして気分が悪くなるようでは、どうして割が合うでしょう!喜劇の言葉は、餡がたっぷりで皮が薄く、噛めばさっと皮が割れて、味わいは無限です。相声の芸人はこの道理が分かっているので、彼らにもっと教えを請うべきです。

■ 附帯着説,相声演員在近几年来,也抛棄了不少地方土語,而力求以普通話逗哏gen2。這不僅使更多的人能够gou4欣賞相声,而且使演員不再専倚頼土語。這就使他們非多想不可,用尽方法使普通話成為可笑可愛的語言,給一般的語言加多思想性与藝術性。

・逗哏(儿) dou4gen2r こっけいなことを言って、笑わせる。相声、掛け合い漫才の「つっこみ」役を指す。「ぼけ」の方は、捧哏(儿)peng3gen2rという。

□ 付け足して言うと、相声の芸人達はここ数年、少なからず地方の方言を捨て、普通話で笑いを取るよう努めています。このことでより多くの人が相声を楽しめるようになっただけでなく、芸人も専ら方言に頼るということがなくなりました。このことで、彼らは前より多くのことを考えなければならなくなり、手を尽くして普通話を可笑しくて愛すべき言葉にし、普通の言葉に思想性と芸術性を付け加えるようになりました。


【出典】老舎《出口成章》上海・復旦大学出版社 2004年7月


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老舎《出口成章》を読む: 戯劇語言(5)

2011年04月08日 | 中国文学

 当局に対する痛烈な批判を口にした老舎でしたが、心の底では中国の演劇界の今後の発展、特に中国の喜劇の将来を深く憂いていました。次に、この講演のメイン・テーマである、芝居、特に喜劇での言葉の使い方について、持論を展開していきます。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

■ 朋友們,我們多麼幸福,能够gou4作毛澤東時代的劇作家!我們有責任提高語言,以今日的関漢卿、王実甫自許,精騖八極,心游万仞,使語言藝術発出異彩!

・王実甫 wang2 shi2fu3 元代の戯曲作家。
・自許 zi4xu3 自ら任じる。自負する。[用例]以当代華陀~(当代の華陀と自負する)
・精騖八極,心游万仞 jing1wu4 ba1ji2, xin1you2 wan4 ren4 [出典]西晋の文学者、陸机《文賦》より。“精”は精神。“騖”wu4は馳せる。“万仞”は距離が極めて長いこと。“仞” ren4 長さの単位。1仞(じん)は8尺、または7尺に相当。全体の意味は、詩人が創作をする時は、思いは縦横無尽に駆け回り、時空の制限を受けない、ということ。

□ 皆さん、私たちはなんて幸せなのでしょう、毛沢東時代の劇作家になることができて!私たちは言葉を向上させる責任があり、今日の関漢卿、王実甫を以て自負し、気持は四方八方を駆け回り、千尋の山に遊び、文芸作品が異彩を放つようにさせましょう!

■ 我們缺乏喜劇。也和別種劇作一様,喜劇并不専靠着語言支持。可也不能想象,没有精彩的語言,而能成為優秀的喜劇。据我個人的体会,逗笑的語言已不易写,既逗笑而又“有味儿”就更難了。

□ 私たちには喜劇が欠けています。その他の演劇と同様、喜劇は決して専ら言葉に支えられている訳ではありません。しかし、素晴らしい言葉無しに、優秀な喜劇が作れることも、想像できません。私個人の体得したところでは、人を笑わせる言葉自体、書くのは容易ではありませんが、可笑しくて且つ「味わいのある」ものを書くのはもっと困難です。

■ 親切充実会使語言有些味道。在適当的地方利用一二歇后語或諺語,能够gou4発生親切之感。但是,這是利用現成的話,用的過多就反而可厭。我們応当向評書与相声学習,不是学習它們的現成的話,而是学習它們的深入生活,無所不知的辧法。在評書和相声里,状物絵声無不力求細致。芸人們知道的事情真多。多知多懂,語滙自然豊富,説起来便絲絲入扣,使人感到親切充実。

・親切 qin1qie4 心がこもっていること。親しみを感じること。
・充実 chong1shi2 からっぽでなく、十分な内容や力が備わっていること。
・現成 xian4cheng2 できあいの。既成の。
・無所不知 wu2 suo3 bu4zhi1 [成語]知らないものはない。何でも知っている。
・状物絵声 zhuang4wu4 hui4sheng1 事物に対する描写。普通は、“絵声状物”という。
・力求 li4qiu2 できるだけ……するようにする。追い求める。
・細致 xi4zhi4 緻密である。細心の注意が払われ、念がいっていること。
・絲絲入扣 si1si1 ru4kou4 [成語]機織りの糸が1本1本きちんと筬(おさ)の目に通っている、というのが原義。そこから、文章が一言一句急所を突いていること。踊りや演技の調子がぴったり決まっていること、をいう。

□ 親しみがあって内容が十分であれば、言葉に味わいが出てきます。適当なところで歇后語(掛け言葉)やことわざを一つ二つ使うと、親しみが生まれてきます。けれども、これは出来合いの言葉を利用するので、使いすぎると、却って鼻につきます。私たちは評書や相声に学ばねばなりませんが、それらの既成の話を学ぶのではなく、それらが深く生活に入り込み、知らないものはない、そのやり方を学ばなければなりません。評書や相声では、物の描写に細心の注意が払われていないところはありません。芸人達が知っている事は本当にたくさんあります。多くを知り多くを理解しているので、語彙は自然と豊かになり、口を開けば、一言一句がぴったり決まっていて、聞く者に親しみと充実感を感じさせるのです。

■ 我們写的喜劇,往往是搭起個不錯的架子,而没有足够gou4的語言把它充実起来,叫人一看就看出我們的生活知識不多,語滙貧乏。別人没看到的,我們看到了,一説就会引人入勝。可是,事実上,我們看到的実在太少。于是,我們就不能不以泛泛的語言,勉強逗笑,效果定難圓満。我們必須拡大生活体験的範囲,三教九流,五行八作,無所不知,像評書及相声演員那様,我們才能够gou4応付裕如,有什麼情節,就有什麼語言来支持。

・搭 da1 架け渡す。組み立てる。
・架子 jia4zi 骨組み。
・引人入勝 yin3ren2 ru4sheng4 景色や文章などが、人をうっとりさせる。“入勝”は「佳境に入る」の意味。
・泛泛 fan4fan4 うわべだけの。皮相的な。
・三教九流 san1jiao1 jiu3liu2 [成語]儒教、仏教、道教の三教と儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家の九家のこと。広く、様々な職業の人、雑多な人のことをいう。
・五行八作 wu3hang2 ba1zuo4 [成語]様々な職業。様々な商売のこと。“五……八”の組合せで数の多いことを表すので、数字そのものには具体的な内容、意味は無い。
・応付裕如ying4fu yu4ru2 対応が余裕綽綽(しゃくしゃく)である。“裕如”は、ゆったりしているさま。

□ 私たちが書く喜劇は、しばしばまずまずの骨組みが用意されているのですが、十分な言葉で話を展開することができなので、聴衆はひと目で私たちの生活の知識が十分でなく、語彙が貧弱なことを見抜いてしまいます。他の人が知らないことを、私たちが知っているのであれば、口を開いた途端、人々を夢中にさせることができます。しかし、実際は、私たちが知っていることはあまりに少ない。それで、私たちはうわべだけの言葉で、無理やり笑わせようとするので、その効果たるや満足できるものであるはずがありません。私たちは生活体験の範囲を拡大しなければならず、様々な商売、様々な人々のことを、知らないものは無いようにすれば、評書や相声の芸人達のように、余裕しゃくしゃくで受け応えし、どんな状況でも、それに相応しい言葉で対応できるようになります。

■ 没有一套現成的喜劇語言在図書館里存放着,等待我們去借閲。喜劇作者自己須有極其渊博的生活知識,創造自己的喜劇語言。我們写的是一時一地的一件事,我們的語言資料却須従各方面得来,上至綢緞,下至葱蒜,包羅万象。当然,写別的戯也須有此准備,不過喜劇特別要如此。

・渊博 yuan1bo2 学識が深くて広い。
・綢緞 chou2duan4 繻子(しゅす)と緞子(どんす)。広く絹織物のことをいう。
・包羅万象 bao1luo2 wan4xiang4 [成語]内容が豊富で、あらゆるものを網羅していること。

□ 一式の既成の喜劇用語集が図書館に置かれ、借りて閲覧されるのを待っている訳ではありません。喜劇作家は自分で極めて奥深い生活知識を身につけ、自分の喜劇用語を創造しなければなりません。私たちが書くのはその時その場限りの出来事ですが、私たちの用語資料は様々なところから採取し、上は絹織物から、下はネギ、ニンニクに至るまで、あらゆるものを網羅していなければなりません。もちろん、他の芝居でもこのような準備が必要ですが、喜劇は特にそうしなければなりません。

■ 假若別種劇的語言像単響的爆竹,喜劇的語言就必須是双響的“二踢脚”,地上響過,又飛起来響入云霄。作者的想象必須能将山南聯系到海北,才能出語驚人。生活知識不豊富,便很難運用想象。没有想象,語言都爬伏在地,老老実実,死死板板,恐怕難以発生喜劇效果。

・二踢脚 er4ti1jiao3 爆竹の一種。別名、“双響”ともいう。引火後、地面で一度炸裂し、さらに空中に昇って爆発する。
・云霄 yun2xiao1 空。高空。
・山南……海北 shan1nan2 …… hai3bei3 山の果て、海の極み。遠隔の地まで、至るところ。

□ もし別の芝居を単発の爆竹とするなら、喜劇の言葉は二度鳴る“二踢脚”で、地面で鳴り響いた後、更に空に上がり、鳴り響いて空高く消えていきます。作者の想像力は山の極みのことを海の極みと結びつけられなければならず、そうしてはじめて、言葉を繰り出すや聴衆をびっくりさせることができます。生活の知識が豊かでないと、想像力を働かせることができません。想像力が無いと、言葉は地面の上を這いつくばるだけで、おとなしく、単調で、おそらく喜劇の効果を発揮させることは難しいでしょう。

■ 喜劇的語言必須有味道,令人越咂za1摸越有意思,越有趣。這様的語言在我們的喜劇中似乎還不很多。我們須再加一把力!怎麼才能有味道呢?我回答不出。我自己就還没写出這様的語言来。我只能在這里説説我的一些想法,不知有用処没有。

・咂摸 za1mo 味をみる。吟味する。
・加一把力 jia1 yi1ba3 li4 もっとがんばる。“把”は量詞で、本来は、手に関係があり、取っ手のついたものを数えたり、ひとつかみのものを数えるのに使う。そこから派生し、“一把”で力の量を指す。

□ 喜劇の言葉は味わいがあり、人が面白いかどうか吟味すればするほど、面白くならなければなりません。このような言葉は、私たちの喜劇の中ではまだあまり多くないようです。私たちはもっとがんばらなければならない。どうやったら味わいが出るのか。私は答えられません。私自身、まだこのような言葉を書いたことがないのです。私はここでは私の若干の考え方を言ってみることしかできませんが、役に立つかどうか分かりません。

■ 我們応当設想自己是個哲学家,尽我們的思想水平之所能及,去思索我們的話語。聡明俏皮的話不是俯拾即是的,我們要苦心焦思把它們想出来。得到一句有些道理的話,而不俏皮漂亮,就須従新想過,如何使之深入浅出。作到了深入浅出,才能够gou4既容易得到笑的效果,而又耐人尋味。喜劇語言之難,就難在這里。

・設想 she4xiang3 想定する。
・話語 hua4yu3 言葉。話。
・俏皮 qiao4pi おもしろおかしい。
・俯拾即是 fu3shi2 ji2shi4 [成語]うつむいて拾えば、至る所にある。いくらでもある。どこにでもある。[用例]這種例子~。(こういう例はざらにある)
・深入浅出 shen1ru4 qian3chu1 [成語]文章や言葉の内容は奥深いが、表現はごく分かりやすいこと。

□ 私たちは、自分が哲学者であると想定し、私たちの思想レベルの及ぶ限りで、私たちの言葉について考えてみます。教養があって面白い話はどこにでもあるものではなく、私たちは苦心惨憺してそれを考え出さなければなりません。なるほどと思える話があっても、面白くてきれいでなければ、もう一回考え直し、どうやったら内容は深いが表現は分かりやすくなるか考えないといけません。内容が深くて表現が分かりやすくできれば、容易に笑いの効果を得られますし、人の吟味にも耐えられます。喜劇の言葉の難しさは、ここにあります。

■ 我們先設想自己是哲学家,而后還得変成幽默的語言藝術家,我們才能够gou4找到有味道的喜劇語言 ―― 想的深而説得俏。想的不深,則語言泛泛,可有可無。想的深而説得不俏,則語言笨拙,無従得到幽默与諷刺的效果。喜劇的語言若是鋼,這個鋼便是由含有哲理、幽默与諷刺的才能等等的鉄提煉出来的。

・可有可無 ke3you3 ke3wu2 [成語]あっても無くてもよい。
・笨拙 ben4zhuo1 下手である。

□ 私たちは最初に自分が哲学者であると想定しましたが、次にユーモア作家に変身しなければならず、ここでようやく味わいのある喜劇の言葉――思いが深く、しかも面白い、そうした言葉を見つけ出すことができるのです。思いが深くないと、言葉がうわべだけで、あっても無くてもよいものに過ぎません。思いは深いが面白くなければ、それは言葉遣いが下手で、そこからはユーモアと風刺の効果は得られません。喜劇の言葉を鋼(はがね)とするなら、この鋼は哲理、ユーモア、風刺の才能などを含んだ鉄から抽出されたものなのです。

■ 在京戯里,有不少丑角的小戯。其中有一部分只能叫作閙戯,不能算作喜劇。這些閙戯里的語言往往是起哄瞎吵,分明是為招笑而招笑。因此,這些戯能够gou4引起哄堂大笑,可是笑完就完,没有回味。在我自己写的喜劇里,雖然在語言上也許比那些閙戯文明一些,可是也常常犯為招笑而招笑的毛病。

・丑角 chou3jue2 道化。
・閙戯 nao4xi4 道化芝居。社会の暗い面を風刺するものを指す。
・起哄 qi3hong4 多くの人がいっしょになって、一人、或いは少数の人を冷やかすこと。
・瞎吵 xia1chao3 とりとめなく騒ぐこと。
・分明 fen1ming2 明らかに。
・招笑 zhao1xiao4 笑わせる
・哄堂 hong1tang2 一座の者がどっと笑うさま。“~大笑”で、どっと沸き立つ、の意味。

□ 京劇には、道化の出てくる芝居がたくさんあります。その中の一部分は“閙戯”、「道化芝居」と呼ばれますが、喜劇とは見做せません。これら「道化芝居」の言葉はしばしば冷やかしやとりとめのない話で、明らかに笑いを取るために笑わせています。だから、こうした劇は、一座の者をどっと笑わせることができますが、笑ったらおしまいで、余韻も何もありません。私自身が書く喜劇でも、言葉の上ではこうした「道化芝居」よりは文化程度が高いですが、しばしば笑いを取るために笑わせるという過ちを犯してしまいます。

■ 我知道滑稽幽默不応是目的,可是因為思想的貧乏,不能不乱耍貧嘴,往往使人生厭。我們要避免為招笑而招笑,而以幽默的哲人与藝術家自期,在談笑之中,道出深刻的道理,叫幽默的語言発出智慧与真理的火花来。這很不容易作到,但是取法乎上,還怕僅得其中,難道我們還該甘居下游嗎?

・貧嘴 pin2zui3 口数が多くていやらしい。むだ話が多い。“耍shua3~”で、くだらないことをぺらぺらしゃべること。
・生厭 sheng1yan4 嫌悪の情がわく。厭になる。
・取法乎上 qu3fa3 hu1 shang4 “取法”は、手本とする。見習う。“乎”は、接尾語で、動詞の後につく。……から、……に。“上”は、最上、最高のもの。次の節を受けて、“取法乎上,僅得其中”の形で、「最上のものを手本にしても、中くらいのものしか得られない」と続く。
・甘居 gan1ju1 低いポストに甘んじる。“~下游”で、「人の風下に立つことに甘んじる、それを良しとする」の意味。

□ 滑稽やユーモアは目的ではないと分かっていても、思想が貧困であると、くだらないことをぺらぺらしゃべらざるを得ず、しばしば人に嫌がられてしまいます。私たちは、笑いを取るために笑わせることを避け、ユーモアの哲人、芸術家を自負し、談笑の中で、深刻な道理を持ち出し、ユーモアのある言葉で智慧と真理の火花を発せさせるようにすべきです。これは、容易には成し遂げられないことですが、それでは、最上のものを手本にしても、中くらいのものしか得られないと恐れ、人の風下に立つことを良しとするのでしょうか。

■ 語言,特別在喜劇里,是不大容易調動的。語言的来歴不同,就給我們帯来不少麻煩。従地域上説,一句山東的俏皮話,山西人聴了也許根本不懂。従時間上説,二十年前的一段相声,今天已経不那麼招笑了,因為那些曾経流行一時的話已経死去。従行業上説,某一句話会叫木匠師傅哈哈大笑,而厨師傅聴了莫名其妙。

・俏皮話 qiao4pi2hua4 しゃれことば。
・木匠 mu4jiang4 大工

□ 言葉は、特に喜劇では、扱いの難しいものです。言葉の来歴は異なり、そのことは私たちに多くの煩わしさをもたらします。地域の上から言うと、山東のしゃれことばを、山西人が聞いても、恐らく理解できないでしょう。時間の上から言うと、二十年前の漫才を、今日聞いても、可笑しいとは感じられません。なぜなら、その当時に流行した話はもう死滅しているからです。職業の上から言うと、ある話は、大工の棟梁を大笑いさせることができても、レストランのシェフが聞いても、ちんぷんかんぷんでしょう。

■ 我是北京人。六十年来,北京話有很大很大的変化。老的詞儿不断死去,新的詞儿不断産生。最近,小学生們很喜歓用“根本”。問他們什麼,他們光答以“根本”,不知是根本肯定,還是根本否定。這類的例子恐怕到処都有,過些日子就又被放棄,另発明新的。我們怎麼辧呢?

・光 guang1 [副詞]範囲を限定する。ただ……だけ。

□ 私は北京人です。この60年、北京語は大きく変化しました。古い言葉が次々死滅し、新しい言葉が次々生まれてきています。最近、小学生たちが“根本”という言葉を好んで使っています。彼らにどういう意味なの?と聞いても、ただ“根本”と答えるだけで、“根本”的に肯定しているのか、“根本”的に否定しているのか分かりません。こうした例は、恐らく至る所にあるでしょう。過去の日々は捨て去られ、それとは別に新たなものが生み出されます。私たちは、どうすればよいのでしょうか。


【出典】老舎《出口成章》上海・復旦大学出版社 2004年7月


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