中国語学習者のブログ

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北京史(三十二) 第六章 明代の北京(10)

2023年08月13日 | 中国史

山海関

第四節 北京での大順政権(続き)

大順政権の経済措置

 李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷やその他の財産を取得し、そして「貧しい人々が富家になった」。

 農民軍はまた一貫して商工業保護の政策を執行した。明朝統治者の、都市の商工業者への苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。横征暴敛)、ゆすりたかり(勒索)をほしいままにし(肆行)、このため都市部の不景気を引き起こしている状況に対し、農民軍は「安く買って安く売る」経済政策を実行し、公平な取引を行った。農民軍が北京にいる期間、北京城内外の住民たちが盛んに往来し(熙来攘往)、各々が安心して生業を行った(各安生業)だけでなく、ひいては依然として地主統治下の江南地区の商人たちも、次々夏物の衣類、扇、茶葉などを満載して北方に来て商取引を行った。

 明末の銭法はたいへん混乱した。明朝廷は膨大な支出に対応するため、およそ兵馬処にも即時に炉を開いて銭を鋳造するよう命令したので、崇禎銭はこれにより百種類余りに達し、また品質も極めて劣悪で、手で触れば割れてしまうものさえあった。明朝の中期には、紋銀(純度の高い銀)一両の値が銭6百であったが、崇禎期になると、銭56千でようやく銀一両と両替することができた。こうした状況は商品の流通を甚だしく阻害し、人々の生活に影響を与えた。農民軍が北京に入城すると、直ちに鋳銭局を24か所開設し、至るところで銅器を回収して銭を鋳造し、鋳造した永昌銭は「重くて大き」く、品質もたいへん良く、このことは当時の社会経済発展に有利であった。

 大順政権はこれら一連の封建地主打倒と人々の生活改善の措置により、人々の支持を受けた。彼らは次のように歌った。

 「金の国、銀の国、闖王(李自成)の国では税金の取り立てをしなかった。」

 「星を眺め、月を眺め、闖王が意見を出すのを待ち望んだ。」

 

農民軍の北京退去

 農民軍の北京入城後、中国全土の政治情勢は錯綜し複雑に変化した。明王朝の中央政権は打ち倒されたが、地主たちは武装し、消滅していなかった。江南地域では、様々な復古勢力が一か所に集まり、ちょうど小さな朝廷を打ち建てるのを画策し、数十万人残った軍隊を頼りに、大順政権の打倒を画策した。大順政権がコントロールしている地域では、地主階級も一定の力を持っており、ある者は砦(とりで)を築いて反抗し、ある者は復活の機会を待ち、ある者は愚かにもなんとか大順政権の性質を変えようと企(くわだ)てた。東北地区では、虎視眈々と勢力拡大を狙った満州貴族がちょうど山海関に盤踞した明朝総兵の呉三桂と一緒に結託し、大挙して関所の内側へ侵攻する準備をした。北京は随時反攻を受ける危険に迫られていた。

 こうした危なく恐ろしい情勢を前にして、農民軍の前に置かれた主要な任務は、如何にして地主階級の捲土重来の野望を防ぐか、如何にして満州貴族の軍事侵攻を防ぎ止めるか、また勝ちに乗じて前進し、逃げ場を失った敵を追撃、殲滅することだった。レーニンはこう言ったことがある。革命の進んで行く過程で、「第一に勝利に酔いしれてはならず、驕り高ぶってはいけない。第二に自らの勝利を強固なものにしなければならない。第三に相手を徹底的に壊滅させなければならない。なぜなら相手が打倒されただけでは、まだ壊滅していないからである。」(『スターリン全集』第6P47『レーニンを論ず』より引用)しかし農民軍の指導者は、李自成のような傑出した人物も含め、ちょうどこうした問題について、冷静な認識が不足していた。彼らは大順政権を打ち建てたけれども、つまるところ新たな生産関係を代表していなかったので、結局は新たな制度を生み出し腐敗した封建制度を代替えすることができなかった。彼らは「均田免糧」の革命スローガンを打ち出したけれども、封建土地所有制と封建搾取を廃除する政治綱領を持たなかったし、そういうものを提起することもできなかった。農民軍に対し、次にどうすべきかさえ分からなかったし、なすべきことも全く分からなかった。彼らは短期間のうちに軍事上輝かしい成果をあげたが、それでのぼせ上り、勝利のよろこびにふけるうちに、「勝利に驕り高ぶるという過ちを犯した」。その最初の現れは、農民軍の中に相当深刻な平和ボケの思考がはびこったことである。多くの農民軍の下士官、兵卒が人に託して家への手紙を代書してもらい、父や子、妻に送り、戦争に対してうんざりし、家に帰ってまた農業をしたいという願望を伝えた。相当多くの農民軍の士官、兵士が、戦乱がまだ鎮まらない時期に、慌ただしく北京で結婚し、所帯を持った。その次の現れは農民軍将校の敵への軽視であった。彼らはヤマイヌやオオカミが前におり、虎やヒョウが後ろにいるという厳しい情勢下で警戒を怠り、明朝は南方の軍事勢力で、「檄を飛ばせば下せる」と考え、劉宗敏らは更に呉三桂など眼中に無く、山海関は「猫の額」(弹丸)ほどの土地で、「京師の一角に当てるに足らず、靴のつま先で倒すのみ」と考えた。よしんば最もまじめでつつましく、身を清く保ち悪に染まらなかった李自成でさえも、明朝の投降した官吏がほめたたえるのを聞くと、うれしさが顔色に現れ、浮つくのを免れなかった。このような情況下、農民軍内部の指導グループの不一致が次第に表に現れ、三つの異なる考えが出現した。

 一つ目は流寇(逃げ回って拠点を持たない匪賊)主義の考えである。李自成の軍隊の中は、流民、辺境守備兵、驛卒が大きな比重を占め、こうした人々は流寇主義の風習を色濃く帯びていた。流寇主義は克服されなかったばかりか、却って大きくなった。劉宗敏、李過、田見秀らがこうした思想の代表である。彼らはしばしば互いに信服せず、甚だしくは命令に服従しなかった。李自成が彼らに呉三桂を攻撃させようとした時、 劉宗敏はなんと「馬賊を以て馬賊を拝し、誰も膝を屈するを肯ぜず」という考えに支配され、出征を拒んだ。

 二つ目は官僚地主思想である。農民蜂起の盛んであった時に加わった地主階級の知識分子である牛金星、宋企郊、宋献策らが代表である。彼らは北京入城後、その本来の姿を露呈し、百方手を尽くして革命政権をむしばみ、大順政権を封建政権に変えようとたくらんだ。牛金星は極力門人を招き寄せ、私人を任用し、彼の政治権力を拡大しようとした。李自成の東征時、彼は北京で「大轎(大かご)、門棍(ドアの柱)、金を撒いた扇の上に「内閣」の文字を貼り、玉帯、藍の長衣、丸い襟の衣服を身に着け、行き来し訪問し、あまねく同郷の者を招請した」。宋企郊も私利をはかり賄賂を取り、「その親戚、友人を私のものとした」。宋献策は天文現象で以てデマを作り出すのを得意とし、先ず李自成を「十八子、主神器」と言ってほめたたえた。北京入城後、重用されなかったため、至るところで李自成が「ただ馬上王に留まり、数年入り混じって亡くなる」、「秦に遇って興り、魯に遇って亡くなる」などと触れまわり、下心を抱いて軍隊の士気を動揺させた。彼らは後に形勢が少し不利になると、投降せず、雲隠れ(逃之夭夭)した。

 三つめは李岩思想である。李岩は政治上かなり先々までの見通しを持っており、劉宗敏らの流寇主義のやり方に反対しただけでなく、牛金星らの腐り果てた行為をも反対した。彼はいくらか適当な改革を実施し、速やかに新たな封建秩序を打ち建てることを希望した。李岩は曾て李自成に向け四つのことを直接諫言した。一、早期に即位し皇帝を称する。二、「追餉(追赃助饷。贓品を追求し取り立て、農民蜂起鎮圧の軍費調達に当てる)」は刑部が責任を持ち、汚職行為、投降拒否、清廉の三つの情況に基づき、対応を区分けする。三、城内に住む軍隊を城外に移し、軍紀を整頓、訓練を強化することにより、征戦に備える。四、呉三桂を宣撫する。これらの建議は完全に正確とは言えないが、一部は合理的であり、実行して差支えないものである。遺憾なのは、李岩の主張が十分に重視されることがなく、李自成もただこれに「分かった」と意見を記したのみで、実行することはなかった。

 しかし、こうした農民軍の分裂はまだあまりたいへん深刻な程度にまで強まっていなかった。農民軍を北京から退去するよう迫った主要な原因は満漢各族の統治者が結託して後形作られた階級勢力の力の割合の変化にあった。

 封建地主と農民軍の間には本来調和できない矛盾が存在した。大順政権が北京で推進した一連の農民の利益を代表する措置は、封建地主の農民軍に対する憎しみと反抗をなお一層激しくさせた。農民軍が北京入城後間もなく、官僚地主は、ある者は「雇用労働者になったり、僧侶や道士の姿にあることに承諾」し、次々城外に逃亡した。ある者は積極的に兵器を集めて、秘密裏に大順政権を転覆させる暴動を引き起こすことを画策した。宣武門大街に「明当に中興すべし」の張り紙が出現した。西長安街には「東宮を立てて帝と為し、義興と改元すべし」との私的な告示が現れた。北京付近の地区の封建地主は更に勝手気ままに暴れ狂い、至るところで反革命武装を組織し、農民軍の占領する県城を襲撃し、また人を激怒させる残酷な手段を使って、彼らの手の中に落ちた農民軍の官兵を野蛮に殺害した。

 なおいっそう危険なことには、清軍が正に速度を倍にして関内に向け前進しており、大順政権の安全に深刻な脅威を与えていた。

 山海関を鎮守する明の総兵、呉三桂は、10数万の関寧鉄騎(明朝の辺境を守る騎馬軍団のひとつで、関は山海関、寧は寧遠(遼寧省南部、今の興城市))を掌握し、同時にまた清軍が入関するのに通らなければならない要道を守っていた。彼の向背(従うのか背くのか)が、大順政権の安否に関係する重大問題となっていた。李自成は曾て様々な方法を用いて呉三桂を味方に引き入れていた。呉三桂はずっとぐらつきながら、自分を高値で売ろうとした。商談は半月以上続いたが、依然少しも結果が出なかった。412日、李自成は自ら20万の大軍を率いて東征し、呉三桂問題を解決しようとした。この時、呉三桂は逃亡した官僚地主のところから農民軍の北京での情況を理解し、農民軍に対する恐れと憎しみを深めた。彼は自分の武力だけでは、根本的に農民軍と対抗することができないと知り、清軍と結託し、共同で農民軍を鎮圧する決心をした。搾取階級の本質は、彼をむしろ満州貴族の手先となる方が良く、また農民革命政権が引き続き存在することは容認できないと判断させた。呉三桂はそれで一方では檄文を発し、地主階級が共同で農民軍に向け反撃するよう呼びかけた。一方では清軍に投降し、清軍が迅速に入関するよう促した。満州貴族は過去に李自成が率いる農民軍に書簡を送り、彼らと連合し、共同で明朝の天下を奪い取ろうと要求したが、李自成が北京を攻略した後は、彼らは作戦を変え、呉三桂と結託し、大順政権の転覆を図った。

農民軍と呉三桂、清軍の山海関での戦い

 呉三桂と清軍の結託は、農民軍にとってたいへん不利な形勢をもたらした。呉三桂の関寧鉄騎は、兵は精悍で武器は鋭利(兵精械利)であった。清軍は更に戦闘力がたいへん強い軍隊で、且つ呉三桂と清が連合して武器の数の上でも農民軍の二倍を越えた。同時に、階級の力のバランスも、大きな変化を起こした。呉三桂と清軍の連合武装は大官僚大地主の擁護と支持を得ただけでなく、元々大官僚、大地主と矛盾があったため、農民軍に対して中立或いは同情的態度を取っていた中小地主が、今や断固として明朝の大官僚大地主と満州貴族の方へ移り始めた。農民軍の敵は増加し、革命の力は相対的に弱められ孤立した。

 423日、農民軍と呉三桂の軍隊は山海関外の一片石で激戦が発生した。戦いが正午になった時、牙を研いで待って(蓄锐以待)いた清軍が、突然農民軍に猛攻を仕掛けて来た。農民軍は虚を突かれて防ぐ暇がなく(猝不及防)、損失はきわめて大きかった。

 427李自成は北京を退却した。429日武英殿で帝位に就き、徹底抗清の決意を表し、民族自衛の大旗を高く掲げた。30日、李自成は北京を放棄し、関中へ撤退し、陝西を根拠地にして、引き続き抗清を行う準備をした。北京を離れるに際し、李自成は北京の人々に対する情愛に溢れ、彼らにこう言い聞かせた。「呉三桂が来たら、街中が皆殺しにされるから、おまえたちは急いで逃げろ。」そう言って城門を大きく開き、人々を脱出させた。

 以後、農民軍は英雄の気概を持ち、また不撓不屈の精神で以て、満漢の地主階級連合の武装勢力と数えきれない回数の苦しい戦いを行ったが、遂には、敵が強大であるため、最後には彼らの蜂起は失敗に帰した。

 李自成率いる農民軍が北京にいた時間は短いが、北京の歴史上輝かしい1ページを残した。



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