少し調べたい事柄があって、江戸時代の釣りや魚の周辺をあれこれほじくりだしたら、これがなかなか興味深く、いろいろ広がりを見せ、途中で投げ出せず、コロナ禍の自粛生活も、まんざらではない、と一人苦笑を禁じえません。それにしても、江戸時代の釣りの文献は、なぜこうも東高西低なのか、浪速は、釣り文化果てる地だったのか、とぼやきたい気持ちになりますが、こればっかりは映画のバックツー・ザ・フィーチャーのようなわけにもいかず、甘んじて受け入れるしかなさそうです。
磯釣りで「不覚悟」
家禄減俸のおとがめ
調べ物の発端は、江戸幕府が武士に対して出していたお触れ(布達)に、「瀬田の渡し舟とふぐの中毒に死するものは家禄没収」という一項があり、それをずっと幕末まで出していたことです。名古屋藩では、死に至らないでも、フグを買って食べたら押込(拘禁)五日、貰って食べても押込三日という厳しいものだったと伝えられています。
つまり、武士たる者、危険とわかっているフグを安易に食って中毒死したら、家禄没収という厳しいお咎めを受けたという事実です。危ないものに手を出すな、という戒めでしょうね。(瀬田の渡し舟についてはなかなか面白いので、稿を改める必要がありますが、「危険なものに手を出す(乗る)」という点ではフグに通ずる戒めだったようです)
ともあれ、当時、「御定め書き百個条」などに明記して、さまざまな守るべき約束事を武士に徹底していたことが判ります。今も同じで、「君たちは一歩家を外に出たら最低五十の現行法(道路交通法、軽犯罪法などなど)に縛られる」、と中学生になった日の訓示で教わり、印象に残っていますが・・・。
ここでだぼ鯊が話題にしたいのはふぐ毒ではなく、磯釣りで命を落としたらどのようなお咎めがあったかということです。
幕府のお触れ意外に、各藩でも独自に「藩の御定め書き」を作っていたようです。つまり現在でいえば県の「条例」ですね。
以下は百九十年ほど昔、江戸後期の文政十年、東北の庄内藩(現在の山形県)の加茂磯で起こった磯釣りの事故のあらましです。ご存知、庄内藩は武士の心身鍛錬に磯釣りを奨励し、藩士たちは磯釣りを「勝負」と心得ていたことはよく知られるところです。
磯釣りを志す藩士達は、鶴岡の城下から二里、あるいは四里の道のりを歩いて庄内の荒磯に通い地磯の波頭に、これまた有名な庄内竿を振ったのです。当然、岩場から滑り落ちて怪我をする者もいたことは容易に想像できます。武道と同じ位置づけの磯釣りでの心身の鍛錬ですから、思いがけない事故で負った傷であれば、まさに名誉の負傷というべきでしょうが、実は藩のお触れを守らなかったため、藩主の怒りに触れて処罰されることと相成りました。
文献によると、事件の概略はおよそ次の通りです。
『文政十年亥十月、小室平太右衛門が、加茂磯の蝦夷澗(ヱソマ)丸岩に於いて磯釣りをしていた時、浪に打ち落とされ、上陸後、疝癪(胃けいれん)をさし起こし、五十三歳で没した。このことが翌年2月、藩庁に聞こえ、荒天に、しかも危険な場所であるにもかかわらず、釣りをしたので浪に打ち落とされるということになったのは、あまりにも不覚悟のことで、本来なら家禄の大幅削減をするところだが、しかし、一緒に釣りをしていた鈴木重兵衛を助けようとして、ともに浪に打ち落とされたことが同僚の藩士(釣り人達)からの口添えとしてあったことから、その点を特別に考慮して、恩召をもって百石のうち、十石の減知(減俸)にとどめることにし、九十石を養父、小室大記に下し置かれた』
以上が記録に残るお咎めの顛末です。(青銅企画出版・八木禧昌記。イラストも筆者。からくさ文庫主宰)
*今ならどういうことになるのかな、数年前に大阪湾での事故の時落ちた方の
両親が渡船店や大阪府、市を訴えたことがあったが・・・時代の違い