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絶滅収容所・アウシュビッツを生き抜いた精神科医の言葉

2025年01月27日 17時03分44秒 | 歴史的なできごと

アウシュビッツを生き抜いた精神科医の言葉

私たちが人生につまずいたとき、どのように希望を持てばよいのか。日々の生活に疲れたとき、生きる意味をどう見つければよいのか。そうした人生の悩みに、真摯に答えた「名著」がいまも感動を呼び続けています。 



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それは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』です。アメリカでは「私の人生に最も影響を与えた本」のベスト10にも入りました。  

ナチス強制収容所での著者みずからの体験をつづったこの本は、実はナチス・ドイツの犯罪を糾弾する目的だけで書かれたものではありません。著者のヴィクトール・フランクルは、

現代の私たちに優しく語りかけてくれます。収容所のような過酷な環境であっても、「人生に意味は必ずある」と。私たちに「生きる力」を与えてくれる

──それこそが、『夜と霧』を世界的ベストセラーにした最大の要因です。

未曾有の大災害となった、2011年の東日本大震災。その衝撃も冷めやらぬころ、被災地の書店で『夜と霧』が静かなベストセラーになった現象がありました。あれほどつらく悲しい経験をした人々が、なぜこの本にひかれたのか。

社会が浮足立ついまこそ、古典的名著をマンガで解説した新刊『マンガでわかる世界の名著』(NHK「100分de名著」制作班 監修)から『夜と霧』の勇気のメッセージを味わってみませんか。

 ■強制収容所へ送られ、ついに…
■アウシュビッツの壮絶な日々 
■フランクルの「生きる力」の根源 
■ 『夜と霧』に込められたメッセージ



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太宰も愛した跨線橋よグッド・バイ 三鷹の「撮り鉄」スポット JR東、解体・撤去方針決定

2025年01月23日 09時03分36秒 | 歴史的なできごと
太宰も愛した跨線橋よグッド・バイ 三鷹の「撮り鉄」スポット JR東、解体・撤去方針決定

2021年9月12日 06時54分



9・12・2021





JR中央線や三鷹車両センターをまたぐ跨線橋=三鷹市で、本社ヘリ「あさづる」から


 作家・太宰治(一九〇九〜四八年)ゆかりのスポットとして知られる、三鷹市の「三鷹跨線(こせん)人道橋」(跨線橋)が解体・撤去されることになった。建設から九十二年が経過し、橋を保有、管理するJR東日本が六月下旬、市に撤去方針を通知し、市側は八月末にこれを「受け入れる」と回答した。残り少なくなった都内の昭和の面影がまた一つ消えることになる。


 跨線橋はJR三鷹駅の約四百メートル西に中央線などの線路を南北にまたぐように架けられている。全長九十三メートル、幅約三メートル、高さ約五メートル。一九二九(昭和四)年、旧鉄道省が現在の三鷹車両センターの前身、三鷹電車庫を開設する際、人の往来を確保しようと建設した。

跨線橋からの眺め。眼下に広がる車両センター


 当時は鉄鋼が不足していたため、明治、大正期の古レールが再利用された。この間、塗装など改修はされてきたが、今もほぼ昭和初期の姿をとどめている。
 橋からは晴れた日には富士山が眺められ、昔から地元の人々が愛する散歩コースになってきた。中央線を走る車両だけでなく、車両センターの留置線で東西線などの各種車両も見物できるため、鉄道ファンが集まる「撮り鉄」スポットでもあった。

太宰治


 太宰ゆかりの地としての側面も見逃せない。太宰が三鷹へ引っ越してきたのは橋の完成から十年後の三九(昭和十四)年。当時は高層ビルもなく、跨線橋は広々とした武蔵野の風景が見渡せる場所として太宰のお気に入りだったようだ。「ちょっといい所がある」と友人らを案内したと伝えられている。「太宰が生きたまち・三鷹」をPRしてきた市は市内十九カ所をゆかりの地として紹介し、跨線橋脇にも案内板を設置している。

 跨線橋の存廃を巡っては、JRと市の間で三年前から水面下のやりとりが続けられてきた。JRは、六九年に橋の約二百五十メートル東に完成した「堀合地下道」が橋の代替になるため、住民の往来問題は解消済みと主張。昨春には、維持コスト負担に悩むJRが橋の無償譲渡を市に提案。市は今年一月、

「譲渡の受け入れは困難」と返答していた。

太宰治も愛した三鷹跨線橋からの夕景


 「タダ(無償)ほど高いものはない」。市の幹部がそう皮肉るほど、提案の中身を試算すると高額な数字が浮かんできた。

市が譲渡提案をのんだ場合、その後の年間の維持管理費用に三千万〜三千五百万円。

さらに耐震強度が不足しているため、大規模な改修工事の費用は数十億円に膨らむ可能性も−。それでも市民や市議会から跨線橋の存続を求める声が高まり、市は現状のままで存続させる方策を模索したが六月、ついに事態が動いた。

塗装は橋の北側の一部で終わったままだ



時代を経てさびが目立つ


 上旬、河村孝市長がJR東日本の八王子支社長と面会。JR側からは、コロナ禍で経営が悪化し、維持管理費の捻出が難しい状況や橋の耐震性能など安全面の問題が説明され、跨線橋の維持は「困難」と伝えられた。下旬には「撤去することで進めたい」と文書で通知を受けた。市は八月末に文書で回答を送ったうえ、今月七日にホームページに「JR東日本の判断を受け入れることとした」と告知した。存廃を巡る攻防にピリオドが打たれた瞬間だった。

跨線橋の脇には三鷹市が設置した案内板があるが、表面の劣化が進んでいる


 次は、実際に撤去がいつ行われるかに焦点が移る。往来の多い中央線の終電から始発までの短い時間内に長さ百メートル弱の橋を撤去するには、工事予算の確保や事前準備が必要。大工事になるため「時期はまだ決まっていない」(八王子支社)という。市幹部も「今年度内はまずないだろう」とみる。


 しかし、絶筆となった太宰の小説ではないが「グッド・バイ」の日は必ずくる。市は、階段や橋桁の一部を近くの公園に保存することや、記録映像の撮影で後世に残すことを検討している。





文・花井勝規/写真・花井勝規、嶋邦夫、河口貞史
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。



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古代人は寒さを乗り超えるために冬眠することができた

2025年01月22日 21時03分00秒 | 歴史的なできごと
トラキア・デモクリトス大学(ギリシャ)の研究者らは、スペインのシマ・デ・ロス・ウエソス洞窟で発掘作業を行い、古代の人々は極度の寒さを乗り越えるために冬眠していたとの結論に達した。ガーディアンが報じた。


研究者らが古代人の骨を調べたところ、その骨には冬眠する動物にみられる損傷や病気と同じものが見つかったという。


12・22・2020

研究者らは、これは古代の人々が代謝を抑え、数ヶ月間眠ることができたことを物語っているとの見方を示している。

研究者らによると、見つかった古代人の化石は季節変動を示しており、これは古代人の骨の成長が毎年数ヶ月間中断していたことを示している。

研究者らは「冬眠は彼らにとって寒さを乗り越えるために洞窟で何ヶ月も過ごして生き残ることを可能とした唯一の解決策だった」としている。

また研究者らは、同じ場所で見つかったホラアナグマの骨の損傷が、古代人の骨にみられた損傷と一致したと指摘した。研究者らはこれについて、古代の人々が寒く、食料が不足する中で生き延びるためにクマと同じことをしたことを裏づけるもう一つの証拠だとの見方を表している。


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昭和26年の『60歳』、マジ? 昔のとしよりの日が衝撃的!(1951年「敬老の日の前身」制定)

2025年01月16日 09時03分40秒 | 歴史的なできごと

60歳、マジ? 昔のとしよりの日が衝撃的!(1951年「敬老の日の前身」制定)【TBSアーカイブ秘録】




TBSのアーカイブにはずいぶん珍しい白黒フィルムが残っています。これは「敬老の日」の前身「としよりの日」が制定されたときに撮られた映像なんですが、なるほどこれが60歳…。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)


最初の「としよりの日」
古いフィルムの中に残っていた1951(昭和26)年の60歳たちです。


一目見て驚きますよね。この時代は60歳でもう完全に「お年寄り」です。男も女もザ・ご老人。今とまるで違います。


写真のお年寄りが着ているのは、もちろん還暦祝いの「赤い頭巾と赤いちゃんちゃんこ」ですから、ぴたり60歳。はっきり記録されてないのですが、昭和26年のことですから、もしかして「かぞえで六十」かもしれません。その場合、この方々は、まだ58歳か59歳です。


彼らが生まれたのは1889(明治22)年〜1891(明治24)年というところ。大日本帝国憲法が公布され、ようやく日本が国際社会にデビューしようかというところです。



以前は年をとるのが早かった?
食べもの、環境(寒暖差とか)、労働のあり方などいろいろな要因があると思うのですが、現在の60歳と写真の60歳を比較すると、日本人が選んできたライフスタイルはおおむね正しかったと言えるのかもしれません。


……と殊更にいうのは、よく「昔の方が生活も食べものも健康的だった、朝早く起きて、添加物のない無農薬の食べものを食べていた」みたいな話を聞くじゃないですか。


しかし、これを見るかぎり、どっちがいいかというと、そういうのを飛び越えて、多くの人は「今がいい!」と答えることでしょう。我々は少しずつ健康で長生きなライフスタイルを手にしてしてきたのです。


歯科の進歩と、娯楽の多様化
1951年のお年寄りを見ていると、なるほど「歯が残っている」というのは重要なことだと思います。歯科医師たちがよく言うように「噛むことは生きること」なのでしょう。


また、お年寄りは隠居するもの、という意識も大きかったかもしれません。まだテレビも普及しておらず、娯楽も少なかった頃、仕事を辞めると急速に老け込んだ、というようなこともよく起きていました。


だからというべきか、このフィルムの中では「ボケ防止のためにパチンコを」とパチンコの刺激が推奨されていたりします。


平均寿命はあがったが
厚生労働省によると、1951年の平均寿命は男性60.8歳、女性64.9歳でした。これが最新のデータ(2022年)だと、男性が81.05歳、女性が87.09歳にまでのびました。


その分、我々は若い時代が長くなったのですが、ちょっと気になるのが、一人暮らしの高齢者が激増していることです。


国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が2024年11月に公表したデータによると、全世帯の中で、一人暮らしをする65歳以上の高齢世帯の割合は、現在13.2%、今後も増え続け、2050年に20%を超える見通しだそうです。





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雑煮の「餅」、東日本は「角餅」で西日本は「丸餅」? 違いはなぜ生まれた?>おおむかしの

2025年01月13日 11時03分22秒 | 歴史的なできごと
 新年を祝う食卓に欠かせない「雑煮」。雑煮に入れる具といえば「餅」が定番ですが、餅の形には「角餅」と「丸餅」があり、主に東西でその違いがみられるようです。

ネット上では「わが家ではずっと丸餅です」「角餅しか食べたことがない」という声の他、「境界線はどの辺りなんだろう」「入れる前に餅を焼く/焼かないの違いもある?」などの疑問を持つ人も少なくありません。  なぜ、雑煮の餅は東西で形状が異なるのでしょうか。和文化研究家で日本礼法教授の齊木由香さんに聞きました。


「円満」を意味する、縁起よい丸餅

Q.そもそも、「雑煮」とはどのような食べ物でしょうか。 

齊木さん「雑煮は『雑煮餅』ともいわれ、新年の神様である『年神様(としがみさま)』にお供えした餅を神棚から下ろし、鶏肉や魚介、野菜と一緒に煮込んだ料理です。雑煮は今でこそ正月の代表的な食べ物ですが、その始まりは室町時代の儀礼的な酒宴などで、胃の調子を安定させるための前菜として食べられていたそうです。当時、餅は大変貴重で、武家の間で食べられていましたが、農耕民族である日本人にとって『ハレの日』のおめでたい食べ物であり、安土桃山時代以降、一般庶民の間でも、正月に食べる特別な料理として次第に浸透していきました。

 作り方としては、その年最初にくんだ水『若水(わかみず)』に具材を入れ、最初につけた火で煮込んでいました。その年の地場産物をお供えするため、具材は地域によってさまざまですが、餅やニンジン、ダイコン、サトイモなどが多いです。餅と具材を1つの鍋で煮て、神様と一緒に食事をすることも目的としていたようです。ちなみに『雑煮』の語源はさまざまな具材を煮合わせたことに由来する『煮雑ぜ(にまぜ)』から来ているといわれます」

 Q.東日本と西日本における、雑煮の餅の形状はどのように異なるのでしょうか。また、なぜ東西で餅の違いが生まれたのですか。 

齊木さん「雑煮の餅は東日本では『角餅』、西日本では『丸餅』が多く用いられています。もともと、日本の餅は丸い形をしており、関西では昔から、『円満』を意味する縁起のよい丸餅が主流だった一方、関東では、平たく伸ばした餅を切り分けることで一度に多く作れる角餅が使われるようになり、運搬のしやすさから、次第に東日本各地へ広がったといわれています。 ちなみに、北海道では、明治時代に開拓使が置かれて全国から人が集まったことで、さまざまな種類の雑煮が食べられるようになりました。一方、沖縄ではそもそも、古来正月に雑煮を食べる習慣がないのも特徴といえます。これは、アジア各地域の影響を強く受けていた琉球王国時代の名残かもしれません」 

Q.日本全国における、餅の形状の「分布エリア」について教えてください。 

齊木さん「東西の境界線は岐阜県の関ケ原辺りとされています。岐阜県や福井県、石川県、三重県、和歌山県などでは丸餅・角餅のどちらも使うようです。なお、山形県の庄内地方は角餅の文化圏である東日本にもかかわらず、丸餅を食べる珍しい地域として知られており、北前船によって、大阪や京都の文化が運ばれてきた影響によるものと考えられています」 


Q.ちなみに、「雑煮に入れる前に餅を焼く/焼かずに煮る」の違いもあるようですが、これは事実でしょうか。


 齊木さん「事実です。基本的に角餅は雑煮に入れる前に焼き、丸餅は焼かずにそのまま煮ることが多いようです。餅を焼いてから入れると香ばしい風味があり、形崩れしづらく、焼かずに入れると、どろどろとやわらかくなります。この違いが生まれた理由の一つは愛知県にあります。愛知県では、餅の色である『白』を『城』に例え、『城(白)を焼いてはならない』として、餅を焼かずに煮て食べるようになったとされ、やがて、東海地方にも広がったと考えられています。 一方で、角餅が主流である東日本でも一部の地域では『焼かずに煮る』風習があります。同様に、丸餅が主流の西日本の中でも、九州では焼く地域と煮る地域が混在しているようです。なお、餅を入れるタイミングに厳格な決まりはなく、地域やそれぞれの家庭でも異なります」


 Q.雑煮の正式な食べ方はあるのでしょうか。 

齊木さん「雑煮を食べるタイミングは地域によって異なるものの、一般的には、三が日(1月1日~3日)に食べることが多いようです。雑煮を食べるときは両端が細長くなっている『祝い箸』というものを使います。祝い箸は一方を人が使い、もう片方を神様が使う『神人共食(しんじんきょうしょく)』を表しており、雑煮を食べるにふさわしい縁起のよい箸です。また、雑煮を食べるときは『おせちの後に雑煮を食べる』『毎日、餅を1つずつ増やしながら食べる』ことで縁起がよくなるとされていますが、明確な決まりがあるわけではありません。

 昔の人は旧年の農作物の収穫や家族の無事に感謝するとともに、新たな年の豊作と家内安全を祈りながら雑煮を食べていました。日々、豊かな食事に恵まれる現代では忘れがちですが、家族が無事に新たな年を迎えたことに感謝しながら、雑煮をいただいてみてはいかがでしょうか」


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