桑田の中で歌はどのように生まれてくるのか。
「まずメロディー、歌の世界が浮かんで、それにあわせて全体のアレンジを進めていく。歌詞はそれをなるべく広く、意外性を持って聴いてもらうためにマネジメントしているような感覚というか。僕は天性の作詞家でもなければボブ・ディランみたいな吟遊詩人でもない。誤解を恐れずに言えば、クライアントやスタッフから依頼されてようやく『さあ、詞を書かなくちゃ』とエンジンがかかる。
歌は空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティー」。昭和、平成、そして令和と、桑田佳祐は40年以上にわたって自作のポップスを音楽シーンの第一線で歌ってきた。サザンオールスターズの一員としてデビューしたのは、1978年。当時とは世間も様変わりした。時代とともにヒット曲を世に送り出し、世相もエロもナンセンスも描いてきた桑田は今、世の中をどう見つめ、歌にしているのだろうか。(取材・文:内田正樹/撮影:倭田宏樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
9/21/2021
「これ大丈夫かなお化け」が出る
(撮影:倭田宏樹)
「僕自身は空っぽな容れ物みたいなものでね。空気とか情報とか、市井に浮遊しているものをキャッチしては、自分という空っぽの容れ物にポンポンと詰め込んで、それをシャッフルしたり、色付けしたりして吐き出してきた。『世の中を呼吸』しながら作品を紡いできたという感じ。そこに多少のエゴや性格もあぶり出されているのだろうけど、僕自身にあまり強い自我のような感覚はないんですよ」 気付けば「コンプライアンス」という言葉が普及していた。時には過激な表現で世相やエロやナンセンスを描いてきた桑田も、近年はしばしば「歌詞の行方」を時代と照らし合わせるという。
(撮影:倭田宏樹)
「制作中には『これ大丈夫かなお化け』がよく出ます(笑)。
『この言い回し、大丈夫かな?』と、僕からレコード会社やマネジメントの若いスタッフに尋ねるんです。昔はセクハラやパワハラという概念すらなかった。映画やバラエティー番組にもエロの要素が散りばめられていた頃は、サザンで『女呼んでブギ』や『マンピーのG★SPOT』も書いていましたけど、今の基準と照らし合わせたらアウトと言われちゃうかもしれないからね(笑)」 「コンプライアンスという概念のおかげで、泣き寝入りをせず、救われた人たちもいっぱいいると思う。
でも一方で、表現に対する視線もきつくなった。視野が狭くなったというか、よく言われる『寛容でない』意見も増えた気がします。ありがたいことに、僕もその『洗礼』は受けました」 過去には、歌詞に対する曲解やデマをネット上で拡散されてしまった経験もある。
かつてはなかったSNSという存在が大きな影響力を持つ社会になった。 「『他人の不幸は蜜の味』というか、特定の人にとってはある種の快感みたいなものなんでしょうね。僕は(SNSを)やっていないけど、『じゃあおまえはどうなんだ?』と問われたら、やっぱり自分の中にもそうした意識が眠っていると思います」 「日々のニュースを見ていると、もう少し物事を俯瞰から見れば、何も全て『ノー』と斬って捨てなくてもいいのに、と感じることもあります。
議論するのは大事だと思うけど、善悪の判断が簡単につかないことも多いはずだし。断罪や糾弾をすれば世の中がよくなって、弱い立場の人が救われるのかといえば、そういうわけではないだろうし。そんな元気やエネルギーがあるなら、ちゃんと選挙にでも行って世の中を変えるべく行動するとか、もっと違うやり方もあるんじゃないかと思うんです」
歌の世界の「男と女」にこだわりたい
(撮影:倭田宏樹)
現実の世界を思えば「これ大丈夫かなお化け」が時折顔を出すが、歌の世界では昔と変わらず大切にしたい詩情もある。
「最近、改めて自分が慣れ親しんだ昭和歌謡について考えてみると、歌の物語の中で、男は自分を『俺』と言い、相手の女性のことを『おまえ』と呼んでみたりする。そういう歌詞を見ても、最近はつい、『今の世の中で、女性をいきなり“おまえ”なんて呼ぶのはアウトなんじゃないか?』とか、『差別表現に当たらないだろうか?』とか、相変わらず『これ大丈夫かなお化け』がわずらわしい。もはや僕自身がお化けなんじゃないか? とさえ思えてしまう(笑)」
「現代社会は男女平等でも、歌の世界では『女だてらに~』とか、男女の違い、差異があるからこそ成り立つ物語がある。例えば『唇を奪う』『馬鹿な女の怨み節』『妻という字にゃ勝てやせぬ』とか、『あなたの膝に絡みつく子犬のように』などの表現を伴う恋物語にも、やっぱり僕はこれからもずっとこだわっていきたい。
『昭和の遺物』と言われようと、人の気持ちの揺らぎや機微、大切な思いや恋心の構造というのは100年前も今も変わらない気がするんですよ」
桑田の中で歌はどのように生まれてくるのか。 「まずメロディー、歌の世界が浮かんで、それにあわせて全体のアレンジを進めていく。歌詞はそれをなるべく広く、意外性を持って聴いてもらうためにマネジメントしているような感覚というか。僕は天性の作詞家でもなければボブ・ディランみたいな吟遊詩人でもない。
誤解を恐れずに言えば、クライアントやスタッフから依頼されてようやく『さあ、詞を書かなくちゃ』とエンジンがかかる。もはや『職業作家』そのものじゃないかな(笑)。求めてくれる人や聴いてくれるファンの皆さんがいてこその生業(なりわい)なんです」
<中略>
がん闘病後、音楽活動を続けるうえでの難敵は
(撮影:倭田宏樹)
40年以上にわたる活動のなかで、歌の本質に気付かされたのが、2011年9月に宮城で行ったライブだったと振り返る。
「僕も前年に食道がんで活動を休止していたから病みあがりでね。会場となったアリーナは、震災直後、ご遺体の安置所だった。いざステージに立つと、あまり深刻な言葉が出てこない。『このたびはいろいろ大変でしたね』なんて言うのも変だし、そもそも苦手だし。
でもいざ実際に『音を鳴らす』と空気が変わった。ステージが始まり、さとう宗幸さんの『青葉城恋唄』を歌った瞬間、会場の皆さんとつながることができたと思った」 「歌の語源とは『訴える』なのだと言うけれど、歌とはどんなにつらく悲しい状況でも人の心の奥底を温め、時間の経過とともに少なからず『求めてもらえる』『呼ばれる』ものなんでしょうね。災害に見舞われた場合も、差別や虐待といった苦境の中にいる場合でも。それこそが歌の正体というか本質なのだろうと感じます」 このライブが基点となって、その後も桑田はたびたび宮城を訪れている。コロナ以降初の有観客全国ツアーも宮城からスタートする。
「言わずもがな、東北の復興は道半ば。どんなお役に立てるかは分からないが、現役世代の音楽人として自分なりにやれる形で関わっていきたい」
ひとたびステージに立てば65歳とは思えないパワフルなパフォーマンスを見せる。しかし実は2010年の食道がん以降、人知れず続いてきた闘いがあった。
「手術の直後から、強烈な逆流性食道炎のような症状を頻繁に繰り返すようになってしまった。の近くまで引っ張り上げた胃の入り口が開きっ放しの状態。その日僕の場合は胃の一部と食道を切除したんですが、その時に胃の弁も取っちゃったんで、喉の体調やメンタルも含め、何かのきっかけで、胃や大腸の動きが悪くなって逆流が起きてしまう。
そういう日は高熱が出たり、嘔吐したり、咳が出たりして。それが3日間くらい続くこともある。悪化させると肺炎にもなりかねないので、夜間はベッドで寝ることもあるけど、ここ数年はほとんどリクライニング・チェアで頭の位置を高くした状態で寝ています。
ハンデと言うほど大袈裟なことでもないけれど、これが音楽活動を続けるうえでの最大の難敵。でも、もっとつらい状況で闘っている方々はいっぱいいるし、これも自分の実力のうちだと思って背負っていくしかないんです」
(撮影:倭田宏樹)
時代は流れ、年齢を重ね、ついにはコロナ禍までやってきた。不安はたくさんあるけれど、うつむいてばかりじゃいられない。
「原さん(原由子)と家で話すのはコロナのことや、社会のことを憂いてみるとかごくごく普通の話題です。たいていはネガティブになって眉間に皺も寄りがちになる。でも、先日のオリンピックで金メダルを獲られた10代のスケートボードの選手が『楽しかった!』『参加できてよかった!』というふうに、目を輝かせていたでしょ?
深刻な状況での開催でしたけど、こんな不安でうつむきがちな世の中で、明るい未来をイメージできる人たちの、純粋な前向きさに勝るものはないと脱帽でした。『われわれが挫けてしまい、若い世代に落胆した表情ばかりを見せるのはよくないね』とも話し合いました」 そう語る桑田の目もまた光を帯びていた。
「いつかアイデアは枯渇してしまうかもしれないけれど、歌は、空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティーみたいなもの。これがないと生きる楽しみがなくなっちゃう。身体が許す限り、待っている人たちがいてくれる限り、歌い続けたいと思います」
以下はリンクで
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a6ada5ec5b9058c5b5906883d6704c75a0ee9d0
ブログは主観的表現が許される媒体と存じています。一方で、強すぎるそれは時に読み辛い時があります。
itemsさんのブログは、スポットを当てたその人や事実を淡々と掲載されている印象をもちました。
読みやすく、スッと入ってくる感覚。新鮮でした。
これからも、度々お邪魔します(^^)/
コメント、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただければ、深甚です。
それでは、よろしくお願いします。