茶屋の西に直ぐ、七反野に「七反野地蔵堂」が、茶屋新田干拓前の寛永17年(1640)鬼頭勘兵衛景義が東福田新田を開拓したとき、工事犠牲者の冥福と堤防が切れないようにとの願いをこめた地蔵堂であるとの事、右向こうには「七反野神明社」の鳥居がみえます。
茶屋の西に直ぐ、七反野に「七反野地蔵堂」が、茶屋新田干拓前の寛永17年(1640)鬼頭勘兵衛景義が東福田新田を開拓したとき、工事犠牲者の冥福と堤防が切れないようにとの願いをこめた地蔵堂であるとの事、右向こうには「七反野神明社」の鳥居がみえます。
寛文3年(1663)、茶屋長意が茶屋新田干拓をしたところの街で「東茶屋」の一角です、ホーロー焼きのライオン香取線香の看板がかかっていました。
茶屋も、七島1で寂光寺に来て「新川縁」にでました。
絵の右に茶屋の街が広がり、奥に「南陽大橋」を望んで、その先にラムサール条約湿地である「藤前干潟」が下流にある所です。
名古屋市も西に、庄内川 新川を渡り「新茶屋」にきました。この辺りは「延宝5年ー1677年」茶屋長以こと「茶屋新四郎良延」による開発地で、ほぼその当時に建立された「観音寺」がある所です、突き当りの堤防の向こうに新川が流れています。
名古屋港を北に、港区役所もある港北公園にきました。
此処に、昭和12年我が国最初の国際的博覧会として「名古屋汎太平洋平和博覧会」開かれた処の看板表示があります、その時に建造された橋が「平和橋」として今に残っています。