今回も正保4年(1647)に始められた「熱田新田干拓」の地「須成町」から、此処にも「12・13番割観音堂」があります。
其処の直ぐ東を流れる「中川運河」にかかる「東海橋」から上流を眺めました、やや右手に遥名古屋駅のビル群がみえます。
今回も正保4年(1647)に始められた「熱田新田干拓」の地「須成町」から、此処にも「12・13番割観音堂」があります。
其処の直ぐ東を流れる「中川運河」にかかる「東海橋」から上流を眺めました、やや右手に遥名古屋駅のビル群がみえます。
「明正町」にきました、前回にもふれましたが、慶安2年(1649)熱田新田干拓後自然にできた道路で、此処の北東「尾頭橋」からくねくねと続く街道です。
町名「明正1」に来て、29,30,31,32,33番割観音堂です。この通り(街道)は、慶安2年(1649)熱田新田干拓が行われた後、新田の北側に自然にできたくねくねの曲がった道路で、「百曲街道」ということです。
いくつか観音堂をまわり、町名「明正1」でちいさな用水に架かる「西亥橋」にでました、その用水に小さな水門がありました。
20番割観音堂から、西に小碓1に来て「26・27・28番割観音堂」です、この辺り6か所にある「観音堂」の一つです。