前の記事では「筑紫君薩夜馬」達の収容されていた場所として「唐国内」ではなかったかという可能性について考えてみたわけですが、「朝鮮半島」のどこかに「収容」されていたのではないかと考える余地もあると思われます。
「百済」をめぐる戦いで「捕虜」になり、そのまま「唐」に連行された人達がいたことは、「慶雲年間」などに「釈放」されて帰国した人達の記録があることからも確認できます。
「続日本紀」
「(慶雲)四年(七〇七年)五月癸亥条」「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作。歴卌餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。」
彼ら「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。」は(「等」とされていますから、まだ他にもいたのかも知れません)「捕虜」になった後「唐」に連行され、そのまま「」に身を「没」していたものです。この「」とは、「唐制」では「官」の一種であり「官」より少々ましな程度の存在です。しかし、本来「戦争捕虜」は「官」として遇されるのが通常であったと思われますから、彼等はそれなりに良い待遇であったとも言えます。「官」ではなく「」の場合は「長年月」経過して「老年」に達した場合、「良民」として解放される場合もあったからです。彼らもこの例に漏れず、「解放」されたものでしょう。
また、「天武紀」にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。
「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」
彼らの場合も「没大唐」とされていますから、「七〇四年」の帰国者と同様「唐」で「」とされていたと考えられます。この時の彼ら「猪使連子首。筑紫三宅連得許」も「老年」となったため「恩赦」があり、解放されることとなっていたものでしょう。
更に「持統紀」にも捕虜の帰国記事があります。
「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人絁四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」
ここで「唐」で「捕虜」になっていたと思われる「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」の二人について、冠位を授けると共に「褒賞」を与えていますが、彼等がどのようにして帰国できたのかについては詳細が記されていません。しかし、その前年の九月に「遣新羅使」が発せられた記事があります。
「(持統)九年(六九五年)秋七月丙午朔辛未条」「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。務大貳伊吉連博徳等物。各有差。」
「(同月)庚戌条」「小野朝臣毛野等發向新羅。」
この「遣新羅使」については「帰国」記事がなく、いつ帰国したのかが明確ではありませんが、翌年の「四月」に「元捕虜」であった彼等の帰国記事があるわけですから、彼等はこの「遣新羅使」の帰国に伴ってきたものという推定も出来るでしょう。
つまり、彼等も「」として没されていたと思われ、解放された後自力で「新羅」までは帰国途中であったものと思われるものです。
「博麻」の場合も「大唐學問僧智宗 義徳 淨願」と同行して帰国したこととなっており、また「從新羅送使大奈末金高訓等 還至筑紫」とあって、「天武紀」の場合と同様「新羅送使」により送り届けられているようです。
これら一連の「元捕虜」の帰国記事から見て、確かに「博麻」がそれまで「唐」に滞在していたと考える事はかなり有力でありそうです。しかし、もし「博麻」達が「唐」に連れて行かれて「」ないしは「官」という立場となったとすると、この場合は「逃亡」(特に国外への逃亡)はかなり困難であったと思われ、「博麻」が「身を売る」という行為そのものが不可能であったという可能性が高いでしょう。まして、それが可能であったとしても「唐国内」から脱出することはとても無理であったと思われます。
また結果的に「博麻」は「身を売った」とされていますが、三十年経過の後に釈放されて帰国しています。この釈放は上で見た「続日本紀」の「刀良」等などとは当然異なるものです。「刀良」は「身を売った」わけではありませんし、釈放されたのは「長年月」年月経過して「老年」に達したための一種の「恩赦」のようなものであったと思われのに対して、「博麻」の場合は明らかに「仲間の帰国費用」という「債務」を負い、その返済のために必要な期間「労働」に従事したものであり、その期間が過ぎ「返済」が完了したことから「解放」されたと言うことと考えられ、この二つは明らかにその「性質」が異なるものといえます。
この「博麻」の場合は「律令」に言う「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。「役身折酬」とは「養老令」(「雑令」)で定められているものであり、「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。
(以下「養老令」雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」
(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」
ここで書かれたような「債務返済」の一方法としての「役身折酬」というような規定を「博麻」達が知っており、それを自らに「適用」しようとしたのではないかと考えられます。(これは彼等に「律令」の知識があったことを示しており、この「六六〇年代」において「倭国」に「律令」が施行されていたことを「示唆」するものでもあります。)
彼らはこれを「抑留」されていた場所で行おうとしたものであり、これは彼らが「官」や「」という立場ではなかったことを示しているでしょう。元々このような返済方法は「良民」(自由民)にしか許されておらず、「官」のような立場にいる人間には、そのようなことは不可能であったでしょうし、そのようなことを考えるという「発想」がなかったものと思われます。
つまり「唐」に連行され、「」ないし「官」などという立場に「落とされた」人間が、更に「債務」を負い、そのために「労働」で返済しようというのは、基本的には「無理」な話であると思われます。
この事からの推論として、「彼等」は「唐」国内において「」でも「官」でもなかったこととなり、「自由民」として存在していたと推定されることとなります。そのようなことが「戦争捕虜」にありえたのでしょうか。そうは考えられません。
そもそも「唐」国内では人身売買ができなかったと考えられます。「唐」で自分の身を売ったとすると、買ったのは「唐人」である可能性が高いわけですが、「唐律」では「人身売買」は「死罪」とされていました。「人」を掠(かすめる・さらう)し、掠売し、和売して「」と成したものは「死罪」、とされていたのです。また、それを買ったものについても「別」に「罪」が決められており、「唐律」では「良人」を「」としては買えないこととなっていました。
確かに彼等は「戦争捕虜」であって、「良人」でないのは確かですが、だからといって自由に「売買」ができたとは考えられないわけです。というより「戦争捕虜」だからこそ自由には売買できなかったと思われるわけです。戦争は国家対国家で行われたものであり、「戦争捕虜」の「所有」は「国家」に帰するものと考えられます。しかも、戦争終結に当たっては往々にして「捕虜同士の交換」などの「戦後処理」が行われるなど、外交活動の道具ともなるものです。
彼等が収容されていた場所が「唐」国内であったとした場合は、一応「軍」の監視下にあったはずであり、そのような人間である立場の者を「買った」人物がいたとしたらまた不思議です。少なくとも、「唐」において、自分の身を売るとしても「買い手」が付かない可能性が高いと思われます。(そのような「リスク」を犯す意味がないと思われます)
しかし「」や「官」であったとすると「良人」ではありませんが、それは別の意味で売買はできないわけですから、いずれにしろ「博麻」が「身を売る」ということは「唐国内」ではできなかったという可能性が高いものと思料します。
「持統の詔」に現れた彼等は割合自由に活動していたと思われ、「衣糧無きにより」とされていることから、逆に「衣糧」さえあれば帰ってくることが可能であると彼等が認識していたことを示すものですが、更に、彼等を「買う」というものがいたと言うことなどを総合すると彼等が収容されていた場所は「唐」の国内ではなく、「彼等」が「唐」の国まで連れて行かれたわけではないことを示しているとも思えるものです。
次稿では「半島」で収容されていた可能性について引き続き検討してみます。
(続く)