古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩耶麻達」の捕囚場所と「氷連老人」について

2013年10月14日 | 古代史

  「冰連老人」という人物については、「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと見るべきと考察したわけですが、それに対して「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの間には一見「矛盾」があるように見えます。それについて考えてみます。

 「博麻」「薩夜麻」などは「兵士」であり「将軍」であったわけですが、それに対し「冰連老人」は「遣唐使」であったはずです。その彼が同じ場所に「収容」されているわけですが、「冰連老人」」がもし「唐国内」にいたとすると当時「倭国」や「百済」と戦いになった時点で「倭国」などから派遣されていた人達を「収容」していたと言うこととなります。(太平洋戦争当時のアメリカにおける日系人の「強制収容」と似ています)果たして、このようなことがあったのでしょうか。
 「唐」側資料を渉猟しましたが、戦争の相手国からの「使人」や「学生」あるいは「諸蕃」の「子弟」を「充てていた」とされる「宿営」などについて「拘束」したとか「収容した」というような資料は見あたりませんでした。(本国に送還したという記事ならありましたが。)
 この事から、この時「唐国内」において「倭国」の「人間」を「拘束」したというような積極的な事実はなかったと推定されることとなります。
 「百済」が滅亡した時点で「遣唐使」も解放されているわけですし、それ以降「再度」拘束するという事態(状況)の変化も特に感じられないものであり、(「唐」の立場としては、既に残党の掃討戦の形となっていたと推定されます)そうなると「冰連老人」は「唐」で「拘束」されていたわけではないこととなりますから、彼は「遣唐学生」の立場から「自分の意志で」「旧百済」の地で「対唐戦」に加わり、「捕虜」となったということと考えざるを得ません。

 この「冰連老人」の派遣は「白雉四年」(六五三年)に行われたものであり、「新羅」との間に緊張が走り、また「高句麗」と「百済」の間に結ばれた「麗済同盟」の活発化により、その「新羅」と「唐」との間が急接近している時期でした。
 また「倭国」としてはすでに「六三二年」という時点以降「唐」との正式な外交関係が途絶している状態でした。このため、「六四七年」(常色元年)に即位した「倭国王」は「唐」との正式な外交関係確立を目指し、そのために「新羅」を懐柔する作戦を立てたわけです。しかし、意に反し「新羅」は「唐」との関係を強化する方向で動き出し、「倭国」にとっては「橋渡し」の役を果たさなくなってしまいました。
 「六五一年」には「新羅」からの使者を追い返す事件が発生した事もあり(「新羅」の服を捨て「唐」の服を採用したことに激怒した)、直接「唐」との間の関係を正常化する目的で「遣唐使」を派遣したものと考えられます。
 このような時点での派遣は多分に「政治的」なものであったはずであり、彼ら派遣された「学生」「学問僧」などの中には「純粋」に「唐」の制度や「仏教」などを学ぶ者達以外に、「ロビイスト」的活動をその中に含んでいた者もいたと思われます。
 派遣された彼らは「唐」の都で過ごすこととなったわけですが、その間学業に励みつつ、それを兼ねて「情報収集」などの仕事を行っていたものと思われます。そして、更に「半島」の緊張状態が極限に達しようと言う時に、最後の切り札的に「倭国」から「六五九年」の遣唐使が派遣されたものと考えられます。
 この時の遣唐使団には「蝦夷国」の使者が同行しています。これは実は「唐」に対する「示威行動」でもあったと考えられます。すなわち「蝦夷」という「唐」から見て「絶域」中の「絶域」とも言うべき場所さえも「支配」している、という「統治領域」の「広大さ」を誇示することにより、唐に対し「抑止力」としての効果を期待したものではないでしょうか。
 「倭国」としては「唐」など歴代の中国との交渉は長いわけであり、「倭国」の「領域」も既に「隋」までの関係の中でおよそ明らかになっています。しかし、「百済」をめぐる情勢が緊迫してくると、「倭国」に何らかの軍事的影響が及ぶ可能性が出て来たわけであり、国内では「副都遷都」を含め、各種の「防衛策」を講じていたものですが、「隼人」「蝦夷」についてもこれを「服属」させると共に、その事実を「唐」に「披見」する事で、「倭国」の「実力」と「版図」の広さを改めてアピールし、その事により「唐」に対し「軍」を派遣するなどの「行為」を抑制させるための「抑止力」として機能させることにしたものと推察されます。
 この時の「遣唐使団」の構成人員の中には以上のような情勢を踏まえて「学生」や「僧」と称しつつ「軍事情報」に関する収拾活動を行う「任務」のものなどもいたと考えられ、そのような中に「唐軍」の動向を探るために「唐軍」の動きに合わせ「百済」へ移動していた「冰連老人」などがいたという可能性もあるのではないでしょうか。
 そして、その時点で「百済を救う役」が「勃発」し、参戦した「倭国軍」の中に「薩夜麻」や「博麻」がおり、彼等と共に「捕囚」となったとすると、「遣唐使」として送られた人物と「百済」に参戦した「薩夜麻」達が同居している「事実」の説明になると思われます。

 ところで、「薩夜麻」はその後解放されましたが、「冰連老人」が同時に解放されたのかどうかは不明です。彼はその後「七〇四年」の遣唐使船で戻るまで「唐」国内に居続けたと見られ、(これについてはべに述べます)「博麻」や「薩耶麻」達が帰国したあとも「冰連老人」だけが帰国しなかったかあるいはできなかったということも考えられます。
 もちろん、それは「本来」の業務である「勉学」に努めるという意味もあったかもしれません。あるいは、引き続き「残留」して「唐軍」等についての軍事情報を収集すべきという命令が(薩夜麻から)与えられたという可能性もあり得ると思われます。彼はそもそも「軍事情報」を収拾するのが役割であった可能性があり、そうであれば、その「業務」を貫徹する様に指示が出たのかもしれません。
 またそれを口実として帰国を許可されなかったという可能性も考えられ、それは一種の「口止め」が行われたのではないかと思料します。この点については「大伴部博麻」の帰国が「六九〇年」という段階まで遅れた理由と同一ではないかと考えられ、彼も帰国が許可されなかったという可能性があります。

次は「大伴部博麻」の帰国が「30年」もかかった理由について考えます。

(続く)

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