古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「三十四年遡上」について

2013年10月16日 | 古代史

 「正木氏」の「三十四年遡上研究」について私見を披露しようと思います。以下の点についてはかなり以前から考えていたものであり、疑問としていたものでもあります。

 この「三十四年遡上」研究は、そもそも「古田氏」の研究に端を発しているものです。
 「古田氏」はその著「壬申大乱」において「持統」の吉野行幸の日程記事の中に「不審」な「日付干支」があることを発見し、その「日付干支」が存在しうる年月を調査した結果、「三十四年前」の同月にそれが存在している事を知り、そのことから「持統行幸」記事の全体が「三十四年移動」されているのではないかという考えに至ったものです。
(以下「書紀」の当該記事の周辺)

「(持統)八年(六九四年)夏四月甲寅朔戊午。以淨大肆贈筑紫大宰率河内王。并賜賻物。
庚申。幸吉野宮。
丙寅。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
丁亥。天皇至自吉野宮。
庚午。贈律師道光賻物。
五月癸未朔戊子。饗公卿大夫於内裏。」

 ここで「吉野宮」から戻った「日付干支」として書かれている「丁亥」がこの年の四月に存在していなかったということから、研究が始まったわけであり、その結果「三十四年遡上」した「六六〇年」の「四月」の記事がここに移動されているという推定に達したというわけです。
 「正木氏」はこの研究に触発されて、「持統」の「吉野行幸記事」以外にそれと同様な例を捜された結果、「孝徳天皇」の「葬儀記事」が「天武紀」に書かれた「天武」の葬儀記事へと移動されていると考えられる例や「持統紀」と「斉明紀」の双方の「蝦夷記事」において、登場する「蝦夷」の人数が一致するとみられる例等を発見され、さらに追加としての例を「難波副都」関係の記事に見い出したものであり、その「副都制」の「詔」についてそれが「天武朝」に出されたとすると重大な「矛盾」であることを指摘した上で、「三十四年遡上」により「孝徳紀」に書かれた「難波宮殿」関係記事と非常に良く整合すると云うことを論究されたものです。
 これらの研究により提出された理解により、「天武紀」から「持統紀」にかけての多くの記事で「三十四年遡上」という重大な「改定」が「書紀」の編纂過程において行われたと見られるようになり、「書紀」の「編纂過程」とその構成の理解において重要な段階に至ったものと考えられるようになったものです。

 しかし、この「契機」となった「古田氏」の研究を検証すると、それは「不完全」のそしりを免れないと思われます。
 「丁亥」という日付を求めて「三十四年」遡上した「六五〇年」なら「四月」にそれが存在するとしたわけですが、その場合「同じ月」の日付として書かれている干支である「戊午」「庚申」「丙寅」「庚午」は全てこの月に存在できなくなってしまいます。つまり「吉野宮」からの帰還日である「丁亥」だけが「三十四年遡上する」と言うことになるわけですが、そのような想定は「恣意的」ではないでしょうか。また、もしそのような記事移動が行われていたとすると、「庚午」の後ろに配置しそうなものだとも思われます。(干支の並び順では「庚午」よりも番号が後ですから)
 このような場合整合する月を探すのであればそこに書かれた日付干支が全てその月内に収まるような年次を探すべきではないかと考えられ、方法論として片手落ちであるといえるでしょう。(このような月を探すと(683年)であるという記述をしていましたが、錯誤によるものなので削除します)
 しかし、実際的な話をするとこの「丁亥」は「丙寅」と「庚午」に挟まれるように書かれていますから、「丁卯」の書き間違いである可能性の方がよほど高いと思料します。ちなみにこのような「日付干支」の書き間違いは『書紀』内にかなりの数が確認されており、ここだけの話ではありません。しかし、ここでは、「丁卯」の「書き間違い」ではないという積極的な証明のようなものは何も行われていないのです。
 つまりこれは「正木氏」の基礎となっている「古田氏」の「三十四年遡上」というものが本当にあったのかという点で既に疑わしいものであり、そうであれば、それを補強するかのように次々と書かれた「正木氏」による事例も当然、同様に疑わしいと言わざるを得ないものとなるでしょう。
 ただし、「正木氏」の説は既に「古田氏」の説を越えて広がっていますので、これを逐一検証する必要があるのは当然です。
 以下に「正木氏」より提示された「三十四年遡上」の例を挙げて検証してみます。

 「正木氏」の「三十四年遡上」研究において特に「整合性」の高い例と考えられるのは(私見ですが)「蝦夷朝貢記事」において「斉明紀」と「持統紀」でその人数が一致しているという例です。
 以下「持統紀」の「蝦夷」関連記事を挙げます。

「持統二年(六八八)冬十一月己未(五日)条」「蝦夷百九十余人、負荷調賦而誄焉」
「同年十二月乙酉朔丙申(十八日)条」「饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下。仍授冠位、賜物各有差。」
「持統三年(六八九)一月丙辰(三日)条」「詔曰…務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折、請剔鬢髪為沙門。詔曰麻呂等少而閑雅寡欲。遂至於此蔬食持戒。可随所請出家修道。庚申宴公卿賜袍袴。」
「同年一月壬戌(九日)条」「詔出雲国司、上送遭値風浪蕃人。是日賜越蝦夷沙門道信、仏像一躯、灌頂幡・鍾鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具。」

 一方、「斉明紀」の方は、「斉明元年」に以下の記事があります。

「斉明元年(六五五)秋七月己巳朔己卯(十一日)条」「於難波朝、饗北(北は越)蝦夷九十九人、東(東は陸奥)蝦夷九十五人。并設百済調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。…
是歳、高麗・百済・新羅、並遣使進調。百済大使西部達率余宜受、副使東部恩率調信仁、凡一百余人。蝦夷・隼人、率衆内属。詣闕朝献。」

 これを見ると、まず「持統紀」の蝦夷の人数(「百九十余」人)と「斉明紀」の「越の蝦夷」「九十九」人+「陸奥の蝦夷」「九十五」人、つまり合計で「一九四」人が整合しているように見えるのがわかります。ここで「正木氏」はまず「斉明紀」における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」を上の「一九四人」とは「別」と見なして加算し合計「二〇九人」としています。さらに「持統紀」記事においてこの「二〇九人」に更に「城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折」という部分から「四人分」を弾き出して(「脂利」「古男」「麻呂」「鉄折」という「四人」であると推定し)、その結果「二〇九人」にさらにこの「四人」を足して「二一三」人という数字をはじき出している訳です。
 問題となるのはこのこの加算された人数でしょう。文脈上「斉明紀」における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」は即座に「一九四人」とは「別」とは即断できません。というより「饗」の場で「冠位」が与えられたとすると彼らはこの「一九四人」に含まれていた可能性の方が強いでしょう。これら集まった(集められた)「蝦夷」の人達の中心的のメンバーを選抜して「冠位」を授与したと考えるのが相当と思われます。つまりこの「斉明紀」の「蝦夷」の人数はこれが最大であったと考えるべきでしょう。

 また「持統紀」に出てくる「務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という部分は、「四人」と考えるのは明らかに不自然と思われます。ここは「麻呂」と「鉄折」の「二人」ではないでしょうか。
 この文には冒頭に「務大肆」という冠位が書かれており、これが明らかに最初に書かれている人物である「城養蝦夷脂利古」にかかると思われますから、「城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という文章は単に「沙門」になる人物を並列表記しているのではなく、あくまでも「冠位」を授与されている人物としての「城養蝦夷脂利古」の子供達についての記事であると考えざるを得ないものです。それを示すように「詔」の中でも「麻呂等」と表現されており、「脂利」から始まる文章でありながら彼の名前は書かれていません。これは「脂利古男」の部分は通常の解釈通り「脂利古」の「息子」という意味しかないことを示すものと思われます。(冠位を授与されていることから、彼については名前を和人らしく改名したということも考えられます)
 また特に「父親」の名が書かれているのは彼が「務大肆」という冠位を持っているからであると思われます。
 この「務大肆」という冠位はかなり高いものであり、誰でも授けられるわけではありません。
 たとえば「那須値韋提」の「碑文」では「追大壱」を授けられたことを「栄誉」としていることが判ります。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜…」

 この「碑文」解釈は複数ありますが、いずれにしても「国造」や「評督」という職掌を与えられながら、冠位としては「追大壱(壹)」程度しか授与されていないこととなります。
 このように「地方」の官にとって(初めての)冠位授与ではせいぜい「追冠位」までが極限であったと見られますが、「務大肆」を与えられたとすると「異例」のこととなるでしょう。
 「その身」を「売って」「薩耶馬」達の旅費を稼いだとされる「大伴部博麻」については、特に厚く褒賞されていますが、その彼には「務大肆」が授与されています。そのように特別の功労でもなければ授与されない性質の冠位であったと思われます。
 つまり「脂利古」の冠位が「務大肆」であるのは「特進」であると思われ、彼の存在が「対蝦夷」戦略上重要であるという意識があった事を示すと思われます。彼の息子達が「沙門」となるという記事において、彼の名前が(特に)出される意義もそこにあったと思われるものです。つまり「麻呂」と「鉄折」は単なる一介の「蝦夷」ではなく「務大肆」を授けられた「脂利古」の息子であったものであり、これによって「蝦夷」の「朝廷」への「服従」が「脂利古」段階だけではなく、それが「息子」達に継承されることとなったことが重要な意味を持っていると考えられたのではないでしょうか。そう考えると「脂利古男麻呂與鉄折」の部分を「四名」が表記されていると考えるのは少なくとも「不自然」であると言えると思われます。
 ただし、彼が「特進」であるというのは「斉明紀」記事に「冠位二階」と書いてあることとは一見符合しているように見えます。つまり「斉明紀」段階で「務大肆」に「二階」特進したとすると「追大壱」からと言うこととなりますから、当初冠位としては不自然ではないこととなりそうですが、しかし、これも「蝦夷」に対しては「戦略的理由」により常に「特進」で臨んだとも考えられますから根拠とはなりにくいものです。
 さらに、「持統紀」記事では「越蝦夷」である「沙門道信」に対して「仏像」などが下賜されていますから、この時の「蝦夷百九十余人」ないし「饗蝦夷男女二百一十三人」という中に彼がいたことは確実であり、それはこの時の「蝦夷」というものが「越」と「陸奥」の混成であったことが窺えるものですから、その点において「斉明紀」とは重なるもといえますが、そもそも基本的に「倭国王権」が始めに「城柵」を置いたのは「越」の地であり、この地域がまず「馴化」の対象となったと見られます。その後「陸奥」についても「城柵」が設けられるなどの政策が遂行されたものであり、そうであれば「倭国王」の死去という事態に対しての「弔意」を示す者達について、「越」の「蝦夷」がその中にいなかったとすると、逆に不自然とも言えるものと思われます。
 これらのことから「蝦夷」の人数が高い精度で一致するとはいえないこととなるでしょう。
 他にも「八色の姓」「僧尼の一致」などの例が挙げられているもののそれらは「三十四年」という年数にそれほどの根拠があるわけではないと思われます。
 では「三十四年遡上」というのは「空理空論」なのでしょうか。ところが、そうは思えない部分もあると思われるのです。それを「次回以降」述べたいと思います。

(続く)

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