前回は「大隅」地域に「評制」が「薩摩」「肥」に先行して適用されていて当然と考えられることを示しましたが、しかし「続日本紀」によれば「大隅国」の設置はかなり遅れた時期のこととして書かれています。
「(和銅)六年(七一三年)夏四月乙未条」「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶良四郡。始置大隅國。」
ここでは「八世紀」に入ってから(ようやく)「大隅国」ができたように書かれている訳ですが、上に見た「大隅隼人」に対する対応からは、「大隅国」というものの成立が実はもっと早かったとしても別に不思議ではないこととなります。
これに関連して「正木氏」は「続日本紀」中に「大隅国」を設置するために必要な「論奏」記事が見あたらないことを受けて「抹殺」されたとされ、「九州王朝」の終焉と関連して語られました。
確かに「養老令」(公式令)によれば「国」を新たに設置する場合など重要な事案については「大臣」以下の論議を経て奏上されなければならないとされており、「大隅国」に関してはそれに関する記事が欠けているのは事実です。しかし、それは同時に「設置」されたという「美作」「丹後」にも共通するものであり「大隅」だけのことではありません。これらの国々についても「論奏」は行われていないのです。
これについては私見によれば「大隅国」の成立というものの持つ意味あるいは事情というものも、「美作」「丹後」などと同様であったと思われ、もっぱら「実生活」上の利便性の点からのものであったと考えられます。それは「出羽国」の場合とは決定的に状況が異なるものと考えられるものです。
「出羽国」の場合、「蝦夷」などの対外勢力に対する拠点作りをするという趣旨の「論奏」により建てられたことが明記されており、あくまでも「軍事的」事情によると考えられ、全くその経緯が異なると思われます。
(以下「出羽国」設置の論奏)
「(和銅)五年(七一二年)九月己丑条」「太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。奏可之。於是始置出羽國。」
更にこの「出羽国設置」記事をよく見ると、全く新規に「国」を造るというわけであるのに対して、「大隅」(及び共に造られた「丹後」と「美作」)については「分国」であるとされます。「丹後」の場合は「丹波国」から「五郡」を分割したものであり、「美作」の場合は「備前国」から「六郡」を割いたものです。これらと同様「大隅国」の場合も「日向国」から「四郡」を分割して出来たものであって、その点でも「出羽国」とは全く状況が異なっています。
分割される前の「備前」「丹波」は無論「倭国」にとって旧来からの「安定地域」であり、国境紛争などの問題がありませんでした。それは分割される前の「日向国」についても同様ではなかったかと考えられ、「大隅地域」に紛争があると言うような事情は窺えないものです。
そもそも、「公式令」に規定されているにも関わらず、このような「論奏」が行われて成立したと「続日本紀」に書かれているのは「管見」する限り「出羽国」だけであり、この例がかなり特殊な事情によるものであったことが推測されます。
「蝦夷」と境を接するような東北の「紛争地域」という特殊事情がそこにあったものと見なければならず、そのような地域や事情がない限り、基本的には「国」の設置は即座に「分国」となるわけであり、それが特に軍事的に重要であるとか、地域紛争を招くような事情がなく、反対意見等がない限り、議論にもならなかったと考えられ、そのため「論奏記事」そのものが「続日本紀」中に見られないということとなったのではないかと考えられます。
この「大隅国」(となる地域)が「安定地域」であったという結論は、「書紀」の「大隅」「阿多」の隼人記事を見ても首肯できるものであり、その「帰順」が早期に行われたとすると「戦い」は必要ではないこととなり、そのため「論奏記事」がないということとなったと考えられるのではないでしょうか。
また、「大隅国」に当たる地域が「安定地域」であり「紛争」がなかったと考えられることは即座に、その「大隅国」の成立そのものがもっと早期のことであったのではないかという先の推測が的を得ている可能性も考えられます。
それを窺わせるのが上の「和銅六年記事」に相当する「日本帝皇年代記」の記事です。「続日本紀」記事では「丹波」と「丹後国」「美作国」と並んで「大隅国」が作られたと書かれていますが、「日本帝皇年代記」の「癸丑(和銅)六」年記事では(以下に見るように)「丹後国」と「美作国」の成立についてしか書かれていません。(但し「丹後国」のために割譲された郡の数が異なりますが)
「癸丑六割備前六郡始為美作国、割丹波六郡為丹後也、唐玄宗開元元年 稲荷大明神始顕現」
つまり「大隅国」成立については触れられていないのです。このことは「続日本紀」の「大隅国」成立記事が真実か疑わしいこととならざるを得ないと思われます。
以上のことから、「大隅」に「評制」が施行されていないというのははなはだ考えにくいこととなります。
「評制」が施行されているとすると、その「評」は「国」の下部組織であるわけですから、その時点における「大隅国」というものの存在が強く示唆されることとなるでしょう。これらのことから「大隅国」の成立はもっと早期の時点を想定すべきこととなると思われ、「忌寸」ないしはそれ以前の「直」等の「カバネ」を付与した段階が想定されるものであり、その意味からも「斉明紀」記事の信憑性が高いものと思料します。
(続く)