古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」の施行時期について(四)

2013年10月10日 | 古代史

 各種の史料を見ても、「孝徳朝」或いは「難波朝廷」「難波長柄豊前大宮御宇」という名目の元に「評制」が施行されたらしいことはほぼ確実となっています。それは疑う余地がありません。この事から(例えば「古賀氏」は)「七世紀半ば」に「評制」が施行されたとするわけです。しかし、このような「難波朝廷=七世紀半ば」とする考え方には、「実は」確たるものがないと思えます。
 意外に思うかも知れませんが、実際問題としては「孝徳朝」が「七世紀半ば」であるという「証明」はどこにもないのです。もちろん「書紀」「続日本紀」等にも「絶対年代」は書かれていません。
 各種史料に表されているのは「干支」と「九州年号」或いは「近畿王権」の年号だけなのです。ですから、「年次移動」は割と簡単に行えます。(「書紀」などの編集段階での話ですが)
 煎じ詰めて言うと「正木氏」の「三十四年遡上研究」もそれが成立する余地は「絶対年代」が書かれていないという一点にあります。年次を動かして考えられるのは、記事自体がそのような性質を元々持っているからです。
 これは「年輪年代測定」など「絶対年代」を特定できる、或いは狭い範囲に追い込める精度の高い測定法によってのみその記事の信頼性を担保できるのであり、それ以外では結局の所、年次を特定する、或いは「絶対視」することは決して出来ないことと考えます。「瓦編年」や「土器(須恵器)編年」では、どこかで「書紀」と「リンク」して考えていますから、完全に「書紀」「続日本紀」から「フリー」となるような方法論を駆使しなければ、従来の観念から逃れることは出来ないと思われます。
 例えば「古賀氏」のブログの中にもそのような「呪縛」ともいえる部分が垣間見えます。

「…次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立時期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。…」(古賀達也の洛中洛外日記 第601話 2013/09/29「文字史料による「評」論(3)」)

 ここには「『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。」と書かれており、「難波朝廷」が「七世紀中頃」であるということが(遺憾ながら)「無批判」に認定されています。(一種の「思い込み」と思われます)
 しかし、「天武」「持統」の両年紀に移動の可能性が指摘されているのに、「孝徳紀」が無傷であるとアプリオリには断定できないはずです。
 また、「難波朝廷」という言い方或いは「名称」は「九州王朝」という観念に附属していると考えるべきと思われます。なぜなら「難波朝廷」は「九州王朝」の「副都」とされているのですから。そうであれば各種史料(例えば「皇太神宮儀式帳」など)に「難波朝廷」と出てくるものについては「書紀」と切り離して考えるべきであり、「難波朝廷」が「七世紀半ば」のことなのかどうかは「書紀」の記述にかかわらず別途証明が必要な事項と考えます。
 少なくとも、「難波朝廷」を「七世紀半ば」とする「決定的証拠」はないこととならざるを得ません。というより、そのような点に着目して「書紀」等の史書の記事を眺めてみると、逆に「難波朝廷」が「七世紀半ば」ではない、という「徴証」或いは「傍証」が多く得られるのを確認できます。

 もっとも、当初私はある「間違い」を犯していました。それは「評制」と「五十戸制」の前後関係についてです。
 それまでは、「軍制」と「五十戸制」に強い関連があることと「軍制」の制度制定は「七世紀半ば」であろうという考えから(これは「唐」「新羅」との関係悪化を想定したものと見た)、「五十戸制」の導入は「七世紀半ば」であったろうと考えました。すると「七世紀半ば」とされる「評制」と同時と言うことになって「整合する」という結論となったものです。しかし、その後「五十戸制」と「評制」は同時に導入されたものではないと考えるようになりました。なぜなら「五十戸制」は「隋・唐」にありますが「評制」はないからです。
 明らかに「評」という制度はその淵源が「半島」にあったものであり、「隋・唐」にはなかったわけですから、その導入が「同時」と言うことはあり得ないだろうと考えるようになりました。そのため、一時は「評」は「五十戸制」に後出すると考えたのですが、それも間違いでした。
 「評制」は半島起源なのですから、「隋・唐」と交流を親密にするようになり「遣隋使・遣唐使」を送るようになって以降、それとは別に「半島」から「制度」を導入すると言う事は「ありえない」と考えなければならないことに気がついたのです。(でなければ「行政」の制度の趣旨が一貫しなくなるでしょう)
 そうであれば「評制」は「五十戸制」に「先行」すると考えざるを得ないこととなりました。その「五十戸制」が「七世紀初め」に「隋」から導入されたとすると、当然それ以前の時期に「評制」は導入されていなければなりません。つまり「六世紀末」ないし「七世紀初頭」という時期がもっとも蓋然性の高い時期と推定できるものとなったのです。
 それを推測させるのが「評木簡」です。既に見たように「評木簡」には「国名」がなく、「評名」から始まるものがあり、それが「初期型」らしいことが指摘されています。「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「広域行政体」としての「国」の成立というものが「七世紀初め」であるらしいことを考えると、「評」から始まる「初期型評木簡」の成立は、そのような「広域行政体」の成立前となりますから、「我姫」に各「国」が散在していた時期に同じであると考えざるを得なくなります。つまり、「我姫」に分立していた各「国」は、既にその時点で「評」であったのではないかと考えられる事となるわけです。
 このことは「隋書倭国伝」に言う「百二十人」いるという「軍尼」という存在も「評制」に関わるものであり、「評督」「評造」的な立場の人間であると考える必要があると言う事です。ただし、この時点では「階層的行政制度」としては未発達であったものであり、それ以降「広域行政体」としての「国」が再編成され、その時点で「国-評-村」という行政制度が確定したものと考えられます。これが「常陸国風土記」に書かれた内容であり、「七世紀初め」(第一四半期の終わり頃か)であると推量します。
 ただし、「諸国」ではなく「倭国」の本国では「隋制」に則り、「国縣制」が導入され、「郡」が廃止され「国」(州)の直下に「縣」があるという体制が構築されたものと見られます。「倭国」の本国では「先進的制度」が他に先んじて導入されたと見られ、「隋制」の導入はまず「倭国」の本国である「筑紫」を中心とした地域に適用されたものと見られます。

 このような思惟進行は先に見た「皇太神宮儀式帳」の「十郷分で屯倉を作り評督を置いた」という記事内容とも合致するものであり、この時点で「屯倉」が設置され、その監督役として「評督」「助督」などが配置されたものと見られます。
 このように「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「縣制」については一部理解不足でしたが、「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」という表記が「阿毎多利思北孤」を示すものであると言うことは正しかったものと考えています。

 
 「難波朝廷」や「孝徳天皇御世」という表現が「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」などを指すものと考えると「改新の詔」とそれと前後して出された各詔勅も同様に「六世紀末」から「七世紀初め」という時期に出されたと考えなければならないことを示すと思われます。そのような中に「薄葬令」に関するものがあります。
それについて次回述べることとします。

(続く)

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