古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「三十四年遡上」について(続き)

2013年10月21日 | 古代史

 前回は「斉明紀」と「持統紀」の「蝦夷関連記事」を比較して、「正木氏」の方法論ではそれが「同一の記事である」と言い切れないことを指摘した訳ですが、「三十四年遡上」研究のまな板に載せられた「持統」と「斉明」の「蝦夷関係」記事と同じ文脈の中に「隼人」記事が現れます。
 「蝦夷」関連記事から直接「三十四年遡上」するとは言えなくなった訳ですが、この「隼人」関連記事についてはどうでしょう。

 以下に「書紀」の中で現れる「隼人」記事の内「斉明紀」以降について書き出してみます。

(イ)斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。(百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。)蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及餐彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。

(ロ)天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
丙辰。多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。

(ハ)天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。

(二)「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。」

(ホ)「持統元年(六八七年)五月甲子朔乙酉条」「皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。於是隼人大隈阿多魁帥。各領己衆互進誄焉。」

(へ)秋七月癸亥朔辛未条」「賞賜隼人大隅。阿多魁帥等三百卅七人。各各有差。」

(ト)持統三年(六八九年)(中略)
壬戌。詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。是日。賜越蝦夷沙門道信佛像一躯。潅頂幡。鍾鉢各一口。五色綵各五尺。綿五屯。布一十端。鍬一十枚。鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等獻隼人一百七十四人。并布五十常。牛皮六枚。鹿皮五十枚。

(チ)持統九年(六九五年)(中略)
五月丁未朔己未。饗隼人大隅。
丁卯。觀隼人相撲於西槻下

このうち(イ)の「六五五年」記事では「内属」という用語が使用されています。この語はそれまで「倭国」の版図には入っていなかった領域が「倭国」に組み込まれたことを示すものですが、それはそれ以降の時期に「朝貢」記事があることと矛盾します。「朝貢」という用語は本来「皇帝」(天子)の統治領域の「外」からの貢献という意味であり、「朝貢」する国は言ってみれば「外国」です。ですから「朝貢」記事が「内属」記事に先行して当然のはずが「逆」になっているのです。
 従来これら「隼人」関連記事の中では「天武紀」(六八一年)記事が信頼の置ける最古のものであるとされており、これ以降「隼人」は「朝貢」をするようになったものであり、その後次第に「ヤマト王権」に組み込まれていくという文脈で語られることが多いのですが、そう考えざるを得なかったのは「朝貢」記事よりも、「内属」記事の方が「年次」的に先行している点が「不審」であったからだと思われます。つまり、それ以前の「隼人」記事については「潤色」であり、後代の「追記」ないしは「変改」であるとされているのです。例えば「履中記」における「墨江中王」関連記事(説話)などについても、それがその時代の事実ではないとされているわけです。
 そして、その根拠として出されているのが「日本版中華思想」というものであり、「倭国中央」(「近畿王権一元論者」達は「近畿」とする)を中心として周辺に「隼人」「蝦夷」が配置されるようになるのはそのような「思想」が顕在化した時点であり、それは「天武」の時代であるとされ、彼の時代に「天皇号使用」「律令制の開始」などが行われるようになることと関係しているというわけであり、そのためこれらの「隼人朝献」というような記事についても「天武朝」を想定する意見が多数であるわけです。
 また、「南九州」に多く残る「地下式横穴墓」(地下式土擴)についても、これが「隼人」の「墓」であるという考え方も以前はあったようですが、最近はそれも否定され、「隼人」と直接結びつくものではないとされることが多くなっていたようです。その理由として挙げられるもののひとつが上に見た「天武紀」以降が「隼人」の時間帯であるという考え方であり、「地下式横穴墓」は「考古学的」には、「五-六世紀」中心の遺構であり、どんなに下っても「七世紀半ば」であるとされていますから、歴史上の「時間帯」が食い違っていると考えられていたものです。
 しかし、(ハ)記事を見ると、「隼人」の有力者と思われる人物である「大隅直」に対して「忌寸」という「姓」が与えられています。ここで与えられた「忌寸」以前の姓である「直」は、そもそも「倭国中央」から見て「辺境」といえる地域の有力者に対して(半ば一方的に)「付与」される「姓」であったものであり、このような「姓」を与えることにより「倭国」は「辺境」を自らの「勢力下」に置くという政策を行っていたと思われます。彼はこの「直」を既に保有していたこととなるわけですが、それが「書紀」内に明記されていません。しかし、かなり以前から「直」を付与されていたものと見るべきですが、そうであれば、「斉明紀」の記事が一概に不審とは出来なくなると思われます。この記事の信頼性が高いとすると、「地下式横穴墓」も「隼人」の墓とみることも可能となるでしょう。つまり、仮に「隼人」が「内属」した時期が「七世紀の半ば」とすると、そのことと「地下式横穴墓」の消滅とが「関連している」と考えられることとなるでしょう。
 「地域」の代表者が「直」という称号を授かり「倭国」の版図の一部を形成するようになるということは、即座に「倭国体制」に組み込まれた事を意味しますし、そうであれば、その時期以降は「地下式横穴墓」形式の「墓」は顧みられなくなり、「円墳」などに取って代わられることになるでしょう。それも「自ら選んだ」と言うより、「選ばされた」ものと思料され、「五世紀」代の「近畿」以東における「前方後円墳」の強制と同様の事象が「南九州」で起こっていたと考えられる事となります。つまり「倭国」への編入、馴化というものが「斉明紀」代に起きたとした方が「考古学時状況」に合致するといえるでしょう。

 また、「大隅直」という「姓」を持った存在はまた、「大隅国」というものの形成を意味するものであったという可能性もあります。
 他の地域に於いても「直」や「忌寸」がいるところは、「倭国」の内部の「諸国」とし存在していたと考えられますから、少なくとも「忌寸」段階での「国」形成を想定することは可能であると思われます。そうであれば「評制」がこの段階で施行されたということも充分考えられることです。
 「続日本紀」によれば「大隅国」の成立はかなり後の事になるとされていますが、そのことについても批判的に摂取する必要があるでしょう。たとえば「続日本紀」には「薩摩」と「肥」の人々による「反抗」等に類することが起きたと書かれています。
 
 「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」

「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」
「同年」九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」

 ここでは「続日本紀」として始めて、「評」が姿を現しています。彼らが「評督」などであったのなら、必ず「国-評-里」という制度の中にあったはずであり、そのことはこの時点で「薩摩」「肥」という「国」が建てられていたことを示すものと思われます。
 ところで冒頭の記事の中には「大隅隼人」「阿多隼人」というのは出てくるものの、「薩摩」「肥」の「隼人」という存在は出て来ません。また「朝廷」で相撲を取るなどの記事内容を見ても、この「大隅」「阿多」の両隼人グループは早期から友好的であることが理解できます。つまり、「薩摩」(及び「肥」)とは異なり「大隅」「阿多」は「早期」に「倭国王権」に対して「帰順」したものと考えられるわけです。「持統紀」の「天武」の死に際しての誄にも「大隅」「阿多」は出てくるものの「薩摩」「肥」の「隼人」は葬儀に参列さえしていないことが判ります。しかし、その「薩摩」「肥」には「評督」「助督」が存在していたとが明らかなわけですから、「直」や「忌寸」などの「カバネ」を持った人物が(おそらく族長として)存在していた「大隅」に(及び「阿多」にも)「評督」がいなかったあるいは「評制」が施行されていなかったとはとても考えられないこととなるでしょう。
 次回は「大隅国」の成立について考察します。

(続く)

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