古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「黥面」の刑罰化について

2014年10月04日 | 古代史
 先に「一大率」の考察の際、「博多湾」に面する地域に「一大率」の拠点があったはずであり、その「一大率」について「倭人伝」では「常に伊都国に治す」と書かれている事から考えて、「博多湾岸」に「伊都国」の支配領域があったという考察をし、さらにその領域が後に「那の大津」というような呼称をされることとなったように「奴国」領域に編入されたらしいことを考察しましたが、それに関連して、「黥面」の記載の変化について考えて見ます。
 「隋書俀国伝」の中には「倭人」の「入れ墨」の風習に関する記述があります。

「男女多黥臂點面文身沒水捕魚」

 この書き方は「魏志倭人伝」の以下の記述を下敷きにしていると考えられそうですが、実は微妙に表現が異なります。

「男子無大小皆黥面文身。…文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

 ここでいう「黥」とはいわゆる「入れ墨」であり、皮膚表面に「線刻」の傷をつけた跡に「墨」や「黒土」などをすり込むものです。また「點」とは単に「点」を意味する語であり、「墨」や「黒土」などで「ホクロ」のように印をつけることを言うようですが、「黥」とは異なり「傷」をつけることはなく「消すことのできるもの」であったと見られます。
 さらに「文身」は「身体」のほぼ全部に針先などで傷をつけ、そこに「墨」や「色素」などをすり込んで「文様」を描き出すこととされます。
 これらを踏まえて考えてみると、「倭人伝」では「黥面」とされ「面」つまり顔に「入れ墨」がされているとしていますが、「俀国伝」では「面」は「點」とされ、これは「入れ墨」ではなく、消したり書き換えたりができるものと考えられます。

 これらのことは明らかにこの両者の記事はその内容が異なるものであり、「隋書俀国伝」は単に「倭人伝」など前史から記事を引用したのではなく、その時点の最新の風俗を記したものと見られます。それはこの記事が「遣隋使」が自ら語った内容をベースにしたものと考えられる事からも明らかであり、「六世紀末」の「倭国」における「入れ墨」という風習についてかなり確度の高い情報と考えられます。そうであれば、「倭人伝」の時代(三世紀半ば)からこの間三百年間ほど経過している事となりますが、その時間的経過の中で「黥面」に対する感覚の変化とともに「取り扱い」にも違いが生じることとなったと見られることとなります。
 年月が経過する内に事物に対する考え方や感覚が変化することは起きて当然ともいえるわけですが、この場合その変化の原因として最も考えられるのは「犯罪」に対する刑罰としての「黥面」の発生です。
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