「中国」では「釈奠」の際に祭祀を行う対象として「先聖先師」がありましたが、「唐」の時代には初代皇帝「李淵」(高祖)の時は「周公」と「孔子」が選ばれていました。しかし、「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。
これは以下にみるように「隋代」以前の「後斉」と同じであったので「旧に復した」こととなります。
(「隋書/志第四/禮儀四/釋奠」より)
「後齊制,新立學,必釋奠禮先聖先師,每歲春秋二仲,常行其禮。每月旦,祭酒領博士已下及國子諸學生已上,太學 、四門博士升堂,助教已下、 太學諸生階下,『拜孔揖顏。』日出行事而不至者,記之為一負。雨霑服則止。學生每十日給假,皆以丙日放之。『郡學則於坊內立孔顏廟,』博士已下,亦每月朝云。
これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものでした。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。
(「新唐書/志第五/禮樂五/五禮五/吉禮五/皇后親蠶[底本:北宋嘉祐十四行本]より )
「貞觀二年,左僕射房玄齡、博士朱子奢建言:「周公、尼父俱聖人,然釋奠於學,以夫子也。大業以前,皆孔丘為先聖,顏回為先師。」乃罷周公,升孔子為先聖,以顏回配。」
それが「永徽律令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなったものです。「高祖」時代への揺り戻しといえます。
(同上)
「永徽中,復以周公為先聖、孔子為先師,顏回、左丘明以降皆從祀。」
さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが奏上されたものです。ここで再び「太宗」の時代の制度に復したこととなります。
「(同上)
「顯慶二年,太尉長孫无忌等言:「禮:『釋奠于其先師。』若禮有高堂生,樂有制氏,詩有毛公,書有伏生。又禮:『始立學,釋奠于先聖。』鄭氏注:『若周公、孔子也。』故貞觀以夫子為聖,眾儒為先師。且周公作禮樂,當同王者之祀。」乃以周公配武王,而孔子為先聖。」
そしてこれがそれ以降定着したものです。
ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは「続日本紀」の大宝元年(七〇一)二月です。
「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」
ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、「養老令」の「学令」をみるとそれがはっきりします。そこでは「大学・国学毎年春秋二仲之月上丁に先聖孔宣父に釈奠す。其の饌酒、明衣須くする所並びに官物を用いよ」と規定されており、明らかに「先聖」が「孔子」「先師」が「顔回」であると見られます。これは上に見るように「顕慶二年」あるいは「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
また貞観二十一年の「許敬宗」の建議では、「(貞観)学令に大牢を以て祭り楽は軒懸を用い、六悄の舞並びに登歌一節大祭と相遇せば、改めて中丁を用いよ。州県は常に上丁を用い、学(楽ヵ)無し祭は少牢を用う」とあり、「大宝令」の中にあったと思われる「学令」の基本形は唐の「貞観令」にあったという可能性が考えられることとなります。(州県の例に準じたもの)
その「貞観律令」は「武徳律令」を改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。
(「舊唐書/志第三十/刑法[底本:清懼盈齋刻本]より)
「高祖初起義師於太原,即布大之令。百姓苦隋苛政,競來歸附。旬月之間,遂成帝業。既平京城,約法為十二條。及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。又制五十三條格,務在簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭瑀及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。至武七年五月奏上
この記述を見ると「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。このことから、「飛鳥浄御原律令」のスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
またそれは「続日本紀」の「大宝律令」制定記事において「…大略以淨御原朝庭爲准正。…」とあって、上の「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているアナロジーからも窺えるところです。つまり「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。
しかしなぜ「大宝令」と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。
この「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(「続日本紀」等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審が感じられます。
「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後これをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものではないかと思われます。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくい訳です。
それは「書記」編纂において「隋書」が重視されていること、また「隋」の「文帝」についてその「遺詔」を借用したり、「大興城」への遷都の詔を換骨奪胎するなど(元明紀)重要な意味を持つ皇帝と考えられていたことにつながります。これは何を意味するものでしょうか。
これは以下にみるように「隋代」以前の「後斉」と同じであったので「旧に復した」こととなります。
(「隋書/志第四/禮儀四/釋奠」より)
「後齊制,新立學,必釋奠禮先聖先師,每歲春秋二仲,常行其禮。每月旦,祭酒領博士已下及國子諸學生已上,太學 、四門博士升堂,助教已下、 太學諸生階下,『拜孔揖顏。』日出行事而不至者,記之為一負。雨霑服則止。學生每十日給假,皆以丙日放之。『郡學則於坊內立孔顏廟,』博士已下,亦每月朝云。
これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものでした。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。
(「新唐書/志第五/禮樂五/五禮五/吉禮五/皇后親蠶[底本:北宋嘉祐十四行本]より )
「貞觀二年,左僕射房玄齡、博士朱子奢建言:「周公、尼父俱聖人,然釋奠於學,以夫子也。大業以前,皆孔丘為先聖,顏回為先師。」乃罷周公,升孔子為先聖,以顏回配。」
それが「永徽律令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなったものです。「高祖」時代への揺り戻しといえます。
(同上)
「永徽中,復以周公為先聖、孔子為先師,顏回、左丘明以降皆從祀。」
さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが奏上されたものです。ここで再び「太宗」の時代の制度に復したこととなります。
「(同上)
「顯慶二年,太尉長孫无忌等言:「禮:『釋奠于其先師。』若禮有高堂生,樂有制氏,詩有毛公,書有伏生。又禮:『始立學,釋奠于先聖。』鄭氏注:『若周公、孔子也。』故貞觀以夫子為聖,眾儒為先師。且周公作禮樂,當同王者之祀。」乃以周公配武王,而孔子為先聖。」
そしてこれがそれ以降定着したものです。
ところで、日本で「釈奠」が最初に文献にあらわれるのは「続日本紀」の大宝元年(七〇一)二月です。
「(大宝元年)二月丁巳条」「釋奠。注釋奠之礼。於是始見矣。」
ここでは「先聖先師」が誰であるかは明らかではありませんが、「養老令」の「学令」をみるとそれがはっきりします。そこでは「大学・国学毎年春秋二仲之月上丁に先聖孔宣父に釈奠す。其の饌酒、明衣須くする所並びに官物を用いよ」と規定されており、明らかに「先聖」が「孔子」「先師」が「顔回」であると見られます。これは上に見るように「顕慶二年」あるいは「貞観二年」の制度と同じであり、また「隋代」以前とも同じです。
また貞観二十一年の「許敬宗」の建議では、「(貞観)学令に大牢を以て祭り楽は軒懸を用い、六悄の舞並びに登歌一節大祭と相遇せば、改めて中丁を用いよ。州県は常に上丁を用い、学(楽ヵ)無し祭は少牢を用う」とあり、「大宝令」の中にあったと思われる「学令」の基本形は唐の「貞観令」にあったという可能性が考えられることとなります。(州県の例に準じたもの)
その「貞観律令」は「武徳律令」を改変したものであり、またその「武徳律令」は「隋」の「大業律令」ではなくその前の「開皇律令」を「準」としたとされています。
(「舊唐書/志第三十/刑法[底本:清懼盈齋刻本]より)
「高祖初起義師於太原,即布大之令。百姓苦隋苛政,競來歸附。旬月之間,遂成帝業。既平京城,約法為十二條。及受禪,詔納言劉文靜與當朝通識之士,因開皇律令而損益之,盡削大業所用煩峻之法。又制五十三條格,務在簡,取便於時。尋又敕尚書左僕射裴寂、尚書右僕射蕭瑀及大理卿崔善為、給事中王敬業、中書舍人劉林甫顏師古王孝遠、州別駕靖延、太常丞丁孝烏、隋大理丞房軸、上將府參軍李桐客、太常博士徐上機等,撰定律令,『大略以開皇為準。』于時諸事始定,邊方尚梗,救時之弊,有所未暇,惟正五十三條格,入於新律,餘無所改。至武七年五月奏上
この記述を見ると「武徳律令」は「開皇律令」が原型であり、「大業律令」は「過酷」である(特に律で)として採用されていません。つまり「唐」の「高祖」は「開皇の治」と称された「文帝」の治世を「模範」としようとしていたものと考えられる訳です。このことから、「飛鳥浄御原律令」のスタンダードとなったのは「開皇律令」ではなかったかと推測されることとなるでしょう。
またそれは「続日本紀」の「大宝律令」制定記事において「…大略以淨御原朝庭爲准正。…」とあって、上の「武徳律令」の制定記事を換骨奪胎しているアナロジーからも窺えるところです。つまり「開皇」とあるところが「淨御原朝庭」とあって、「淨御原朝庭」の「律令」と「開皇」律令とが対応しているように配置されていることから推測できるものです。
しかしなぜ「大宝令」と「武徳律令」、「飛鳥浄御原律令」と「開皇律令」というようなモデルケースの組み合わせなのかが問題となることと思われます。
この「日本側」の律令と「隋・唐」の律令はその成立が(「続日本紀」等の日本側資料によれば)80年ほど離れているわけであり、そのような過去のものと対応させていることに不審が感じられます。
「遣隋使」や「遣唐使」の存在の意義から考えると、「隋」や「唐」から最新の制度・文化を吸収するつもりでいたはずであり、そうであれば「律令」という最重要なものについて「遣隋使」や「遣唐使」が帰国後これをすぐに応用しなかったとすると不審極まるものではないかと思われます。まして70年も80年も後になって応用したと云うことは考えにくい訳です。
それは「書記」編纂において「隋書」が重視されていること、また「隋」の「文帝」についてその「遺詔」を借用したり、「大興城」への遷都の詔を換骨奪胎するなど(元明紀)重要な意味を持つ皇帝と考えられていたことにつながります。これは何を意味するものでしょうか。