古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「續守言」「薩弘恪」の来倭の経緯についての私案

2014年10月18日 | 古代史
 既に述べたように「續守言」「薩弘恪」の二人は「百済」で捕虜となったとされていますが、それにしては「郭務宋」達の来倭以降も倭国に留まっている理由が不明と考えたわけです。彼らが「捕虜」であったなら当然解放されて「唐」へ帰還したはずですが、そうはなっていないのは不審と思えるものです。さらに彼らが編纂に関わったという「書紀」において「唐」の二代皇帝「太宗」の「諱」「李世民」の「世」も「民」もその使用が避けられていない事実があり、そのことから彼らは捕虜だったものではなく、「太宗」の存命中に既に倭国へ来ていたものではないかと推定したわけです。
 しかしそう考えた場合彼らはどのような経緯で倭国にやってきたものでしょうか。最も可能性があるのは「高表仁」の来倭(六三二年か)に同行したというものではないでしょうか。

 この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)しかしこの時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明であるわけですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書記(史生)など(状況によっては「軍関係者」も)総勢十数名はいたはずです。「隋代」の「裴世清」の来倭の際にも十数名が来たとされます。

「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)

 しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。
 「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。

 通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
 このときの判官はそれができなかったということになるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。(もっとも当然彼らは「高表仁」の説得を試みたと思われますが、彼は「隋」の高祖下の大臣クラスの地位(尚書左僕射)にあった「高熲」の息子であり、また「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻にしているという血筋の良さからプライドが高かったものと思われ、それを受け入れなかったものと思われます)
 そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたと云うことも考えられるでしょう。
 「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。

 「郭務宋」達は「戦争捕虜」の交換の交渉は行ったものと見られるわけですが、それ以前から倭国にいる「續守言」達については自ら望んで倭国に留まって二十年以上になるわけですから倭国での生活の方が重要となっていたと云うことが考えられ、本人達の意向を踏まえたものと思われます。(というより「續守言」達は結果的に敵国のメンバーの一人となってしまったわけであり、安易に唐へ帰国するとさらに別の責を問われるという可能性もあったでしょう。)彼らが「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなります。
 
 以上かなり恣意的な想定ではありますが、このような想定でもしなければ彼らの動向と「書紀」の「諱」に関する不審を説明できないのではないでしょうか。
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