「伊都国」について「倭国」の中では「伝統」と「権威」があった過去があり、それが衰退していく過程が「黥面」の刑罰化と関係していると考察したわけですが、その伊都国(および奴国)については「魏志倭人伝」に官名として特徴のあるものが確認できます。そこでは「觚」という文字が最後に使用されています。
「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『兕馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」
ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭国側」(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられます。
当然「倭国側」としては「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の「撰字」と思われ、「表意文字」として漢字が選ばれていると考えられます。
つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられます。またこの「觚」はそもそも「周代」などにそれで「酒」を飲み、その後「天子」と面会するという儀礼があったものであり、そのことから「伊都国」「奴国」でも同様に宮廷儀礼としてその「觚」で「酒」を飲んでいたという可能性もあるでしょう。
それに対して「邪馬壹国」や他の国の「官職名」は、明らかに「倭語」を漢字に写したものであり、「表音文字」として使用されていると思われます。
つまり、「伊都国」「奴国」は「漢字先進地域」であり、より中国の文化を深く受け入れていたと考えられ、このことから「伊都国」「奴国」にはかなりの「渡来人」がいたのではないかということが想定されます。そのことは「伊都国」には代々王がいるとされていること、その伊都国が「中国」からの使者の「常駐」場所であるという記述とも重なります。
「東南陸行五百里、到伊都國。…郡使往來常所駐。」
つまり、ここ(「伊都国」)には「郡使」を饗応する施設があったものと見られ、その意味からも「中国文化」の受容には積極的であったと思われます。
「伊都国王」の大きな仕事がこのような時点における「饗宴」の「ホスト」としてのものではなかったかと考えられ、「倭国王」と関係の特に深い「伊都国王」ですから、「倭国王」の「名代」として「郡使」などと対応するには適任ではなかったか思われます。
さらに言えば「伊都国王」という「王権」の確立に「中国」からの文化や人間が活躍したという想定はかなり容易でしょう。また、そのような「先進地域」に人が集まるのも自然な現象です。(同様に「觚」という字が官名に使用されている「奴国」の人口が多いのもそのような理由によるものでしょうか)
しかし、「倭国中枢」である「女王国」(「邪馬壹国」)などは古来からの「職名」がそのまま遺存していると言えると思われます。
これは「漢字文化」「中国文化」に対してやや「後進的」「保守的」であるという可能性を感じるものであり、それは「邪馬壹国」まで「外国」からの使者が直接訪れるということが余り多くなかったという可能性とも関連しているともいえるでしょう。少なくとも、「伊都国」段階で(「一大率」により)「文書」の内容などが「翻訳」され、「品物」についても「確認」が済んでいるとすると、「邪馬壹国」にはそのような人材を豊富に置いておく必要はなかったと考えられることとなります。
また、「伊都国」などに「觚」という官職名(位階)が存在していたことは、「伊都国王」が「中国」の天子(この場合は「周」か)から「爵」位を受けていたという可能性が考えられます。なぜなら「爵」は「諸候王」に対して「天子」が「卿」と認めた場合授けるものであり、「觚」よりも一段高い位であったと考えられるからです。そうでなければ、ここで「觚」が「伊都国」の官位として採用されることはなかったともいえるのではないでしょうか。そこには位階に関する一種の階層性が表れているものと考えられるものです。
さらにその場合、それは「伊都国」「奴国」と「中国の天子」との間の関係であってそこに「邪馬壹国」が介在していないこととなるのが重要であると思われます。
これらのことは「後漢書」に「使人自稱大夫」(使人自ら大夫と称す)と書かれることにつながるものであり、この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものですから(「士・卿・大夫」という順列で定められたもの)、それは一見「倭国」側の単なる「自称」と見られがちですが、実際に「周」の王の配下の諸王の一人、と認められていたという可能性もあるでしょう。
そのため、派遣された倭国王の部下はその下の「大夫」を名乗ったということになるわけですが、このことからこの「光武帝」への貢献は「觚」という語を負った官職の人物が使者として派遣されていたと云うことが考えられ、「伊都国」あるいは「奴国」からのものではなかったかという推測につながるものです。
つまり「帥升」により「倭国内」が統一され「強い権力」が発現する以前の段階における「倭国」の代表権力者は「伊都国」(あるいは「奴国」という可能性もある)の王であったという事がいえるのではないでしょうか。
「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『兕馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」
ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭国側」(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられます。
当然「倭国側」としては「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の「撰字」と思われ、「表意文字」として漢字が選ばれていると考えられます。
つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられます。またこの「觚」はそもそも「周代」などにそれで「酒」を飲み、その後「天子」と面会するという儀礼があったものであり、そのことから「伊都国」「奴国」でも同様に宮廷儀礼としてその「觚」で「酒」を飲んでいたという可能性もあるでしょう。
それに対して「邪馬壹国」や他の国の「官職名」は、明らかに「倭語」を漢字に写したものであり、「表音文字」として使用されていると思われます。
つまり、「伊都国」「奴国」は「漢字先進地域」であり、より中国の文化を深く受け入れていたと考えられ、このことから「伊都国」「奴国」にはかなりの「渡来人」がいたのではないかということが想定されます。そのことは「伊都国」には代々王がいるとされていること、その伊都国が「中国」からの使者の「常駐」場所であるという記述とも重なります。
「東南陸行五百里、到伊都國。…郡使往來常所駐。」
つまり、ここ(「伊都国」)には「郡使」を饗応する施設があったものと見られ、その意味からも「中国文化」の受容には積極的であったと思われます。
「伊都国王」の大きな仕事がこのような時点における「饗宴」の「ホスト」としてのものではなかったかと考えられ、「倭国王」と関係の特に深い「伊都国王」ですから、「倭国王」の「名代」として「郡使」などと対応するには適任ではなかったか思われます。
さらに言えば「伊都国王」という「王権」の確立に「中国」からの文化や人間が活躍したという想定はかなり容易でしょう。また、そのような「先進地域」に人が集まるのも自然な現象です。(同様に「觚」という字が官名に使用されている「奴国」の人口が多いのもそのような理由によるものでしょうか)
しかし、「倭国中枢」である「女王国」(「邪馬壹国」)などは古来からの「職名」がそのまま遺存していると言えると思われます。
これは「漢字文化」「中国文化」に対してやや「後進的」「保守的」であるという可能性を感じるものであり、それは「邪馬壹国」まで「外国」からの使者が直接訪れるということが余り多くなかったという可能性とも関連しているともいえるでしょう。少なくとも、「伊都国」段階で(「一大率」により)「文書」の内容などが「翻訳」され、「品物」についても「確認」が済んでいるとすると、「邪馬壹国」にはそのような人材を豊富に置いておく必要はなかったと考えられることとなります。
また、「伊都国」などに「觚」という官職名(位階)が存在していたことは、「伊都国王」が「中国」の天子(この場合は「周」か)から「爵」位を受けていたという可能性が考えられます。なぜなら「爵」は「諸候王」に対して「天子」が「卿」と認めた場合授けるものであり、「觚」よりも一段高い位であったと考えられるからです。そうでなければ、ここで「觚」が「伊都国」の官位として採用されることはなかったともいえるのではないでしょうか。そこには位階に関する一種の階層性が表れているものと考えられるものです。
さらにその場合、それは「伊都国」「奴国」と「中国の天子」との間の関係であってそこに「邪馬壹国」が介在していないこととなるのが重要であると思われます。
これらのことは「後漢書」に「使人自稱大夫」(使人自ら大夫と称す)と書かれることにつながるものであり、この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものですから(「士・卿・大夫」という順列で定められたもの)、それは一見「倭国」側の単なる「自称」と見られがちですが、実際に「周」の王の配下の諸王の一人、と認められていたという可能性もあるでしょう。
そのため、派遣された倭国王の部下はその下の「大夫」を名乗ったということになるわけですが、このことからこの「光武帝」への貢献は「觚」という語を負った官職の人物が使者として派遣されていたと云うことが考えられ、「伊都国」あるいは「奴国」からのものではなかったかという推測につながるものです。
つまり「帥升」により「倭国内」が統一され「強い権力」が発現する以前の段階における「倭国」の代表権力者は「伊都国」(あるいは「奴国」という可能性もある)の王であったという事がいえるのではないでしょうか。