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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊都国」について

2014年10月05日 | 古代史
 「伊都国」について「倭国」の中では「伝統」と「権威」があった過去があり、それが衰退していく過程が「黥面」の刑罰化と関係していると考察したわけですが、その伊都国(および奴国)については「魏志倭人伝」に官名として特徴のあるものが確認できます。そこでは「觚」という文字が最後に使用されています。

「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『兕馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」

 ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
 このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭国側」(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられます。
 当然「倭国側」としては「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の「撰字」と思われ、「表意文字」として漢字が選ばれていると考えられます。
 つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられます。またこの「觚」はそもそも「周代」などにそれで「酒」を飲み、その後「天子」と面会するという儀礼があったものであり、そのことから「伊都国」「奴国」でも同様に宮廷儀礼としてその「觚」で「酒」を飲んでいたという可能性もあるでしょう。
 それに対して「邪馬壹国」や他の国の「官職名」は、明らかに「倭語」を漢字に写したものであり、「表音文字」として使用されていると思われます。
 つまり、「伊都国」「奴国」は「漢字先進地域」であり、より中国の文化を深く受け入れていたと考えられ、このことから「伊都国」「奴国」にはかなりの「渡来人」がいたのではないかということが想定されます。そのことは「伊都国」には代々王がいるとされていること、その伊都国が「中国」からの使者の「常駐」場所であるという記述とも重なります。

 「東南陸行五百里、到伊都國。…郡使往來常所駐。」

 つまり、ここ(「伊都国」)には「郡使」を饗応する施設があったものと見られ、その意味からも「中国文化」の受容には積極的であったと思われます。
 「伊都国王」の大きな仕事がこのような時点における「饗宴」の「ホスト」としてのものではなかったかと考えられ、「倭国王」と関係の特に深い「伊都国王」ですから、「倭国王」の「名代」として「郡使」などと対応するには適任ではなかったか思われます。
 さらに言えば「伊都国王」という「王権」の確立に「中国」からの文化や人間が活躍したという想定はかなり容易でしょう。また、そのような「先進地域」に人が集まるのも自然な現象です。(同様に「觚」という字が官名に使用されている「奴国」の人口が多いのもそのような理由によるものでしょうか)
 しかし、「倭国中枢」である「女王国」(「邪馬壹国」)などは古来からの「職名」がそのまま遺存していると言えると思われます。
 これは「漢字文化」「中国文化」に対してやや「後進的」「保守的」であるという可能性を感じるものであり、それは「邪馬壹国」まで「外国」からの使者が直接訪れるということが余り多くなかったという可能性とも関連しているともいえるでしょう。少なくとも、「伊都国」段階で(「一大率」により)「文書」の内容などが「翻訳」され、「品物」についても「確認」が済んでいるとすると、「邪馬壹国」にはそのような人材を豊富に置いておく必要はなかったと考えられることとなります。

 また、「伊都国」などに「觚」という官職名(位階)が存在していたことは、「伊都国王」が「中国」の天子(この場合は「周」か)から「爵」位を受けていたという可能性が考えられます。なぜなら「爵」は「諸候王」に対して「天子」が「卿」と認めた場合授けるものであり、「觚」よりも一段高い位であったと考えられるからです。そうでなければ、ここで「觚」が「伊都国」の官位として採用されることはなかったともいえるのではないでしょうか。そこには位階に関する一種の階層性が表れているものと考えられるものです。
 さらにその場合、それは「伊都国」「奴国」と「中国の天子」との間の関係であってそこに「邪馬壹国」が介在していないこととなるのが重要であると思われます。
 これらのことは「後漢書」に「使人自稱大夫」(使人自ら大夫と称す)と書かれることにつながるものであり、この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものですから(「士・卿・大夫」という順列で定められたもの)、それは一見「倭国」側の単なる「自称」と見られがちですが、実際に「周」の王の配下の諸王の一人、と認められていたという可能性もあるでしょう。
 そのため、派遣された倭国王の部下はその下の「大夫」を名乗ったということになるわけですが、このことからこの「光武帝」への貢献は「觚」という語を負った官職の人物が使者として派遣されていたと云うことが考えられ、「伊都国」あるいは「奴国」からのものではなかったかという推測につながるものです。
 つまり「帥升」により「倭国内」が統一され「強い権力」が発現する以前の段階における「倭国」の代表権力者は「伊都国」(あるいは「奴国」という可能性もある)の王であったという事がいえるのではないでしょうか。
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「黥面」の刑罰化について(3)

2014年10月05日 | 古代史
 「伊都国」はその支配領域が「海」に近接した領域であり、また「邪馬壹国」と関係の深い「クニ」でもあり、「形骸化」はしているものの「倭人伝」で諸国の中では唯一「王」の存在が書かれている「クニ」でもあります。
 「倭国」において指導的「権威」を長く保持し続けてきた「伊都国」が海に深く関係しているとすれば、「黥面」という倭国の一般的風習の形成に「伊都国」が関係していたという可能性も大きいのではないでしょうか。
 「魏志」の「韓伝」においても(「弁辰」の項)『「倭」と接しているところでは「文身」している』とされています。(「男女近倭,亦文身。」)
 「韓」から近い「倭」とは「対海国」や「一大国」「末廬国」あるいは「伊都国」などを指すと思われますから、この地域と「文身」という習慣が密接な関係があるのは確かと思われます。(但し「韓伝」では「黥面」については書かれていませんから、「黥面」は「倭人」独自の習慣であったものでしょうか。)
 しかし、その「伊都国」は「倭人伝」でも「一大率」が「伊都国王」を差し置いて「刺史」の如く統治権を行使しているように書かれており、既にかなりその権威が低下している風情がみられ、これがその後さらに進行し、推測によれば「博多湾」に面した「大津城」が「伊都国」の支配下から「奴国」に編入されるという事案が発生したとみられる時点以降、「伊都国」そのものがいわば消滅したものではないかと推量され、このような政治的変化が(あるいは闘争を伴って)起きて以来、「伊都国」を象徴するものとして存在していた「黥面」が、その「伊都国」という権威の否定と共に「刑罰」化したものではないでしょうか。(倭人伝時点で既に「戸数」も少なくなっており、実力はほぼなかったと思われますから、伝統とそれに基づく権威だけで存在していたと見られ、その意味でも消えゆく運命であったともいえるものです。)
 またそれは「海人族」一般の没落をも意味していると思われ、その後の「倭の五王」などの時代には「海人族」は傍流という立場とされていたのではないでしょうか。このことは相対的により内陸にあった勢力が伸張したことを示唆するものであり、「筑紫」から「筑後」そして「肥後」というように「玄界灘」から奥まった地域に倭国の権力中心が移動したことを暗示するようです。
 そして以後この「黥面」は「罪」を犯して「」となった人々以外にも「東国」など「被征服民」とされた人々など「部民」とされた人々に対しても同様に施されたものであり、これが「刑罰」としても停止されるのは「六世紀末」の「阿毎多利思北孤」の改革まで待たなければならなかったものです。
 「隋書俀国伝」によれば刑罰としては「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖」という記載があり、これによると「黥刑」(墨刑)がありません。「丈刑」(棒で叩く)「流刑」(遠隔地へ追いやられる)「没刑」(奴刑)「死刑」などがあり、これは後の「笞丈徒流死」にかなり近いものであり、かなり近代化されていることがわかります。これは「黥刑」を含む「古代的刑罰」から一歩進んだものであり、これは「倭の五王」以降の段階を示すものであると同時に「遣隋使」などの積極的な外交政策を推進しようとしていた「阿毎多利思北孤」の時代付近で確立されたものではなかったかと推定できるものです。その意味でも「黥面」が「點面」になってしかも「ファッシヨン」となっていたらしいことは注目されるものです。「女性もしている」という中にそれが「化粧」としての扱いを受けていたらしいことが窺えるものです。

 このように「伊都国」について衰えゆくものと考えられるのは、逆に「伊都国」が「伝統」と「権威」を長く保ってきたとみられることの裏返しであると思われます。
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「黥面」の刑罰化について(2)

2014年10月05日 | 古代史
 元々中国では「黥」とは「刑罰」のうち最も軽いものとして存在していました。いわゆる「五刑」というものが古代から有り、それは「黥刑」(入れ墨)「劓刑」(鼻そぎ)「髕刑」(足きり)「宮刑」(「陰刑」)「大辟刑」(死刑)が、犯した罪の内容と程度により決められていたというわけです。しかし「倭国」では「刑罰」としてではなく「風習」として「黥」が行われていたものであり、「刑罰」としては機能していなかったと見られることとなります。
 「倭人伝」には刑罰について「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」とされており、「没」(となる)「滅」(死刑か)という二種類があることが知られますが、中国のような制度はなかったものと見られます。
 しかし、「魏晋朝」と交流が始められた中で、「黥」が「中国」では「刑罰」としてのものであることを知ったとすると、それを「忌避」するようになったと云うことは想定されるでしょう。ただしそれが直後なのかどうかは微妙です。「書紀」では「黥」が刑罰として機能しているようになるのは「履中紀」であり、それ以前の代には現れません。

(日本書紀卷第十二 去來穗別天皇 履中天皇)「元年…夏四月辛巳朔丁酉。召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。…」

 これによれば「阿雲連濱子」は「謀逆」という罪を犯した結果「死罪」を特に免じられて「墨刑」とされたものであり、「黥」を施されたものです。(彼らはさらに「」とされたものと見られます)
 これによれば「死罪」に次ぐ重刑であったと見られ、中国の制度とはかなり異なることが窺えます。
 つまり、元々単なる「風習」であった「黥面」が、後に「犯罪者」に対してその「しるし」として「顔面」に「黥」を施すこととなったものであり、明らかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 このことは「黥」が刑罰化したのはそれほど遡るものではないという可能性が考えられ、「魏晋朝」と言うよりそれ以降の「倭の五王」の時代であったという可能性の方が高いと考えられます。
 つまり、「倭の五王」の初代王である「讃」が「強い権力」を発揮し始めた段階で「黥」などの刑罰を国内にも適用し始めたのではないかと推測されますが、これが中国の刑罰制度の直輸入ではないのはそれ以外の「鼻そぎ」や「足きり」「陰刑」などの実例が「書紀」「古事記」などに全く見えないことに現れています。
 つまり「黥刑」だけが国内に適用されるようになっていたものであり、そのようにして「犯罪者」に対しその「明徴」として「顔面」に「黥」を施すこととなったということはあきらかにそれまでの「風習」としてのものから変質したことを示します。
 逆に言えば「卑弥呼」以降「讃」の前代までに「黥」に対する意識変化が起きていたことを示すものといえそうです。
 それまでは特に普通のことであった「點面」が、ある時期以降「蔑視」されるようなこととなり、そのため「一般人」は「彫る」ことはせず「點面」にとどまるとなったものと見られるわけです。(但し「文身」はまだこの「六世紀末」という時点でまだ遺存しているようですし、「臂」に「黥」する習慣もまだ残っていますが、これらは「衣服」などにより直接見えないことから「刑罰」の意義がないことと考えられたものと思われ、「黥面」だけが「刑罰化」したこととなるでしょう。)
 このような「黥面」の刑罰化は「黥面」の風習を強く保持していた集団あるいはそれらの集団で構成されていた「クニ」の衰退あるいは没落と関係しているのではないかと考えられるところです。
 この「黥面」や(「文身」も)という風習は「沈没」して「漁」をすると書かれている事からも海の民である「海人族」のものであるのは明らかですから、どこかで彼ら「海人族」にとって致命的とも言える政治的事案が起きたということではないでしょうか。
 そう考えてみると、「伊都国」の衰退と関係しているという可能性があると思われます。

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