古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「光源氏」と「聖徳太子」(「七弦琴」との関わりで)

2014年10月06日 | 古代史
 「源氏物語」の中では主人公である「光源氏」は「七弦琴」の名手とされています。しかし「源氏物語」が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」(きん)は既に廃れており演奏されることもなくなっていました。にもかかわらず「光源氏」という人物については「七弦琴」が彼を特徴付けるものとして描かれているわけです。

 「源氏物語絵詞」などを子細に観察すると、それらは平安後期以降に書かれたものではあるものの、描かれた絵画の中では「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(※1)
 この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。これは「音」で表現することが最善と考えられていたことを示し「外来」のものであることが示唆されるものであり、「和琴」とは異なる出自を持つものと考えられるものです。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(※2)
 それによれば「聖徳太子伝暦」という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、「源氏物語」の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。

(「聖徳太子伝暦」の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子御之微服…指太子曰那童子也是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰敬礼救世觀世音大菩薩傳燈東方粟散王云云人不得聞太子修容折磬而謝日羅大放身光如火熾炎太子亦眉間放光如日輝之枝…」

 (以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」

 「百済」を「高麗」に変えてはいますが、「微服」を「いみじう忍びて」とするなど基本は同じ内容の表現であり、そのシチュエーションの細部までよく似ているとされるわけですが、この「聖徳太子伝暦」は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、それを「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものそのものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
 ところで一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、既にみた「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性が考えられ、「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
 この「七弦琴」は「平安時代」以降、「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされ、日本では「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものとされていました。それは「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」からの下賜品であったという経歴がそのようなランク付けがされる原因となっていたのではないでしょうか。その「隋」から「七弦琴」を下賜された当時の「倭国王」は「阿毎多利思北孤」であると考えられますから、「聖徳太子」という人物と「七弦琴」が関連しているとされるのは「聖徳太子」に「阿毎多利思北孤」という人物が投影されていることを如実に示すものです。

 このように「七弦琴」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているというわけですが、その「光源氏」に「高麗」の「相人」が語ったという「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。」という言葉は「聖徳太子」には適合しないのは周知の通りです。彼は「皇太子」ではあったものの「即位」せず、その一生を「摂政」の身で終わったものであり、「帝王」や「国の親」というような呼称が似つかわしい地位にいたとは考えられません。このような呼称はその「聖徳太子」に投影されていた「倭国王」であった「阿毎多利思北孤」にこそ適用されるものであったと見られます。そのような「形容」が「阿毎多利思北孤」に実際に為されていたものであり、それが後に「聖徳太子」に対するものとして変化して伝えられたものとみられます。
 「推古紀」に「聖徳太子」(厩戸豐聰耳皇子)が亡くなったときの記事がありますが、その中には「如亡慈父母」という表現が見られ、まさに「国の親」を失った表現であふれています。

「(六二一年)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。『少幼者如亡慈父母』。以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜。舂女不杵。皆曰。日月失輝。天地既崩。自今以後誰恃或。」

 これは「阿毎多利思北孤」の「崩御」時点の人々の心情を表したものと思われ、それが強く人々の記憶に残り「書紀」など各種の記録に遺存・伝承されたものと見られます。


(※1)川島絹江『源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究』東京成徳短期大学紀要第四十三号二〇一〇年

(※2)川本信幹「源氏物語作者の表現技法」日本体育大学紀要二十二巻一号一九九二年
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倭国の「楽」と「五弦琴」

2014年10月06日 | 古代史
 以前に書いた『「遣隋使」と「遣唐使」』の中で「倭国」の楽と「隋」の「楽」の関係について触れましたが、「隋書俀国伝」では「倭国」の「楽」として「五弦琴」があると書かれています。

(隋書/列傳第四十六/東夷/倭國 )「…樂有五弦琴笛…」

 ここに書かれた「五弦」が「五弦の琴」を指すものなのか「(五弦の)琵琶」なのかについてやや議論があります。この「五弦」を「琵琶」とすると「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、当時の「隋」と同じく「七弦」であったと考えられる事となりますが、遺跡からは「七弦琴」が確認されないため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
 そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ「隋書」内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。

(隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑)「…樂有琴笛琵琶五絃,頗與中國同。…」
(隋書/列傳第四十八/西域/康國)「…有大小鼓琵琶五絃箜篌笛。…」

 これらの例では「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明らかであり、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないと考えられることとなります。つまり「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃の琴」ではなかったかというものです。

 「礼記」などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。

「礼記」「楽記」「…昔者舜作五弦之琴以歌南風,夔始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有者也。…」

 このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
 またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。

(「太平御覧」州郡部十七「江南道下」「潭州」)「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」

 このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは「隋書」の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
 また、「林邑伝」に描かれた習俗は「倭国伝」にも近似しており、そのことは同様に「服装」などが南方的と思われる「倭国」における「五弦」も「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地がありそうです。
 他の史料においても「五弦」とある場合ほぼ全て「五弦琴」を指すことが確かめられ、それに対し「五弦」の「琵琶」の場合は明確に「五弦琵琶」と書かれる場合が多いという実態が確認されます。

 また「林邑伝」で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係しているでしょう。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であると言う事ではないでしょうか。そうであれば「倭国」や「高麗」が「五弦」「琴」と始まってなおかつ「隋」と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないことを示すものと考えられるものです。
 これに関して「源氏物語」の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。なぜなら「光源氏」は「聖徳太子」がモデルという説があるからです。
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