「源氏物語」の中では主人公である「光源氏」は「七弦琴」の名手とされています。しかし「源氏物語」が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」(きん)は既に廃れており演奏されることもなくなっていました。にもかかわらず「光源氏」という人物については「七弦琴」が彼を特徴付けるものとして描かれているわけです。
「源氏物語絵詞」などを子細に観察すると、それらは平安後期以降に書かれたものではあるものの、描かれた絵画の中では「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(※1)
この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。これは「音」で表現することが最善と考えられていたことを示し「外来」のものであることが示唆されるものであり、「和琴」とは異なる出自を持つものと考えられるものです。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(※2)
それによれば「聖徳太子伝暦」という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、「源氏物語」の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。
(「聖徳太子伝暦」の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子御之微服…指太子曰那童子也是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰敬礼救世觀世音大菩薩傳燈東方粟散王云云人不得聞太子修容折磬而謝日羅大放身光如火熾炎太子亦眉間放光如日輝之枝…」
(以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」
「百済」を「高麗」に変えてはいますが、「微服」を「いみじう忍びて」とするなど基本は同じ内容の表現であり、そのシチュエーションの細部までよく似ているとされるわけですが、この「聖徳太子伝暦」は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、それを「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものそのものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
ところで一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、既にみた「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性が考えられ、「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
この「七弦琴」は「平安時代」以降、「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされ、日本では「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものとされていました。それは「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」からの下賜品であったという経歴がそのようなランク付けがされる原因となっていたのではないでしょうか。その「隋」から「七弦琴」を下賜された当時の「倭国王」は「阿毎多利思北孤」であると考えられますから、「聖徳太子」という人物と「七弦琴」が関連しているとされるのは「聖徳太子」に「阿毎多利思北孤」という人物が投影されていることを如実に示すものです。
このように「七弦琴」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているというわけですが、その「光源氏」に「高麗」の「相人」が語ったという「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。」という言葉は「聖徳太子」には適合しないのは周知の通りです。彼は「皇太子」ではあったものの「即位」せず、その一生を「摂政」の身で終わったものであり、「帝王」や「国の親」というような呼称が似つかわしい地位にいたとは考えられません。このような呼称はその「聖徳太子」に投影されていた「倭国王」であった「阿毎多利思北孤」にこそ適用されるものであったと見られます。そのような「形容」が「阿毎多利思北孤」に実際に為されていたものであり、それが後に「聖徳太子」に対するものとして変化して伝えられたものとみられます。
「推古紀」に「聖徳太子」(厩戸豐聰耳皇子)が亡くなったときの記事がありますが、その中には「如亡慈父母」という表現が見られ、まさに「国の親」を失った表現であふれています。
「(六二一年)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。『少幼者如亡慈父母』。以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜。舂女不杵。皆曰。日月失輝。天地既崩。自今以後誰恃或。」
これは「阿毎多利思北孤」の「崩御」時点の人々の心情を表したものと思われ、それが強く人々の記憶に残り「書紀」など各種の記録に遺存・伝承されたものと見られます。
(※1)川島絹江『源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究』東京成徳短期大学紀要第四十三号二〇一〇年
(※2)川本信幹「源氏物語作者の表現技法」日本体育大学紀要二十二巻一号一九九二年
「源氏物語絵詞」などを子細に観察すると、それらは平安後期以降に書かれたものではあるものの、描かれた絵画の中では「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(※1)
この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており「琴」(こと)とは異なるものと考えられていたようです。これは「音」で表現することが最善と考えられていたことを示し「外来」のものであることが示唆されるものであり、「和琴」とは異なる出自を持つものと考えられるものです。ところで、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(※2)
それによれば「聖徳太子伝暦」という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。そこには「百済」から「日羅」を招請し彼がそれに応え「来倭」した際に「聖徳太子」と面会したというエピソードが書かれており、その情景などの描写が、「源氏物語」の中で「光源氏」が「高麗」から来た「人相」を見る人との対面するシーンに酷似しているとされます。
(「聖徳太子伝暦」の記述)「(推古)十二年 癸卯 穐七月 百濟賢者韋北達率日羅…太子密諮皇子御之微服…指太子曰那童子也是神人矣…日羅跪地 而合掌白曰敬礼救世觀世音大菩薩傳燈東方粟散王云云人不得聞太子修容折磬而謝日羅大放身光如火熾炎太子亦眉間放光如日輝之枝…」
(以下酷似しているとされる「源氏物語」の一部を記述)「そのころ、高麗人のまゐれるが中に、かしこき相人ありけるを…いみじう忍びて、この御子を、鴻臚館に遣はしたり。…相人驚きて、あまたゝび傾きあやしぶ。「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。…「光る君」という名は、高麗人の愛で聞こえて、つけたてまつりける」とぞいひ伝へたるとなむ。」
「百済」を「高麗」に変えてはいますが、「微服」を「いみじう忍びて」とするなど基本は同じ内容の表現であり、そのシチュエーションの細部までよく似ているとされるわけですが、この「聖徳太子伝暦」は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、それを「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものそのものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
ところで一般には「七弦琴」の「倭国」への伝来は「唐代」とされていますが、既にみた「隋」の「楽制」の伝来という中に含まれていたという可能性が考えられ、「古式」ともいえる「五弦琴」の存在を知った「隋皇帝」(文帝)からの、最新のものを知らしめようという意味の贈呈品であったという可能性もあるでしょう。
この「七弦琴」は「平安時代」以降、「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされ、日本では「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものとされていました。それは「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」からの下賜品であったという経歴がそのようなランク付けがされる原因となっていたのではないでしょうか。その「隋」から「七弦琴」を下賜された当時の「倭国王」は「阿毎多利思北孤」であると考えられますから、「聖徳太子」という人物と「七弦琴」が関連しているとされるのは「聖徳太子」に「阿毎多利思北孤」という人物が投影されていることを如実に示すものです。
このように「七弦琴」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているというわけですが、その「光源氏」に「高麗」の「相人」が語ったという「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。」という言葉は「聖徳太子」には適合しないのは周知の通りです。彼は「皇太子」ではあったものの「即位」せず、その一生を「摂政」の身で終わったものであり、「帝王」や「国の親」というような呼称が似つかわしい地位にいたとは考えられません。このような呼称はその「聖徳太子」に投影されていた「倭国王」であった「阿毎多利思北孤」にこそ適用されるものであったと見られます。そのような「形容」が「阿毎多利思北孤」に実際に為されていたものであり、それが後に「聖徳太子」に対するものとして変化して伝えられたものとみられます。
「推古紀」に「聖徳太子」(厩戸豐聰耳皇子)が亡くなったときの記事がありますが、その中には「如亡慈父母」という表現が見られ、まさに「国の親」を失った表現であふれています。
「(六二一年)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。『少幼者如亡慈父母』。以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜。舂女不杵。皆曰。日月失輝。天地既崩。自今以後誰恃或。」
これは「阿毎多利思北孤」の「崩御」時点の人々の心情を表したものと思われ、それが強く人々の記憶に残り「書紀」など各種の記録に遺存・伝承されたものと見られます。
(※1)川島絹江『源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究』東京成徳短期大学紀要第四十三号二〇一〇年
(※2)川本信幹「源氏物語作者の表現技法」日本体育大学紀要二十二巻一号一九九二年