「森博達氏」の論(森博達「『日本書紀の謎を解く』述作者は誰か」中公新書)によって「書紀」は「唐人」によって一部が書かれていることが明らかとされました。
いわゆる「α群」とされる「唐人」が関与したと思われる部分は広範囲にわたりますが、「續守言」「薩弘恪」の両名は「音博士」とされ、「漢文」なとの専門家として存在していたと思われ、かれらが最後に名前が出るのが「持統紀」であり、そのためその時点で彼らによって「書紀」の「α群」部分が書かれたという考察がされているわけですが、その「持統紀」も含め「書紀」全体にわたって「太宗」「李世民」の「諱」が全く避けられていないことが知られます。
三代皇帝「高宗」の時(顕慶二年(六五七))に、それまでの「世民」と連続するもの以外は「諱字」としないとされていたものを、「世」「民」単独でも「諱字」とし「人名」「組織名」等からその使用を避けるようにと云う「詔」が出されたものです。
そのため「民部省」が「戸部省」へ変更されるなどの他、重臣である「李世勣」が「李勣」とされ(以下の記事)、「裴世清」も「裴清」とされるなど多くの改姓や省略が行われました。
(「舊唐書/本紀第四/高宗 李治 上」より)
「(貞観)二十三年五月己巳,太宗崩。…辛巳,改民部尚書為戶部尚書。」
(「舊唐書/列傳第十七/李勣」より)
「李勣,曹州離狐人也。隋末,徙居滑州之衞南。本姓徐氏,名世勣,永徽中,以犯太宗諱,單名勣焉。」
他にも「世」が「代」へと云う書き換えや表記変更もあったとされます。(前稿参照)
しかし「書紀」ではそれが全く避けられていないのです。
「續守言」「薩弘恪」」の参加したとされる「白村江の戦い」はその「詔」から数年を経ているわけですから、それに参加した唐人(特に彼らは高官であったと思われる)の彼らがそれを知らなかったはずがないと思われます。
にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる「書紀」で「世・民」という「諱」が避けられていないのはどういうことでしょうか。
「後漢書」などからの引用や借用部分(既に述べたように引用元には複数の説がありますが)に「世・民」が避けられていないのは「高宗」の通達の時期以前の資料を参照しているからという考え方も不可能ではありませんが、ことはそれだけに留まらず、「書紀」の全体にわたって「世・民」は全く避けられていないのです。
可能性としては色々考えられるでしょう(無視したのかも知れませんがかなり考えにくいものです)。しかし、「唐人」が編纂に参画していながら「世・民」の諱を避けていないのは大きな疑問です。
ところでこの「唐人」である「續守言」と「薩弘恪」については当初「捕虜」であったとされます。
「(六六三年)二年春二月…是月。佐平福信上送唐俘續守言等。」(天智紀)
このように「百済」で捕虜になったというわけですが、しかし、彼らがもし捕虜なら「天智紀」に来倭した「郭務宋」達の帰還に同行したはずと思われます。なぜなら彼らの来倭の目的は「和平」を講ずるためであり、戦争状態の終結であったと思われますが、このようなときには「捕虜」の交換がしばしば行われていたからです。
「隋」と「高句麗」の間に戦いが行われた際は「唐」に代わった直後に捕虜交換が行われていることが「唐」の高祖が「高麗王」に当てた「書」から窺えます。
「(武徳)四年、又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地、五年、賜建武書曰; …但隋氏季年、連兵構難、政戰之所、各失其民。遂使骨肉乖離、室家分析、多歴年歳、怨曠不申。今二國通和、義無阻異、在此所有高麗人等、已令追括、尋即遣送;彼處有此國人者、王可放還、務盡撫育之方、共弘仁恕之道。
於是建武悉捜括華人、以禮賓送、前後至者萬數、高祖大喜。」
当然「倭国」との間にも戦闘があったのですから、和平協議の際には必ず捕虜交換について話し合われたはずと思われるわけです。もしそうなら「六六五年」以降「唐人捕虜」はその多くが帰国したこととなるでしょう。
しかし、「續守言。薩弘恪」という二人は帰国しなかったこととなります。そうすると彼らがここで残留した理由が不明となるでしょう。
そもそも「捕虜」はどこの国でも「」ないしは「官」となるのが通例であり、「良人」として「政権」の中枢に存在していることが異例といえます。
「(持統紀)九月己巳朔壬申。賜音博士大唐續守言。薩弘恪。書博士百濟末士善信銀人廿両。」
ここでは彼らは「音博士」とされ、「中国文献」の読みなどを官僚に対して指導する役割であったらしいことが知られます。
彼らは「唐人」捕虜とされる中で唯一氏名が書かれていますから元々高官であったと思われるものの、それでも「戦時捕虜」の対象であることは変わりなく、同様に「」というような扱いであってしかるべきですが、このときは例外的に「良人」として扱われ「官職」を得て政権内部で活動していたものです。
「百済禰軍」のような例もありますから、この当時忠誠を誓えば「」として扱わない場合もあったとも思われますが、いかにも不自然ではないでしょうか。
このことは元々彼らが(書紀の記述とは裏腹に)「捕虜」ではなかったという可能性を考えるべきことを示しているようです。
「世・民」の諱を避けていないことと併せ考えると、彼らはそのような通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられるでしょう。つまり、彼ら唐人は「孝徳」以前から倭国にいたということが想定できます。
こう考えた場合、「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなりますし、その後の「高宗」の出した「諱字」についての知識がなかったとして当然ということにもなるでしょう。
では、その場合彼らはいつから「倭国」にいるのでしょうか。
可能性として最も考えられるのは、彼らが「高表仁」の随員だったという場合です。
いわゆる「α群」とされる「唐人」が関与したと思われる部分は広範囲にわたりますが、「續守言」「薩弘恪」の両名は「音博士」とされ、「漢文」なとの専門家として存在していたと思われ、かれらが最後に名前が出るのが「持統紀」であり、そのためその時点で彼らによって「書紀」の「α群」部分が書かれたという考察がされているわけですが、その「持統紀」も含め「書紀」全体にわたって「太宗」「李世民」の「諱」が全く避けられていないことが知られます。
三代皇帝「高宗」の時(顕慶二年(六五七))に、それまでの「世民」と連続するもの以外は「諱字」としないとされていたものを、「世」「民」単独でも「諱字」とし「人名」「組織名」等からその使用を避けるようにと云う「詔」が出されたものです。
そのため「民部省」が「戸部省」へ変更されるなどの他、重臣である「李世勣」が「李勣」とされ(以下の記事)、「裴世清」も「裴清」とされるなど多くの改姓や省略が行われました。
(「舊唐書/本紀第四/高宗 李治 上」より)
「(貞観)二十三年五月己巳,太宗崩。…辛巳,改民部尚書為戶部尚書。」
(「舊唐書/列傳第十七/李勣」より)
「李勣,曹州離狐人也。隋末,徙居滑州之衞南。本姓徐氏,名世勣,永徽中,以犯太宗諱,單名勣焉。」
他にも「世」が「代」へと云う書き換えや表記変更もあったとされます。(前稿参照)
しかし「書紀」ではそれが全く避けられていないのです。
「續守言」「薩弘恪」」の参加したとされる「白村江の戦い」はその「詔」から数年を経ているわけですから、それに参加した唐人(特に彼らは高官であったと思われる)の彼らがそれを知らなかったはずがないと思われます。
にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる「書紀」で「世・民」という「諱」が避けられていないのはどういうことでしょうか。
「後漢書」などからの引用や借用部分(既に述べたように引用元には複数の説がありますが)に「世・民」が避けられていないのは「高宗」の通達の時期以前の資料を参照しているからという考え方も不可能ではありませんが、ことはそれだけに留まらず、「書紀」の全体にわたって「世・民」は全く避けられていないのです。
可能性としては色々考えられるでしょう(無視したのかも知れませんがかなり考えにくいものです)。しかし、「唐人」が編纂に参画していながら「世・民」の諱を避けていないのは大きな疑問です。
ところでこの「唐人」である「續守言」と「薩弘恪」については当初「捕虜」であったとされます。
「(六六三年)二年春二月…是月。佐平福信上送唐俘續守言等。」(天智紀)
このように「百済」で捕虜になったというわけですが、しかし、彼らがもし捕虜なら「天智紀」に来倭した「郭務宋」達の帰還に同行したはずと思われます。なぜなら彼らの来倭の目的は「和平」を講ずるためであり、戦争状態の終結であったと思われますが、このようなときには「捕虜」の交換がしばしば行われていたからです。
「隋」と「高句麗」の間に戦いが行われた際は「唐」に代わった直後に捕虜交換が行われていることが「唐」の高祖が「高麗王」に当てた「書」から窺えます。
「(武徳)四年、又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地、五年、賜建武書曰; …但隋氏季年、連兵構難、政戰之所、各失其民。遂使骨肉乖離、室家分析、多歴年歳、怨曠不申。今二國通和、義無阻異、在此所有高麗人等、已令追括、尋即遣送;彼處有此國人者、王可放還、務盡撫育之方、共弘仁恕之道。
於是建武悉捜括華人、以禮賓送、前後至者萬數、高祖大喜。」
当然「倭国」との間にも戦闘があったのですから、和平協議の際には必ず捕虜交換について話し合われたはずと思われるわけです。もしそうなら「六六五年」以降「唐人捕虜」はその多くが帰国したこととなるでしょう。
しかし、「續守言。薩弘恪」という二人は帰国しなかったこととなります。そうすると彼らがここで残留した理由が不明となるでしょう。
そもそも「捕虜」はどこの国でも「」ないしは「官」となるのが通例であり、「良人」として「政権」の中枢に存在していることが異例といえます。
「(持統紀)九月己巳朔壬申。賜音博士大唐續守言。薩弘恪。書博士百濟末士善信銀人廿両。」
ここでは彼らは「音博士」とされ、「中国文献」の読みなどを官僚に対して指導する役割であったらしいことが知られます。
彼らは「唐人」捕虜とされる中で唯一氏名が書かれていますから元々高官であったと思われるものの、それでも「戦時捕虜」の対象であることは変わりなく、同様に「」というような扱いであってしかるべきですが、このときは例外的に「良人」として扱われ「官職」を得て政権内部で活動していたものです。
「百済禰軍」のような例もありますから、この当時忠誠を誓えば「」として扱わない場合もあったとも思われますが、いかにも不自然ではないでしょうか。
このことは元々彼らが(書紀の記述とは裏腹に)「捕虜」ではなかったという可能性を考えるべきことを示しているようです。
「世・民」の諱を避けていないことと併せ考えると、彼らはそのような通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられるでしょう。つまり、彼ら唐人は「孝徳」以前から倭国にいたということが想定できます。
こう考えた場合、「郭務宋」達の和平交渉時点で帰国しなかったとしても不思議ではないこととなりますし、その後の「高宗」の出した「諱字」についての知識がなかったとして当然ということにもなるでしょう。
では、その場合彼らはいつから「倭国」にいるのでしょうか。
可能性として最も考えられるのは、彼らが「高表仁」の随員だったという場合です。