古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『後漢書』の「倭国王」

2018年02月05日 | 古代史

 上に見たように『後漢書』では「帥升」は「倭国王」と表現されています。『後漢書』の論理ではこの「帥升」は「倭国王」という地位にあるとするわけですが、これが後の「倭の五王」の遣使に基づく後代の論理にもとづくものであることは間違いなく、当時は「倭国王」ではないのはもちろん「倭王」でもなかったと思われるわけです。
 しかしこの「帥升」については「奴国」同様「倭」領域において強い権力を持つ存在であることを何らかの方法で確認し、認定していたこととなります。それは「奴国王」に与えた「金印」の存在であったものではないでしょうか。
 
 この「金印」は「帥升」が以前の「奴国王」から継承していたものと思われ、彼(帥升)は貢献物として「生口」の他に当然「上表」つまり「国書」を持参していたものと見られますが、その「封」に「漢委奴国王」の「金印」による「封泥」がされていたということが考えられます。
 「金印」は通常の印と異なり「凹印」ですから、本来このように「封泥」用のものと考えられ、それを「国書」に封印として押すことで自分が「倭奴国王」を継承した正統な「王」であることを表現しまた誇示していたものと見ることができるでしょう。このような金印の授与はその利用法として国内に向けて「詔」として表すものに「封印」として使用するほか、国外に対して同様に票を提出する場合の「身分証明」となるものであったでしょう。「後漢」の側ではこれを見て「帥升」を「光武帝」以来の「倭」の代表王権であると確認したものと思われるわけです。

 またこの時新たな「金印」は授けられなかったわけですが、彼が「手ぶら」で還ったとも考えられません。「帥升」が「倭」の代表的権力者であることを証し、また称揚する「品々」が「後漢」の皇帝から下賜されて当然と考えられるわけですが、それと関係があると思われるのが「大分県日田市」の「ワンダラ古墳」から出土したとされる金銀が象嵌された「鉄鏡」と、それとは別に出土した金が象嵌された「帯留め金具」の存在です。(学術的発掘ではなくその後持ち主が転々としたため推測になっていますがほぼ間違いないものとされているようです)
 これらは「漢魏王朝」において「皇帝」や「皇太子」クラスが所有していたものであり、また「朝貢」してきた「夷蛮」の王達に下賜したものでもありました。その「ワンダラ古墳」そのものは「五世紀」と比定されていますが、鏡や帯留め金具は明確に「漢魏」代まで遡上するものであり、当時のいずれかの「倭王」が下賜されたものとしか考えられないわけですが、時代的な事情を考えると「帥升」しか該当者がいないのではないかと考えられるわけです。その様なものが「五世紀」のしかも「日田」の地から出たというわけですが、明らかにこれらの品は代々「伝世」されていたものであり、「家宝」(あるいは国宝)とされていたものと思われますが、この「五世紀」という時点において当時の「倭の五王」のうちの誰かの死に際して「墓」に埋納されたものと見ることができるでしょう。つまり、「日田」の地が「倭王権」と深く関係していたということもまた明らかとなったものと思われます。(具体的な経緯は不明ですが)
 
 またその内容からは「帥升」自らが貢献の使者の先頭に立っていたように理解できます。それは、そこに「遣わす」という意義を示す語がみられないことに注意すべきです。
 「奴国」の場合は「使人」という語が使用されていますから「使者」を遣わしたらしいことが判りますが、「帥升」の場合「献」の主語が「帥升等」になっています。つまり、この記事を素直に解すると「帥升」を含む複数の人々で「派遣団」を構成していたことを示し、「倭」王権の当事者が(皇帝に)「見える」ことを望んだこととなります。そのような人物が直々に「後漢」の皇帝に会いたいとやって来たというわけですから、その様な行動をする必要性があったわけであり、ある意味状況はかなり切迫していたかも知れません。それを示すものが、彼が連れて行ったという「生口」ではなかったでしょうか。この「生口」は「原・狗奴国」である「銅鐸圏」の勢力を捕虜にしたものではなかったかと考えられます。

 「原・狗奴国」は津波に襲われて弱体化した旧銅鐸圏を力で制圧して統一した新進の国家であったと思われ、少なくなった平野部分を自らの領域とするために、軍事に特化していた可能性があると思われます。そのような勢力がさらに平野部分を求めて「西下」してきていたものではないでしょうか。
 「帥升」率いる「諸国」はその「原・狗奴国」の軍事勢力と衝突した可能性が高いと思われます。そう考えると、この時の「帥升」の使者派遣も「魏」の時の「卑弥呼」と似たような状況があったという可能性もあるでしょう。

 「帥升」は自分が正統な「倭王」であり、「金印」が与えられた「奴国王」の後継者であること、生口等の「貢物」を持参したことなど、「後漢」の皇帝を「至高」のものとしていることを表現し、変わらぬ忠誠を誓うと共に、「後漢」に対し「封国」への義務を果たすことを要望したと見ることができると思われます。
 「後漢」など「宗主国」は周辺国を「封国」とする限りにおいて、その「封国」に対して軍事的脅威などが外部からあった場合は「援助」や「仲裁」などを行う義務があったものであり、「宗主国」と「封国」の間にはそのような一種の契約関係があったとみられます。
 つまり、この時の「帥升」は「後漢」に対して何かしらバックアップを求めていたという可能性があるでしょう。実際的には、「軍」を派遣してもらいたいと言うより、武器等の援助を必要としていたということではないでしょうか。但し、『後漢書』からはその「帥升」等の要望がかなえられたものかは不明です。


(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2017/12/02)

コメント

「委奴国王」と「帥升」

2018年02月05日 | 古代史

 『後漢書』によれば「安帝永初元年」つまり「一〇六年」に「倭国王」とされる「帥升」の貢献があったとされます。

「建武中元二年(五十七年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(一〇六年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』

 この記事によれば「安帝永初元年」という年次で「帥升」は「皇帝」に会うことを「願請」したとはされているものの、それが実現したとか、「後漢」から改めて彼を「倭(国)王」として任命するというようなことがあったとは書かれていません。
 しかし、ここでは「帥升」について「倭国王」という表現がされています。これは内実として「光武帝」の末年に「倭」を代表する形で「奴国」が「後漢」の光武帝から「金印紫綬」を受けていることと関連していると思われます。
 この「奴国」の奉献はちょうど巨大津波が列島(特に西日本)を襲ったと考えられる年次付近(あるいはその直後か)と思われます。そのこととこの「遣使」の間には関係があるのではないかと推察されます。

ここで使用されている「倭国之極南界」という表現に近似する用例は『後漢書』内にかなりありますが、いずれの場合も「極」は「極める」という意味ではなく「最高」とか「最大」という意味で使用されています。文法的には「之」で接続されているので「極南界」という語句は「名詞句」であると判断できます。その場合「極」は「形容詞」となるでしょう。つまりここでも「最大の」という意味となると考えるよりなく、「倭」つまり「倭人」が居住する地域の範囲では最も南の境に位置する、という意味とならざるを得ないものです。
 この「奴国」がそのようなロケーションであったとすると、当時の「倭」の範囲として後の「狗奴国」につながる存在が「近畿」付近を措定できることを考えるとそこを北限として考えることとなりますが、そのように「倭」の広がりを想定した場合「九州島」自体を「極南界」という表現したとして不自然ではないといえるでしょう。

 ところで、「高地性集落」の分布からみても「九州」にそれほど数も多くなく、また「比高」の低い集落しか見られないことなど、「二千年前」の地震の際に発生した「津波」の影響が些少であったという可能性があるでしょう。
 この時の巨大地震の震源が「南海トラフ」であること、またその西側である「日向灘」付近までプレートが動いたとしても、九州島の北岸まで回り込んでくるほどの津波そのものがなかったか、あっても相当程度エネルギーが減衰していたものと思われることなどから(実際に陸上地域に津波堆積物の痕跡がないと思われます)、他の地域に比べて生産力や人や財産に損失がそれほど多くなかったということが考えられます。そのため国力の低下などが起きたとはいえず、他の国に比べ「優位性」を持っていたという可能性があるでしょう。
 そう考えるとこの「後漢」への使者派遣は津波直後であり、他のより東方の国々の「国力」(生産力や人口など)低下に対応して「倭」の中心王朝の地位を固めた時点であったとも考えられるものです。ただしそれはまだ列島を覆うほどの広範囲に亘るものではなかったものであり、それは記事中にも「金印」の字面にも「倭王」という表現がされていないことにも現れているといえるでしょう。あくまでも「倭」という一種の地域名あるいは地方名を冠した表現となっており、その権力がまだ十全ではないことを間接的に示していると思われます。
 それはその後の「一〇六年」の「帥升」の「貢献」につながるものであり彼も「九州北部」にその拠点があった「奴国」の王であったという可能性が最も高いと推量されます。
 彼はこの段階で『魏志倭人伝』に「邪馬壹国」率いる「倭王権」の実情として書かれているような高度に統一された統治体制の「原型」を構築したものとみられます。
 つまり、この「帥升」に至って、諸国連合的な体制から進化したものと思われ、それは「原・狗奴国」との対立という外圧がそうさせる要因となったと考えられます。体制強化という至上命題の中で「国郡県制」というべき統一王権としての政治体制を作り上げたものと見られます。そして、その時点で「奴国」へ授与された「金印」も「帥升」の手中に入ったと見ることができるでしょう。ただし ここで「倭国王」と書かれているのは『後漢書』の表記法によるものと思われ、実態とは異なると思われます。


(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2017/12/02)

コメント

「天鈿女」と「西王母」

2018年02月05日 | 古代史

 ところで前述した勝俣氏の議論の中では「天鈿女」について「オリオン座」とされているわけですが、その「天鈿女」の原型は「西王母」であろうとされています。
 「西王母」とは古代中国で崇拝されていた「女神」であり、西の果て崑崙山に住むとされていました。そして彼女についての描写を見てみると「…豹尾・虎歯にして善く嘯く。蓬髪にして勝を載する。…」とあり(※)、「勝」つまり髪飾りをしているという描写は「天鈿女」という表現によく重なるものと思われるわけです。
 「記紀神話」における「天宇受売尊」という人物の名称における「宇受」とは「頭」のことであり、そこには「髪飾り」をしていたという意味が隠されていると思われます。また「天鈿女」とする表記もありますが、この「鈿」は「かんざし」のことであり、まさに髪飾りを意味するものです。

 神話世界では「天鈿女尊」(「天宇受売尊」)は「オリオン(座)」の表象とされているようですが、この「オリオン」は古代中国の「西王母」の投影とする見方もあり、そうであれば「西王母」は上のように「華勝」つまりきれいな花飾りを頭に付けていたとする史料もあるところから、まさに「天鈿女尊」そのものといえます。つまり「日本神話」の天孫降臨伝説は「西王母」信仰の元に形成されたと見られるわけであり、その文化の発祥から中国文明の強い影響の元に形成されたと見られるわけですが、それは「弥生時代」の始まりが「中国文明」の元の人の移動にともなうものであったと推定される事と整合的です。

 「西王母」という存在は古代エジプト神話における「イシス」神が影響を与えているという考え方もあります。「イシス」神とは「紀元前一〇〇〇年」以前に起きた信仰であり、ナイルに豊饒をもたらすとされ、背に翼を持っていることでも知られています。(「西王母」も「有鳥焉、其状如[羽/隹]而赤」とされており共通しています)、もしそれが正しいなら「瓊瓊杵尊」のように「天鈿女」を使役できる人物(神)は誰かということとなりますが、それに該当するのは「兄」であり「夫」である「オシリス神」しかいないと思われます。いくつか説がありますが、この「オシリス」神が当初「シリウス」に投影されていたというものもあるようです。そうであればその意味からも「瓊瓊杵尊」が「シリウス」に該当するということは言えるのではないでしょうか。つまり「シリウス」「ベテルギウス」「アルデバラン」というセットでバビロンやエジプトの影響を「西王母」信仰が受けたたものであり、さらにそれが「倭国」に「瓊瓊杵尊」の天孫降臨伝説という形で伝わったと見る事ができると考えられるのです。(「西王母」と対で語られる「東王父」が後代の追補的存在と考えられているのもそれを間接的に証しています)

 この時代に(中緯度地域では)気候寒冷化が始まり、温暖な気候と幸を求めて人々が長距離を移動せざるを得なくなったものですが、その主役となったのが「海人族」ではなかったでしょうか。
 大陸からや半島などからあるいは列島内においても長距離移動としては「船」が重要視されたものであり、そのため「海人」が「倭人世界」で主導権をとることとなったものと思われるわけです。それが「北部九州」に権力中心を形成することなり、「奴国」あるいは「伊都国」の台頭として現れたものと思われるわけです。しかし、その後これら「奴国」「伊都国」は「邪馬壹国」という内陸型都市国家の形成とともに衰亡し、非主流となっていったわけですが、それはこの「神話」が「一書」としての位置しか与えられていないことからも推察できるものです。


(※)「…又西三百五十里、曰玉山、是西王母所居也。西王母其状如人、豹尾虎齒而善嘯、蓬髮戴勝(註)、是司天之[厂<萬]及五殘。有獸焉、其状如犬而豹文、其角如牛、其名曰狡、其音如吠犬、見則其國大穰。有鳥焉、其状如[羽/隹]而赤、名曰[月生]遇、是食魚、其音如録、見則其國大水。
(註) 蓬頭亂髮。勝、玉勝也。…」(『山海経』より)


(この項の作成日 2016/06/14、最終更新 2017/11/12)

コメント

倭王権の交代(出雲から筑紫へ)

2018年02月05日 | 古代史

 以下も一度投稿している内容を含んでいますが、改めて全文を示します。

 そもそも「紀元前八世紀」に入って「一大気候変動」が起き、それに伴い「周」王朝が衰退するなどした結果列島でも「寒冷化」が起き「弥生時代」が始まるわけですが、この時の時代位相の変化は(気候変動が食料調達の困難さを伴うものである事から)必然的に人の移動を伴うものであったものであり、その流れは列島内では北方から南方へというものであり、また大陸から列島へというものであったものです。そのようなケースの中には大陸から周王室の血筋を引く人物が列島にやってきたということも考えられます。
 そのようなケースがあったとすると、彼は列島の人々から「天孫」と考えられても不思議はなかったでしょう。そしてそれはその後「倭」からの使者が「大夫」を称する淵源となったとも考えられることとなります。

 弥生時代の倭では「周」に対する畏敬の念はかなり深かったものと思われますが、その一因としては「弥生」文化の主要な担い手が大陸(特に江南方面か)からの流民であり、かれら自身が「周」王室に対して一定の敬意を持っていたと思われるからです。それは「呉」の成立の事情と関係していると思われます。
 『史記』によれば「周王朝」の王子が「呉」の建国者とされており、「呉」の人々の「周」に対する畏敬の念は当時の倭人と共通していたという可能性が考えられます。倭人も『後漢書』等によれば「呉の太白の末裔」を自称していたとされ、そのような人々が弥生の倭王権(原初的なものとは思われますが)の主人公であったとすると、周王室に関係した人物について「王」として新たに戴くことに大きな抵抗があったとは思われません。

 平安時代までの宮中講義で、天皇家の「姓」が問題となり「姫」氏であるとされているらしいことが判明していますが、それが「周王室」の姓であるのは明らかとなっています。そのことは「周」王朝と日本国の源流であるところの倭王権が「同祖」であることを示しますが、それがどの時点に分岐点があるのかというと従来明確とは言えなかったと思われますが、すでに行った分析により「弥生時代」の始まりの時期こそがまさにそのタイミングであったらしいことが強く推定されることとなったわけです。(この時代に「西周」が崩壊したとされていますから、その意味でも整合しているわけです。)
 この時点で「初代王」としての「瓊瓊杵尊」が降臨、つまり中国から渡来し、「倭」という東夷において「周」に対する敬意の元で中国文明に対して従属するという意識を持った王権が形成されていったものと思われるわけです。

 ところで、この時点で彼らがどこを拠点として活動していたかというのは「弥生時代」がどこで始まったかという最近の研究が示しています。それは北部九州であり、この場所は他の地域がまだ「縄文時代」あるいは「縄文的生活」を送っていたその時点で「弥生時代」に入っていたわけであり、時代の位相の断層がそこに存在していたものと思われるわけです。そこにその後存在していた「奴国」「伊都国」において「爵」の存在を措定する必要がある官職名が存在していたことでもうかがい知れます。(後述)
 その後中国で春秋戦国時代の後「秦」により中国が「始皇帝」の元統一されたわけですが、この時点付近で再度「東夷」へ流入した人たちがいたと思われます。それは「徐福」伝承がその実態を伝えるものなのかもしれません。この時点で流入した人たちは「周」の後裔の人々が中心を占める「九州北部」を避けそれより東方へとその拠点となる地域を選定したものと思われ、その時点で「北部九州」以外にも「弥生時代」が訪れることとなったものと推測されます。それを証するように「徐福」の伝承が伝わる地域はかなり広範囲にわたっており、その多くが九州以外の地です。そこでは徐福が伝えたという薬草や銅鐸も彼が伝えたという可能性も指摘されています。たとえば「徐福」の家譜とされる「草坪・徐氏宗譜」には「祈祷」「薬草」に詳しい「方士」(方術という道教の知識を持った僧)が宗祖であるとされています。
 
 日本神話を見ると「国譲り」が描かれており、それは「出雲」から「筑紫」へという権力移動を示していると思われるわけですが、それは上にみた「周王朝」の関係者が大挙して列島に移り住むようになった時期以降であることは確かですが、同時かどうかはやや疑問です。やはり「筑紫」の周辺地域において統治実績を上げた上でその後周辺に影響力を及ぼしていったと見るべきであり、やや時間差があって当然といえます。いずれにしても弥生以前あるいは弥生初期においては西日本全体の支配の中心が「出雲」にあったことは確かであると思われます。
 そこでは「出雲」と「諏訪」の関係の他、「出雲王権」の出自が「半島」に起源をもつものであること、彼らは「武器」というより「医薬」の力で信頼と尊敬を集めていたことなどがうかがえるものです。周に対する貢献として「鬯草(暢草)」の献上などが挙げられているのは、後の時代においても「出雲」という地域が「医薬」の中心として機能していたことと深く関係していると見るのが自然です。それはこの「鬯草(暢草)」が「服す」という語が使用されていいる点からみても「薬草」として献上されたらしいことが推察でき、そのようなものが「出雲」の特産である各種の薬草などと関係があると見るのは当然だからです。

 その「出雲王権」がどれほど永らえたかは「銅鐸」を調べるとわかります。「銅鐸」が出雲の王権にとって重要な祭祀の道具であったことは疑えません。
 「銅鐸」の分布などを見ると「弥生中期」までは明らかに「出雲」との関係が各地で検出できます。しかしその状況は紀元前後に列島を襲った大地震と大津波によって様相が大きく変わったものであり、この時点で出雲と各地域の間に関係がなくなったあるいは相当程度希薄になったとみられるわけです。
 これを踏まえると「天孫降臨」は確かに「弥生時代」の始まりである気候変動による民族移動の結果であるとみられるものの、「出雲」の王権が列島を支配していた時期は相当長く続いていたものであり、天変地異によりその支配地域が壊滅したことで、「銅鐸」も別のタイプに替わられるなど宗教的祭主としての立場も空疎となったものです。この間隙をついて「筑紫」の権力者が「鉄器」を用いて威嚇したことにより列島の支配者が交代することとなったとみられますが、その主役は「奴国」あるいは「伊都国」という「邪馬壹国」に先行する「北部九州」の国ではなかったかと思われるわけです。


(この項の作成日 2016/06/14、最終更新 2017/12/01)

コメント

弥生時代と倭王権

2018年02月05日 | 古代史

以下は以前投稿したものと一部内容が重なっているものです。あらためて全体として投稿します。

 上にみたように紀元前八世紀付近で縄文時代に別れを告げ、弥生時代という新しい時代位相を迎えたわけですが、『書紀』の神話にもそれが反映していることとなりました。つまり「天孫降臨神話」の主役である「火瓊瓊杵尊」という名前から、その原型は「シリウス」が「赤かった」あるいは昼間も見えるほど「明るかった」時代を反映しているとみられるわけです。そして、それはとりもなおさず、紀元前の早い時期のことのことであったこととなるでしょう。それは紀元前後付近ではシリウスはほぼ現在と変わらない状態となっていたと推察されるからであり、神話の発生は弥生時代の始まりとまさに軌を一にするものであったという可能性を示唆するものです。
 つまりこの「星の世界」を投影した神話が当初形成されたのは当然古墳時代などではなく、もっと古い時代つまり「弥生時代」の始まりの時期が相当することとなるでしょう。

 すでに触れたように『論衡』『漢書』に記されたところによると紀元前十二世紀付近で倭と周との関係が初めて構築されたように見えます。

「周時(紀元前十二世紀)天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草。」( 「論衡」巻八、儒増篇)

「武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、厲衰微,戎、狄攻周,平王東走,以避其難。至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯,獻白雉一、黑雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。後至四年,金城塞外?良橋橋種良願等,獻其魚鹽之地,願?屬漢,遂得西王母石室,因為西海郡。周時戎、狄攻王,至漢?屬,獻其寶地。西王母國在?極之外,而漢屬之。德孰大?壤孰廣?方今哀牢、?善、諾降附歸德。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。夏禹?入?國。太伯採藥,斷髮文身。唐、虞國界,?為荒服,越在九夷,?衣關頭,今皆夏服,褒衣履?。巴、蜀、越?、鬱林、日南、遼東,樂浪,周時被髮椎髻,今戴皮弁;周時重譯,今吟《詩》、《書》。」(『論衡』巻十九、恢国篇より)

「玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、?貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門?之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以?豆,都邑頗放效吏及?郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歳時來獻見云。」(『漢書地理志』第八の下より)

 この段階は「殷」の宰相であった「箕氏」が「周王朝」成立後「朝鮮」に封じられその地に「周王朝」に対する敬意を抱く文化を醸成したとされますが、その文化の及ぶ範囲に「倭」もあったという事を示すものと思われ、その後の「倭王権」の従属意識の方向を決定づけたと言って良く、ここに書かれた「犯禁八條」の内容として『倭人伝』に書かれたものと多くが一致するのはそれを示しているといえるでしょう。

 しかしこの時点では「倭」ではまだ「縄文時代」であり、本格的な「クニ」造りが始まっていなかったと見られます。ただし、この時点で「半島」との交流が行われるようになった地域とそうでない地域とでは同じ「縄文」といいながら内実はかなり差があったことが窺えます。
 神話世界をみてみると「天孫降臨」の際には「葦原中つ国」を統治している「王」のような存在である「大国主命」という存在がすでに存在していることが描かれています。明らかに先在王権を意味するものであり、それが「半島」との交流の結果他地域に対して優越する軍事・文化を擁していたことが窺えるわけですが、それが「出雲」という地域として描写されているのは意外ではありません。半島との距離など考えると交流がありうるとして当然だからです。「スサノオ」についての説話の中に「新羅」との関連が示唆されるものがありるのもそれを示します。
 新進であり後発である「江南」からの彼等は「出雲」の権力者との関係をどう構築するかが最大の問題であったでしょう。それらは「国譲り」という神話として描かれることとなったわけであり、結果的に「軍事面」での優位性をアピールすることにより列島における「覇権」を握ったとみられ、それが「神話」に反映していると思われるものです。この時の「出雲」という地域が縄文を脱して弥生に先行して入っていたと思われるのは「豊葦原瑞穂の国」という言い方に現れており、すでに「稲作」が開始されているように窺えます。それは「朝鮮半島」から伝わったものと思われるわけですが、この時「鉄器」は当然利用されていなかったと見られ、青銅器により稲作に必要な工具が使用されていたと思われます。(当然「鉄器」に比べると利用効率はあまり大きくなかったと考えられます)
 また当然「兵器」も「青銅器」によっていたはずであり、後発の「江南」からの渡来者達が「鉄器」を利用した集団であったこととステージが異なっていたという可能性が高いと推量します。

 ところで「日本列島」の「鉄」の歴史は「砂鉄」による「たたら製鉄」に始まります。これは「弥生時代」に始まるものであり、主に「九州」「中国」地方周辺で「渡来人」などにより行なわれていたものと考えられます。
 その後半島で「鉄」が採掘されるようになり、それを「倭」の諸国も利用するようになります。これはついては『魏志韓伝』の「辰韓」の部分に以下のように書かれています。

「國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」

 ここにあるように「辰韓」からの供給であったようです。ここでは「從取之」と書かれており、これが意味することがやや不明ですが、「欲しいままに取る」という解釈もあるようであり、そうであれば、大量に国内に「鉄」が導入されたこととなると思われます。それを示すように『魏志倭人伝』にも「鉄鏃」について記事があります。

「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或『鐵鏃』或骨鏃。」

 ここでは、「鏃」つまり、矢の先頭につけられる「矢の威力」の急所ともなるべき部分に、「鉄」が使用されていると言っているわけです。古代の戦争において「弓矢」は汎用の武器であり、非常に大量に使用されたものと考えられます。「鉄」製の「鏃」であれば、「盾」や「甲冑」なども「薄いもの」であれば貫通してしまうぐらいの威力があると考えられ、このため「鉄鏃」は大量に国内で製造されることとなったのではないでしょうか。 
 そして、この「鉄」の大量入手が可能となった時点以降「出雲」に対して「国譲り」を迫ることとなったものと思われるわけです。つまり、「鉄器」(鉄製武器)が「大量生産」されることとなったため、「倭」の内部諸国にそれらが「普及」し、それが「内乱」へとつながっていくことを示していると考えられます。
 「記紀神話」における「国譲り神話」はこの「鉄製武器」の「大量生産」という背景を元に考えるべきものと思料されます。

 「筑紫」には「弥生時代」の初期に「降臨」した「江南系」の集団が勢力を持っていましたが、この時点以降「先行王権」である「出雲」に対する圧力を高めていったものと思われます。
 「出雲」では「弥生」時代の半ばより「砂鉄」を原料とした「鍛冶工房」が存在していましたが、そこで生産される「鉄」は「少量」であり、純度の高い「優秀」な「剣」を製作することはできるものの、「大量生産」はできません。このため制作された「鉄剣」などは「王」などの「限られた人たち」だけの独占物であったと考えられます。そして「朝鮮半島」(「辰韓」)より「大量」の「鉄」(鉄鉱石)が「倭」の諸国に流入するようになり「筑紫」を中心とした地域で「鉄製武器」が大量生産され始めると、その「鉄製武器」が「筑紫」の周辺に行き渡るようになり、その結果「武器」が「争い」を呼ぶようになって「内乱」が起きたものと考えられます。

 「記紀」の「国譲り神話」を見てみると(たとえば『古事記』)、派遣された「建御雷神」は「十握劒」を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座った、と書かれており、これは一種の「幻術」のようなものと考えられ、「後漢」の当時、「五斗米道」などの「鬼道」の一派が行なっていた「妖術」のようなものと同種のものと考えられます。このような「大量」の鉄製武器を背景にした「威嚇」により「出雲」を中心とした「旧体制」は崩壊し、「筑紫」中心の「拡大倭王権」が形成されていったものと考えられます。
 そして、この段階が「卑弥呼」の王権に先立つ「奴国」「伊都国」などの王権であったと思われます。彼等は基本的には「水軍」としての軍事力であり、「出雲」に対し「海」から圧力を加えることで彼等の行動を制限しようとしていた可能性があります。このような「大量」の「鉄剣」と「幻術」の組み合わせにより各地の勢力を征服していったものと考えられるものです。


(この項の作成日 2016/06/14、最終更新 2017/11/12)

コメント