古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫大津城」と「一大率」

2018年02月07日 | 古代史

以下の論は一度投稿したものとほぼ同一ですが、ホームページ閉鎖に伴い再投稿します。

 (以下の考は「佐藤鉄太郎氏」の論(※1)に依拠して進めます)

 『続日本紀』に「大津城」という名称が出てきます。

「『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条」「罷筑紫營大津城監。」

 この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
 そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。

 佐藤氏も言われるように「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は『書紀』『続日本紀』では全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
 その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して「栗隈王」が発言した中にも現れています。

「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」
 
 ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。しかもその言葉の中では「元」という語が使用されており、この城が以前から存在していたことが示されています。
 また「鴻廬館」に関しても『善隣国宝記』の中では「大津館」と記されている箇所があります。

(『善隣国宝記』上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」

 この『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって書かれた歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。ここでは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽院」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
 これについては同じく『善隣国宝記』の中に引用されている『海外国記』の中では「別館」という表現がされています。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到對馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」

 「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この「別館」が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えて相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたものと思われるものです。
 佐藤氏も指摘するように平安時代になり「新羅」による(というよりこれは海賊か)博多湾侵入事件があって後「太宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われています。
 この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛の拠点であり、ここが最前線であったことが知られます。

 このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。

「(宣化)元年(五三六年)夏五月辛丑朔条」「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝■于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。未詳也。加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰。宜遣尾張連運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」

 ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされています。このように考えてみると「大津城」(あるいはそれに相当する防衛拠点)が相当以前からこの地に存在していたという可能性が考えられ、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものとは考えられるものです。

 既に述べたように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してくる外敵(この場合は「狗奴国」か)に対して強力な防衛線を構築していたものです。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、その位置関係としては『倭人伝』に書かれた移動の方向と距離から、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと思われます。
 ただし、従来この位置は「奴国」の領域と考えられているようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなります。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」と「奴国」の間(あるいは「奴国」の背後にいる「邪馬壹国」との間)の関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「奴国」が「大津城」付近を自家のものとしたという推移があった可能性が考えられます。(「伊都国」は「倭」の中でも古参の存在であり、その実質的支配領域は時代が下るにつれ漸次減少していたのではないかと思われ、代わって「奴国」の領域が博多湾岸まで拡大したという可能性が考えられます。)

 弥生時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度ではなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。この博多湾はボーリング調査によって「海成層」(そこが海であったために形成された層)と「非海成層」(海であったことが推定されない層)との境界線が明らかとなっており、この「大津城」のあった場所の周囲は「海成層」であり、この場所が海中の「島」であった可能性が指摘されています。(※2)そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきであり、これが後の「主船司」につながる存在となったと思われます。
 またその「大津城」の構造としては、これは先に述べたように「朝鮮式山城」のようなものではなく、せいぜい「神籠石」のような列石を周囲に廻らした形のものであったとも考えられます。ちょうど「難波宮」のように海にやや突き出た位置に平坦な形で城を構成していたものではないでしょうか。


(※1)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)
(※2)下山正一「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」(『第四紀研究』第三十三号一九九四年)及び「九州地方の古地理」(『国土地理院時報』第一〇二号二〇〇三年)


(この項の作成日 2014/08/22、最終更新 2015/06/09)

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「邪馬壹国」の戸数の疑惑について

2018年02月07日 | 古代史

 ところで『倭人伝』では「邪馬壹国」の戸数として「七万戸」としていますが、『続日本紀』に現れる「庚午年籍」記事(以下のもの)から推定した「九州諸国」の戸数として「三万八千五百戸」ほどという数字とかなり差があり、約2倍ほどとなっています。

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳提。可七萬餘戸。」『倭人伝』

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」『続日本紀』

(「庚午年籍」は「一里一巻」で構成されており、またこの『続日本紀』編纂時点及び記述対象の神亀年間は「一里五十戸制」であったところから、「七百七十巻」とは「三万八千五百戸」を意味すると思われる。)

 『倭人伝』当時とその後の七世紀半ばで大きく戸数が異なるわけですが、(邪馬壹国の)戸数を過大としないならば、その領域として(「薩摩」「大隅」が「投馬国」であるとすると)九州島に納まらないものとみられ、中国地方あるいは四国の一部がその中にあったのではないかと推定せざるを得なくなります。しかしそれはかなり疑問ではないでしょうか。それでは当時の「クニ」領域として広大に過ぎるものであり、この領域内統治だけでも負担になるように思えます。また海峡などは「自然国境」として機能していたはずであり、単体の領域として「九州島」の中に収まらないというのは明らかに不自然です。その意味では「七万戸」あるいは「投馬国」の「五万余戸」というのは不自然さが感じられ、魏使に対して「過大」に報告したという可能性が考えられるでしょう。その意味で戸数の前に「可」という文字が使用されているのが気になります。この「可」には色々意味があり、多くは「可能」の意味ですが、「推測」の意味もあるようです。その意味ではこの「七万餘」という戸数も推測によるという可能性もあるかもしれませんが、「戸数」か表示されていることと矛盾するようにも思えます。「戸」が表記されているのは「戸籍」にもとづく実体のある数字と見るべきですから、ここで「推測」を示唆する「可」が使用されているのは別に意味があると見るべきでしょう。

『東夷伝』中には広さなどを表記する場合に多く「可」が使用されており、これはその数字が推測による以外に入手の方法がないという実態が表されているようであり、現在のように正確な測量などができてはいなかったわけですから、数字が推測の下のものであり、誤差を含んでいるのは当然であったと思われます。

「夫餘在長城之北、去玄菟千里、…方可二千里。」『夫餘伝』

「高句麗在遼東之東千里。南與朝鮮、…、方可二千里、戸三萬。」『高句麗伝』

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。…、可千里、…」『東沃沮伝』

「韓在帶方之南。…、方可四千里。」『韓伝』

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。…千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。」『倭人伝』

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」『倭人伝』

 また『倭人伝』だけに「戸数」に対し「可」の字が使用されています。

「南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。」『倭人伝』

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸。 」『倭人伝』

時代は下りますが『隋書たい国伝』においても「戸数」に「可」が使用されています。

「開皇二十年…戸可十萬。」『隋書たい国伝』

 これらの「可」という文字は「概数」と「推測」を表すものではありますが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見ることができそうです。そのため結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないでしょうか。そうであれば「魏使」に対して提示した数字そのものに何らかの修正を施していたものとみることは可能かもしれません。それに対し最後に示した『隋書たい国伝』においても同様に「戸数」表示に「可」の字が使用されていますが、それ以前に「伊尼翼」と「軍尼」について記述があり、そこからの計算値とこの「戸可十萬」という値とが整合していますから、実態と大きく異なる数字を提示したわけではなかったものと推測されます。単に数字が大きくなると細かい部分まで示すのは「煩雑」と考えたと言うことが最も可能性が高いでしょう。

 以上から「卑弥呼」の官吏は「魏使」に対して「邪馬壹国」と「投馬国」の両国の戸数について「誇大」な数字を提示した可能性があるといえそうです。これは「戸」を開示しなかった国もある(「一大国」「不彌国」)ことと同様の性質の対応であり、「魏使」に対する一定の警戒を示すものといえそうです。「魏」から自分たちの国力を過小に評価されないようにという意志が感じられるともいえます。特に「都」するところの「規模」を大きくいうことで「卑弥呼」の権威が強いことを表現し、それによって「魏使」に対し「邪馬壹国」という「クニ」が統治の中心であることをアピールしようとしたのかもしれません。それは「伊都国」「奴国」というそれ以前に「中国」と通交のあった「クニ」とはその規模が異なる事を示すことで、現在の「倭」の中心が「邪馬壹国」にあることを印象づけようとしたということが考えられます。
 実際その「七万余戸」という戸数規模は「東夷伝中最大」であり、他に例を見ないものです。それは他の「クニ」に直接統治のためとして「官吏」を派遣していたという統治体制の中身と相まって、中央集権的権力が「邪馬壹国」を中心として実現しているという実体を主張するものであったと思われるものです。
(しかし実際には「七万余戸」ではなくその半分程度ではなかったでしょうか。それであれば「庚午年籍」からの推定ともそれほど違いません。)


(この項の作成日 2018/02/03、最終更新 2018/02/05)

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「女王国」の領域と「一大率」

2018年02月07日 | 古代史

 『魏志倭人伝』は「自郡至女王國萬二千餘里」とありますから、「帯方郡」の「郡治」が置かれた場所から「女王国」までの総距離が「萬二千餘里」であることが明記されています。この里単位が「漢代」のものであったとすると、総距離として「5500km」という数字が出ます。これを地図に落とすと前述したように「インドネシア」まで届くほどの遠距離となります。この数字が意味するものは既に述べたように当然「漢」の長里ではないこととなりますが、といってこの「里」が「短里」であるとすると近畿には到底届かないことになります。つまりこの里単位によれば「倭」(その中心的な国の邪馬壹国)が九州島(しかも北部九州)にあったことは明白であるわけです。
 また、對馬、壱岐にくるときには、「海を渡る」意味の文がありますが、それ以降にはまったく存在しないので、この意味からも九州島を離れて「渡海」して他の地域には行っていないと考えられます。(九州の他の場所に船で行くときは単に「水行」という表現を用いる)
 また「倭地温暖」とか「冬夏食生菜」であるとか「倭人皆徒跣(裸足)」という表現などやその他「黥面文身」などの倭人の習俗を記した文章から考えても、「倭」は「南方」の雰囲気が強いといえるでしょう。(ただし、「魏」の都「洛陽」や帯方郡都に比べると、という意味ではありますが)
 これらのことは「九州島」の中に(特に北部)「倭」の中心があったと考えざるを得ないことを意味します。

 ところで、『倭人伝』の記載から「女王国」より「北」にある各国については、その詳細が「略載」できるとされていて、そこ(女王国)までは「魏使」が訪れた事を示すものの、「伊都国」の説明の中に「『魏使』が常に駐まるところ」とされていることを挙げて、そこ以上には「行かなかった」という意味であると理解する向きもあります。
 しかし「駐」の本義としては「馬」や「車」をある程度長い時間止めることを指すものであり、移動してきた「魏使」はそこで「馬」を休め、休息をとり、食糧を確保するなどの支援を受けたものと思われますが、そこから先には行かなかったということはこの「駐」という語からは窺えません。

(その余の傍国について)
「…自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。…」

 この文脈からは「斯馬國」以降に書かれたこれら「女王国」の「向こう側」の「諸国」については「遠絶」であるため、容易には行くことができないため詳細が分からないとしているのです。このことから「国名」だけが書かれている「二十一国」については、そこに書かれた記事内容については(実際には行けなかったとするのですから)「倭人」からの「伝聞」であると理解できます。さらにこれらは「女王国」の至近の国、少なくとも「魏使」が足を伸ばせば簡単に行けるような場所ではないこととなるでしょう。
 また『倭人伝』の記載から考えると、「邪馬壹国」までのクニ数と「遠絶」であるとされるクニ数とがかなりアンバランスであることが分かります。
 「邪馬壹国」までのクニ数として『倭人伝』には「七国」しか書かれておらず、(ただし、投馬国を含む)それに対し「より遠方にある」と推定される「其餘旁國」は「二十一国」あるわけですから、「邪馬壹国」の位置として「列島」の中ではかなり「西」に偏っていることが推定されます。(その東側の境界は中部地域付近か)
 そう考えると、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」が「倭人伝中」ではその「検察対象」が「以北」地域であるように書かれていることが注目されます。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」

 上でみたように「女王国より以北」には余り多くの国がないことが推定され、「狗邪韓國」以降「伊都国」まで、およびその周辺各国が想定されている地域と考えられることとなります。そう考えると「一大率」にとっての「外敵」というのは海から侵入してく勢力であり、そのような「外敵」に対応するというのが、この「一大率」の目的の最大のものであったと考えざるを得ないものです。

 そもそもこの「一大率」の「大率」は「将軍」あるいは「指導者」のような形容として使用されているケースが多く、「個人」を対象とした呼称ではあると思われます。それは「卑弥呼」が派遣した「難升米」達に「魏」が「銀印青綬」を与えた際に彼らに「率善中郎将」等の称号(官職)を与えたという中にも現れており、そこにも「率」という文字が使用されていることとの関連が注目されます。このことは「率」にはやはり「軍」を「率いる」という意があることを示し、この「一大率」も同様に「軍」を率いていたことが推測され、文字通り「将軍」というような役割があったことを示します。
 さらにもし「一大率」という存在に実効的軍事力が伴っていないとすると「防衛」という成果を上げ得るとは思えませんから、当然「一大率」のいるところには彼の配下として「軍事力」があったと考えざるを得ません。つまり「伊都国」にはかなりの軍事力が集結していたと考えられることとなります。
 しかし、これはある意味大変不思議です。なぜなら、「邪馬壹国」の最大の敵は『倭人伝』によれば「狗奴国」であり、それは「邪馬壹国」の支配の範囲の向こう側にあると考えられるものですから、「南」あるいは「東」に存在しているのではないかと考えられ、少なくとも「北側」ではないと思われるからです。にも関わらず「南」や「東」には「防衛線」が構築されているように見えません。これについては「狗奴国」側は「日本海」ないしは「瀬戸内海」を「船」で「西下」し、博多湾から直接攻撃していた(しようとしていた)のかも知れません。

 当時は「官道」はもちろん整備されていなかったと見られますから「陸上」から侵攻するとしても大軍を送ることはできなかったものと見られ、それよりは「船」を使用した「水軍」が主戦部隊であったと思われます。これに対応するべく「一大率」が控えていたと見るべきでしょう。(その意味ではこの「一大率」の主力も水軍であった事が示唆されます)それは「博多湾」が最も「邪馬壹国」に至近の「湾」であり、そのため「一大率」は当然「海岸線」(それも「博多湾岸」)に水軍と共に監視と上陸阻止のために「城」を構えていなければならなかったはずと思われ、「一大率」が常治していたという「伊都国」はこの「博多湾岸」にその領域の一部があったと見るべきと思われるのです。そしてそれはその後「大津城」と呼称されて後々まで残っていたものではないでしょうか。
 博多湾の水深が深くなく、大型の外洋船などは進入できなかっただろうという論もありますが、「狗奴国」などの国内で使用されていた船はそれほど大型であったとは思われず、博多湾奥深くまで進入可能であったと思われ、これを阻止するための防衛線が博多湾にあったとみるのが相当と思われます。
 
 
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2018/02/06)

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