古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『魏志倭人伝』とは

2018年02月05日 | 古代史

 『三國志』を著した「陳寿」は、滅ぼされた「蜀」の史官であったものであり、「諸葛孔明」の部下であった男です。しかしその能力を「魏」の「曹操」に買われ、「晋」の史官として『三國志』を書いたものです。
 伝えられるところによれば、「陳寿」が「『魏』にとって悪口と言えるものも書くがそれでもいいか」と云ったところ「曹操」が「それでもよい」と云ったので、「曹操」の元に仕えるようになった、と言うエピソードがあるそうです。
 『三國志』は紆余曲折がありましたが、「陳寿」の死後正式な史書として皇帝の認めるところとなったものです。
 この『三國志』は「魏志」「呉志」「蜀志」に分かれており、その「魏志」に「夷蛮伝」がつけられており、「南蛮伝」などの後に「東夷伝」があり、その中に「韓伝」などと並び、最後尾に『倭人伝』があるのです。

 『魏志倭人伝』には「南朝劉宋」の「斐松之」という人物が校定した刊本があり、その中では『魏略』という書物からの引用が書かれているものがあります。この『魏略』は「二八〇年」に「魚拳」により書かれた魏の歴史書で、「陳寿」がまとめた『三國志』に先立つこと二~三年の書物です。(現在は失われています)そこからの引用文の中には「倭人は呉の太伯の末裔であると自称している」という文があります。
 「呉の太伯」というのは、紀元前十二世紀ごろの人で「周」の王子であったものですが、聖人の資質を持つ末弟(文王の父)に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、その地の風習である「文身断髪」を行い「後継ぎ」の意志と資格のないことを示したものです。
 当時「王」(天子)になるべき人物は「通常」の人物とは違うとされており、「支配」されるべき「未開」で「粗野」な人達の風習などを自ら行うような人物は「天子」にはなれないとされていたのです。それを行うことで「太伯」は「後継者」の候補から自ら脱落して、弟に道を譲ったわけです。彼は自ら「勾呉」と号し、「呉の太伯」と呼ばれた、というものです。
 この「呉」の国は、「春秋時代(BC770~BC402)」の列国「呉」の発祥であり、揚子江流域を領土としていたものです。この春秋時代の始まりの時期は全地球的気候変動の時期と一致しており、そのことからこの時点で「呉」付近である「江南」の地から適地を求めて移動を始めた人々が列島に流れ着いたという可能性があります。呉の末裔という自称には根拠があったものと思われるわけです。
 『後漢書』にも「倭人自ら大夫と称す」という記事があり、(「大夫」というのは「周」の制度にあるものです)制度的にも古くから「周」の影響を受けていたことがわかります。

 『魏志倭人伝』の評価としては、著者(西晋の史官陳寿)の生存中の出来事を記録した「同時代資料」であり、他の『後漢書』その他の後世にまとめられた書物とは意味合いを異にしているといえます。すなわち、『三國志』に書かれている記述を後世の書物や「目」から見て改訂(改悪)することは極力避けなければならないと言えます。するとまず国名から問題とならざるを得ません。
 通常「邪馬台国」と言い習わされていますが、『三國志』内には「邪馬壹国」として登場します。
 この名称は、『三國志』の現存するすべての版本で共通です。(『三国志』を含め古代の史書は、その原本は残っておらず、すべて版本ないしは刊本の形で残っており、(「北宋年間に「秘府」(皇帝専属の図書資料)に保管されていた古典の出版が企画されたもの)、その中では『三國志』の刊本が一番古くに作られています)
 書写段階あるいは版本の段階で明らかに書き誤ったか、写し誤ったという証拠がない限り、基本的にはこの名称で通称するべきでしょう。

 現在いろいろとこの『三國志』の現存版本に(他の部分に)誤りがある、という指摘があり、そのため「邪馬壹国」関連の記述にも疑いがかけられていますが、それらについて逐一点検すると、後世の目で「間違い」と考えられやすい場合でも、逆に古代の真実が隠されていることが多いことが古田武彦氏により証明されています。(※)そのことにより「邪馬壹国」という表記をはじめ、多くの部分について正しいと考えられるようになっています。
 たとえば『魏志倭人伝』の中に「倭」の位置・方向を概括的に示すのに「会稽東治の東」という表現をしているところがあります。この中の「東治(ち)」という表現が見慣れないため、「会稽」が地名であるから、その後ろに続く部分もまた地名であろうと判断し、(「東冶」という地名が当時存在したため)「東冶(や)」の写し間違いである、という説が有力でしたが、この記事が書かれた当時「会稽」郡「東冶」県が「呼称変更」により「建安」郡「東冶」県であったことが明らかになり、郡県制による地名としては「会稽東冶」がありえないことが明らかになったのです。(『三國志』内に郡名称の変更記事がかなりあります。著者「陳寿」は、自らが書いた「郡県名」変更記事と矛盾する記述は他にはただの一例もしていません)
 結局「会稽東治」という表現については「夏后小康の子」の治績(「断髪文身により虹龍の害を避けせしむ」という功績)についての尊称、という考えが妥当と考えられますが、いずれにしろ結果的に現存『三國志』に書写間違いがそれほど多くはなく「信頼性が高い」という証明になっているものと考えられます。

 ところで、前述したように「会稽東治」という用語に関連し「夏后少康の子」のことについて書かれています。彼に関することが倭人の習俗とあたかも関係があるかのような文脈で記載されているのです。しかし『魏略』には倭人は自ら「呉の太伯の後」と称しているわけですから、「呉」と関係があることを自称していたのです。このこと当然「陳寿」も知っていたはずですが、これを認めず、「夏后少康の子」の統治実績と関係があるかのような書き方に変えているのです。
 「夏后少康」とは「夏」王朝第六代皇帝であり、「夏后少康の子」( 無余) は「会稽に封ぜられ」て「越」の始祖となった、と考えられている人物です。
 『呉越春秋』によれば「夏后少康の子」(「無余」)が「会稽」に封ぜられた理由は「会稽」が「夏」王朝初代皇帝の「禹」の亡くなった地だからであり、ここに封ぜられて以降「越」の始祖となるのです。つまり「越」は本家「夏」から分家した国だったのです。
 『倭人伝』に「夏后少康の子」の治績として「断髪文身、以って蛟龍の害を避けしむ」と書かれているわけですが、この内容は「呉の太白」の行ったことと同一です。(もっとも「無余」は自分で断髪文身したわけではなく、その土地(会稽)の人をそのように教育・指導したものです)
 しかし、「呉の太白」のほうが時期的には遅いのですから、「呉の太白」はそのこと(「夏后少康の子」の治績)を知っていてそれに習ったものと考えられます。そのため、本来は「呉の太白」の治績は「夏后少康の子」の治績として評価されるべきものであるという「陳寿」の「主張」でもあるわけであり、それは『倭人伝』の中で特に強調されてることなのです。
 この部分は『三國志』は「魏」の正当性を主張する史書である、という点を考慮するとわかりやすいと思われます。もし、倭人が「呉」の末裔であるとすると、かえって「文化」が広く伝わっている、という点で「呉」王朝の正当性の主張になりかねず、その「呉」を滅ぼした「越」の影響下に成立した文化である、として「呉」の影響ないし存在を過小評価し、否定する記述となっていると考えられるのです。
 「呉」を滅ぼした「越」は「夏」王朝につながり、「夏」王朝は中国の古代の中心王朝であり、そのまま「漢」を通じて「魏」と連続していることとなっていて、「魏」という国家の正当性は「倭人の習俗」という点からも証明されている、という牽強付会の文章となっているのです。


※古田武彦「『邪馬台国』はなかった」他一連の著作による


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2017/01/16)

コメント

古代の琴と弦の数

2018年02月05日 | 古代史

 (以下は増田修氏の研究(※)に準拠します)

 「舞」等に欠かすことのできないものに「伴奏」があり、「楽器」があります。古代の「楽器」で著名なものは「琴」や「笛」ですが、倭国の「琴」としては、古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「埴輪」などがありますが、その研究によれば、地域により「弦」の数に違いがあるのが確認されています。
 それによれば「筑紫」地域を中心とした西日本に出現する「五弦」型と関東地域の「四弦」型とが確認できるとされます。ただし関東からは「四弦」型の他に「五弦」の「西日本型」も埴輪として出現しています。また「常陸」の国の領域からは「五弦」型しか出土していないという地域的特徴があるようです。 
 ところで正倉院に「六弦」の琴が「御物」、つまり「天皇」に直接関わるものとして保存されており、これは現代の「琴」につながるものとされます。このタイプの「六弦」の「琴」は関東の「四弦」と同じ音階と推察され、(一~四弦までは「四絃琴」と同音階で調弦されており、第五絃と第六弦は各々三弦と四弦に対して倍音設定されています。つまりオクターブ高い音で二音ダブっているのです。)このことから関東の「四弦」の改変型であるようです。またこのタイプの「琴」の別名が「あづまごと」というのも示唆的です。
 これに関しては「今昔物語集」にある「大江匡衡」に関するエピソードが興味を引かれます。
 彼は「十世紀」から「十一世紀」にかけて活動した人物ですが、説話の中には「宮廷」の女官から「和琴」を演奏するよう仕向けられたものの、次のような「和歌」を作ってその場をやり過ごしたことが書かれています。

(今昔物語集巻二十四第五十二話「大江匡衡、和琴を和歌に讀む語」より)
「あふさか(逢坂)の關のあなたもまだみねばあづまのこともしられざりけり」

 つまり、「あづま」の「こと」(「事」と「琴」を掛けている)は知らないので「和琴」など演奏できません、というわけです。この事は「和琴」が「あづま」のものであること、「匡衡」のような宮廷人といえどもそのことの詳細については無知であること、宮廷の女官達ぐらいにしか知られていなかったことなどがわかります。
 このように「あづま」(関東)特有の「四弦琴」と「宮廷」の「六弦琴」の関係からみて「関東」の権力者と新日本国王権の関係がかなり濃密であった過去があったことを推定させますが、「平安時代」になるとその関係が関係はかなり希薄化していたことが知られます。そのような契機となったものは「藤原」四兄弟の天然痘による死去ではなかったでしょうか。これ以降「藤原氏」の影響は以前よりかなり小さくなったと見られるわけですが、彼等の祖である「鎌足」(中臣鎌子)はその出身が「常陸」という説もあり、その意味で新日本王権は関東の権力者がその主体あるいはその頂点にいたことを推定させるわけです。(当然それは「平安時代」をかなり遡上する時代の関係として考えるべき問題でしょう。)
 
 また『雄略紀』に「呉」の人が「渡来」した記事がありますが、彼は「呉琴」の奏者の祖とされていますから、彼により「呉琴」が持ち込まれたものと思われますが、この「呉琴」とは「帝舜」が奏したという「五弦琴」を指すと思われ、これは当時の中国でも「北朝」というより「南朝」の領域で多く弾かれていたものです。

「(雄略)十一年…秋七月。有從百濟國逃化來者。自稱名曰貴信。又稱。貴信呉國人也。磐余呉琴彈■手屋形麻呂等。是其後也。」

 「五弦琴」はそれ以前からもあったと思われるものの、中国のものとは弦の張り方(並行なのか放射状なのか)など細かい点で違いがあり、この時点以降倭国独自のものから中国式へ主流が変ったということが考えられるでしょう。

 また、『隋書たい国伝』にも「五弦の琴と笛がある」と書かれていることが思い起こされます。(ただし、この「五弦」という表現を「琵琶」のことと理解する向きもありますが、その場合の「琴」の弦数は当時の「隋」と同じ「七弦」であると言うことになりますが、日本では「七弦」の「琴」が遺物としては全く残っていないことや、沖の島に「八世紀」頃廃棄されたと考えられている琴が「五弦」であることと矛盾することとなると思われます。『隋書』の中では「琵琶」と「五弦」及び「琴」は正確に書き分けられていることを考えると、これを「琵琶」と見ることは出来ないものと思われます。)つまりここでは「五弦の琴」という「古典的」なものを発見して特に表記したものと理解すべきでしょう。

 「中国」では「七弦琴」が長く使用され、「隋」以前の「六朝時代」やそれ以前も「七弦」であったと考えられています。その「調弦法」は「四弦」と「六弦」の場合と同様「二弦」がオクターブ離れて調弦されるものが一般的であり、(曲により「調」が違う場合があり、その場合は「調弦」が違う)「西日本」の「五弦琴」と中国の「七弦琴」とが「同源」であるという可能性が考えられますが、一般には「五弦琴」は「帝舜」が弾じたという記述があり、周王朝時代以前の古式であるという可能性が考えられます。それを「列島」では早期に受容した後改変せずそのまま保存していたということが考えられますが、中国から「七弦琴」が渡来するチャンスがなかったらしいこともまた推察されます。

 周王朝に捧げられた「舞」も「琴」も元々「王」の独占するところであり、祭祀等のセレモニーには不可欠であったと思われ、後代の『隋書俀国伝』にも「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂」と書かれており、「朝會」つまり「朝廷」が開かれるたびに必ず「儀仗」つまり「儀式」のための「武器」「武具」を飾り、またそれを身につけた人員を配置し、なおかつ、「国楽」を「奏する」とされています。
 このように「王」の「統治」と「楽」を奏するという行為は不可分のものであり、「弦」の数の違いは「音階」「調律」の違いとなり、それは即座に「奏」される「曲目」の違いとなりますが、その曲目は「国楽」と呼称され、「国家」を象徴するものであったわけですから、その違いは「国家」(国)の違いとならざるを得ません。つまり、「弦数」の違いは「統治領域」の違いでもあるわけです。(埴輪として「琴」が出土しているのも、「古墳」の主である「王」に奉仕するという性格を良く表していると思われます。)
 「弥生」から「古墳」という「祭政一致」の時代の中では、それは主権(王権)の異なる政治領域が複数あった事を示すこととなり、「筑紫」を中心とした「西日本」及び「関東」という二大「政治領域」の存在が浮かび上がってきます。

 埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣には「金象眼」が施され、通常の理解では近畿の王権に服属していたと考えられる文章が書かれていますが、実際には「四弦」の琴が遺物として共に出ています。このことはこの人物が「五弦領域」とは違う政治領域にいたことを示しており、通常行われている鉄剣銘文の読解は大いに問題とすべきものです。


(※)増田修「古代の琴(こと)~正倉院の和琴(わごん)への飛躍」市民の古代第11集1989年 市民の古代研究会編による


(この項の作成日 2010/04/10、最終更新 2016/09/25)

コメント

「周」に奉納された「舞」と「昧」

2018年02月05日 | 古代史

 (以下は古田武彦氏の研究(※)に準拠しますが、自分なりのアレンジも加わっています)

 中国の古典に『周禮』という書籍があります。この中に「天子の礼楽」について書かれた部分があり、そこには「周王朝」の第二代「成王」の摂政であった「周公」が死んだ後に、その死後も祀りを絶やさぬよう、「天子の礼楽」を以ってせよ、という「成王」の指示が書かれています。その内容は「夷蛮の楽」を大廟に納めなさい、というものです。
 「四夷」の中で特に「夷」(東)と「蛮」(南)の二方向だけが、奉納するべき天子の楽とされているわけですが、その理由は、「後漢」の「王充」が表した書「論衡」により明らかになります。それによれば「周のとき越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す」と書かれており、この故事にちなみ、「夷」「蛮」の領域には「周公」の治政の正しさが伝わったもので、そこからの奉納を、「周公」が死んだ後も続けることが彼を「祀る」ことになると考えたものと思料されるものです。
 その後は「四夷の楽」と呼ばれ「東西南北」の各々の周辺諸国からの奉納という形に変わりましたが、原初的には「夷蛮」の二方だけであったものと考えられます。そして、この「夷蛮の楽」についてはひとつを「昧」と言い、「東夷」の楽を示し、もうひとつを「任」といい、「南蛮」の楽をいう、と書かれています。
 ここでいう「東夷」の「昧」とは「マイ」と発音すると思われますので、今も日本語で「マイ」という発音である「舞」のことを意味しているものと考えられるでしょう。またこの「夷蛮の楽」が「いつ」奉納されたのか、というのは明記されていませんが、「暢草を貢」じたときと一緒に奉納されたもの、と考えるしかないのではないでしょうか。

「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)

「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)

 この「貢献物」を持参した際に一緒に「昧(舞)」も奉納されたものと考えられるわけです。それは異蛮の国からの国交が開始される時点における「礼儀」であったものであり、その点を「箕子朝鮮」から学んでいた、あるいはこの「貢納」の際に指示(示唆)されたためとみなせます。
 従来このような時期の「貢献」などあり得ないと即断され、(縄文時代末期のこととなります)これらの記事は「架空」というのが「定説」でした。それが単なる「先入観」に過ぎないとわかったのは、「殷虚」の発掘がきっかけです。

 「一九二八年」より始まり今に至ってなお発掘中の「殷」の都から「甲骨文字」が書かれた亀の甲羅あるいは牛の肩胛骨が発見されたのです。その後も続々と発見される甲骨文により、『史記』の「殷本紀」の記述が後代の作り話などではなく、「史実」であったことが示されました。それを見ると「殷」の歴代の王朝の王の名前なども全て合致しており、史書と遺跡からの出土が見事に整合した例であるわけですが、その整合した例の中には「箕氏」の名前もあり、このことにより『論衡』や『漢書』の記載も合理的な理解をすることが必要とされるようになりました。つまり、これら「倭人」の貢献というものが「箕氏朝鮮」を通じたものであったことは疑いを入れられないことになったわけです。

 「箕氏」というのは「殷王朝」の有力者であったものが、「紂王」に憎まれ、「牢」に繋がれる身となっていたものであり、「周」の「武王」による「紂王」の打倒により解放されたものです。
 彼は周王朝(武王)から朝鮮に「封」ぜられ、東夷に「周王朝」への従順を説いたとされています。この功績により「倭人」が周王朝へ「貢献」する、と云うことが行われたというわけです。このようないきさつが『史記』に書かれ、そのことが正しかったことが証明されたこととなります。
 その結果「倭」の各地域では「周」の文物が導入され、「周」の制度に基づく官僚制度などを備えた国も出来たと考えて不思議はないこととなります。
 「周」の「武王」の死後「成王」の即位を祝するために「箕氏」が「周」の都「鎬京」をめざし「殷虚」を通った際には「麦秋の詩」を詠ったと書かれています。この時「箕氏」は「鬯草」を持参し「舞」を奉納することを予定していた「倭人」と一緒であった可能性が非常に高いと考えられます。彼は「倭人」を引率して「周」の都へ来たったものであり、「成王」の即位記念とあれば奉祝として「倭人」の「舞」を奉納したとして当然ともいえます。

 またこの時の「倭人」が「どこの」「倭人」かというのは、その朝貢物が「暢草」という一種の「薬草」であったとみられることから推測できます。それは「出雲」の王権です。
 「出雲」が後の時代においても出色の「薬草」産地であり、『出雲風土記』には特産物として上げられたものが六十種類以上あります。また平安時代には天皇の侍医を務めていた例からもこの時の薬草貢献に「出雲」の権力者が関わっていなかったと想定する方が困難です。箕氏朝鮮と出雲の間にはかなり深い関係があると思われ、それは「大国主」にまつわる説話からも窺えます。因幡の白兎の例もそうですが、彼にまつわる「医薬」の話が特徴的であり、それは「国譲り」の以前の時期のこととして書かれていますからその意味でも弥生早期であり、「箕氏朝鮮」の時代と重なるといえそうです。

 『後漢書』には「後漢」の「光武帝」が「金印」を授与した際の「倭」からの使者について、「倭人自ら大夫と称す」と書かれています。この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものであり、「士・卿・大夫」という順列で定められたもので、「士」は「周」の国王の地位にあたり、その下に「卿・大夫」がいるわけです。「倭王」は「周」の王の配下の諸王の一人、と自分たちを考えていたものと考えられ、「士」の下の「卿」を自負していたと考えられます。そのため、派遣された「倭王」の部下はその下の「大夫」を名乗った訳です。これは明らかに「箕子朝鮮」のいわば「教育」の成果であるとみられるわけです。(また『魏志倭人伝』によっても「卑弥呼」の配下の人間は「大夫」を称しています)その意味でも「出雲」の権力者が「暢草」を貢じたとして自然といえるでしょう。

 『漢書』によれば「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国を為す、歳事を以て来たり献見す、と云う」と書かれまた、『後漢書』によれば、「前漢」の「武帝」(在位前一四一~八十七)が朝鮮を滅ぼして「楽浪郡」を設置してから「三十国」と使訳が通じるようになった、と書かれています。(「楽浪郡」設置は紀元前一〇八年)『魏志倭人伝』でも「今使訳通ずるところ三十国」と書かれています。
 さらに「後漢」の「光武帝」の時代(紀元五十七年)「委奴国」は諸国統合の象徴である「金印」を授与されており、この時点で「奴国」がその三十国の王の王になったというわけです。そしてその「光武帝」が与えたという「金印」は江戸時代に「筑紫」の「志賀島」で発見されています。
 これらのことを総合して考えると、「倭」における中心権力あるいは最大権力は、当初「出雲」にあったものがその後「筑紫」へと移動したという経緯がうかがえます。当初「出雲」にあったものがその後(「金印」が出てきた)「筑紫」に移ったものと思われ、当然「卑弥呼」の「都」も「筑紫」にあったものと推測するべきこととなります。(ただし「筑紫」に以前から地域的権力がなかったというわけではなく、「弥生」の始まり以来かなり強力な「王権」が存在し続けてきたと考えられるものではあります。)

 「卑弥呼」が「親魏倭王」という称号を授けられた時点で、「邪馬壹国」を中心とする「王権」はその中心地である「筑紫」の伝統的な「舞」などを「魏」に貢上したということが考えられますが、「王権ごとにそのような「儀礼」の内容やその「付属物」(楽や舞など)などが「異なっていた」ということが推測され、「周」の「成王」に奉納したという「舞」が「筑紫」に継承されていたかは不明です。ただし論理から言うと「出雲」からの使者が「調草」と共に「舞」を奉納したと見るべきですが、その「舞」がその後継承されたのかどうかは現時点では不明です。それを示すようにその後「聖武天皇」の時(七三一年)「雅楽寮」の楽生の数を定める詔勅の中で、学び、残すべきものとして外国の楽である「大唐」の楽などと並び「国内の舞楽」として「諸県の舞」と「筑紫の舞」の二つが指定されていますが、すでにこの時点で「出雲」の舞が取り上げられなくなっています。
 「諸県の舞」とは「日向」の舞のことであり、天皇家の出身地(天孫降臨の地)である、という理由が大きいものと考えられますが、国内ではそれ以外では「筑紫の舞」だけが指定されており、その「筑紫の舞」に長い伝統とその伝統が生み出す「重み」があり「絶やすべきではない」と「聖武」が考えたものであろうと思われます。「聖武」は「倭王権」に対する畏敬の念を持っていたと見られ、「筑紫」に対する態度がことのほか親和的でありその点で突出しています。

 ところで、「後漢」から「奴国王」が拝受したという金印については、「偽物」つまり「光武帝」が授けたものではないという論も一部にありますが、そのサイズと重量が「漢制」に基づいており、また「金」の純度も非常に高いことが確認されていますから、「偽物」というには不審があると言えます。
 また後に「雲南省」から発遣された「(てん)王印」と「面」の部分とその上の持ち手の部分である「鈕」の部分の重量バランスが「志賀島の金印」と全く同じとされ、これは「共通の型」の存在が想定されるでしょう。つまり「型」に入れて金印の原型をつくった後、面の文字と持ち手部分のデザインを行ったものと考えると、この重量配分が同じであることの理由になると思われます。つまり、「漢倭奴国王印」は「本物」であり、「(てん)王印」と制作年代が大きく異ならないばかりか同じ工房でつくられたという可能性さえあることとなります。


(※)古田武彦『邪馬一国への道標』(角川文庫)


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/12/02)

コメント

「奴国」の「奴」は「ぬ」

2018年02月05日 | 古代史

 ところで「奴国」あるいは「狗奴国」という国名表記に使用されている「奴」という字については、これは「ぬ」と発音したと考えられ決して「な」あるいは「ど」「と」ではなかったと思われます。
 たとえば『古事記』の中では「ぬ」の音表記について「奴」「怒」「農」などが使用されていますが、これらはいずれも「呉音」です。(その意味で『古事記』は「呉音」系資料とされます)
 そこでは「農」が「ぬ」の表音として使用されている場合があることが見て取れます。さらに「ぬ」という平仮名は「奴」という漢字から作られたものであり、それは「奴」という漢字の発音が古くは「ぬ」であったことを示すものです。
 また「毛野国」という国名は現在「鬼怒川」という川の名として残っており、これは(川の名が元々の地名を表していると見ると)「ぬ」という発音がその後「の」に変化したことを示すものと考えられます。(「毛」も以前は「き」であったものか)
 他にも「其餘之傍国」とされた中にも「奴」の字を含む国が多くあり(「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」「鬼奴國」「烏奴國」「有奴國」)、これらについても「ぬ」と発音したものと思われます。そしてこの「ぬ」は後代になると「の」と変化したものと思われ、「吉野」が「えし『ぬ』」と呼ばれていたものが「よし『の』」と発音されるようになったように、一般に「の」へと音韻が変化したものと思われます。
 またこれら『魏志倭人伝』の「奴」がつく国々は「原義」として「野」の意義があったことを示す可能性もあることとなるでしょう。そう考える理由の一つはこれらの国名が「奴」が国名の末尾に付く例が全てであるという点にあり、そのことはここで使用される「奴」は「名詞」的に使われるものであること、その前に「形容詞」的語があることを推察させるものだからです。このように末尾に「ぬ」が来て、その「ぬ」が後代「の」と呼称されるようになるということを考えると、この「ぬ」は元々「野」の意義があった事を意味すると考えるのが順当と思われますが、それは「野」を言祝ぐ意味から国名とされたものではないでしょうか。

 「野」は元々「狩猟民」においても「農耕民」においても「収獲物」や「収穫物」を得られる場所であり、それが良い場所であることを言祝いで国名としていたという可能性が高いと思われるわけです。
 言葉には「霊力」があったと思われるわけですから、国名を名付けるのは重要な作業であり、正しい国名でなければ「神」から祝福されず、良い「収獲物」や「収穫物」は得られないと考えられていたものと思われます。その意味では「野」を「国名」とするのは当然と思われると同時に理解されやすいものであったと思われます。
 一般に「地名説話」というものは「神」や「神聖化」した「先王」などによる命名が一般的であり、その場合でもこの場所がどれほど良い場所であるかを特に主題として命名されている例が非常に多いと思われます。(後の『風土記』など見ても言えることです)
 その意味では「野」が末尾に付く例が多いのは自然であると思われることとなるでしょう。ただし、その中では「奴国」は非常に特殊な例であると思われます。それは「美辞麗句」にあたる「形容詞」が前置されていないという点です。単に「野」と命名されたとすると非常に不審ですが、逆に言うと他の「~奴国」という例の淵源がこの「奴国」であって、それらの諸国はこの「奴国」にちなんで名前付けしているか、あるいは「分家」であったという可能性も考えられるでしょう。それは「奴国」が倭国内における伝統が耶麻壹国に比べ古いと考えられることと重なっているように感じられます。
 後でも述べますが、「伊都国」と「奴国」はその官の名称が他の国と全く異なっており、中国〈特に周〉との関係が深いと考えられるものとなっています。そのような両国であれば「耶麻壹国」の台頭以前はこの両国が倭国の中心的位置を占めていた可能性が高く、彼らの分国が倭国内にあったとして不思議ではありません。
 そのように「奴国」が中心的な位置にあったとすると、「奴国」の場所は他のどこよりも「素晴らしい」という必要があるでしょう。そこは肥えた土地があり水利もよく高い生産力がある場所であるはずです。そう考えるならば、その「奴国」の領域が「山地」を包含しているとは考えられないこととなります。
 あくまでもかなり広い平野部にその領域が占められていると思われ、わざわざ山地をその「領域」に含むことはないと思われるわけです。当時はあくまでも「山地」は「自然国境」であり、山の向こう側は別の国という概念ではなかったかと考えられます。そう考えると北部九州の中でも「福岡平野」あるいは「筑後平野」などがその候補地である可能性が最も高いものと推量します。(そのような場所を「野」と称していたものではなかったか)
 そもそもいつの時代でも「野」を語尾に持つ地名が相当数に上ることを考えるとそれが「古代」からのものであったとして不自然ではないということとなるでしょう。(美濃、信濃、大野等々)

 以上の記述に対して「ろ」を示す語がその後「ら」を示すようになっている例を挙げて「奴」も元々「な」であったという説を述べたのが長田夏樹氏です。
 彼は『邪馬台国の言語』(學生社一九七九年)の中で「末廬国」の「蘆」が現在も「まつうら」と呼称されているように当時も「ら」と発音されたものとし、その音韻体系が共通する(とされる)「奴」の発音に対しても「ぬ」や「の」ではなく「な」であるとしたものです。
 しかしこの論は「韻鏡」に拠ったものであり、その「韻鏡」の成立ははるか後代です。(南北朝の頃か)たしかにそこでは「蘆」「都」「奴」は同じ音韻系列に含まれていますがそれが『魏志倭人伝』まで遡上するものかは別途証明が必要と考えられます。(一般に『韻鏡』の示す音韻は「中古音韻」と考えられており、「上古」のものに対して適用可能とは考えられていないのが実情のようです。)


(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2016/11/20)

コメント

「倭」と「倭国」、「倭王」と「倭国王」

2018年02月05日 | 古代史

 ところで、「倭」と「倭国」、「倭国王」、「委奴国王」とは異なる範囲、定義であると思われます。「後漢」の光武帝から授与された「金印」の表現はあくまでも「倭人」の国の中心王朝として「倭奴国」があるということ以上を示してはいないと考えられます。
 その後の『魏志倭人伝』の中には「倭国」という表記が以下に見るように三例しかなく、基本は「倭」であったものです。「夷蛮伝」も「倭」だけが『倭人伝』となっており、それは「倭人」という一語で始められているからであるわけですが、それ以降も基本は「倭」であって「倭国」ではありません。
 『三國志』に見られる「倭国」という使用例は「邪馬壹国」率いる統治領域を指して言っていると思われ、いわば「仮」にその領域を「倭国」と称するという立場の考え方かも知れません。ただし、「狗奴国」率いる領域は当然含まれないわけですから、本義としては「倭国」とは言いうるものではないと思われます。「邪馬壹国」の統治範囲以外に別に倭人の国があるとすると、その「邪馬壹国」の統治範囲だけを「倭国」と称することは本質的には無理と思われるのです。

(以下「倭国の例」)
①「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使『倭國』、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

②「『其國』本亦以男子爲王、住七八十年、『倭國』亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、『有男弟佐治國』。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

③「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣『倭國』、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦〓、刀、鏡、采物。倭王因使上表答謝恩詔。」

 ①の例は「邪馬壹国」と置き換えても通用しそうですが、②の例は明らかに「乱」が起きたのが「邪馬壹国」の内部だけであったとは考えられないため、「倭国」とは「邪馬壹国」だけではなくその統治範囲についての呼称と思われます。また③も「邪馬壹国」と置き換えても意は通じそうですが、『倭人伝』の冒頭に「從郡至倭」という表現があり、これが「女王国」を訪れる意であることを考えると、その「女王」が「倭女王」であり「親魏倭王」であったということを念頭において考えれば、この「倭国」は「邪馬壹国」単体を指すとは考えられないこととなるでしょう。
 結局これらの例はいずれも「邪馬壹国」単体というよりその周辺の統治範囲に入る領域全体を指して「倭国」と称しているように見えます。他にも「其の」という使用例が多数出てきますが、いずれも「邪馬壹国」単独を指すものと言うより「統治領域全体」を指すものと考えるべきものです。このような「倭国」とい呼称法は特殊であり、はっきり言えば「不適切」な例であって、あくまでも「便宜的」な例であると思われます。それはそのような「倭国」という使用例があっても「倭国王」として「卑弥呼」が書かれない事に現れています。彼女はあくまでも「倭王」であり「倭国王」ではないという事実が当時の日本列島の状況を表していると思われるわけです。

 その「倭」の範囲については以下の記事で触れられているように「邪馬壹国」の東側に広がっているものとみられます。

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 この表現としては「九州島」を含め「倭地」が東西に長い形状をしており、ある国の次の国までがすぐ続いている場合もあれば、かなり離れている場合もあるというような具合であり、しかも「州島」と表現されていますから、平たい島もあれば山勝ちな島もあるという意味と思われ、推測するとその大部分が「瀬戸内海」の島々で構成されていたらしいと理解できます。この「倭地」を「倭」と称しているわけであり、その意味で「倭地」全体に支配力が及んでいない段階では「倭国王」という呼称は使えないということとなります。
 『漢書』も同様でありそこには「倭国」という表記は使用されていません。しかし『後漢書』の考え方はそれとは異なり「倭国」というものがあり、「倭国王」がいたという観点で書かれています。(「奴国王」に授けられた「金印」も「倭国王」という表記ではなく「委奴国王」となっています。)
 これはこの『後漢書』が書かれた「五世紀」における認識の反映であると思われますが、それが「一世紀」や「二世紀」にも該当するものとは考えられないことは『倭人伝』や『漢書』から窺えるわけです。それは「金印」の表記が「倭国王」や「倭王」ではないことに現れています。(「卑弥呼」の金印も「親魏"倭王"」であって"倭国王"ではありませんでした)
 ただし「金印」は一地方王に授与されるものではありませんから、この「委奴国王」がその統治範囲の中に複数の「国」を含む広い領域を統治する事となったことを示していることは確かですが、そうであるなら後の「卑弥呼」が授けられたようになぜ「倭王」ではないのかというこことが問題となるでしょう。

 上に見たように「後漢」当時は「倭国」という概念が(少なくとも「後漢」側には)なく、「倭」は列島全体に対しての呼称であり、そこに居住する人達についての「倭人」という概念しかなかったものと思われます。その概念は「後漢」から「魏晋」へと継承されたものと思われますが、当然「帥升」や「委奴国」の時代も同様であり、かれらはあくまでも「倭」という地方においてある程度の範囲を統治する事に成功した「王」であったものであっても、「倭王」と言い切るほど強力で広大な権威があったとは思われていなかったことを示すと思われます。その後「卑弥呼」に至って「倭」の内部において統治領域とその体制が近代化(当時のという意味で)されたことに対応して「倭王」という呼称が採用されることとなったものと推量しますが、この段階でも「倭国王」ではないことに注意すべきです。
 「倭国」という概念はさらにその後に形成されたものであり、「東国」を含む列島の主要な部分に対してかなり強い権力を示すこととなって以降「倭国」という一種の「大国家」概念が造られたものではないでしょうか。

 この「倭国王」という称号が現実のものとなったのは「倭の五王」の時代になってからのことです。
「倭の五王」のうち最初に「倭国王」と称号を授与されたのは「讃」の死後「王位」に付いた彼の弟とされる「珍」の時です。それ以前の「讃」は「卑弥呼」と同じく「倭王」という称号しかもらっていないようです。

「晉安帝時,有『倭王』賛。…」「梁書五十四、諸夷、倭」
「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍『倭國王』。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」『宋書』
「文帝元嘉十五年(四三八年)夏四月…己巳,以『倭國王』珍為安東將軍。…是歳,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。」『宋書』

 これ以降も『倭国王』という称号を授与されていますし、配下の者について「将軍」や「軍郡」に除されるという例が多数確認できます。この「倭の五王」の時代は「武」の上表文にみられるように「列島」の内外へ統治範囲を拡大しつつあった頃であり、「倭地」のほとんど全部に対して自らの権力の下のものとする勢いであったことと思われます。彼等に対してならば「倭国王」という呼称は適切なものであったと思われるわけです。(実際には元々「自称」であり、「南朝」はそれを追認したものですが)
 『後漢書』はこれら「倭の五王」が遣使をしていた「南朝」の一つであった「宋」(劉宋)の「范曄」によってまとめられた書であり、その中に「范曄」の生きていた「五世紀」の観念が持ち込まれているという可能性が高いものといえるでしょう。これは『三國志』の「邪馬壹国」を『後漢書』において「邪馬臺国」に変えたようなことが行われたとみられることと重なるものであり、「帥升」が「倭国王」とされているのはこのような「五世紀」の考え方を「後漢」の時代に敷衍した結果であると推察されるわけです。

 そもそも「国郡県制」の「国」と「国家」とは(当然ながら)異なるものであり、その絶対的上部構造を「国家」と呼称するものであって、そうであれば階層的行政制度が存在していない時点においては「国家」自体あるとは言えないこととなります。
 「後漢」に朝貢した「奴国」は「倭」のかなりの部分を統一した功績を讃えられたものですが、明らかに「行政制度」やその根拠となる「法体系」は未整備であったと見られ、そのため「国家」とは認められず、しかし地域ナンバー1であることは確かですから、「金印」を与える条件としては整っていたものであり、結局「異例」のこととは思われますが、「倭(委)」の「奴国王」という二段表記が出現する事となったものではないでしょうか。
 つまりここで「卑弥呼」のように「倭王」と言い切っていないのは国家体制の成熟の差とそこから発生する権力の強さに起因するものであったと思われるわけです。しかし「卑弥呼」でも「倭国王」と呼称されていないわけであり、それは「狗奴国」率いる敵対勢力がかなり強い存在であったからであり、彼等が存在する限り「倭国王」とは言えないこととなるわけです。
 それらを考えると、「委奴国王」という表記は発展段階における「倭」という領域において、初めてある程度広い領域を治めることとなった(それでも三十国以下の国数しかなかったと思われますが)「奴国王」に与えたものであり、その統治内容の不完全さから「倭王」とも(ましてや「倭国王」とは言いきれず)認定されなかったことを示すものでしょう。

 この点について、古田氏を初めとする論者はこの「金印」については従来のように「委(倭)」を挟んだ「三段」に読むべきではなく「委奴国」という一語で読むべきとされています。つまり「漢の委の奴の国王」と細切れに読むのはおかしいとされるわけです。
 「金印」とは単一部族とか地域限定の権力者に贈られるものではなく、広い範囲に権力を及ぼす事が可能であるような「統一王者」に授けられるものであることや「金印」は贈る側である「漢」と贈られる側の「委奴国」との関係が直接関係であり重要で親密である、ということを互いに確認するため授与されるものだから「漢」と「奴国」の間に「委(倭)」という語が入るのは印章を各部族に授与するときのルールに反しているというわけです。しかし、上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、その地方に「奴国王」の上に位置する権力者は存在しないわけですから、「委(倭)」を挟んでも「三段」読みとは言えないこととなるでしょう。つまり、これでも実際には「漢」と「奴国」の間の直接関係であることを示すものであり、「二段国名」表記と内実は同じであると思われるわけです。
 また古田氏は同じ「光武帝」が「韓人」である「廉斯人」に対して「漢廉斯邑君」という称号を授与した記事があるとされ、これが「韓」を飛び越えて直接の関係を示したものという理解がされていますが、この「廉斯人」は「辰韓王」の統治を離れて「楽浪郡」の支配下に入ろうとしていたものであり、このため「韓」という一語を入れると「漢」と「廉斯」の関係を直接的に規定することができなくなることとなるのは理解できますが、「倭」の場合はこの「韓」のケースとは異なり、この時代に「奴国」以外に「倭」を「不完全」ではあってもまとめているような「上部的権力」は存在していなかったとみられるわけですから、これと同列には論議できないものと思われます。


(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2017/12/02)

コメント