『三國志』を著した「陳寿」は、滅ぼされた「蜀」の史官であったものであり、「諸葛孔明」の部下であった男です。しかしその能力を「魏」の「曹操」に買われ、「晋」の史官として『三國志』を書いたものです。
伝えられるところによれば、「陳寿」が「『魏』にとって悪口と言えるものも書くがそれでもいいか」と云ったところ「曹操」が「それでもよい」と云ったので、「曹操」の元に仕えるようになった、と言うエピソードがあるそうです。
『三國志』は紆余曲折がありましたが、「陳寿」の死後正式な史書として皇帝の認めるところとなったものです。
この『三國志』は「魏志」「呉志」「蜀志」に分かれており、その「魏志」に「夷蛮伝」がつけられており、「南蛮伝」などの後に「東夷伝」があり、その中に「韓伝」などと並び、最後尾に『倭人伝』があるのです。
『魏志倭人伝』には「南朝劉宋」の「斐松之」という人物が校定した刊本があり、その中では『魏略』という書物からの引用が書かれているものがあります。この『魏略』は「二八〇年」に「魚拳」により書かれた魏の歴史書で、「陳寿」がまとめた『三國志』に先立つこと二~三年の書物です。(現在は失われています)そこからの引用文の中には「倭人は呉の太伯の末裔であると自称している」という文があります。
「呉の太伯」というのは、紀元前十二世紀ごろの人で「周」の王子であったものですが、聖人の資質を持つ末弟(文王の父)に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、その地の風習である「文身断髪」を行い「後継ぎ」の意志と資格のないことを示したものです。
当時「王」(天子)になるべき人物は「通常」の人物とは違うとされており、「支配」されるべき「未開」で「粗野」な人達の風習などを自ら行うような人物は「天子」にはなれないとされていたのです。それを行うことで「太伯」は「後継者」の候補から自ら脱落して、弟に道を譲ったわけです。彼は自ら「勾呉」と号し、「呉の太伯」と呼ばれた、というものです。
この「呉」の国は、「春秋時代(BC770~BC402)」の列国「呉」の発祥であり、揚子江流域を領土としていたものです。この春秋時代の始まりの時期は全地球的気候変動の時期と一致しており、そのことからこの時点で「呉」付近である「江南」の地から適地を求めて移動を始めた人々が列島に流れ着いたという可能性があります。呉の末裔という自称には根拠があったものと思われるわけです。
『後漢書』にも「倭人自ら大夫と称す」という記事があり、(「大夫」というのは「周」の制度にあるものです)制度的にも古くから「周」の影響を受けていたことがわかります。
『魏志倭人伝』の評価としては、著者(西晋の史官陳寿)の生存中の出来事を記録した「同時代資料」であり、他の『後漢書』その他の後世にまとめられた書物とは意味合いを異にしているといえます。すなわち、『三國志』に書かれている記述を後世の書物や「目」から見て改訂(改悪)することは極力避けなければならないと言えます。するとまず国名から問題とならざるを得ません。
通常「邪馬台国」と言い習わされていますが、『三國志』内には「邪馬壹国」として登場します。
この名称は、『三國志』の現存するすべての版本で共通です。(『三国志』を含め古代の史書は、その原本は残っておらず、すべて版本ないしは刊本の形で残っており、(「北宋年間に「秘府」(皇帝専属の図書資料)に保管されていた古典の出版が企画されたもの)、その中では『三國志』の刊本が一番古くに作られています)
書写段階あるいは版本の段階で明らかに書き誤ったか、写し誤ったという証拠がない限り、基本的にはこの名称で通称するべきでしょう。
現在いろいろとこの『三國志』の現存版本に(他の部分に)誤りがある、という指摘があり、そのため「邪馬壹国」関連の記述にも疑いがかけられていますが、それらについて逐一点検すると、後世の目で「間違い」と考えられやすい場合でも、逆に古代の真実が隠されていることが多いことが古田武彦氏により証明されています。(※)そのことにより「邪馬壹国」という表記をはじめ、多くの部分について正しいと考えられるようになっています。
たとえば『魏志倭人伝』の中に「倭」の位置・方向を概括的に示すのに「会稽東治の東」という表現をしているところがあります。この中の「東治(ち)」という表現が見慣れないため、「会稽」が地名であるから、その後ろに続く部分もまた地名であろうと判断し、(「東冶」という地名が当時存在したため)「東冶(や)」の写し間違いである、という説が有力でしたが、この記事が書かれた当時「会稽」郡「東冶」県が「呼称変更」により「建安」郡「東冶」県であったことが明らかになり、郡県制による地名としては「会稽東冶」がありえないことが明らかになったのです。(『三國志』内に郡名称の変更記事がかなりあります。著者「陳寿」は、自らが書いた「郡県名」変更記事と矛盾する記述は他にはただの一例もしていません)
結局「会稽東治」という表現については「夏后小康の子」の治績(「断髪文身により虹龍の害を避けせしむ」という功績)についての尊称、という考えが妥当と考えられますが、いずれにしろ結果的に現存『三國志』に書写間違いがそれほど多くはなく「信頼性が高い」という証明になっているものと考えられます。
ところで、前述したように「会稽東治」という用語に関連し「夏后少康の子」のことについて書かれています。彼に関することが倭人の習俗とあたかも関係があるかのような文脈で記載されているのです。しかし『魏略』には倭人は自ら「呉の太伯の後」と称しているわけですから、「呉」と関係があることを自称していたのです。このこと当然「陳寿」も知っていたはずですが、これを認めず、「夏后少康の子」の統治実績と関係があるかのような書き方に変えているのです。
「夏后少康」とは「夏」王朝第六代皇帝であり、「夏后少康の子」( 無余) は「会稽に封ぜられ」て「越」の始祖となった、と考えられている人物です。
『呉越春秋』によれば「夏后少康の子」(「無余」)が「会稽」に封ぜられた理由は「会稽」が「夏」王朝初代皇帝の「禹」の亡くなった地だからであり、ここに封ぜられて以降「越」の始祖となるのです。つまり「越」は本家「夏」から分家した国だったのです。
『倭人伝』に「夏后少康の子」の治績として「断髪文身、以って蛟龍の害を避けしむ」と書かれているわけですが、この内容は「呉の太白」の行ったことと同一です。(もっとも「無余」は自分で断髪文身したわけではなく、その土地(会稽)の人をそのように教育・指導したものです)
しかし、「呉の太白」のほうが時期的には遅いのですから、「呉の太白」はそのこと(「夏后少康の子」の治績)を知っていてそれに習ったものと考えられます。そのため、本来は「呉の太白」の治績は「夏后少康の子」の治績として評価されるべきものであるという「陳寿」の「主張」でもあるわけであり、それは『倭人伝』の中で特に強調されてることなのです。
この部分は『三國志』は「魏」の正当性を主張する史書である、という点を考慮するとわかりやすいと思われます。もし、倭人が「呉」の末裔であるとすると、かえって「文化」が広く伝わっている、という点で「呉」王朝の正当性の主張になりかねず、その「呉」を滅ぼした「越」の影響下に成立した文化である、として「呉」の影響ないし存在を過小評価し、否定する記述となっていると考えられるのです。
「呉」を滅ぼした「越」は「夏」王朝につながり、「夏」王朝は中国の古代の中心王朝であり、そのまま「漢」を通じて「魏」と連続していることとなっていて、「魏」という国家の正当性は「倭人の習俗」という点からも証明されている、という牽強付会の文章となっているのです。
※古田武彦「『邪馬台国』はなかった」他一連の著作による
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2017/01/16)