古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫諸国」の『庚午年籍七百七十巻』と戸数

2018年02月24日 | 古代史

 『続日本紀』には以下の記事があります。

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」

 これによれば「筑紫諸国」には「庚午年籍」が七百七十巻あったわけですが、「正倉院」に残る戸籍の遺存状況から見て「庚午年籍」は「一里一巻」であったとみられますから、「筑紫諸国」には里数として「七百七十」あったこととなります。更に当時は「一里五十戸制」であったと思われますから、総戸数として「三万八千五百戸」と計算できますが、この値と『隋書俀国伝』に総戸数として約十万戸と書かれたことから(この『庚午年籍』成立時点の「筑紫諸国」の戸数が『隋書俀国伝』時点と余り変わらないと想定した場合)当時の倭国の領域としてどの程度のものであったかが(アバウトですが)推定できるものと思われます。

 ところで、ここでいう「筑紫諸国」というのがどれだけの領域を含んでいるかというのは、同じく『続日本紀』に「筑紫七国」とある以下の記事と重なるとみられます。

(七〇二年)二年…
夏四月…。
壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。」

 この「七国」とは通常「筑紫」「肥」「豊」を前・後に分けたもの及び「日向」と理解されています。この範囲について「戸籍」が造られていたというわけであり、その「戸籍」を「新日本王権」は「神亀四年」になってやっと入手したというわけですが、そもそも九州は倭国王の直轄領域であったはずであり、「戸籍」に捕捉される「家」の数も相当の割合になったはずです。さらにこの「庚午年籍」記事の直前が反乱を起こしたという「隼人」達に対する征伐記事ですから、彼等がこの「庚午年籍」を所持して逃走していたものとみられ、彼等の領域である「大隅」「薩摩」等の領域を除いた全九州が上の「筑紫諸国」に入っていたであろうことは間違いないものと思われます。これを踏まえて『隋書俀国伝』時点の「倭国」の領域がどこまで広がっていたかを推察しようというわけですが、とりあえず各地域の「面積」を比較してみます。

 以下に表を作成しました。これは上に挙げた「庚午年籍」から推定した戸数をベースにネット上にあった「平成十五年現在」の「居住可能面積」(これは全体から森林面積を差し引いたもの」で比例配分したものです。(現時点のものとそれほど大差はないと思われます)

地域 面積 推定戸数 戸数累計
九州 12018 38500 38500
中国地方 8437 27028 65528
四国 4852 15544 81072
近畿 10777 34524 115596
北陸 8847 28342 143938
中部・信濃 11022 35309 179247
関東 19219 61569 240816
蝦夷 20405 65368 306184

 これによれば「九州」の居住可能面積(ただし隼人の領域と思われる薩摩と大隅に相当する鹿児島県の居住可能面積を差し引いたもの)は、中国地方と四国とを加えたものにほぼ等しく、さらに近畿も加えると九州の面積の3倍程度となりますから、面積配分として『隋書俀国伝』の「約十万戸」は(少なくとも)近畿の一部がその領域に入っていたと考えるのが相当と考えられます。
 さらにこの推定を別の点から補強してみます。それには江戸時代初期の「石高」を利用します。
 正保元年に幕府が提出を命じたとされる「石高」資料(※)から計算した結果が以下の通りです。

地域  石高 推定戸数 推定戸数累計
九州 289.3 38500 38500
中国地方 285.3 37968 76468
四国 101.4 13494 89962
近畿 320.2 42612 132574
北陸 265.2 35293 167867
中部・信濃 359.4 47829 215696
関東 411.8 54802 270498
蝦夷 531.9 70785 341283

 ここでは「石高」と「戸数」の関係を「比例」と仮に見て、『庚午年籍』から計算した「筑紫諸国」の戸数を基準にとって倭国の範囲として「十万戸」となる領域を計算しています。これをみると居住面積から算出した数字と概数的にはよく似た結果となっており、やはり少なくとも「近畿」の一部は含まれていたとみることができそうです。(ただし、石高はなかなか正確にわからず、また詳細を明らかにせず、また過少に申告していた藩が多かったといわれますから実祭にはこれよりどの藩も数%から最大数10%多かったとみられることには注意すべきでしょう。)

 この結果から『隋書俀国伝』時点の「倭国」の統治する範囲としては多分に近畿(少なくともその一部)を含む領域が推定されることとなります。

 ちなみに、『和名抄』に現れる「郷」の数も参照してみます。
『和名抄』の時代にはすでに「里」はなくなっており、そのかわり「郷」が記載されています。一般にはほぼ「里」と「郷」とが対応していると思われているようです。それは「木簡」に現れる「里名」と『和名抄』の「郷」とで一致するものが多数にのぼることからですが、そうであれば「筑紫諸国」の「庚午年籍」の七百七十巻に対応する数だけの郷が『和名抄』に現れて不思議はありませんが、実際には「筑紫七国」の「郷」の数は四百ほどしかありません。

地域 郷数
筑前 101
筑後 54
豊前 33
豊後 47
肥前 44
肥後 99
日向 27
合計 405

 この差が何を意味するかはやや不明ですが、可能性としては筑紫諸国においては「里」が解体され「郷」が成立する時点で他の地域よりも大幅な「統合」が行われたとみるのが相当であり、ほぼ二里で一郷となるような編成替えが行われたものではないでしょうか。


(※)「正保郷帳・国絵図」これ以外にも幕府が命じて提出させた「郷帳」は存在するが、これが資料の残存状況がよいものの代表。

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