古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

邪馬壹国配下の国々の組織

2018年02月08日 | 古代史

 『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は『東夷伝』の中では「倭」だけに書かれており、周辺地域に比して先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」についてよく行われている「部族連合」というような評価が妥当しないことを示します。「部族連合」ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるでしょう。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に「到其北岸狗邪韓國」という表現があることが注目されます。 

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」 

 この「其北岸」については意見が様々あり、「其」という表記からこれが「倭」の領域である証拠という言い方もされているようです。しかし、海を渡った「對馬国」から始めて「官」や「戸数」「風俗」などの描写が始まるのであり、この「狗邪韓國」では一切その様なものがありません。それは「倭国」側から「官人」が派遣されていない事を示すものであり(王の存在も書かれていません)、そうであればそこは「邪馬壹国」のテリトリーではなかったと考えざるを得ません。
 またそれは「狗邪『韓國』」という国名にも現れているといえます。ここには明確に「韓国」とあるわけですから、名称からもここが「倭」の領域ではないことが示されているといえます。ただし、その国名に「狗邪」といういわば「卑字」が使用されているのは「邪馬壹国」側の見方であり、表記であることが考えられます。
 推定によれば、この「行程」を記すに当たって「魏」の使者は、「倭人」(「邪馬壹国」からの使者)と同行したのではないかと考えられ、その際に「倭人」側から説明を受けたものをそのまま記載しているという可能性があると思われます。つまり派遣使者の帰国に「魏」の使者が同行しているという図です。それは「對馬国」や「一大国」なども同様なのではないかと考えられることとなります。そのような中で「對馬国」から「国」の詳細について記事があるということは、「邪馬壹国」の北側の統治範囲は「對馬国」を限度としているように見られることとなり、ここから「自称」表記となるのだと思われます。
 (ただし、「邪馬壹国」には「邪馬」という「卑字」が使用されており、一見これが「倭側」の表記のようには見えませんが、「魏」に対して国書を提出しており、そこでは「俾弥呼」という「卑字」を使用した「自称」を署名として使用していたらしいことが知られ、「魏」に対して大きく「謙る」態度を示していたことが分かりますが、「邪馬壹国」などの部分に「卑字」が使用されているのも、これと同様の観念であったと考えられるものです。) 

 また「對馬国」「一大国」「奴國」「不彌國」の副官が「卑奴母離」であるのが注意されます。この「卑奴母離」は「軍事」担当官なのではないかと思われ、「一大率」の配下の人間ではなかったかと考えられます。「卑狗」は「民生」にかかわる業務を担当する官と思われ、「卑奴母離」はその「卑狗」のもとで「郡使」の往来などについて担当していたものと思われます。彼らはそのような場合「博多湾」ではなく「末廬国」から上陸させるのが課せられた仕事であったらしく、その「末廬国」で「一大率」が書類や物品の照合確認などを行っていたらしいことからも、彼ら「卑奴母離」は「一大率」の支配下にあったと推察されます。
 後の時代においても「對馬」には国境守備隊とも云うべき「防人」が配されていたものであり、「天智朝」の「郭務宋」やそれ以前の「高表仁」なども「對馬」までは「新羅」や「百済」の送使が案内しており、そこからは「倭国」側の人間が対応しています。これは『倭人伝』の時代から大きくは変らなかったことを推定させるものです。(「対馬」からは「筑紫矛」と称される武器が多数発見されており、その意味について諸説ありますが、私見ではここが軍事的要衝であったことの証拠と捉えられるものと思われます。) 

  「投馬国」の長官と副官はそれぞれ「彌彌」「彌彌那利」という呼称となっており、このような特殊な呼称は人口が非常に多いことと関係があるかもしれません。この二つの「官」はその地域の独特の呼称を「邪馬壹国」の側で承認している可能性も感じられ、半ば独立国状態のような雰囲気を感じます。つまり「邪馬壹国」から派遣されたものではなく、地場の有力者であるという可能性があります。後の「別」と「造」の違いにあたるものでしょうか。(また、ここでも王の名前は書かれていません)
 また、『書紀』で「みみ」を名前に持っている人物や神が現れていることとの符合が注意されます。「手研耳命」「神渟名川耳尊」「神八井耳命」というように「神武」の子供は全て「みみ」をその名に持っており、また「三嶋溝橛耳神」という「神」もいるなどのことから「みみ」がかなり「崇貴」な存在であることが推察され、それは『倭人伝』とかなり重なるともいえるとともに、彼等の「母国」とも言うべきものが「投馬国」と関連しているという可能性もあるように思われます。
 「奴国」は微妙な位置ではあります。官は「兕馬觚」であり「卑狗」より上と考えられますが、副官は「對馬国」や「一大国」と同じく一人であり、「卑奴母離」であるところは「地方扱い」にあまり違いはないようです。ただし、官が違うのは「戸数二万余戸」とあるかなり多い人口と関係があると思われます。ただしその「官名」に「觚」という文字が使用されており、これについては別途検討しますが、「中国」との深い関係の中でこの「官名」が形成された可能性があり、「奴国」の伝統を感じさせます。
 「倭」の中心王朝としての「邪馬壹国」には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳提」などの「官」があるとされており、この中の最高位が「伊支馬」であると推察されますので、「魏」に派遣されたという「大夫難升米」「大夫伊聲耆」は「伊支馬」であったかと考えられます。 

 ところで、『魏志倭人伝』の中でやや不明なものとして各国の「官」、「一大率」、「刺史」、「使大倭」などの相互関係の問題があります。 

「…自女王國以北特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯…」 

 上の文章の中には「皆」という表現がされ、それは「女王」に対する「文書」等の管理担当として機能している職掌について述べているものですが、文章からは「王遣使詣京都帶方郡 諸韓國 及郡使倭國」というように「機会」がある毎に「皆」という意味と思われ、また「臨津」という表現からはこれが「末盧國」における行動であることが明らかですから、この「刺史のごとく」とされた職掌については「一大率」と同一である可能性が高いと推量されます。
 「刺史」とは「三国時代」に各州の長官として任命されていた人物であり、名目上は将軍号を持っているものもいたようですが、基本的には軍事については担当せず、もっぱら民生的な部分の管理監督を行っていたものです。
 「州」の長官のうち軍事権を持たないものが「刺史」、持つものを「牧」(牧宰)といい、当時中国では中国全土を十三の「州」に分けその各々をさらに「郡」により分割して政治を運営していたのです。(「州-郡-県」という制度)
 「一大率」は明らかに「軍事」面での存在であり、「刺史」とは異なるはずのものですが、ここ「伊都国」ではあたかも(「王」はいるもののそれを上回る統治権限者として)「刺史」のように民政的なことも行っているということを表現するために「刺史のごとく」と書かれたものと思われます。

 また、国中に市場があり、交易をしている、という文面中に「使大倭」という人物の紹介があります。 

「… 國國有市 交易有無使大倭監之…」 

 彼は「交易」をするときに検閲官として監督している立場の人物です。(経済面で不当なやり取りがないようにするために存在している訳です)
 このような経済的な部分での監督者、という立場の人間に「大倭」の代理者という名称が使用されている、というのは如何に「経済面」が重要であるか、という証明でもあるようです。というよりその「市」はいわば「公設市場」であったと思われ、「使大倭」とは「卑狗」などと同様「邪馬壹国」から派遣されていた人物と思われ、その意味で「使」という「使者」を示唆する「語」が使用されていると思われるわけです。(多分彼は市に出店する人々から「手数料」的なものを上納させていたものと思われ、それを国々の収入としていたものではなかったでしょうか)
 そのような職掌の彼(「使大倭」)と「知事」のような「行政官」としての「刺史」とは明らかに異なっています。(この職掌が「刺史」と同一人物が兼務しているのであるならそのような文言があって然るべきではないでしょうか。) 

 また、ここには「租賦」という「税金」(稲ないし雑穀と思われる)と思われるものを「収める」「邸閣」がある、と書かれています。この「租賦」は一般の人々から「徴集」したものと考えられますが、それには「戸籍」や「暦」が必要であり、この段階でそれらが整備されていたことを示します。(ただし「王権」内部のことであり、一般化していたと言うことでないと思われます。)またこの「租賦」が人頭税的なものなのか、収量に応じて変化するものかは不明です。また別にも述べますが「邸閣」はただの「倉」ではなく、「軍事」に特化した施設であり「一大率」配下の人々のための糧米を提供する意味があったものと思われます。
 また「戸籍」がこの時点で存在していたことは『倭人伝』の諸国の記載中に「戸数」表示が出て来ることでもわかります。「戸」の基礎となる資料が「戸籍」ですから、「戸」という表記があるのは「戸籍」の存在を示唆していることとなります。「漢」や「魏」の例でも「戸」という表示は「権力側」が「租賦」を収奪するための前提となる「戸籍」を造っていたということの表現であると思われます。(「家」については後述しますが、「戸籍」データ等の提示がなかった場合や、「戸数」表示に「なじまない」場合の使用法と思われます)その「戸籍」整備のための最低条件である「暦」は「漢」の時代から既に導入されていたものと考えられます。そう考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」など「倭王権」においては統治のツールとして使用されていたと考えることは可能でしょう。各々の国に派遣されている「官」(「卑狗」など)はその様な「租賦」などを確実に収奪する体制を構築するのに必要な官僚であったものと思料します。

 

(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/04/30

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