古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「二倍年暦」について

2018年02月06日 | 古代史

 『魏志倭人伝』の伝えられる写本の中には、「五世紀」南朝「劉宋」の史官であった「斐松之」という人物が他の史書を参考にして「注」をつけたものがあります。その中に『魏略』という書からの引用があり、「倭人、春耕秋収を記して年紀となす」という文章が書かれてあります。これについては「年紀」が「年数」を意味するものであり、「春耕」から「秋収まで」を計ってそれを一年としているという意味と考察できます。ただし、これが即座に春と秋の二回年の変わり目があって、一年に二回年をとるという意味にとっていいのかどうかはやや微妙であるとも言えるでしょう。後にも触れますが、「貸食」(貧民に対する支援としての「米」や「種籾」を貸与する慣習ないしは制度)の期間(利息を取る期間)としてこの「春耕」から「秋収」までというものが設定されていたという可能性があり、そうであれば(一年の反対側である)「秋収」から「春耕」までが別の「一年」に設定される意味があったかは微妙ではあると思われます。ただし少なくとも「魏晋朝」とは異なる暦があった、あるいは「魏晋朝」で使用されていた暦は「倭」にはなかったということは確かであると思われます。

 「二倍年暦」については古賀達也氏の研究があり、それによれば元々「南方系」の暦と考えられています。たとえばそれは「仏陀」の生没年研究などでも、有力な二説の差として現れています。ひとつは南方セイロン(現スリランカ)の伝承(「島史」と「大史」)や、「パーリ語」で書かれた資料などに基づくもので、「アショーカ王」の即位を「紀元前二六六年」と推定し、その年と「仏滅」つまり「仏陀の没年」との間を伝説により「二一八年間」とし、それにより計算した結果、「仏滅」の年を「紀元前四八三年」と推定したものです。
 この「パーリ語」の資料とは『パーリ聖典』などを言い、その中にはその成立がきわめて古いとされるものがあると推定されています。また、この「パーリ聖典」は南方の諸国(スリランカ、ミャンマー、タイなど)に広がっているのが特徴です。
 この「パーリ語」は「サンスクリット語」にきわめて近く、伝説では「仏陀」がこの言語を使用していたとさえ言われています(真偽は不明ですが)
 別の説は「アショーカ王」の即位年を「紀元前二六八年」とし、「仏滅」の「一一六年後」に「アショーカ王」が即位したという『十八部論』などに記された説に基づき、「仏滅」の年次を「紀元前三八四年」とするものです。
 つまり、「南方系」の伝説を基にした推論では仏滅後「約二〇〇年後」にアショーカ王が即位した、というのに対し、「北方系」の資料には(インド・中国)では仏滅の「約一〇〇年後」と伝えられていることとなります。
 当然これらの現象は、「南方系所伝」が二倍年暦で伝えられ、「北方系所伝」が一倍年暦により伝えられたため生じたと理解するべきでしょう。つまり「正しい」年次は北方系諸伝である「十八部論」や「部執異論」などの方であるという可能性が高いものと思料します。
 このように「二倍年暦」の始原も南方では非常に古くに遡るものであることが推測されます。
 これらのことは「本来」の資料が「二倍年暦」で書かれていた可能性を示唆するものであり、「仏陀」自身が「二倍年暦」の世界に住んでいたことを示唆するものでもあります。
 その後「二倍年暦」とは異なる世界に信仰の中心が移った時点以降「一倍年暦」に書き改められたと思われ、それは「アショーカ王」時代を過ぎ、「マウリヤ王朝時代」付近(紀元前三世紀から二世紀頃)の出来事と思われます。この時代は「原始仏教」の分裂時代であり、諸部派で各々異なる解釈などが発生した時期であります。この時点付近で地域に応じて「暦」を変換するということが併せて行われたという可能性が考えられるでしょう。


 ところで、『魏志倭人伝』が書かれた三世紀段階で、「春耕秋収」という慣習を強く残している地域は、稲の種類からみても(ジャポニカ)であることを考えると、列島ににおける「稲作」そのものが「南方系」であり、この「二倍年暦」は「稲作」に関係しているのは明らかですから、「弥生時代の始まり」という点においても、「九州北部」がその先陣であったことが明らかとなっている現在、「二倍年暦」がもし三世紀段階まで遺存していたとすると、当然その「九州北部」をおいて他にはないといえるでしょう。
 「卑弥呼」の率いる「倭」の「諸国」では「租賦」(収穫した稲か)が徴集されていたと考えられ、そのための「戸籍」もあったと考えられますが(後述)、それは国家が人々を「管理」するという中で行われていたものですから、一般には「無縁」といえ、そのように「暦」(太陰暦)の存在が推定されるものではあるものの、「一般」には「春耕秋収」という期間を一年とする「二倍年暦」が行われていたものであり、「暦」や「暦法」というのものが一般民衆の生活の中に浸透するということはなかったものと見られます。つまり「弥生」時代の初めから(稲作と共に)行われてきていたと考えられる「二倍年暦」が民衆の生活から消えることはなかったものでしょう。その意味でも『倭人伝』の舞台は「北部九州」とみるのが相当と思われます。

 現代でも日本各地の年中行事の中に「一年が両分される」という事例があるのが確認できます。それらの事例では、「正月から十二月まで」を一年と考えないで、六月を切れ目として二分して考えるという習慣あるいは伝承が現代にまで伝えられているのです。
 たとえば、佐賀県のある地方では六月一日を「半歳ノ元旦」とよんでいます。この行事では、「水につけて」保存しておいた正月の餅を「雑煮」として食べ、「半歳の内祝い」を行っていたということです。このような風習も列島の南部(西部)に色濃く残っているのは偶然ではないと思われるわけです。

 (この項の作成日 2011/08/18、最終更新 201/02/06)

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「邪馬壹国」の「音価」について

2018年02月06日 | 古代史

 すでにみたように「里単位」として「短里」(一里がほぼ80メートル程度)が使用されていたと思われ、そう考えた場合「北部九州」にしか「邪馬壹国」(およびその周辺の諸国)の位置として考えられないということとなったわけですが、それは『魏志倭人伝』の「音価」の研究からも言えるようです。
 『三国志魏志倭人伝』に使われている漢字と正倉院文書に残る筑紫の地域の戸籍に使用されている漢字の「音価」の比較から、『倭人伝』に使われている倭国関係の人名などの音が筑紫地域のものに近い、という研究が出ています。(※1)
 この研究を行った長田夏樹氏によると「音韻体系」の比較材料として「美濃戸籍」「筑紫戸籍」及び『書紀』の歌謡に使用されている名詞の使用例を選び、検討した結果、その音韻体系は各々異なるものであり、端的に音韻の対立を示すことが可能な「サ行」において比較すると、「記紀歌謡」では(これは当時の中央語と思われる)「ts方言」とも言うべき音価なのですが、筑紫では「s方言」というべきものになり、明確に差がみとめられるとされています。(「美濃」もほぼ「記紀歌謡」と同様)
 この研究は重要な意味を持っていると思われましたが、使用した方法論は当時は正当と思われたものの、後に『書記』の「述作者」として「唐人」の参画が措定されることとなった結果、「記紀歌謡」少なくとも『書紀』の歌謡は「唐人」による「唐代北方音」を描写していることが推定されることとなり、「歌謡」についての考察は再検討が要求されることとなっています。そのため「記紀歌謡」を除き「筑紫戸籍」と『倭人伝』の比較ということとなってしまいますが、この両者はいずれも「s方言」であることが確認されています。つまり『倭人伝』に使用されている漢字からの考察では「倭国」内では「s方言」であることとなり、これは「筑紫戸籍」の状況と同じであることとなるわけです。(端的に言うと「さしすせそ」が「しゃししゅしぇしよ」に近い発音になるということ)
 これは現在でも「福岡」など「北部九州」の発音の特徴として残っており、2000年前からあまり変化していないように思われます。

 そもそも音韻としてはよほど大量の移民などの流入がなければ「s方言」から「ts方言」に変化することは非常に少ない可能性しかないといわれており(逆の変化であればありうるとされる)、『倭人伝』に記録された音価を強く保存しているのが「筑紫」地方であるというのは非常に示唆的です。
 また「記紀歌謡」についてはその多くが「唐人」により耳で聞いてそれを文字に写したものとされますので、いわば「唐代北方音」風にバイアスがかかっている可能性が強いわけですが、それを考えに入れても、ほぼ七~八世紀の中央官人の発音にかなり近いことは確かといえるでしょう。そうであれば『倭人伝』の発音と「記紀歌謡」の発音は「近くない」といえ、三世紀に畿内が倭国の中心だったという可能性は非常に少ないということとなります。

 また彼はその研究の中で「末『廬』」「奴」について『韻鏡』では同じ「ag」音系に属するとし、「まつら」「な」と発音するとされていますが、彼がその推定に使用した「仏教」の「経典」(『仏説十八泥犂経』)は「訳者」が中国人ではなかった可能性が指摘されており(※2)、その訳語は標準音から離れている可能性があるため、信頼性が低いことが指摘されています。その意味では現在「まつ『ら』」や「し『ら』ぎ」と発音するのは、何らか理由による特殊な音韻変化がこの地域(対馬海峡を挟んだ両岸地域)に起きていたという可能性が考えられ、更に検討を要する問題といえます。


(※1)長田夏樹『邪馬台国の言語』(學生社一九七九年)

(※2)橋本貴子(論評)「『魏志』倭人伝訳音の音価について」そこでは「…『仏説十八泥犂経』の問題のみ指摘しておく。この漢訳仏典は宇井伯寿『訳経史研究』(岩波書店,1971 年)446 頁が安世高に仮託された訳経の一つとして取り上げているように、安世高訳でない可能性がある。また、一般の安世高訳や同時期の支婁迦讖訳において模韻字が基本的にインド語のo に対応することから見ても(Coblin. W. S , A Handbook of Eastern Han Sound Glosses, The Chinese University Press, 1983, 103 頁)、『仏説十八泥犂経』の音訳は特異であるため、この漢訳仏典を後漢~魏晋期の言語資料として扱えるかどうかは検討を要する…」と論じている。


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2018/02/06)

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『倭人伝』の行路記事と「短里」(二)

2018年02月06日 | 古代史

 『古田史学会報』一二一号に正木裕氏の論があります。(※1)それによれば水行の場合一日五百里であるとして對馬海峡横断に要する日数を各二日間とっているようです。その分朝鮮半島の西岸の水行部分を削ったようですが、おおよそは私見と同様のようであり、得心のいくものでした。ただし、「一刻百里」というのはこの当時「一日百辰刻法」であったと見られることと矛盾すると思われます。

「…日短,星昴,以正中冬。【集解】孔安國曰:「日短,冬至之日也。昴,白虎之中星。亦以七星並見,以正冬節也。」、馬融、王肅謂日短晝漏四十刻 。鄭玄曰四十五刻,失之。」(「『史記』五帝本紀第一/帝堯」より)

 ここに註を施している「馬融」は後漢の人物です。また「王肅」は三国時代の人であり、ちょうど卑弥呼と同時代を生きた人物です。彼らの言葉によればこの時代の「冬至」の昼の長さは四十刻であったとされます。
 
「三月,行幸河東,祠后土。詔曰:「往者匈奴數為邊寇,百姓被其害。朕承至尊,未能綏定匈奴。?閭權渠單于請求和親,病死。右賢王屠耆堂代立。骨肉大臣立?閭權渠單于子為呼韓邪單于,?殺屠耆堂。諸王並自立,分為五單于,更相攻?,死者以萬數,畜?大耗什八九,人民飢餓,相燔燒以求食, 因大乖亂。單于閼氏 子孫昆弟及呼?累單于、名王、右伊秩?、且渠、當?以下 將?五萬餘人來降歸義。單于稱臣,使弟奉珍朝賀正月,北邊晏然,靡有兵革之事。朕飭躬齊戒,郊上帝,祠后土,神光並見,或興于谷,燭燿齊宮,十有餘刻 。師古曰:「燭亦照也。刻者,以漏言時也。」」(「『漢書』本紀/第八/五鳳三年」より)

 ここでは「匈奴」が帰順したことを感謝するために「郊外」で上帝に対し祭天の儀を行ったところ、「神光」が見え、それが「十有餘刻」つづいたというわけです。これを正木氏が言うように当時の一日が十二辰刻であったとすると、その経過時間はほぼ丸一日ということとなりますが、その間郊外で祭天の儀を行っていたとすると、余りに長時間に過ぎるでしょう。これらのことはこの「魏」の時代の直前の「後漢」の時代には「百辰刻」で「漏刻」による時刻測定が行われていたことを示すものです。そう考えると「一刻百里」ではなく「一刻十里」(「十刻百里」)ではなかったでしょうか。この場合「一刻」はおおよそ十五分弱と思われますから、十刻で約二時間三十分ほどとなり、百里つまり8km程度の距離であれば(通常歩く速度は時速3km程度とされますから)およそ整合するといえます。ただし、この「陸行」のさなかにどのように「刻数」を計ったのかという問題は残ります。固定した施設であれば「漏刻」で測定しているわけですが、移動中とあればそれも適いません。「線香」や「火縄」のように一定の速度で燃焼するものを利用したという可能性もあります。あるいは「日時計」のようなもので太陽の角度などを測定したと言う事も考えられますが、はっきりしません。今後の検討課題です。

 また、「末廬国」を「佐賀県呼子」付近と想定しているのは「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎる気もします。「唐津」付近の方がその点整合すると思われるのです。またそうであれば「大津城」付近まで五百里という行程が届くのも仮説としては捨てがたいものです。)
 ここで半島全体を水行していないのは、「済州島」近辺の海域については小島が多く海流が複雑でありまた水深が浅い場所があるなど座礁の危険などのリスクを伴うからと思われます。(船の旅は「水難」「海難」事故の可能性があるとともに休憩などもとりにくく、やはり「陸行」が安全性が高かったということは言えるでしょう。)このため途中から陸路により「半島南岸」まで移動すると言うこととなったものではないでしょうか。
 また逆に半島内全部を陸行しないのは「韓国」が混乱の後やっと制圧されたのが「張政」来倭の直前であり、その時点であれば「全陸行」も可能かも知れませんが、それ以前の「正始元年」付近に倭国を訪れた「魏使」はまだ「不穏」な情勢があり、完全には「帯方郡」の治世下に入っていなかった「半島内」は部分的にしか陸行できなかったのではないでしょうか。その際はまだしも「帯方郡」の統治力が強い地域を限定して通過したものであり、その意味で「洛東江周辺」地域は安全地帯であったかもしれません。 
 これらのことは「邪馬壹国」(邪馬台国)が「近畿」にあったという説には決定的に不利なこととなります。「南」を「東」に変えたところで、「郡治」から「末盧国」までで総距離の九割方を所要してしまうとすれば、「近畿」には全く届かないこととなります。しかし「長里」では列島内から大きくはみ出してしまうわけですから、「邪馬壹国近畿説」は成立の余地がないこととなるでしょう。

 またそれ以前に「投馬國水行二十日」と記載されていますが、これは「邪馬壹国」への行程には「投馬國」への行程はカウントされていないことを示し、これがいわゆる「傍線行程」であることを示しています。ただし、後でも触れますが、そこには「戸数表記」(「可五萬餘戸」)がありますから、これは「魏使」が「投馬国」へ赴き、担当官吏から戸籍データの開示を受けた事を示すと考えられ、魏使は「邪馬壹国」からの帰途「投馬国」へ立ち寄ったという可能性が考えられることとなります。(往路の主たる目的は「卑弥呼」への謁見であり、これを済ますまでは他の件は実行されなかったであろうと推量されるため「帰途」であろうと考えるわけです。)
 帰途とはいえわざわざ「水行二十日」という遠路の「寄り道」をした理由としては「投馬国」が「邪馬壹国」の統治範囲の中で重要な役割を受け持っていたからと思われ、「邪馬壹国」を支える主たる勢力であることが重要であったものではないでしょうか。地理的には「主線行程」、つまり「朝鮮半島」から「邪馬壹国」へ至る最短距離の道のりからは外れるものの「魏」と反目していた「呉」に対する防波堤としての機能がこの「投馬国」にはあったものと見られ、南方からの侵入を阻止する役目があったとすると、「魏使」は「投馬国」についても正確に把握する必要があると考えたものと思われます。

 このように『倭人伝』においては「短里」が使用されていると見られるわけですが、その由来は実際には「殷・周以前」の時代の単位であると思われ、それを「秦」の始皇帝が中国の統一を果たしたときに大幅に改定し、さらにその「始皇帝」の制度を「漢」が継承していたものを、「魏晋朝」になって(明帝の時代)「旧に復す」ということで「殷・周以前」の時代の単位の復権となったという歴史的過程も推定されています。(西村氏の論(※2))
 古田氏も言うように「同じ東夷伝」の中で「韓半島」の距離表示単位と「倭」領域の単位が同一ではないというのは非論理的ですから、「帯方郡」という立派な「魏」の「版図」である領域において表記に使用された「里単位」が「短里」であると言うことは動かしがたいこととなります。このことはこの「里単位」が「魏」の全域においても同様の意義で使用されていたという可能性を想定させるものであり、実際に『三國志』や『史記』の中にも「短里」で理解する方が合理的である例が散見されています。(「長里」はその後の南北朝に継承され、さらに「隋」・「唐」にも受け継がれることとなったものです。)
 以上見たように、『倭人伝』に示された「里」が「短里」であるのは間違いなく、そうであれば「邪馬壹国」の位置は自動的に「北部九州」と決まってしまいます。そこには何の操作も必要ありません。そこに書かれた距離も方向も「自然な理解」により「邪馬壹国」が「北部九州」に存在していたことを示すものです。
 

(※1)正木裕「『倭人伝』の里程記事は正しかった 「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算」

(※2)西村秀己「短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?」(『古田史学会報』一二七号二〇一五年四月十五日)


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2016/06/12)

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『倭人伝』の行路記事と「短里」(一)

2018年02月06日 | 古代史

 『魏志倭人伝』を理解する上で重要なものに「短里」があります。
 「邪馬台国」(邪馬壹国)がどこにあったか、といういわゆる「邪馬台国」論争というものがありますが、この論争の中で明らかになった事の一つは、距離の単位である「里」の実距離です。
 『魏志倭人伝』の中では(というより『三国志』全体にわたり)通例知られていた「漢代」の実距離とはまったく違う「里」が使用されている事が判明しています。それは「魏晋朝短里」という呼称で言われているもので、「周代」に使用され、「魏晋朝」に至って復活したものと思われ、中国最古の天文算術書「周髀算経」の中に現れる「里」の実長がそれと考えられます。
 この「周髀算経」の中で太陽の角度から二点間の距離を求める測量法が紹介されており、この既知の二点間の距離と実際の距離とから換算すると、従来の「漢代」のものとは別の「里単位」がそこに述べられていることが判明します。(谷本茂氏の研究(※1)による)それによればその「一里」は約75m程度と思われるとのことです。
(以下『倭人伝』の行路記載部分)

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

東南至奴國百里。官曰〓馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸。」

 これら『倭人伝』に出てくる「里数」を漢代の長里と解すると「一里」はおよそ「415メートル」程度あったとされますから(※2)、「千里」と記されている「半島」(狗邪韓国)から「對馬国」(對馬)までの距離などは400キロメートル以上あることとなり、これを「釜山―對馬間」の最短距離として置き換えて考えると、55キロメートル程度しかないことと大きく食い違います。
 また「末盧国」から「伊都国」までの距離も「200キロメートル」以上となってしまい、「末盧國」を「唐津」付近と推定した場合、山口県を越えて広島まで届いてしまう距離となってしまいます。しかし「伊都国」は「福岡平野」の一端と言うことで衆目が一致しているわけですから、実距離との乖離が激しくなるのは避けられません。(奴国も同様の意味で食い違ってしまいます)
 また「郡治」からの総距離として書かれている「万二千余里」もこれが長里であるとすると「5000キロメートル」を超える距離となってしまいますから、南洋諸島側にルートをとると台湾やフィリピンを超えインドネシアまで届いてしまい、列島内には全く収りません。つまりここで里数として表わされている数字は「長里」ではないと考えざるを得ないこととなります。

 『漢書西域伝』などでは常に「長安」と近隣の「郡治」からの距離表示がされており、行程に何日かかったかというような情報はそこには書かれていません。これは『倭人伝』とは違い「行路記事」とは厳密には言えないと思われます。『倭人伝』の場合は魏使の行程をなぞったように書かれており、単純に「帯方郡治」からの距離だけではなく移動に要した時間も記録されていると理解するべきでしょう。その意味では「五百里」という距離は、「草木茂盛、行不見前人」というような描写に見られる移動区間の道路整備の不十分さや、後の隋・唐代において、官道を利用した場合の移動距離が「一日」以内ならば「五十里」を最大とするという規定から考えても(ただしこれは「長里」)、この距離を移動するには一日では困難であり、二日間の行程を想定する必要があります。
 
 また『倭人伝』には「郡治」からの総距離として「万二千余里」と書かれているわけですが、半島内だけで「七千余里」とされています。さらに「狗邪韓国」から「對馬国」、「對馬国」から「一大国」、「一大国」から「末廬国」へとの海を渡るわけですが、その距離が各々「千余里」と書かれており、ここまでの合計で「一万里以上」となってしまいます。そうであれば明らかに「邪馬壹国」の位置は九州北半部以外には考えられないこととなるでしょう。
 ここで「韓半島」の「七千餘里」を「七千」から「七千五百」の間と仮に理解することとして、同様に「千余里」は「千」から「千五百」の間とします。そうすると「郡治」から「末等国」までの距離合計は「一万里」から「一万二千里」の間にあることとなります。
 また総計の「万二千余里」を「一万二千里」から「一万二千五百里」の間と理解した場合、「末廬国」以降「邪馬壹国」までの距離は最小「五百里」最大「二千五百里」となる計算です。
 これをおよそ短里によって実距離を計算すると「38km」程度から「190km」程度の間ぐらいとなります。
 地図上で「末廬国」からこの距離範囲を検索してみると、太宰府の手前の博多湾岸からその後背地である筑紫小郡付近(甘木・朝倉等の場所)までぐらいがその範囲となります。

 この行路記事では冒頭に「郡より倭に至るには」として以降記事が書かれています。当然その終点は「倭」でなければなりません。ところで行路記事の終点は「邪馬壹国」であり「女王の都するところ」ですから、「倭」に至るとは「邪馬壹国」に至ることであり、女王の都するところに至ることを意味します。このことから「邪馬壹国」は「女王国」であり、そこが「倭」の中心権力の所在した場所であることが明らかです。色々な議論の中では「邪馬壹国」と「女王国」とは違うというようなものもありますが、『倭人伝』の文章からはそのような理解は不可能です。

 ところで、『倭人伝』はそもそも『倭人伝』であり「倭国伝」ではありません。伝の冒頭が「倭人は」で始まるからという理解もありますが、この『倭人伝』の中にはそもそも「倭国」という表記が「不適当」な形でしかでてきません。「卑弥呼」は「魏」の皇帝から「親魏"倭王"」を授けられたのであって、"倭国王"を授けられたものではないからです。
 つまり「倭」とは「倭国」とは異なるものであり、「国家」として一定の境界を持った支配領域を指すものとは考えることができないこととなります。
 「倭」についてはいわば「日本列島」(当時の感覚として)を示すものであり、一種の地域名(地方名)であったと考えるべきこととなります。それは「倭種」という表現がされていることでもわかります。

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」

 このように「倭種」という表現からはその人々が「人種・言語・習慣」などにおいて「邪馬壹国」の支配領域と変らないことを示すものであり、あくまでも「政治的」「宗教的」な部分で異なる勢力あるいはそのような人々がいたことを示しています。
 「倭」つまり「日本列島」に住んでいる限り「倭人」であり、「邪馬壹国」の支配領域外の「倭人」についても基本は「倭人」であると思われるわけです。

 ところで、「邪馬壹国」の部分に書かれた「水行十日、陸行一月」という記述については「邪馬壹国」への全行程を記したものと推定されます。なぜなら、「邪馬壹国」までの移動日数がそれまでの日数にさらに計四十日分追加されるとすると「総距離数」と矛盾するのは明白だからです。
 ここからさらに水行と陸行を重ねるとすると、当時の「倭」の各国がまだ道路整備が不十分であったという可能性を考えて、(漢代の長里で)一日二十里(実距離として10km弱程度)として40日分を計算すると「400km」がさらに加わることとなります。これは短里で「五千三百里」程度となりますから、合計で「一万八千里」程度まで膨らんでしまうでしょう。つまり、ここに書かれた日数は「帯方郡治」からの全行程に関わるものと見るのが妥当であることとなります。
 その場合「水行」は十日間とされており、また「半島」から「末廬国」までに三回海を渡るわけであり、その際各々少なくとも一日は消費していると見れば残りの七日間は半島内での日数となるでしょう。
 郡治からの行程の冒頭に「海岸に従って水行する」とされていますから、当然水行部分はあるわけですが、その際は半島の西海岸を南下したこととなります。しかしこの部分を全水行するとした場合、「陸行一月」というのが全て「倭」の内部とならざるを得なくなりますが、距離が短すぎて一月もかからないで「邪馬壹国」まで到着すると考えられることと食い違います。このことは「半島内」は部分的に「水行」し、また部分的に「陸行」したことを示すものです。そう考えれば「水行」の七日分で半島の西海岸を約半分ほど来たと考えれば、そこから「狗邪韓国」(これは場所不明ですが、推定によれば「釜山」付近ではないかと思われます。)までを「陸行」したこととなりますが、ほとんどが山道であり、道のり距離としては相当の距離となったものと思われます。地図上で確認すると「ソウル」近郊の港である「仁川」付近から船出したとして「錦江」河口付近まで水行したとすると、その距離としては約250から280km程度となります。これを「七日間」で進んだとすると1日あたり40km程度となり、水行距離として不自然に短くはありません。
 また「錦江」河口付近の町である「群山」から半島を横断する形で「釜山」まで陸行したと仮定した場合約300kmの行程となります。これを1日10km程度の移動距離とするとちょうど一ヶ月となりまさに「陸行一月」となります。


(※1)谷本茂「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 -- 『周髀算経』の里単位」(古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫所収)
(※2)森鹿三「漢唐一里の長さ」


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2017/01/12)

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「遠山の金さん」と古代中国

2018年02月06日 | 古代史

 時代劇でおなじみの「遠山の金さん」は「腕」ないしは「背中」に「桜吹雪」の「入れ墨」をしていたとされています。もっとも正確には「入れ墨」ではなく「彫り物」というべきでしょう。「入れ墨」というのは江戸時代ならば「島帰り」つまり「遠島」(島流し)の刑に服したものが「役」の期間を終えて帰還後に、それが完了していることを示すものを身体に刻むものであり、地方により場所は異なりますが、江戸の場合は「二の腕」に「リング」状に「彫る」ものでした。ちなみに「筑紫」だと「額」にするのです。これは「古代」の「刑罰」の一種である「墨刑」の名残と思われます。当時は重大な罪を犯したものは死罪になるか、「顔面」に「入れ墨」をされていたものです。(これを「墨刑」と呼ぶ)
 このようなものを本来は「入れ墨」と称するわけですが、「遠山の金さん」の場合は別に「島帰り」ではありませんから、「彫り物」というべきものでしょう。彼が「彫り物」をしていたのは事実らしいですが、それが「桜吹雪」であったかは定かではありません。
 ところで「彼」は「何故」彫り物をしていたのでしょうか。これにはかなり深いわけがあったと思われるのです。

 彼は本名「遠山景元」といいますが、彼の父は「遠山景晋」といい、「勘定奉行」などを歴任した「能吏」であったものです。しかし、本来は「遠山家」の人間ではありませんでした。遠山家に「子供」が産まれず、跡継ぎが出来なかったため、養子に入ったのです。当時は跡継ぎが産まれなければ「お家断絶」となる可能性が強く、それを避ける為に「親類」から「養子」を迎えることとなったものです。
 そして、彼が「養子」に入ってまもなく、事件が起きます。それは「養子」を迎えるほど子供が出来ずに困っていた遠山家に待望の(いや待望ではなくなってしまったタイミングで)子供が生まれてしまったのです。「景晋」は、自分が養子に来た意味がなくなってしまったと感じ、「家督」を生まれてきた「景善」に譲ろうとしましたが、公儀にも届け出が出てしまっていることでもあり、遠山家でもせっかく養子に来て貰ったメンツをつぶすわけにも行かず、「景晋」に家督が相続されました。「景晋」はそれを受けましたが、実子がいるのであるから、自分の次はその実子に家督を譲り、家系を戻すことを決めていたのです。しかし、その後「景元」(金四郎)という自分の子供が出来てみると親の人情として自分の子供に家督を譲りたいと考えるようになりました。
 成長して、自分の置かれた状況が理解できるようになると「景元」は「実子」筋に家督相続を「戻すべき」と考えるようになったのですが、父である「景晋」は迷っていました。それを見た「景元」はある日「彫り物」をして帰ってきたのです。そして、その「彫り物」を父に見せて、自分には「家督」を継ぐ意志も資格もないと言う事を示したのです。それを見た「父」は「景元」の意図を悟り、実子である「景善」に家督を譲ることを決め、それはその通りになったのですが、彼(「景善」)の子供は幼いときに死んでしまっていたため、「景善」が死去すると、結局「景元」が家督を相続することとなったというわけです。
 彼は父と同様「能吏」であったようであり、その優秀さを時の老中「水野忠邦」に見込まれ、「江戸町奉行」という大役を任され、見事に果たしたものです。その結果「彫り物」を背中に入れた「御奉行様」が誕生したということとなったものです。

 この話は、下敷きとして「呉の太白」の伝説があったものと考えられます。
 『魏志倭人伝』には「南朝劉宋」の「斐松之」という人物が校定した刊本があり、その中では『魏略』という書物からの引用が書かれているものがあります。この『魏略』は「二八〇年」に「魚拳」により書かれた魏の歴史書で、「陳寿」がまとめた『三国志』に先立つこと二~三年の書物です。(現在は失われています)そこからの引用文の中には「倭人は呉の太伯の末裔であると自称している」という文があります。
 「呉の太伯」というのは、紀元前十二世紀ごろの人で「周」の王子であったものですが、聖人の資質を持つ末弟(文王の父)に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、その地の風習である「文身断髪」を行い「後継ぎ」の意志と資格のないことを示しました。
 当時「王」(天子)になるべき人物は「通常」の人物とは違うとされており、「支配」されるべき「未開」で「粗野」な人達の風習などを自ら行うような人物は「天子」にはなれないとされていたのです。それを行うことで「太伯」は「後継者」の候補から自ら脱落して、弟に道を譲ったわけです。彼は自ら「勾呉」と号し、「呉の太伯」と呼ばれました。(「史記」の「呉太伯世家」では周の古公亶父(ここうたんぽ)の長子・太伯(泰伯)とされる)
 この「呉」の国は、「春秋時代(BC770~BC402)」の列国「呉」の発祥であり、揚子江流域を領土としていたものです。その後江南には「呉」と「越」(「越」は「禹」の苗裔で「夏后帝少康」の後裔と称しました)との強国同士の争いが何度も繰り返されましたが、結局「紀元前四七三年」、「呉」が「越」に敗れその時多くの難民が日本にやって来たものと考えられています。

 この「呉の太白」の話は上のように「司馬遷」の『史記』に出てくるものであり、このような漢文史料は当時の役人の必須の教養でしたから、「彼」や「父」である「景晋」が知らなかったはずはないと考えられ、彼は「天子」を継ぐべき資格はないことを示すために「呉の太白」が行ったという「文身」(彫り物)を自分もすることで、「家督」を継ぐ意志がないという自分の「固い意志」を示したものと考えられます。
 また、このような「彫り物」をしているということは当時の町民レベルでも著名であったらしく、その「庶民性」は人気の的でしたが、彼はその「彫り物」を決して人には見せなかったとされています。
 更に、自分を推挙した「老中」である「水野忠邦」と、彼と結託していた同じ江戸町奉行「鳥居甲斐守忠耀」の行った「天保の改革」という「節減策」の実行に当たり、彼等と違って民衆の側に立って生活の確保を考えながら行った結果、「大目付」という一見栄転ながら実は「閑職」という地位に左遷させられたりします。このような正義感なども人気の元であったかもしれません。 
 その後異例なことに再度「江戸町奉行」に戻され、(形式上降格となる)再び、江戸の治安維持と生活確保に尽力したものです。

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