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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

弥生時代と縄文時代の画期

2018年02月05日 | 古代史

 すでに「縄文時代」の終焉と全地球的気候変動に関係があると見たわけですが、「国立民俗歴史博物館」(以下「歴博」と称する)の調査、研究により、「弥生時代」の始まりについて、従来考えられていた時代より「五〇〇年」ほど早くなる、(九〇〇~一〇〇〇BCぐらいか)という研究結果が報告されています。これは技術の進歩により、確度が数段向上した「放射性炭素年代測定法(AMS法)」によるものであり 、「九州」を中心とした西日本の各地の遺物をサンプリングして測定にかけた結果であるようです。(ただし、これはその後各位により検討された結果、やや早まり紀元前八世紀付近にその始まりがあるとされるようになりました。「歴博」はその見解を変えていないものの各種の検討からはやや下る時期に転回点を想定する方が正しいようです)
 出された結果についての「信憑性」ははなはだ高いもの、と考えられますが、これにより日本の「歴史」の書換えが行われるのは必定となっています。

 この結果に異議を唱える人もいるようです。それはもっぱら従来「土器」による編年の研究を続けてきた人達に多いようですが、「土器編年」(瓦編年も同様ですが)はあくまでも「相対年代」しか明らかにできず、しかもそれは従来「無証明」の前提から始まっていたと言うことを考えると、年代の推定は「留保付き」のものであったと言うことをもう一度よくかみしめる必要があると思われます。
 その「無証明」の前提とは「弥生時代」とは「中国」から「細型銅剣」の流入が始まる時期を「弥生前期末」として、「秦」の「始皇帝二十五年」(紀元前二二二年)」から五十年遅れた時期、つまり「紀元前一七〇年ころ」に当てているということであり、またそれより以前の土器が六種類あるので各々三十年という年数継続したものと見て構成していることです。(その結果「弥生早期~前期初」が紀元前四〇〇~三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇~一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一~五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていたわけです)
しかし、そのような基準が「曖昧」なのは言うまでもないと思われます。基準が曖昧な上に土器同士の年代差(間隔)も恣意的であり、当然「誤差」を多分に含んでいると見るべきです。

 従来からも「半島」や「大陸」の青銅器や土器との比較からは今回の「AMS法」とほぼ同時期の時代が想定されていたわけですが、それが主流とならなかったのは伝搬にタイムラグを想定していたからです。しかし、このタイムラグそのものが恣意的であり、検証不可能なものであったものです。これを認めてしまうと(というか認めてしまったが為に)任意の時代設定、つまりいくらでも新しくすることが可能となってしまったわけです。このような方法論により既存の「土器編年」が行われていたものであり、これは当然のこととして打破されるべきものであったものですが、内部からはその動きがなかったために外部、つまり考古学的方法ではない手段により見直しが迫られるということとなったものです。(※1)
 このような方法論は「科学的」とは言えず、「土器編年」に明確に定点というべきものを設定できない限り、それにかわる方法論(時間軸上に「定点」が表現できるようなもの)が確立したならばそれを基準として再編年すべきものであるのは当然でしょう。

 たとえば高知県の「居徳遺跡」(紀元前一〇〇〇~一二〇〇…この時代推定ももっと早まる可能性が出てくるでしょう)ではシカの角をくりぬいて工具の柄にした骨角器の例や犬を食用としていた形跡もあり、これらのことは「縄文文化」と相容れないものだったわけですが、この時代が「弥生」の初めとなれば大きな問題はなくなると考えられます。つまり、この遺跡は渡来人(中国江南地方と思われる)に関わるものであるという可能性が高くなりますが、それは時代背景として「弥生」の始まりとして矛盾はなくなるものと思われます。
 この時期これらのように遠く「江南」から直接渡来した人々や「半島」「華北」などの地方からも多量の人々の流入があったと考えられますが、それらの中には犬を食用とするような生活習慣を持った人達もいたものと推定されます。
 『史記』にもあるように(「刺客列伝」など)もともと中国では犬(狗)の肉を常用としていたのです。(業はほぼ「犬」がその対象でした)
 「羊頭狗肉」という言葉もあるように「店頭」には羊の肉と同時に犬の肉も売られていたものです。犬の肉は羊に比べ高級食材というわけではありませんでしたが、庶民の重要なタンパク源であったと考えられます。『本草書』では、犬について「五労七傷」を治癒させる効能がある、という記述があるくらいです。
 しかし、「縄文時代」の日本は狩猟採集生活であったので、犬は大切な作業パートナーであり、また家族の一部でもありました。「縄文時代」の遺跡からは丁寧に埋葬された犬の骨が出てくるぐらいです。

 早くに農耕生活に入った大陸の人々は(狩猟時代が短かったため)犬がパートナーである生活様式に早期に終止符を打ち、代わりに犬を食料とする習慣にその後変化したものと考えられますが、日本ではそれが遅れたためその後「稲作」が定着しても犬を食料とする習慣は定着しなかったのでしょう。逆にいうと「稲作」が日本国内に伝播する速度はそれほど速くなかった、ということがいえると思われます。(犬を食用とする習慣は朝鮮半島には定着し、現代に至っています)
 『書紀』(六七五年次の項)でも「馬・牛・犬・鶏を食うべからず」という記載があり、大多数ではないものの、一部の人たちの間にはその習慣があったと考えられます。(この禁止令はその後江戸時代まで続き、明治になってやっと解かれたのです)
 馬も牛も五~六世紀に大陸(あるいは半島)から入り、その後「馬耕」・「牛耕」等が始まったと考えられますが、「食用家畜」にはなっていなかったと思料されます。鶏も「弥生後期」から飼われていますが、「時を告げる」動物であり、神聖な存在と考えられていました。そのため「食用」とする習慣はそもそも根付いていなかったものです。
 ここに猪が触れられていないことについては後述しますが、縄文以降少なくとも「律令」の時代においてさえも猪は食用とされていたと見られ、その「猪狩り」には犬が必須ですから、その意味でも犬が日本人の大切なパートナーとして存在し続けていたと見られます。
 
 「弥生時代」が以前の想定よりずっと早く始まっていた、ということは、逆に言うと従来もっと遅い始まりを想定していたものですが、その理由としては、上に見たように「土器編年」においてひとつのタイプの「土器」が「三十年」続くと「仮定」してそれを基準にして計算していたからです。
 「縄文時代」の場合は社会の進歩発展のテンポが遅かったと考えられたので、ひとつのタイプの「土器」は「百年」続いたと仮定していたものを「弥生時代」は「三十年」に短縮して考えていたのです。しかし、「放射性炭素年代法」による測定により「弥生」においてもやはりおおよそ「百年」という単位で社会が変化していたことがはっきりしたと考えられます。そう考えると、上で見た「基準年」とされている「紀元前一七〇年」から約百年後に「弥生後期」が設定されるべきこととなるわけであり、「歴博」による編年にかなり近くなります。

 このように「土器編年」には「恣意性」が入り込む余地があり、「絶対年代」測定の必要性が(一部の人には)従前より認識されていました。それが「科学的な年代測定法」の進歩により実現しつつあるわけです。
 従来はその「絶対年代」の「代用」として『書紀』の記事があったのですが、さすがに現代はそのような「非科学的」で「逆立ちした」方法は論拠として成立しなくなりつつあるようです。(「それは『書紀』に書かれた記事の年代に対する盲目的承認であり、学問以前のものといわざるを得ないものだからです。)
 もちろん「科学的方法」というものも、「誤差」ないしは「測定原理」に関する問題がまだ横たわってはいることは事実です。放射性炭素による測定では大気中の放射性炭素の値が一定ではないこと及び地域にも差があるらしいことがすでに指摘されており、それを踏まえた上の「較正年代」の確立が急がれているようです。(国際的な較正年代はすでにあるものの、それを列島の遺物にそのまま適用して良いのかが問われています。)
 このような状況であることは確かであるとしても、早晩それらがクリアされた段階以降の研究のスタンスとしては、「土器編年」あるいはその後の「瓦編年」などはあくまでも「相対年代」測定法であり、科学的絶対年代測定法の「補助」として機能するべき存在であるということとなると思われますし、そのことを関係各位が「肝に銘ずる」べきこととなると思われます。決してその「逆」ではないのです。

 稲(米)の伝来ルートについても、現在「朝鮮半島経由」、「台湾・沖縄経由」、「中国大陸から直接」の3つの説が提出されており、いずれも「日本の稲作は弥生時代(紀元前三〇〇年前)から」とされてきましたが、九州の福岡県板付(いたづけ)(紀元前六〇〇年前)、唐津市菜畑(なばたけ)(紀元前七〇〇年前)の両遺跡からは、完全な水田遺構が出ています。
 これらの遺跡の調査から、稲作技術の渡来した時期は紀元前七〇〇年より以前であることが確実視されていました。しかし、従来はこの時代は縄文時代の範囲に入っており、「縄文時代に稲作があった」という不自然さがあったのです。
 そもそも「弥生時代」の定義から考えても、「稲作の開始」を以って「弥生の開始」とする、という考え方が一般的ですから、これは矛盾しているわけですが、これについてもこれらの遺跡が弥生時代の初期に入ることとなれば、問題がなくなってしまうのです。
 また『魏志倭人伝』に書かれている倭人の風俗(刺青の風習や貫頭衣、持衰など)は「南方的」なものと考えられていますが(中国南部から東南アジアに同様の風俗があります)、弥生文化は、「中国南部(江南の古文化)」との関連が非常に深い、と考えられています。たとえば、高床式の建物や、「鵜飼」の風習や「歌垣」などがそうです。また上顎左右の側切歯を抜く「抜歯」についても、このような風習は朝鮮半島にはなく、中国の東海岸で「春秋時代前期まで」存在するものとされているのです。
 弥生時代の始まりが従来の説より早くなれば、(たとえば弥生前期が紀元前八世紀ごろであるとすれば)これらのことについて「中国からの直接の伝播」としてかえってスムースに説明できるのです。
 また、九州の遺跡に多い甕棺から出土する細形銅矛や細形銅戈(どうか)は殷・周時代の中国最古の青銅器によく似ていることが指摘されています。これも中国の影響が日本に直接及んだ、と言う考え方も可能となります。(これらの銅原料の原産地も、中国の「雲南省」付近とみられています。) 

 ところで、東北日本、特に青森の地に稲作(早生品種)が伝わったのは紀元後一〇〇~二〇〇年付近と考えられていますが、これが「晩成品種」からの突然変異と考えると、そのような「進化」には「千年程度」の時間スケールが必要という考え方があり、「紀元前八世紀」付近での稲作伝来という考え方であればそれほど矛盾はないといえることも重要です。それは伝搬スピードという点でも近畿への到達と思われる紀元前三世紀付近においてそれ以前と以後でペースがあまりにも違うという点が見事に解消することからも言えます。
 従来の考え方では晩成品種として伝来して僅か二〇〇年ほどで早生品種ができたと見なければならなくなっていたわけであり、それは余りにも不自然であったものですが、しかし伝来時期がもっと遡るものであったとすればそれは解決するわけです。
 そもそも「オオムギ」「ソバ」「コムギ」などの伝搬については中国西域から東北部、沿海州からサハリンへと続くルートが(不確定ながらも)想定されています。その意味では「稲」についても佐々木広堂氏のいうような(※2)「大陸」(沿海州など)からの伝来という考え方は成立する余地があるといえるでしょう。
 しかし「北部九州」からであっても「期間」と「環境変化」が整えば「国内」で「進化」したとも理解できる余地があり、未確定といえるかもしれません。ただし「大陸」からであればその「大陸」内部において「進化」していたと見ることもできそうであり、また「人」の移動ルートとしても有力ではあります。
 いずれにせよ列島と大陸とにかかわらず、この「紀元前八世紀」付近で起きた気候変動(東アジアという地域全体として「寒冷化」となったものと思われる)によりこの時点で起きた突然変異が安定化しその後進化拡大したとみるのは自然なことです。

 日本の各地に「弥生時代」が訪れ、「稲作」が進んだのには「鉄器」が重要な役割を担っていると考えられます。「弥生時代」の開始が早くなったことで、逆に「稲作」の国内伝播の速度があまり速くなかったことが明らかになったと考えられます。つまり、「稲作」は早期に伝わったのですが、それに必要な道具に「金属器」が使われるようになるまで広まらなかった、ということと考えられます。「石器」から「金属器(鉄器)」になって始めて「稲作」は本格化して行くのです。
その「鉄器」の出土状況は圧倒的に北部九州で濃密なのです。ここから日本列島各地に伝えられていったと考えられ、北部九州は日本における鉄文化の発祥の地といえるでしょう。たとえば、「弥生時代」の鉄器のうち、「剣」、「太刀」、「鉾」等の考古学的鉄製武器の出土品の数は、九州で「六六三」、畿内で「七十九」、関東で「二十三」 などとなっており、九州での出土が他を圧倒しているのです。
 このように鉄文化が「西高東低」の「弥生中期」では、近畿大和には大型鉄製武器は皆無に等しく、邪馬壹国(邪馬台国)は九州にあった、という説の強力な裏付けにもなっています。

 またこのように「弥生時代」の始まりが早くなったことでいわゆる「徐福」伝説に対する考え方も変わらざるを得ません。彼が来倭したことで「弥生」へと移行したという説が語られていることがありましたが、それは実態とは異なる事となったものです。「秦」の時代に「中国」から何らかの文化的影響があったことは間違いないとは考えられますが(「細型銅剣」の流入がそれであるとされているわけですが)、それは「弥生」の中期頃の事と考えられるようになったものです。ただし、「筑紫」など九州島以外の地域に「弥生」文化が伝搬する契機となったという可能性は考えられるといえるでしょう。

 ところで、縄文から弥生への時代の位相転換はその契機が全地球的な気候変動という事象に発するわけですが、その「原因」は何が考えられるでしょうか。通常は「火山」の爆発などが候補に挙がるわけですが、遠く「シリウス」が関係していると考えることもできそうです。


(※1)大貫静夫「最近の弥生時代年代論について」(『Anthropological Science』113号二〇〇五年)が非常に参考になります。
(※2)佐々木広堂「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった 封印された早生品種と和田家文書の真実」(『古田史学論集 第九集 古代に真実を求めて』古田史学の会編 明石書店2006年)


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/12/17)

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九州の縄文時代と弥生時代の交錯

2018年02月05日 | 古代史

 「三内丸山」をみて分かるように、「東日本」の縄文文化のレベルがかなり高いことが明確になっているわけですが、それに対し、「九州」を含む西日本は遅れていました。その原因としては東北や北海道ではすでに終息した火山活動が「西日本」では継続していた事が大きいとされます。
 「桜島」や「喜界島」などの火山が大噴火し、その影響は直下といえる九州地方に多大な影響を及ぼしたものと考えられます。そのため「九州」の「縄文時代」は集落も大規模なものが見られません。
 その後、今から三千年ほど前になると今度は地球規模で「気候変動」が起き、東北日本を中心とした「縄文時代」は終焉を迎えます。海や野で得られる「さち(獲物)」が減少し、人口も減少していきました。これについては後でも述べますが、「紀元前七五〇年前後」という時期が推定されており、それに関連して「シリウス」の増光があったものと思われ、新星爆発に伴う高エネルギー粒子の飛来が大気中のエアロゾルを増加させ日射量の減少になったとみられます。これが寒冷化の原因となったと推定され、この時点以降全地球的な民族移動が起きたものであり、その結果として「列島」では「弥生時代」の到来となったと見られるわけです。

 この「東日本」優位の状況が崩れ始めたことを良く表しているのが「亀ヶ岡式土器」の拡散です。
 この土器は広く「東日本」全体を覆っていましたが、「縄文後期」になると「西日本」の各地で、そのものやあるいはそれを模倣したような明らかに影響を受けたと見られる土器が見られ始めます。これは現在実際に「人の移動」があったと考えられており、寒冷化などにより東北縄文人が適地を求めて南下あるいは西下してきていたことを示すと思われています。(※)
 さらに特に九州ではこの亀ヶ岡式土器の影響を受けたと見られる土器が多く見られるのが縄文終末期であり、それは弥生土器が見られ始める時期と重なっています。(さらに南島にも縄文土器の影響が看取できるとされています)
 「稲作」が伝来した時点(これも「全地球的気候変動」の一端の事象と見られますが)、つまり「縄文終末期」には少なくない数の人間が東日本から西日本へ移動していたわけであり、特に九州は北陸からの移動が推定されています。それは「ヒスイ」を通じて両地域に以前から関係が出来ていたことの流れの中で理解できるものです。
 彼らの存在と稲作文化の担い手がある程度重なっていると考えられるのは非常に興味深いところです。

 彼らは「食料」の確保の「安定」を求めて西下してきていたわけであり、近年の調査でも縄文最末期(約3600-3000年前)の土器から「栽培種」とみられる大豆や小豆の痕跡があることが判明しています。それは「九州各地」の遺跡に及んでおり、ほぼ全九州で検出されているのです。
 このことから「稲作」という新しい技術と文化をある程度積極的に受容する素地がすでに形成されていたことが推定できるでしょう。その意味でも「栽培作物」が遺跡が確認できる「九州」が「稲作」を受け入れた最初の地であることは疑えないと言えるでしょう。つまり、民族移動の結合点とでも言うべき場所が九州であったということとなりそうです。
 「弥生」文化は「江南地方」(揚子江の南側の地域)から稲作が(人も含めて)伝来し、定着することで始まりますが、それをいち早く受容したのは「九州」地域であり、「北部」において「水田農耕」が始まり、これが定着することとなります。上で見たように「栽培」に親しんでいた人々はこの新しい食料確保法である「稲作」を積極的に取り入れたのではないでしょうか。そうであれば「稲作」を中心とした江南文化は一定時期「北部」九州地域に留まりここで花を咲かせたものと考えることが出来ると思われます。

 「稲作」文化の伝来と言うことを考えると、列島の中で「伝搬」の経路という地理的な優位性が高いのは、明らかに「九州」です。なぜなら「弥生時代」は「西」からやって来るわけです。地理的にいうと明らかに「西日本」の中でも「近畿」は「九州」に比べ「不利」でしょう。
 「近畿」が「弥生時代」の先進地域であるとすると、この「地理的不利」を跳ね返せるだけの別の優位性が必要と考えられます。しかし、「弥生」の前の「縄文」の時も特に近畿に優位な点があったわけでもなく、「文化中心」が近畿にあった形跡が見あたらず、特に「近畿」へ早期に稲作文化を持った人々が移動してきたようには見えません。
 論理的に考えた結果は「近畿」が弥生の先進地域であるべき何もないと言えます。それを証明するように「遺跡」から発掘された各種の遺物はいずれも「九州」の年代が他の地域に比べ古いことを示しているわけです。
 特に近年実用化された「放射性炭素測定法」という方法を使用して測定した結果、「九州」における「弥生時代」は紀元前九世紀に始まったと考えられるようになり、他の地域に比べ三百年から五百年差あったと考えられるようになっています。
 つまり「近畿」は「九州」に比べかなり遅れて「弥生時代」が始まったこととなるわけです。それを示すように「鉄」も「絹」も「弥生時代」には「九州」からしか発見されていないのです。

 ところで「纏向遺跡」など「近畿」周辺の土器の出土状況を見てみると、各地の土器が多様に出土しているのが目につきます。従来、ともすればこのことを以て「近畿」に各地の文化が流れ込んで来ていたことの証左と考え、「倭国の中心地に流れ込む周辺諸国の文化」という図式で見ていたわけですが、それは当然重大な錯誤といえるでしょう。
 前述したように「弥生時代」は「九州」に始まり、それから長い期間この地にだけ「弥生文化」が花開いていたと考えられています。そのことを示すようにこの地域では長い間「曽畑式土器」と呼ばれるこの地域特有の土器しか出土せず、他の地域の土器は全く見られませんでした。
 そもそも「文化の移動・伝搬」というものが、文化の中心地から周辺に向かって流れるものであるのが原則であることを考えるとき、この土器の変遷は「九州筑紫平野」が、当時の文化の中心であったことを示しているものと思われます。(「亀ヶ岡式土器」の分布と変遷が「縄文時代」の中心地を示すのと同様の意義があると思われます。)
 
 このように「弥生時代」は「九州」で始まったと考えるのが合理的であるわけであり、「近畿」が早かったとか、「近畿」と「九州」が同時であったなどということを想定することは決してできるものではないのです。


(※)遠部慎「九州における縄文・弥生移行期の東日本系資料」『考古学ジャーナル』第五四九号二〇〇六年十月号


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2014/08/16)

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「三内丸山遺跡」のこと

2018年02月05日 | 古代史

 青森県には特記すべき遺跡があります。それは「三内丸山」遺跡です。この遺跡は「縄文」から「弥生」まで延々と続く遺跡(群)であり、五千五百-四千年前のものと推定されています。
 この遺跡そのものは江戸時代から知られていたものです。元和九年(一六二三年)に書かれた「永禄日記」に遺物出土が記録されていますが、一九九二年から本格調査が実施されたものです。

 この遺跡は従来の「縄文」という時代に対する観念を根底から覆す要素を多く持っていました。その一つが「物見櫓」かと推定される、「クリ」の木を柱に使った「高層」建築物の基礎の発見です。
 その柱穴は深さが2.2mもあり、底に残っていた栗の根は直径が85cmもあったのです。(「縄文晩期」では石川県の「チカモリ」遺跡や「真脇」遺跡が同様なサイズですが、「山内丸山」は「縄文中期」なので、一段古いと考えられます。)
 しかもこの「クリ」の柱には「めど穴」と考えられる穴が開いているのが確認されました。「めど穴」というのは「運搬」の際にロープなどを掛けるためのもので、「長距離」を運搬するときに使用する、というのが定説となっているもので「奈良時代」などで寺院などを建築する際の「遠距離」運搬の時に使用されたものです。同じものが「山内丸山」の「物見櫓」で見つかった、というのは、この「栗」の柱材がかなり遠方から運ばれたのではないか、ということを推測させるものであるわけです。
 柱材としての「クリ」は余り太いものを手に入れることが難しいようで、かなり山奥に行かないと探し当てられなかったと思われます。その山奥から切り出した「クリ材」を「縄」を掛けて物見櫓の場所まで運搬してきたものであり、推定では数km以上離れた山からのものではなかったかとされています。
 しかもこの柱穴の間隔が「4.2m」だったのです。このサイズの基本単位は35cmと思われ、これは「殷・商」の時代に使用されていた尺(約17.2cm程度か)の2倍に当たるものと考えられます。
 「殷・商」の時代は今から三千五百年ほど前と思われ、三内丸山に重なる時代のことであり、この両者には何らかの関係があったものと推定されます。(この「三内丸山」だけではなく全国的に「縄文中期」と思われる時期の建物などの基準寸法として17.2cm程度が検出されています。)
 このように「大陸」と「列島」との間の「文化」的伝搬にタイムラグが無かったかそれほど長い期間を要しなかったと言うことは、それ以降の「弥生時代」においても同様であり、「青銅器」などの伝搬もやはりタイムラグが無かったと思われることが近年明らかとなっています。つまり現在の私たちが思うほど交通移動の手段がなかったわけではなく、「遠距離」がそれほど「遠距離」とは意識されていなかったという可能性が考えられるでしょう。

 この柱の用途に関しては、それが単なる「櫓」なのかより複雑な「建物」なのかが未だ不明であると共に、実用なのか祭祀なのかもはっきりしていません。しかし、通常掘っ立て柱建築の場合、柱穴の深さや柱の太さと建物の高さには一定の関係があるとされます。
 この「三内丸山」のように柱が太く深い場合、高さもかなり高くなると推測され、15m程度あったのではないかと考えられ、これは「階数」で言うと5階程度に相当すると思われます。そう考えると、通常の建物ではないことが推定できるでしょう。「物見櫓」説が一番近いのかと考えられますし、「灯台」であったという説もなかなか鋭いかもしれません。そのような高い建物が「縄文」という時代に非現実的であるとは考えない方がいいでしょう。それは「出雲大社」の例があるからです。
 「出雲大社」(旧杵築大社)は五十年に一度建て替えられてきていますが、段々と低くなってきているのがわかります。それは「技術」が継承されなかったためであり、以前の建て方では復元できなくなってしまったからです。これが「伊勢神宮」のように「二十年に一度」という間隔であれば技術の継承には支障がないと思われ、古い建築様式がそのまま保存されていると思われますが、その間隔が開けば開くほど当時の技術や建築方法が忘れられてしまい復元できなくなるということが言えるでしょう。「三内丸山」遺跡においても当時の技術はすでに途絶えてしまったため、どのように建てられたものかはすでに不明となっていますが、だからといって高層建物などが不可能であったとは言えないと思われます。

 さらに注目すべきは「クリ」を「栽培」していたのではないかと推定されていることです。
 遺跡から出土した「クリ」の実のDNAを分析したところ、一般の林に生えている「栗」とは違って、「揃っている」のが確認されたのです。単に林に行って、「クリ」を採集してきた場合各々の「クリ」のDNAは「ばらつき」があります。「クリ」にも個性があり、多様性があるのです。しかし、遺跡から発見された「クリ」のDNAは「画一的」でした。このことから、この「クリ」は「栽培」されていたものではないか、と推測されています。
 確かに、「三内丸山」では多量の「クリ」の実が発見されており、通常「クリ」が一カ所に大量に存在する(たとえば自然林において全部が「クリ」などというような)ことはあり得ないため、これだけの「クリ」を集めるのは技術的にかなり困難だと考えられ、「三内丸山」で至近の場所に「人工的」な「クリ林」を造っていたのではないかと推量されているわけです。
 他にも、いわゆる「栽培植物」として知られる「ひょうたん」「豆」などが出土しており、狩猟・採集だけではなかったことが知られるものです。(しかも「ひょうたん」は「アフリカ原産」です。)

 出土した黒曜石の産地分布は北海道産が多いようですが、その中でも多様性があります。「赤井川」「白滝」「十勝」「豊泉」「置戸」など北海道の中でも分散していますし、本州産と見られるものでも秋田県「男鹿」、長野県「霧ヶ峰」(ただし製品として)など複数の場所からの入手が確認されています。
 また岩手の「久慈市」付近が原産地と見られる「琥珀」の原石も出土しています。他にも秋田県「昭和町」付近で採集されたと見られる「天然アスファルト」が付着した「鏃」が出ています。これは矢の軸(木材)との接着に利用したもののようです。

 出土した中には「けつ状耳飾り」と呼称される勾玉をイメージさせるアクセサリーと思われるものがあり、これは「大陸起源」と考えられ、中国東北部と関係があったと考えられています。(中国東北部でも八千年前のものが出てているようです)


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2014/08/16)

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教科書における「縄文時代」について

2018年02月05日 | 古代史

 戦前の教科書には「縄文時代」という時代区分はありませんでした。『書紀』などの「神代史」がそのまま「歴史」として書かれ、教えられていたのです。戦後になって、「縄文時代」という区分が使用されるようになり、日本人の原像として改めて考えられるようになりましたが、一般にはいまだに「未開」の人たちであり、高い文化を持っていなかったと考えられているように思われます。

 その「縄文時代」は、現在「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の大きく6区分されています。以下に示すのは「九州」地域の区分であり、AMS法で測定して暦年代に補正したものです。

「草創期」 … 15000年前~12000年前 (前13000~前10000年)
「早期」 … 12000年前~7000年前(前10000~前5000年)
「前期」 … 7000年前~5500年前(前5000~前3500年)
「中期」 … 5500年前~4500年前(前3500~前2500年)
「後期」 … 4500年前~3300年前(前2500~前1300年)
「晩期」 … 3300年前~2800年前(前1300~前800年)

 一般に「縄文時代」は「狩猟社会」であり、「未開」で「未発達」であったと思われがちですが、そのような見方がいかに偏見に満ちたものであるかが、近年の各地の遺跡などの発掘からわかってきています。
 彼らは遠方との交流、交易を活発に行い、多くの情報や人が行き来していたと考えられるようになりました。
 また、彼らは土木工事をしたり、大型建物を造るなどの活動もしていたことが判明しています。
 例を挙げると、その大型建物では柱に「貫穴」(床材を受けるための横材を貫通させるための穴)が開いているのが確認された例もあるなど、建築技術的にも後の「弥生時代」と遜色ないものがあったことが確認されています。
 また大型建物に必要な部材を山から運び出すのに必要な「ロープ」などを掛ける「穴」が確認できる部材もあり、相当の遠距離から運搬することがすでに縄文で行われていたことが明らかとなっています。

 「弥生文化」は明らかに西日本が優勢ですが、それ以前の「縄文時代」は「東日本」が文化的に優勢であり、「九州」を含む西日本は遅れていました。その原因としては東北や北海道ではすでに終演した火山活動が西日本では継続していたものであり、「九州」の「桜島」や「喜界島」など火山の大噴火が続き、その影響は直下といえる「九州地方」に多大な影響を及ぼしたからと考えられます。そのため「九州」の「縄文時代」は集落も大規模なものが見られません。

 東日本の本格的縄文時代は今から七千年ほど前から始まったとされる「縄文海進」の時期にピークを迎えました。この「海進現象」は基本的には北米大陸の大量にあった氷河が氷期が終わった時点から融解を始め、それがほぼ溶けきったことに伴う海水量の増大がその主たる要因ですが、低温で通常よりもやや重い海水が大量に太平洋に流れ込んだことにより海洋底が変形し海洋底が深くなった結果、陸域が引きずられて沈降したため海水面が現在より最大10m程度高くなって、海岸線が現在よりも大きく内陸に入り込んだ形となったものです。このように元々の海抜がそれほど高くない地域に海水が侵入した来るようになった結果、「浅瀬」が広く広がり、人々の生活に非常に適した狩猟環境が形成されたものと見られます。(この東北日本では温暖化も進行していたものであり、それは海流の経路変更による暖流の影響が大きいとされます)
 またこの時期には大規模な「クリ」栽培(青森三内丸山遺跡)や大規模柱列(石川チカモリ遺跡)、環状列石(青森大湯環状列石)など広範囲、多数の人間を動員する必要のある構築物などが各所にできました。これらはそのような生活環境の改善がもっとも大きな要因を成していたものと見られ、特に東北日本でそれが顕著に表れたものです。
 このように優勢を誇った東日本縄文人に対し、西日本では「九州」を除き縄文後期においても本格的な「縄文文化」は花開きませんでした。しかし、逆にこのことが新しい文化である「稲作」をはじめとする「弥生文化」を抵抗なく受け入れる素地ともなったとも考えられます。

 その後、今から四千年ほど前になると逆に「海退」が進行し、海水面が低下していきます。これは海洋底(この場合太平洋)の変形がゆっくり元へ戻って行くにつれ、「陸域」の隆起が始まるという「地殻変動」によるものであったものですが、それは即座に暖流の経路が再び変更になったことを意味するものであり、特に「東北日本」において「気候変動」を発生させるものでした。その結果「東北日本」を中心として繁栄していた「縄文時代」は終焉を迎えはじめます。「海退」により浅瀬が減少し容易に獲得できていた海生生物を栄養源とすることが次第に困難になっていきます。
 このように海や野で得られる「さち(獲物)」が減少し、人口も減少していきました。その後三千年ほど前になると「江南地方」(揚子江の南側の地域)から稲作が(人も含めて)伝来しますが、彼等はこの時期起きた「全地球的大規模気候変動」による民族移動の結果として列島にやってくることとなったものです。そして彼等の文化をいち早く受容した九州北部において「水田農耕」が始まり、これが定着することとなります。
 このようにいち早く「弥生文化」が九州に定着したのは、そもそもこの地方では「縄文文化」の「根」が弱かったことがあると言えるでしょう。

 すでに縄文時代から人々は、当たり外れの多い獲物(さち)に寄りかかるよりはずっと効率がいいのは「栽培すること」と知っていたと思われ、近年の調査でも縄文最末期(約三千六百-三千年前)の土器から「栽培種」とみられる大豆や小豆の痕跡があることが判明しています。それは「長崎」「熊本」「福岡」「鹿児島」などの遺跡に及んでおり、ほぼ全九州で検出されているのです。
 こういった下地があったわけであり、そのことから「狩猟生活」から完全に脱却し、「稲作」に振り替えることに対する抵抗もよほど小さかったと思われます。
 また稲作を伝えた人々も要は「移民」であり、受け入られなければ去るしかなかったわけですが、もし受け入れがスムースであったならそこに定着し、そこより遠くへ行く必要もないわけですから、「九州島」近隣で稲作を継続していったと考えるのが妥当と思われます。

 つまり「縄文晩期」の終焉は九州北部でいち早く始まり、その後の「弥生」への移行も早かったと考えられていますが、東北方面では遅れて、「縄文晩期」が「九州」の「弥生中期」に相当する時代まで続いていましたし、北海道は「続縄文」という時代がその後「奈良・平安時代」頃まで続くことになります。


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2016/10/27)

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縄文時代についての捉え方

2018年02月05日 | 古代史

 ホームページに書いていたものを転記します。

 日本の歴史時代区分の中で「縄文」時代ほど誤解されている時代はないと思われます。通常の理解では、「移動」「採集」「狩猟」の生活であり、農耕生活ではないため、富の発生、集中がなかった、と思われているようです。しかし各地の遺跡の発掘などにより、従来のそのような認識のいかに真実から遠いものであるかが徐々にではありますが、知られるようになってきています。たとえば同じ縄文時代(それも中期)に、黒曜石や硬玉(ヒスイ)またゴホウラの貝などが広い地域を介してやり取りされていたことが明確になっています。
 たとえば狩猟に必要不可欠な道具である「鏃」は、その最高の材料である「黒曜石」が、どの地域にでも産出するというものではないため、(主要な産地は「佐賀県腰岳」、「長野県諏訪峠」、「北海道赤井川村」など限られています)他の地域の人々はこれを手に入れるためには、「工夫」が必要でした。人々は、この貴重な、しかも必要不可欠な道具である「黒曜石」を手に入れるために、あるいは直接訪れ物々交換により入手する、あるいは他の人々を介して入手する、という事になったものと考えられます。その結果「海」を越えて遠く離れた場所からも「黒曜石」の「鏃」が発見される事になりました。たとえば朝鮮半島や沿海州などで発見の報告があります。(X線蛍光分析器などにより黒曜石は産地の特定が可能です。)
 同様に南方の海にしか生息していない貝(ゴホウラやイモガイ…主な生息地は奄美諸島以南のサンゴ礁)でできた腕輪がはるか北方の北海道の遺跡から発見されていることなどがあります。
 また遺跡から出土した遺体には「ゴホウラ」の飾りを腕に多数つけた状態で発見されているものがありました。このような場合は幼少のころに腕に通したまま成長したものと考えられ、成人してからはその腕輪を取ることができない(取るためには壊さなければならない)状態となっています。このままでは「狩猟」など「労働」は不可能と考えられ、この人物がそのような「労働」をする必要がなかったことを意味しており、これはすでに「生産階級」と「非生産階級」とに社会が「分化」していたものと考えられています。このようなこともまた、従来の考え方からすると「非縄文的」でしょう。
 これらのことは、通常考えられていた「縄文」に対する認識について大幅な変更を迫るものであり、史書に書かれた縄文時代の情報についても積極的な捉え方をする必要があるものです。

 一般に「縄文時代」の次は「弥生時代」であるというのは当然の認識ですが、ではその「移行」は列島の各地で一斉に起こったのでしょうか。そのようなことは考えにくいと思われます。その様な事が起きるとしたら二つの原因となるものが考えられるでしょう。一つは「天変地異」です。
 国土の広い範囲を同時に襲う未曾有の「災害」が発生すると、諸国はほぼ等しくその影響を受けるでしょうから、時代の位相がドラスティックに変化することは充分有りうると思われます。但し、これは「縄文」から「弥生」の場合には適用できないと思われます。確かに「縄文」から「弥生」の場合は「稲作文化」が始まったとされており、これは地球的な大規模気候変動がその契機となっていることは事実ですが、このときの「気候変動」は実際の変化としては「漸次」的な事象の発生であり、緩やかなものであったと思われますから「天変地異」という言い方にはなじまないものです。

 他に「一斉移行」の原因として考えられるのは「戦争」であり、そのような広い範囲で戦いを起こすことができる強い権力者の存在です。しかし、そうであれば「縄文時代」の末には既に「統一政権」があったことになりかねません。つまり、もし「弥生時代」が全国一斉に始まったとすると、それは「国家」の政策としてのものと考えざるを得ず、「弥生」の前代にそのようなことが可能な中央集権的国家があったこととならざるを得ませんが、それは明らかにナンセンスな話です。
 そう考えると「縄文」から「弥生」へという時代位相の変化が「全国一斉」のものではなかったというのは明らかです。当然、列島各地は個々ばらばらに「弥生時代」へ移行したと考えざるを得ないこととなるでしょう。
(これについては現代でもそれを承認しない勢力があることに驚かされます。彼らは「近畿」も「九州」も同時に「弥生時代」に移行したと考えているわけです。そのような考え方が非科学的でありナンセンスであるのはいうまでもありません。ただし、その移行への要因としては全ての地域に共通していたことは事実でしょうけれど)
 上に見たように「縄文時代」に統一王権があったという仮定でもしなければ「弥生時代」に同時移行するはずがないといえます。そう考えると、「弥生時代」への移行には地域差があったこととなり、早く始まったところと遅れて始まったところとがあったということとなります。それでは「先進地域」はどこであったのでしょうか。「近畿」で早く始まったのでしょうか。もし、そうならそのための「アドバンテージ」は何かあったのでしょうか。

 「弥生時代」は「稲作」の伝来をもって「弥生時代」の始まりとする、というのが最も一般的な定義です。ところで、「弥生時代」の前の「縄文時代」は地球は温暖化による影響が大きかったと思われます。氷河期が終わり特に北米大陸にあった厚さ数千メートルにもなる氷河が溶け、海膨(海水量が増大すること)が起きるとそれは太平洋を挟んだ列島に影響が及び、その結果として内陸のかなり奥まで海岸線が入り込む形となっていました。これは「縄文海進」と呼ばれています。「東日本」の本格的縄文時代は今から七千年ほど前から始まったとされるこの「縄文海進」の時期にピークを迎えました。(これは実際には増加した海水の重量により海底が沈みこみ、それに陸地が引きずり込まれたために内陸に海が入り込んだものとされます)

 また「暖流」である「黒潮」は現在の北限である房総半島沖をはるかに北上し三陸沖まで流れ込んでいました。そのため現在の東北地方を中心とした「東日本」では水産資源も植物資源も動物類も豊富でした。これらのアドバンテージにより「縄文時代」は「東日本」が中心であり、「巨木」文明が栄えていたのです。
 この時期に大規模な「クリ」栽培(青森三内丸山遺跡)や大規模柱列(石川チカモリ遺跡)、環状列石(青森大湯環状列石)など広範囲で、多数の人間を動員する必要のある構築物などが各所にできました。
 特に「青森三内丸山遺跡」の内容は特記すべきものであり、縄文のほぼ全期間を通じてここに多くの住民が居住し続け、高い文化を創成していたのです。


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2016/11/10)

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