『倭人伝』の「張政」の来倭記事の中では「卑弥呼以死」と書かれています。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)なのか病死なのか死因としては一切不明です。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者百餘人。」
ここで使用されている「以」の語義については従来から「諸説」があり、「理由」の意義として考える場合や、「とにかく」という「軽い」状況の説明としての使用法であるという考え方もあるようです。(なくても通じるというもの)これについては以前「辞書」に『「古」は「已」と同じ』と書かれていることを根拠に「already」に相当する用例に相当すると見ていたものであり、「張政」が来倭した時点以前に「卑弥呼」は「死去」していたと理解していました。しかし改めて視点を変えて「以」と「已」という両方の用例を『東夷伝』の中に渉猟すると、明確に意味内容において区別されていることが判明したため、以下のように論旨を変更します。
『三国志』というより『東夷伝』さらには『倭人伝』に限って考えても「已」と「以」とは完全に区別されて使用されており、「以」で「已」の意で使用されている例は皆無です。さらに「以」の用例はすべて動詞の前について調子を整える程度の用法しか見られません。(「以」+「名詞」+「動詞」あるいは「以」+「動詞」という順となっているようであり、名詞を目的語として挟む場合もあるようです)これについてぱどうも例外といえるものがないと思われます。そう考えると「卑弥呼以死」という文は「単純」に「卑弥呼が死んだ」という意味以上のものはないこととなります。ただしその前後の状況を考えると、魏使が到着する以前に卑弥呼が死んでいたであろうことは推測できますが、それ以上については明確ではありません。
ただし前後関係から見て「張政」の存在や行動が「卑弥呼」の死につながったわけではないことは明らかであり、彼の来倭以前に「卑弥呼」に不測の事態が発生したことを示すものと思われるものです。
「魏」に使者を派遣しそれを受けた「魏」から使者が到着するまでの期間(相当長い期間です)に何らかの問題が発生し、「卑弥呼」が死去する事態となっていたことを示唆します。それはこの「卑弥呼以死」という記事に「死因」が書いてないということからもいえることです。
考えてみれば「病死」なのか「戦死」なのか、「張政」が来てからであれば何か「死因」らしき事を書いても良さそうなものですが、それらは一切書かれておらず、それも不審といえるでしょう。それは「張政」が来倭する前の出来事であったために書いてはいない(書けなかった)と考えるのが妥当なのではないでしょうか。そう考えると「殯」と「葬儀」の記事もないことに気がつきます。『倭人伝』ではいきなり「墓」(冢)を築造する記事となっているのです。
『倭人伝』の中にも「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。」とあり、「喪」(これは「殯」にあたるものか)が十日以上続いた後で「葬儀」となりその場では「喪主」は「哭泣」し「他人」は「歌舞飲食する」とされています。この記事は「俗」に対するものと思われますから、「卑弥呼」のように「王」という高貴な地位にあったものがこの程度の簡素な葬儀で終わったはずがないと思われ、「殯」の期間も「葬儀」ももっと大々的に行われたとみるべきでしょう。しかし、そのことを示唆するどのような記事もみられないわけですから、「張政」が「来倭」した時点ではそれらは全て終了していて、後は「冢」に埋葬するだけであったということが考えられるわけです。
また、そのようなことは「皇帝」からの詔書及び「檄」が「卑弥呼」ではなく当初「難升米」に渡されていることからも推測できることであり、彼が来倭した時点で「卑弥呼」が既に死去していたことを示すものと思われます。
そもそも「詔書」「黄幢」「檄」などは全て本来「倭王」へ授与され、また告諭されるものであったと考えられます。この記事の最終では「壹與」に対して「檄」を告諭していますが、そのことから考えても、当初「難升米」に告諭したように書かれているのは、あくまでも「倭王」の代理としてのものであったと思われ、その時点(「張政来倭」という時点)でもし「卑弥呼」が存命中であったなら、後に「壹與」に告諭したように「卑弥呼」に告諭したはずです。
つまり「張政」等「告諭使節団」が「来倭」した時点では既に「卑弥呼」は死去していたものと思われ、そのため「張政」はやむを得ず「代理人」に対し「詔」して「檄」を告諭したものと思われますが、それが「難升米」であったというわけです。しかし本当に彼が適任であったかは疑問です。なぜなら「卑弥呼」には「男弟」がおり、彼が「佐治國」つまり「卑弥呼」に代わって国政全般をみていたとされており、実務の全ては彼によって行われていたとみられるからです。それが正しければ「詔」や「檄」は「男弟」に対して行われるべきものではなかったでしょうか。これは「疑問」とするところです。(これについては後述)
また、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(大いに冢(ちょう)を造る)と書かれており、多くの人手を要したものと推察されますが、さらに「殉葬者」が「百餘人」であったと書かれています。この時点で「殉葬」の風習があったことが知られるわけですが、これは明らかにその前代までの風習が遺存したものと思われます。
これに若干先立つと考えられる「吉野ヶ里遺跡」の場合は「歴代」の王のため(つまり何代にも渡る遺跡と言うこと)、「殉葬」と思われる「甕棺」の数が非常に多いのと、「濠」の内側の甕棺と外側の甕棺とで「身分差」のある「複数」の階層の人たちによる「殉葬」があったようにも思われ、「卑弥呼」のように「」だけではなかったことが考えられます。
このことは「卑弥呼」の墓を造った際には「倭王」としてはかなり「少人数」の「殉葬者」であったこととなるわけであり、それは「狗奴国」との戦闘の中という時点の死去といういわば「非常時」であることを反映しているようです。
つまり、「周」や「殷」王朝の場合などの場合は「殉葬者」は生前に側近くで仕えていた人々も含まれるものであり、通常であればこのような階層の人たちは主君である「王」の近くに葬られるものと考えられ、「吉野ヶ里」遺跡はそのような「平時」の「墓」の状態を示していると考えられますが、「卑弥呼」の死に際してはそのような側近達も共に葬られるというわけにはいかなかったと見られます。なぜなら「狗奴国」との戦闘はまだ継続していたか、停止していたとしても直後であったと見られ、「卑弥呼」の後継者選びもままならない中では「主君」と共に死んでるわけにも行かなかったものと思われるものです。また「魏」の使者がいるわけですからその対応もしなければならず、その意味でも少数の「殉葬者」で墓の造営を行わなければならなかったと見られるものです。(この時点以前に出されていた「薄葬令」の影響もあった可能性も考えられるところです。)
ところで『倭人伝』の文章からは「卑弥呼」が死去した後、「男王」が即位したものの、「国中不服」とされ、かなり激しい争いとなったとされています。この時点で「張政」が既に「来倭」していたかどうかですが、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(「大いに」冢(ちょう)を造る)と「リアル」に表現されているところを見ると、その時点で「張政」はその場にいたように思えます。「径」が「歩」で表記されていることも、「張政」が自ら「歩測」したという可能性も考えられます。
すると「當時殺千餘人」という時点においても国内にいたこととなりますが、その争いについては彼は介入せず「傍観」していたものではないでしょうか。「後継者」を誰にするかと言うことについてまで「魏」が口を出すことはなかったとみられ(「告諭使」の範囲、権限を超えるため)、「属国」の国内政治については基本的に「不干渉」であったと思われます。(「狗奴国」のような対外勢力の話とは別の次元のことと考えられるわけです)このため「張政」はその結論、帰趨を待ち、「壹與」が王として立てられ「国中遂に定まる」という事態を見定めた上で、改めて「新・邪馬壹国王」となった「壹與」に対して「檄」を告諭したということとなるでしょう。
またこの国内の混乱が何年も続いたとは考えられませんから(歴年というような表現がない)、「その年の内に」収束したものと見られることとなります。そして「張政」の任務はそこまでであったのでしょう。「檄」に対して「邪馬壹国」「狗奴国」双方がこれを「受諾」したことを確認した上で「帰還」と言うこととなったと考えるべきと思われます。
この時点で「張政」が「帯方郡治」に帰還したのかそのまま「郡治」を経由して「洛陽」に向かったのかははっきりしませんが、「還」という表現の直後に「因詣臺」とありますから、これは「洛陽」の皇帝の元へ向かったと理解すべきでしょう。その時点で「壹與」は「張政」に添えて「皇帝」に対する「使者」(掖邪狗等)を派遣し「生口」や「白珠」を献上すると共に「感謝」とさらなる「支援」を求めたと考えるべきでしょう。それはまた「卑弥呼」に代わって「新倭王」となったことのについて説明と理解を要請するものであったと思われることとなります。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/08/03)