古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「狗邪韓国」について

2018年02月09日 | 古代史

『倭人伝』に出てくる「狗邪韓国」について「倭地」ではないと判断した記事を投稿しましたが、若干補足します。

『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。

「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)

 ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。

「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)

 また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。

「遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海,行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。『西安平』,莽曰北安平。文,莽曰(受)〔文〕亭。番汗,沛水出塞外,西南入海。沓氏。」(『漢書/地理志第八下/遼東郡』より)
 
 これらによれば「西安平縣」というのは「遼東郡」に属する「漢」の地であることが判ります。しかし「小水」記事ではその「小水」の地に「国」を造ったとされていますから、それが「高句麗」の内部の話であり「漢」の領土内ではないことが判ります。このことからここでいう「北」が「北部」の意味ではなく「北方」の意味を持っていることが知られます。

 同様に『挹婁伝』にも『北』で『北方』の意を示す例が出てきます。

「挹婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、『未知其北所極。』」(『挹婁伝』より)

 ここでは「北」の方向に何があるのかどこまであるかさえ判らないとしているわけであり、決して「挹婁」の国の中の北部が判らないと言っていいるわけではありません。「north」と「northern」の違いがないというわけです。

 中国語の曖昧なところですが、ただ「北」というだけでは「ある地域の中の北部」を指すのか「その地域の外側」に広がる「北方」の地を指すのかが曖昧なときがあります。「狗邪韓国」について『倭人伝』に出てくる「其北岸」という表現も同様であり、「其」という指示代名詞が示すのは「倭」であるのは確かと思われますが、「倭」からみて北方という意味なのか、「倭の中の北部」を指すのかがどちらとも受け取れるわけです。その差は前後関係で考えるしかないものと思われ、それを示すのが「狗邪韓国」という名称であり、また「官を初めとする詳細記事の不在」であると思われるわけです。それ以降の描写とは全く趣が異なるわけですから、その差は有意であり、このようないわば状況証拠が示すものは「狗邪韓国」とは「倭地」ではないということではないでしょうか。

 また「韓伝」をみると「南は倭と接する」という書き方をされています。

「韓在帶方之南。東西以海爲限、『南與倭接』、方可四千里。」(『韓伝』より)

 これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きも多いようですが、「接する」とは間に何も入らないという意味であり、この場合の「何も」とは他の国のことです。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」は挟まっていないといっているだけであり、「陸続きである」とは一言も述べていないのです。たとえば「山」も典型的な自然国境といえるでしょうが、それを挟んでいても「接する」という用語は使用されている例があります。

「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘『接』。」(『高句麗伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊『接』。」(『東沃沮伝』より)

 ここでは「沃祖」は「高句麗」の「蓋馬大山」の東にあるとされますが、「高句麗伝」では「沃祖」と「接する」とされており、間に高山があっても「接する」という用語が使用される事を示します。そしてそれは「海」を挟んでいる「倭」についても「接する」という用語が使用されうることを示すといえるでしょう。

 また上にも出てきますが、「挹婁」「(東)沃祖」の記事では「大海に濵している」という言い方が出てきます。

「挹婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」(『挹婁伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。」(『東沃沮伝』より)

 上に見るように「大海」つまりここでは「日本海」に面した国であるとされています。その「日本海」の向こうには列島があるわけですが、さすがにその間の海は広大であり、「倭」と接するとは言い難いのは確かでしょう。しかし、「狗邪韓国」の場合はもちろんこれらとは異なるものであり、「晴れていれば見える」ほどの距離にある「対馬」であれば「接する」という表現は妥当なものといえるでしょう。
 「対馬」という名称も「馬韓」に対するものということからの命名という説もあるほどですから、その意味でも「対馬」の向こう側は「韓地」であるとみるのが相当ではないでしょうか。

コメント

「邪馬壹国」の代表王権への道筋

2018年02月09日 | 古代史

  すでに「奴国」が「後漢代」における「倭」を代表する権力者であったと推定したわけであり、『後漢書』に書かれた「倭国王」とされる「帥升」は「漢委奴国王」の金印を授けられた「奴国王」を継承した人物と思われることとなったわけです。彼により「奴国」による「倭」の地における支配領域はさらに拡大したものと思われます。そして、この「帥升」がその最後の「奴国王」ではなかったかと推察されます。

 「卑弥呼」の即位の事情を書いた『魏志倭人伝』の記述から「奴国」から「邪馬壹国」へ「後漢末」に中心王朝が交替したことが推察できます。つまり「帥升」あるいは彼の次代の「奴国王」付近で、「奴国」に代わって「邪馬壹国」が「倭」の覇権を握り、中心的権力の位置についたという流れが考えられます。
 その「邪馬壹国」は「伊都国」と「統」(血筋)がつながっていると記述されていますから、「邪馬壹国」(女王国)は「伊都国」から分岐した「朝廷」であり、「倭王」としての「大義名分」はそれ以前は「伊都国王」(更にそれ以前は「奴国王」)が保有していたことを推定させます。それが「邪馬壹国」へ移り変わったのは「帥升」という傑出した人材が亡くなって以降の倭国の政変の結果であったと考えられます。しかし「帥升」段階でそもそも何か「政変」の芽のようなものがあったという可能性もあります。なぜなら「後漢」の皇帝への「生口百六十人」の貢献した際には「帥升」自らが「朝見」したいと請うたと書かれています。

「建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(106年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』

 この「安帝永初元年」記事では「使者」を派遣したというようにには書かれていません。明らかに「願請見」したのは「倭國王帥升等」であり、素直に解釈すれば「倭国王」たる「帥升」が自ら「後漢」の都「洛陽」へやってきて「皇帝」に会うことを「願請」したというわけです。そこにはそれが実現したとは書かれていませんが、会わない理由はないと思われますから、「皇帝」には面会できたとは思われるものの、そもそもその目的は何だったのかと考えれば、『魏志倭人伝』において「難升米」達が派遣された理由とも重なるものであり、危急の事態が「奴国」に起きていたことの証ではないかと思われます。もし「後漢王朝」の後ろ盾が得られなければ「奴国」の「倭」における中心権力の位置が失われる危険性があったということを示すものであり、それは危惧した通りになったということではないでしょうか。
 それは「奴国」の勢力範囲が広がったために「狗奴国」との争いが先鋭化するという事態が発生した可能性が強く、その中で「狗奴国」との「対応」について「域内諸国」から不満が出たのかもしれません。もっと強硬な態度が必要という勢力に対して「後漢」のバックアップつまり「実力」というより「権威」によって対応するという「奴国」(「帥升」達)の間で対立していたという可能性も考えられます。それは「一大率」が後に設置され「諸国」を検察するようになったという状況がその周辺の事情を物語っているとも思えます。
 この「一大率」が「伊都国」と「邪馬壹国」の連係の証であるとすると、「奴国」の生死を決定づけたのは「一大率」であったと思われるわけです。つまり、その「政変」の主役は「伊都国」「邪馬壹国」連合であったと思われるわけであり、彼らの位置関係を見ても「奴国」はこの両国に挟まれるような場所にあったはずですから、その意味でもこの両国と争いになる場合は「奴国」側に不利な状況が発生することとなるでしょう。
 当然詳細は不明ですが、「卑弥呼」の以前に「七~八十年」男王期間があるということからも、「帥升」の末年付近で「奴国」が没落し、『倭人伝』に書かれたように「奴国」からは「王」がいなくなるという状況となったものと推察できます。つまり「卑弥呼」を「共立」するという段階ではすでに「邪馬壹国」は「王権」の大義名分を継承していたものと見ることができるでしょう。

 また、以下の『倭人伝』の記述からは、「中国」や「半島」とは国内の「三十国」が各々使者を取り交わしていたようにも受け取られ、そのような状況は「邪馬壹国」の地位もやや「不安定」であるという可能性もあるでしょう。 

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。…」

 これは書かれたとおりの意味と考えられ、以前は「百餘国」であったものであり、「今」は「使譯」を通交させているのは「三十国」であるというわけです。この「今」というのは「陳寿」執筆時点を指すと考えられますから「西晋代」のことと思われ、「壹與」の時代には「倭」内の各国は、通過地点を「伊都国」(一大率による監視の下)と限定されながらも独自に「西晋」と関係を持っていたと推定されることとなります。ただし「卑弥呼」の時代とはやや異なるという可能性もあるでしょう。
 この「三十国」というのが「倭」つまり「女王」の統治範囲として書かれた国々を指すと考えられますが、そうであれば「百餘国」から大きく減少していることとなります。従来この「減少」の意味を「統合」の結果であるとする考え方もありましたが、これはそうではなく、単に「百餘国」から「三十国」がいってみれば「分離独立」したものと考えるべきではないでしょうか。そのように「分離独立」した(あるいはせざるを得なかった)理由というのが「内乱」であり、その結果「狗奴国」などが「女王」の統治範囲の外において他の国々の「盟主」となっていたという可能性も考えられます。(ただし、「狗奴国」が残りの「七十国」全部を代表していたとは思われません。これら「七十国」についてもある程度の地域ごとに分裂していたと考えるべきであり、「近畿」「東海」「関東」など各地域ブロックを統治領域としていた「国」と「王」がそれぞれにいたものと推定されます)
 しかし、この「卑弥呼」の時代に「邪馬壹国」が「北部九州」を制圧した結果、半島への出入口を閉ざされた他の地域の勢力は明らかに「先進的」な「情報」や、「鉄」「銅」などの「資源」の入手が困難となったものと思われ、ここにおいて「邪馬壹国」率いる「倭」の優位性が確立したと考えられます。もちろんそれには「魏」の皇帝との関係を巧みにアピールした「卑弥呼」(実際には「男弟」の功績か)とそれを継承した「壱与」の戦略があったものと推量します。 

 

(この項の作成日 2015/07/19、最終更新 2015/07/19

コメント

「伊都国」「奴国」と「邪馬壹国」

2018年02月09日 | 古代史

  ところで「纏向遺跡」など「近畿」周辺の土器の出土状況を見てみるとその多様さに驚くほどです。それほど、各地の土器が多様に出土しているのが目につきます。従来、ともすればこのことを以て「近畿に各地の文化が流れ込んで来ていたこと」の証左と考え、「倭の中心地に流れ込む周辺諸国の文化」という図式で見ていたのですが、それは重大な錯誤と考えられます。
 すでに明らかなように「弥生時代」は「九州」に始まり、それから長い期間この地にだけ「弥生文化」が花開いていたと考えられています。そのことを示すようにこの地域では長い間「曽畑式土器」と呼ばれるこの地域特有の土器しか出土せず、他の地域の土器は全く見られなかったものです。
 そもそも「文化の移動・伝搬」というものが、文化の「中心地から周辺に向かって」流れるものであるのが原則であることを考えるとき、この土器の変遷は「九州筑紫平野」が、文化の中心であったことを示しているものであり、その逆ではないことを示すものと思われます。逆に、「近畿」でも「九州式土器」の出土があるのですから、少なからず「九州」の文化が「近畿」に及んでいたと言うことも想定できるものでしょう。
 このように「筑紫」を中心として非常に広い範囲に見られた「曽畑式土器」の勢力範囲は時代とともにだんだん狭まり、それとともに次第に「近畿」のタイプの土器の勢力範囲が広くなっていく事が見て取れます。そしてついに決して他の地域の土器が見られることのなかった「筑紫平野」内に「近畿式」の土器が見られるようになります。これについては従来ちょうど「卑弥呼」の時代のこととされていたものですが、そのような年代観を形成する元となった「土器編年」は、その後「年輪年代測定」と著しく齟齬することが指摘され、修正を余儀なくさせられています。
 新しい年代観では「弥生終末期」は「弥生後期」へと繰り上がることとなり、この「卑弥呼」の時代とされていたものも、繰り上がって「紀元〇年から後一〇〇年付近」のこととなるとされるようになりました。この時期は既に述べたように「巨大地震」とそれに伴う「巨大津波」という天変地異が特に近畿中心に襲ったものと見られ、「社会不安」から「兵乱」が起きたとみられます。つまり「卑弥呼」以前の「倭国乱」という一種内乱現象は「津波」と関係があるとみられ、「近畿勢力」の内部バランスが大きく崩れたことにより、一部勢力の軍事的行動が突出したという可能性が考えられます。(ただし兵乱と「高地性集落」の全てが直接結びつくわけではないことは既に述べました)
 「紀伊半島」においても「高地性集落」の形成と共に「河内」で主にみられていた銅鐸が紀伊半島にもみられるようになるという現象が起こっており、これは「津波」や「地震」の影響が相対的に少なかった地域の勢力による支配地域の拡大という事象につながったことを示すと思われます。同様の現象が「北部九州」に波及したものではなかったでしょうか。この結果「卑弥呼」の時代になると「初期九州王朝」の勢力範囲が相当に狭まり(それも「津波」の影響もあったと思われますが)、逆に「軍事的」に突出した「近畿」の勢力が次第に伸長し、主たる勢力範囲が「西側」へと拡大した結果「土地」を追われた人々がいわば「難民」となって最終的に「筑紫平野」にたどり着いたというような状況があったものと思われます。
 結果的に「初期九州王朝」の「聖地」とも言うべきところにも「近畿」の文化が流入し、それが受け入れられていく事となっていったものとみられます。またこのことは「初期九州王朝」の勢力の減少とその中心が「筑紫」から「他の地域」(肥後)へ移動したことを示すものとも言えます。
 「肥後」は「津波」の影響が極小ではなかったかと思われ、「高地性集落」の存在がほとんど確認できていません。この時点以降「倭」の中心は「肥後」へと移動したものと考えられ(それは考古学的な状況とも一致します)、一種の「遷都」が行われたとみられます。

 ところで、魏志倭人伝のなかに、「伊都国」には代々王がいるが皆女王国に「統属」している、という文章があります。「統属」とはただ単に従属している、というだけではなく「血筋」がつながっている場合をさす用語です。
 「邪馬壹国」がどこにあるかは諸説があっても「伊都国」については、福岡平野の一端、という点で異論がないようですが(それについては若干異論があるのは既に述べたとおりです)、女王国が「代々」「伊都国」と関係が深かったという文章は、その時代だけではなく「その前の時代」までにも「邪馬壹国」と「伊都国」の関係が深かったということを意味しているわけです。
 「伊都国」は『倭人伝』に「戸数」が「千余戸」とされ、さほど多くないながら「三等官制」になっているように書かれており、これは「世々王有り」という「倭」の内部情勢ならびに歴史過程と関係があると思われます。(「一大率」との関連も考えられるでしょう)
 この「世々」という表現は、「代々続いた」と言う意味ですから、これは他の「諸国」と違って「王」の「伝統」が古いと言う事を意味すると考えられ、それらの「王」が「皆」(つまり過去も)「邪馬壹国」と「統属」関係にある、と言う事を示すものです。
 「伊都国」についてはその一端が博多湾岸に面しているという可能性を指摘したわけですが、主要な部分については現在の「糸島半島」の付け根付近にあったという可能性もまた高いものと考えられ、この地に遺跡がある「三雲」「平原」などは「伊都国」の代々の「王墓」ではないかと考えられ、「三雲」遺跡などからは「璧」(ただしガラス製)が出ていますが、「玉」や「璧」は「王権」のシンボルであり、また「祭祀」に使用される「聖器」とも言えるものであったわけですから、そのようなものが出る、と言う事の中に「世々王有り」という中身が示されているといえるでしょう。
 しかし、先に述べた土器の出土状況などは、この時代になってようやく「近畿」と「九州」の間にある種の関係が成立したかのごとくに思われる事を示しているわけです。つまり、「近畿式」の土器の影響を受けたと推測される土器がこの時代になって始めて「筑紫平野(北部九州)」に出現するようになるわけですから、「近畿」の政治勢力はやっとこの時点で「筑紫平野」の政治勢力と接触(平和的、非平和的を問わず)したかのように考えられ、「世々」女王国に「統属」していたという「筑紫平野」の権力者と「邪馬壹国」の関係とは矛盾していると思われることとなります。
 このことは「近畿」に「邪馬壹国」の存在を仮定することが困難であることを示しています。
 「後漢」の「光武帝」が「倭王」に与えたという「漢委奴国王」の印 が「筑紫」の「志賀島」から出てきた事も、同様の意味で「近畿」の政治勢力と「筑紫平野」の政治勢力との関係に疎遠なものを感じさせるものです。

 また、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」については以下のように書かれています。 

「自女王國以北特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」 

 この文章中には「女王国より以北」という文言があり、それは「伊都国」が「首都」に近接した「北方」に位置する国であり、そこに「一大率」が防衛拠点を構えていたわけですが、それは主として海から侵入してくる外敵に対応していたものであり、「倭」内部の「諸国」はこれを恐れていたとされているところから見てかなり強力な軍事力を有していたことが推定できるでしょう。
 またこの「検察」という用語からは「犯罪捜査」など現在の警察や検察的な職掌も持ち合わせていたことが推測され、その意味でも諸国からは恐れられていたことが窺えます。それは『倭人伝』の中で「訴訟や犯罪が少ない」(「不盜竊、少諍訟。」)と書かれていることにもつながるでしょう。
 当時は「兵警(兵刑)一致」という体制であったと思われ、軍事がすなわち警察をも兼ねていたものです。強力な軍事力はすなわち強力な警察力の存在となるわけであり、そうであれば「綱紀」は粛正されることとなって犯罪の発生率の低下につながることは容易に想像できます。
 また「諸國畏憚之」という書き方からは「一大率」の「軍事」的活動の実績もまたそう思わせる根拠になっているものと考えられ、「倭国乱」の際に鎮圧に威力を振るった実績などをさすものと考えられます。
 またそれはこの「一大率」が周辺国と比べて非常に強力な戦闘能力があったことを示しており、その主戦武器として「鉄器」が多く使用されていたことを示唆するものでもあります。このことは「鉄」という先進的な金属が「倭」中央(というより「一大率」)により独占されていたことを示すものであり、圧倒的な「武器」の性能の差により諸国を武力で威圧あるいは制圧していたものと考えられます。
 この「一大率」は「常治伊都國」とあるように「伊都国」に常駐していたようであり、また「伊都国中」においては「刺史」のようであったとされますから、「伊都国」の実質的な統治権は「伊都国王」にはなかったことが窺えます。『倭人伝』の中では「世々王あり」とされるのはこの「伊都国」だけのようですから、そのこととそこに「一大率」率いる強力な軍隊が存在していることには深い関係があると考えるべきでしょう。
 それは逆にいうとそれ以前には「伊都国」の権力がかなり強かった時代があり、その「伊都国王」の権威を低下させる「事件」があり、その結果「実質的統治権」を譲り渡すようなこととなったという経緯が推定できます。そのように「伊都国」が他の国に先んじて強い王権を確立できたわけですが、それは地理的条件がよかったことが大きな意味を持っているでしょう。
 「伊都国」は「海」に面しており、強力な水軍が利用できたと思われますが、既に考察したように「唐津湾」だけではなく「博多湾」に面していた地域にまで勢力があったものと推定され、このことは海外からの先進文化を受け入れる地理的好条件があったことを示すと同時に、外部から侵入を企てる勢力に対して強力な防衛施設をもって対抗することができたという点も重要な意味を持っていたでしょう。そのような「伊都国」の持っていた特質や利点はその後「実質的統治者」となった「一大率」に引き継がれることとなったものと思われます。しかし最も重要なことは「伊都国」が「海人」の国であり、彼らが最初にこの地に「領域」を確保したのが「伊都国」という場所であり、この周辺の水域(海域)に対する統制力を持っていたことではないでしょうか。
 彼らは「陸上」と言うより「海岸」にその拠点を持っていたものであり、その意味で「奴国」「邪馬壹国」とはその権力の性質が異なっていたと考えられます。彼らのうちさらに奥域に移動したグループが後の「邪馬壹国」につながるものであり、このことが『倭人伝』に「統属」していると表現される所以であろうと思われます。

 ところで、すでにみたように「後漢」に「生口」を献上した「倭国王」(『後漢書』ではこう表現されている)「帥升」は「奴国王」であったと思われますが、彼以降「邪馬壹国」に権力が継承あるいは委譲される事案が発生したものではないかと考えられ、「倭」に闘争が発生したのは「邪馬壹国」に強い権力が発生した時点以降であったと思われることとなるでしょう。つまり「倭国乱」の主役は「邪馬壹国」ではなかったかと考えられる訳です。 
 「卑弥呼」が王になる経過を推測すると、最初にこの「伊都国」の権威が絶対であった時期があったものと思われます。その時期は「大地震」と「大津波」以前であり、紀元前であったと思われます。しかし、「史上かつてない」天変地異が日本列島を襲ったものであり、それに対応して「伊都国」の勢力が弱体化した時点で「倭」の代表権力の座が入れ替わったものと推量します。
 その後「奴国」が列島の支配者となったと思われますが、「帥升」以降「指導力」のある人間が「奴国」からいなくなると、「奴国」の元での「国郡県制」は破綻し(カリスマがいなくなると中央集権は破綻しやすい)、各国の王が「倭王」を自称して相争う状況となってしまったのではないでしょうか。特に「邪馬壹国」が重要な役割を果たした可能性が強いでしょう。「邪馬壹国」が「奴国」に反旗を翻せば、「倭」の各国は大混乱となるでしょうし、そして、そのとおりの事が起きたのではないかと推量されます。その結果「奴国」はその実質的統治権を失い、また「邪馬壹国」から派遣された「一大率」が「伊都国」を直轄することで「旧権力」の抑制が実現したものと思われます。つまり「伊都国王」という存在が重要であるがためにそのお目付役という意味もあって「一大率」が「刺史」の如くに「伊都国」の政治を取り仕切ると云うこととなり、「伊都国王」の実権はほぼ無視ないしは剥奪されていったものと思われるわけです。そのようなことが起きた最大の理由は、既に「軍事力」としては「陸上」勢力の重要性が大きく増していたという現実があったものと思われ、そのことから「水軍」主体であったと思われる「伊都国」の軍事的優位は大きく減少するに至ったと言うことが推察されます。そしてその後も「伊都国」は(「危険な存在」という意味においても)、その権威をある程度保ち続けていたものと思われます。
 既に述べたように「伊都国」は「中国」と「漢代」以前から関係を独自に結んでいた可能性が強く、国内諸国に対する「権威」も相当高かったものと思われ、それを盾に王権を維持していたと思われますが、日本列島を襲った大地震と大津波によって国内に不安が大きく広がった時点以降(「伊都国」自身も被害が少なからずあったものではないでしょうか)、新興の「奴国」などが勢力を増し、「後漢」の光武帝から「奴国」の王が「倭奴国王」の印綬を拝するに及んで「伊都国」の権威は大きく低下し、諸国の一つとなったのではないでしょうか。つまりこの時点以降「倭」の代表権力の座は「奴国」にあったと見られるわけです。
 それ以降「帥升」が「奴国王」として「倭」を統一したものと思われますが、彼はその統治範囲の中に「漢」を真似た「国郡県制」を指向しようとしたものと思われます。しかし、それが未完成のまま彼は亡くなったものであり、その後「邪馬壹国」を代表とする勢力が反旗を翻し、「内乱」が発生することとなったものでしょう。(もちろんその「背景」として「疫病」の発生があったと思われるわけです)
 そしてこの混乱状態を収拾するために各国の指導者(「王」)が協議して、「奴国王」の最高権力の座を否定すると共に、「伊都国王」についてもその復活を抑止し、「邪馬壹国」を主体として各国が協力せざるを得ない状況を作り出すこととなった結果「鬼神祭祀」の「巫女」であった「卑弥呼」を「女王」として即位させたとみられるわけです。
 もちろんそれ以前の「王」もいずれも「祭祀」の主宰者という立場も兼ね備えていたものとは思われますが、「卑弥呼」はその「霊的能力」が他に比して格段に優れていたものと思われ、庶民の圧倒的な支持をそれ以前から得ていたものと思われます。
 当時発生していた「疫病」に対して有効な手立てを打てていなかった「倭王」に代わり安定した「統治」を広範囲に行うため「卑弥呼」の能力を利用しようということとなったものと思われ、彼女が「国家祭祀」の主宰者としての「王」という座に座ることとなったものと見られます。その意味で「卑弥呼」の「王」という地位はそれ以前の「王」とは少なからず「意味」が異なるものであったと思われるわけです。 

 

(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/06/12)

コメント

「邪馬壹国」と「国郡県制」

2018年02月09日 | 古代史

  一般には「卑弥呼」の率いる「倭」は「部族連合」というようなとらえ方がされているようです。しかしそれは『倭人伝』を見てそれに依拠して議論する限り、当たらないといえるでしょう。
 『倭人伝』を見ると、「伊都国」には「王」の存在が書かれています。しかし『倭人伝』の中で「王」の存在が書かれているのはこの「伊都国」と「邪馬壹国」だけです。それ以外の国には(略載できるとされた七ヶ国についてだけではあるものの)「官」が派遣されているようであり、「王」はいないものと見られます。このような体制は実は「郡県制」ではないかと考えられ、かなり強い権力が「邪馬壹国」にあることが推定できます。このような体制は東夷伝を見る限り「倭」だけであると思われ、「邪馬壹国」率いる諸国の先進性が感じられるものです。そして「王」がいるとされる「伊都国」にしてもその「王」は、ただ「君臨」しているだけであり、実際の統治行為は「官」(というより「一大率」)がこれを行っていたと考えられます。
 中国の例でも、州に「王」(候王)がいる場合でも、実質的な行政担当者として「刺史」(ないしは「牧」)が存在していました。(『倭人伝』中でも「一大率」が「刺史の如く」とされており、「王」よりも権威があるように書かれています)
 また「奴国」は「須久・岡本遺跡」などの存在でわかるように「弥生」以来、歴代にわたり「王」が存在していたと思われますが、「卑弥呼」の時代には既に「王」がいなくなって久しいようであり『倭人伝』の中ではなにも触れられていません。これは「邪馬壹国」とその「共立国」などにより退位させられてしまったものと推察します。(「帥升」が最後の「奴国王」ではなかったでしょうか)
 「周代」以来中国では「封建制」が行われていました。これは「天子」としての「周」が王朝を成していたものであり、「諸国」の王はその配下の「候王」であったわけです。これは「秦」が成立すると「始皇帝」により「郡県制」へと移行させられました。これはその「諸国」の「王」の権威を否定し、中央から「始皇帝」の配下の人物が「官」として赴任するというものであり、「始皇帝」の意志が隅々まで透徹可能な体制が構築されたものです。しかしこれは「漢」の時代になると「封建制」と「郡県制」の「折衷的制度」である「国郡県制」へと変化しました。これは「諸国」に「候王」の存在を認めたものです。
 その変遷を踏まえて「倭」を見てみると、「周代」以来「周」の制度を取り入れていたと思われ、「士・卿・大夫」という階級的職制があったとされます。つまり「封建制」的国内体制であったものであり、「諸国」には各々「王」がいるという状態であったものと考えられます。(この段階の中心王朝がどこであったかは不明ですが、可能性としては「出雲」の王権であったということが最も考えられます)
 その後「半島」に「楽浪郡」が設置され「前漢」とのルートが確保された後は、「漢」の「最新」の文化が流入したものであり、ここにおいて「国郡県制」の施行が試みられたものと思料します。それは「奴国王」としての「帥升」の亡き後のことではなかったかと思われ、彼の代で「倭国」の中心権力としての「奴国」は終焉を迎え、「邪馬壹国」に中心権力が移動したものと推量します。そしてこの時点で「封建制」から「郡県制」への転換を企図したものと思われ、「官」を諸国に配置(派遣)する体制へと変革されたものと思われます。それは「伊都国」の協力があったことが重要であったと考えられ、「伊都国王」の果たした役割が大きいと見られます。 
 この時点で「一大率」が設置されたものではないかと推量され、それは「邪馬壹国」が中心権力の座に座るのに必要な組織(兵力)であったことが知られます。その意味で「邪馬壹国」は「武力」によって「奴国王」から「王権」を奪取したという可能性があるでしょう。「武力」と「律令制」はコインの表裏の関係にあり、「律令」を領域の隅々まで行き届かせるのに必要なものは「軍事力」であったと見られ、この時点で「伊都国」という水軍を主とした軍事国家が「倭」の中で重要な位置を占めることとなったものと思われます。
 その後「列島」に事件が起きたものと思われます。それは「後漢」の滅亡であり、「流民」となった多量の人々の流入であったと思われます。さらにそれは「疫病」の流入をも意味していたものであり、そのことに対して「王権」が正確に対応できなかったことに混乱の元があったものと思われるものです。
 「疫病」が強力であり、また「流民」が多数に上ったとすると、一種の「エピデミック」ともいうべき局地的ではあるものの相当深刻な状態が発生した可能性が強く、これは当時としては「不治の病」のようなものですから、人々は「宗教」(しかも新しい宗教)に頼らざるを得ないという構図ができあがったものと推量されます。
 それまでは「男王」には「祭祀」の主宰者としての力量が問われることもなく、「王」であるための必須の条件というわけでもなかったと思われますから、究極的な状況に陥り、宗教的救済を求めるようになった民衆から支持されなかったものでしょう。そのような状況で民衆が支持したのが「卑弥呼」であったというわけであり、「諸国」は彼女を「王」にすることにより国内をまとめるという点で合意したものと見られ、「卑弥呼」を「共立」したというわけです。もちろんそれに反対する勢力もあったものであり、中で強力なものの一つが「狗奴国」であり、その「男王」である「卑彌狗弧」であったものでしょう。
 このような推移が『漢書』による「百余国」あるとされた状態から、『魏志倭人伝』の「今使訳通ずるところ三十国」と書かれている変化につながったものと思われ、これは実質的に「帥升」により統合された「倭」が再度「分離」する過程を示していると考えられます。 
 
 「秦の始皇帝」は「郡県制」を始めた訳ですが、同時に「法」による支配も目指しました。各諸国の末端に至るまで「法」を周知徹底させなければ「法治国家」とは云えない訳ですが、そのためには「階層的行政制度」が必需であり、そのために「郡県制」が施行され、また「道路」が造られたものです。(「道路」はもちろん「秦」の外からの侵略に対抗するための軍事力輸送という意味が大きいのは当然ですが)
 「諸国」に王がいると、その国に「法」が徹底されなくなる恐れがあります。「王」の権威を認めると「法」の上に「王」がいることとなってしまいますから、「法治国家」という理念は成り立ちません。このため「法」つまり「律令」と「郡県制」とは切っても切り離せないものなのです。
 その後「秦」が滅ぼされ「漢」の時代になると、「郡県制」ではなく「国郡県制」となります。つまり「諸国」とその王の存在を認め、彼らの協力により「郡県制」を維持しようとする「折衷案」的制度が生まれます。それは「漢」の高祖(劉邦)が「諸国」の王達から「推戴された」という事情によると考えられます。彼らの協力がなければ「漢王朝」の成立さえ危ぶまれたものであり、またその後の「王朝」を維持するのにも彼らの存在が前提となっていたと言う事がいえます。
 この事情は「卑弥呼」時点の「倭国」においても同様であったのではないかと考えられ、その意味からも「国郡県制」に移行したという可能性が高いと思われます。(確かに『倭人伝』では「邪馬壹国」も含め「国」と呼ばれています)
 ただし、「諸国」の王達は、「卑弥呼」の「男弟」の指導力の元で「領域内」を安定化させようとしたのかも知れません。「邪馬壹国」の「女王」たる「卑弥呼」は「祭祀」の主宰者として傑出した能力があったと見られるわけですが、当然「統治」の実務実行能力にも秀でていたとは考えにくく、『倭人伝』にもあるように「男弟」が「佐治國」していたという記事の通り、「男弟」によって事実上統治が行われていたと見られるわけです。
 「邪馬壹国」の統治範囲の諸国では彼の遂行していた「国郡県制」をベースとした「官」の赴任をある意味積極的に受容したものと考えられます。 
 
 「卑弥呼」の死後「男王」が立った際にまた混乱が起きたというのは、立った「男王」に「霊的能力」が足りないと民衆や諸国の判断があったためであると共に、指導力(特に実務において)がある程度「あった」ということもまた理由として考えられるでしょう。それでは「男弟」による統治が実施されなくなることを意味しますが、それは望まないという勢力がかなり多かったのではないでしょうか。そのため「十三歳」という「幼女」ともいえる「壹與」を推戴したのでしょう。これであれば「霊的能力」の多寡は別としても「実務能力」がないことは明らかですから、「諸国」にとって見ると望むとおりのこととなったものと思われることとなります。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/08/03

コメント