古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「出雲王権」と「青銅器」と「暦」

2018年12月24日 | 古代史

 山田様のブログに「日本列島には「青銅器時代」は存在しなかったのか?―「一元史観」の「タラレバ古代史」―」というタイトルで記事が掲載されました。そこではWikipdiaの記事がまな板に載せられていますが、このWikipediaの記事はたぶん「弥生時代」の始まりについての、以前常識とされていた「紀元前四世紀」ごろという理解の上のものではないでしょうか。この立場では「縄文時代」に「青銅器」が伝わったはずがないということになるでしょうから、「鉄器」と「青銅器」が同時に伝わったということとなってしまうのでしょう。しかし現代では各種の研究はほぼ一致して「紀元前八世紀付近」に時代の位相の転換点を設定していますから、そのような「常識」はすでに過去のものとなってしまったと思われます。当然(少なくとも)「紀元前八世紀」付近に近い時点で「青銅器」は伝わったとみるべきであり、「出雲」はそのような先進文化地帯であったとみて間違いないと思われます。ほんの一握りの学者だけがそれを認めない立場であり、このWikipediaの編集者もそのような頑迷な人たちではないでしょうか。
 ところで、以前山田様のブログ記事に以下のようにコメントした記憶があります。

「「太初暦」受容以降という時点で「倭国」において「出雲」が中心の王権があり、全国に(関東まで)支配統治の網をかぶせていたとは考えにくいのが正直なところです。可能性があるとしたらそれ以前ではないでしょうか。その意味では「太初暦」以前の時代なら可能性があり、弥生中期以前が想定できます。「出雲」が中心の王権が列島に存在していたとするとそのような時点以外には考えられないと思っています。」

 これはその後確信となり、「青銅器」の伝搬時点で「暦」も伝わっただろうと考えていましたが(当然それは「戦国時代」となるものです)、さらに最近「周代の貢献」といわれる「暢草」を貢物として持参し「舞(昧)」を奉納した時点付近で「古暦」が伝えられたのではないかと考えるようになりました。
 そもそもこの時の使者はその貢献物が「暢草」という一種の薬草であったらしく、それがのちに「医薬」の本場とされる「出雲」の勢力によるものではなかったかと考えられますが、このような貢献の場合反対給付とでも言うべき下賜品が大量に渡されるものであり、そのような中に「暦」があったとしても自然であるように思われます。つまり「弥生時代」の始まりよりも以前に「出雲」には「王権」らしきものがあり、そこへ「古暦」がもたらされていたものではなかったか、それが「出雲」を「盟主」とする立場の諸国に頒布されていたのではないかと思われる訳です。
 また『倭人伝』に出てくる「伊都国」について以前下記の文章を書きました。

「『魏志倭人伝』に記された各国の官名には特徴のあるものも確認できます。それは「奴国」と「伊都国」の官名です。
 そこでは「「觚」という文字が最後に使用されています。

「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『?馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」

 ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
 このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭」の側(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられます。
 当然これらの国では「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の「撰字」と思われ、「表意文字」として漢字が選ばれていると考えられます。
 つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられます。
 またこの「觚」はそもそも「周代」などにそれで「酒」を飲み、その後「天子」と面会するという儀礼があったものであり、そのことから「伊都国」「奴国」でも宮廷儀礼としてその「觚」で「酒」を飲んでいたという可能性もあるでしょう。」

 これを踏まえていまでは「伊都国」は「出雲王権」と関係が深かったのではないかと見ています。「筑紫」と「出雲」の間には交流があったとされますが(「越」との間にも)、その一翼を担ったのは「伊都国」ではなかったかと思っています。「伊都国」は上のような祭祀や儀礼に使用する「器」を元々「出雲王権」から「下賜」されていたのではないでしょうか。
 「出雲王権」は「周王朝」からそれらを「下賜」されたと思われ(それが「大夫と称す」根拠になっていると思われます)、国内的には「出雲王権」が列島の盟主としての地位にあったと見られるのです。つまり「邪馬壹国」が絶対的存在となる前は「伊都国」が「出雲」のいわば出先的位置にあり、「奴国」も含め「臣下の例」を「出雲」に対してとっていたのではないでしょうか。
 「伊都国」は「一大率」が統治しており、外交の窓口として機能しているように見えますが、このような機能も元々「出雲王権」の出先としての機能ではなかったかと見られます。
「今使訳通ずるところ」という表現で「筑紫」がその地の利により外交機能が強化されていったわけですが、それ以前にも「出雲王権」がそこに「窓口」機能をもった出先の「クニ」を設けたという可能性があり、この時点では「筑紫」にも「暦」が配布されていたと思われます。
 ただし「倭人伝」時点では「王」がいるというだけになっており、「一大率」は「邪馬壹国」からの派遣となっているようですから、既に「出雲王権」はその影響力をほぼ喪失しているように見え、「暦」についても「邪馬壹国」が採用しているのは「太初暦」等の「新しい」ものではなかったかと考えます。
以上ほぼ妄想ですがつらつら考えてみました。

コメント

「南朝文化」から「北朝文化」への切り替え

2018年12月24日 | 古代史

 山田様より「もみじ」の表記についてのコメントがありました。ありがとうございます。趣旨には同意するものであり、「黄葉」が南朝系の表現であることは確実です。
 これについては以前ホームページに書いたことがありました。以下のものです。やや考察として古く不十分の点はありますが、そのまま掲載します。

 「もみじ」を「紅葉」と表記するのは平安時代中期に始まっています。それまでは「黄葉」と表記していました。「紅葉」という表記は「唐」など「北朝」文化によるものであり、「黄葉」と表記するのは「南朝劉宋」など「南朝」文化によるものです。
 「落葉広葉樹」は北回帰線(北緯23.5度)を境に増加し始め「温帯」に広く分布する書類の樹木ですが、秋になり「葉」を落とす際に「紅葉」します。この「赤み」の程度は「温度差」に深く関係しており、「日較差」、つまり、日中の最高気温と最低気温の差が大きくなればなるほどより一層「赤く」なります。
 南朝の各王朝は「揚子江」の南側に首都があり、「温帯」の中でも南方に位置しているため、朝夕の冷え込みはさほどではありません。そのため「樹木」は「紅葉」と言っても「黄色く」なるだけです。(もちろん種類によってもその濃さは異なりますが)このことが「黄葉」という字面の原因となっています。
 それに対し「北朝」の各王朝は現在の「北京」付近に中心を持つ文化であり、緯度は相当高くなり、「秋」にはかなり厳しく冷え込みます。このため、「樹木」は非常に色濃く「赤く」なるわけです。これによって「紅葉」という表記が似つかわしいものとなります。
 
 「南朝」が「北朝」に滅ぼされ、中国が「北朝」系国家として統一されたのが「六世紀の終わり」「隋」によってです。それまでは「中国」を代表する「統一王朝」は「南朝」の各王朝であり、周辺諸国(朝鮮半島、倭国など)から「皇帝」として認定され、尊崇されていました。
 五世紀の「倭の五王」の時代から倭国は「南朝」と深いつながりがあり、日本に漢字が導入され、上流貴族などで用いられるようになったときに、「もみじ」という言葉を表記する「漢字」としては「南朝」で使用されていた「黄葉」という用語を使用していたものと考えられます。
 「北朝」が中国を統一した後も、「遣唐使」は何回か送られましたが、「倭国」は遠絶であることもあり、「唐」の「属国」という立場には立たなかったもののようです。「朝鮮半島」の各国は「隋」「唐」により「柵封」され、「従属国」として存在していたのに比べ、「倭国」は「距離」を保った関係を続けていたものです。 
 その後「唐」は「高句麗」征討戦の前段階として「百済」を征服し滅亡させますが、「倭国」は「百済」の要請を受ける形で「救援軍」を送り、結果的に「唐」と戦火を交えることとなります。この戦いは「百済-高句麗-倭国」連合軍の敗北に終わり、その後「半島」が「新羅」により統一されたため、「唐」との関係は途絶することとなりました。
 その後「八世紀」に入ってから、「遣唐使」を送り「唐」と正式な国交を回復した後、「国内」に「北朝」文化が流入し始めます。しかし、その後も上流貴族の中で「もみじ」の表記には「黄葉」が使用され続けていたのです。

 これと同じ動きを示すものが「梅」から「桜」への移り変わりです。
 「花」と言えば現代は「桜」ですが、その前は「梅」でした。「桜」は「自生種」であり日本列島に古くから自生していたものですが、「梅」は「自生種」ではありません。中国から輸入されたものです。その渡来時期は「五世紀」代にまで遡るとも言われています。つまり、南朝文化の受け入れに積極的であった時期に「梅」も渡来したのではないかと考えられるわけです。ただし、余り広範囲には「花」として広まらなかったようで、『万葉集』の「東国」の人々の歌を集めた「東歌」には「梅」を歌った歌は全くありません。あくまでも「太宰府」周辺に非常に多かったわけであり、近畿の貴族の庭などにも少数植えられた程度であったものです。
 「外来種」であったとすると、「人為的」な方法によらなければ多くの地域で見られるようになりません。そのような極々少数の人間しか見ることのできないような花である「梅」が「花」の代表となっていたわけです。この当時の「貴族階級」にとっての「花」が「梅」であったということは何を意味しているのでしょう。
 『万葉集』に出てくる「花」は「梅」を指しますが、『古今集』では「桜」のことを意味しています。たとえば「あおによし、ならのみやこはさくはなの、におうがごとく、いまさかりなり」という歌がありますが、この歌は「筑紫」(「太宰府」)で詠まれたものであり、この中の「花」は「梅」なのです。
 そして、ある時期から「花」と言えば「梅」ではなく「桜」となるのです。その交替の時期は「平安初期」と考えられています。たとえば平安京の紫宸殿の階段下左右に植えられていた「橘」と「梅」のうち「梅」が枯れた際に「仁明天皇」は「桜」に植え替えるように指示し、それ以降「梅」が植えられることはなかったものです。

『古事談第六』
「亭宅諸道
南殿櫻樹者本是梅樹也。桓武天皇遷都之時所被植也。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。其後天徳四年《九月廿三日》。内裏焼亡ニ焼失。仍造内裏之時所移植重明親王《式部卿》家櫻木也。《件木本吉野山櫻木云々》橘木ハ本自所生詫也。遷都以前此地者橘大夫家之跡也。…」

 「近畿」の文化人にしてみれば「梅」よりも周囲の野山に豊富にある「桜」に親しむ機会の方が多かったでしょう。そのことは「紅葉」の表記と同様であったと見られるわけです。

 さらに、中国から伝わった「漢字」の発音は当初「呉音」が使用されていたものです。その後「八世紀」に入ってから「遣唐使」を送り、「唐」の文化の摂取を積極的に行うようになった結果、「漢音」を正式に公的文書などで採用することとなりました。しかし、日本の文化の中には「南朝」文化が根強く残っており、このため、「漢音」導入の後、「呉音」を駆逐するため、「呉音禁止令」が(複数回)出されました。それも「平安時代の初期」のことのようです。
 このようにして、「平安時代」の始めに「古代」についての記録や表記についての「変革」があり、その大きな流れの中に「南朝」文化から「北朝」文化への移り変わりの「促進」があったと考えられます。これらを通じていえることは「平安時代」の始めに「古き南朝文化」を拒絶する空気が宮廷内にあり、それが次第に各方面に波及していく、ということです。
 では「何故」「南朝」文化を拒絶することとなったのでしょう。それは「南朝」文化が国内の「何か」と結びついていたものであり、その「何か」を排除するために必要な行動だったと考えられるものです。その「何か」というのが「倭国勢力」だったのではないかと考えられるわけです。

 「倭国」は古き時代の国号であり、遣唐使を送る八世紀以前の国号でもありました。倭国は「倭の五王」でもわかるように南朝文化を積極的に取り入れ、推進した国家でもあり、また仏教そのものも「南朝」が発信地であったものです。「百済」から取り入れた仏教も発信源は「南朝」であり、倭国は全面的に「南朝文化」に染まっていったわけです。
 これを拒否し、「北朝」文化を推進することは「八世紀」以降の朝廷の主要な政策でもありました。「八世紀」に入ってからの一〇〇年ぐらいは南朝文化とそれの受け手であった「倭国」は消滅したかのように見えましたが、時が経つにつれ、「南朝」文化に対する抑圧は解け始め、復活するかのごとくに「嵯峨天皇」の目には映ったのでしょう。彼は『日本紀』を最編纂し、建国の事情を覆い隠すこととし、併せて、南朝文化の根絶を狙ったものと推測されます。これらのことに新日本国中枢が「盲目的に」邁進し、「呉音」で書かれたものや「南朝的事物」の「廃棄」・「隠蔽」政策を実施することとなったのです。
 ところで「桓武天皇」や「嵯峨天皇」あるいはその後の「仁明天皇」などにおいては「先帝」として「天智」が特に尊崇の対象となりました。それまで「天武」の命日は「国忌」として廃務していたものが「桓武」以降軽視されるようになり「嵯峨」に至って完全に無視されるようになったものです。その代わり「天智」とその後の天皇である「白壁王」について「国忌」とされ「廃務」とされるようになりました。これらを重ね合わせて考えると、「天智」という存在は「倭国」や「南朝」とは異なる立場にいたらしいことが推察されます。つまり「天智」には「北朝」的な部分があったと言うこととなるでしょう。つまり彼は「国内」の既成勢力である「親南朝勢力」を打倒して即位したものであり、その本質として「北朝」に傾倒する部分があったこととなるでしょう。


(この項の作成日 2011/05/01、最終更新 2015/03/29)(旧ホームページ記事より転載)

コメント

『懐風藻』の真の年次

2018年12月24日 | 古代史

 ここでは『懐風藻』という書について考察し、「高市皇子」「長屋王」などについても考察します。

 『懐風藻』についてはそこに書かれた「高市皇子」死去後の「日嗣の審議」の内容から、その時代はもっと繰り上がる可能性があることを指摘しました。そのことを別の観点から述べてみます。

 『懐風藻』に書かれた漢詩については一般的に中国「南北朝」時代の「古典的」な部分の影響を強く受けているとされます。(「中国六朝時代の古詩の模倣が多く、いかにも黎明期の漢詩」という傾向が見て取れるとされます。)典型的なものが冒頭の「大友皇子」の作品であり、これは通常の漢詩と違い「仄韻」つまり「仄音」で「韻」を踏んでいます。

「五言侍宴一絶/皇明光日月/帝徳載天地/三才竝泰昌/萬國表臣義」

 通常漢詩文は「平音」で「押韻」するものであり、「仄韻」は「破格」とされます。さらに各種の評でも「漢代」の「古詩」の影響が指摘されています。
 また「大津皇子」の漢詩(以下のもの)においても同様の趣旨の評がされています。

「言春苑言宴 一首/開衿臨靈沼/游目歩金苑/澄清苔水深/?曖霞峯遠/驚波共絃響/哢鳥與風聞/羣公倒載歸/彭澤宴誰論」

 さらに「葛野王」の漢詩文においても同様に古詩を模倣したという言い方がされています。またこれらの詩文に共通なことは押韻が「呉音」によって行われていることです。
 「大津皇子」の作品では「苑、遠、聞、論」であり、「智蔵」の「秋日言志」詩では「情・聾・驚」と「芳」、さらに「葛野王」の「春日翫鷺梅」詩では「馨・情」と「陽・腸」です。これらはその詩体と共に音韻体系においても「唐」の影響ではなくその前代の「隋」あるいはそれ以前の中国の影響を受けていることを如実に示すものであり、この漢詩が「天智」以降の時期である「六七〇年代以降」に造られたとすると大きく齟齬するものと思われます。なぜならその時点までに「遣唐使」は何次にもわたって送られており、「唐」の文化つまり「漢音」や「唐詩」のルールなどを学ばなかったとするとかなり不審なことであると思われるからです。
 
 また「大津皇子」の辞世といわれる詩においては良く似た詩が「南朝」「陳」の最後の皇帝「陳後主」の「臨行詩」(長安に連行される際に詠ったとされる)にあり(ただしこれは別人の偽託によると思われるものの)、これが元々「隋朝」から「唐朝」にかけて仕えた「裴矩(裴世矩)」(五四六~六二七)が記した『開業平陳記』にあったものが伝来したと見られることがあり、それをもたらしたのが「智蔵」であるという考察があります。(※1)
(以下「大津皇子」と「陳後主」の詩)

「大津皇子」
「金烏臨西舎/鼓馨催短命/泉路無賓主/此夕誰家向。」(『懐風藻』より)

「陳後主」
「鼓馨推(推)命役(短?)/日光向西斜/黄泉無客主/今夜向誰家。」(釈智光撰『浮名玄論略述』より)

 ここでも「大津皇子」の詩は押韻が「呉音」で行われているようであり(「名」、「向」)これもまた「異例」のものです。(しかもこれもまた「仄韻」です)それに対し「陳後主」の方は「斜」と「家」であり、これは「漢音」(しかも「平音」)で「押韻」されています。(この点からも北朝系の誰かの偽託とされるわけです)
 またこの二つの詩の類似はどちらかが他方へ影響したものと見られるわけですが、年次からいうと「陳後主」から「大津皇子」へとなります。実際にそれがその通りであるらしいことは「押韻」からも言えますが、さらに「智蔵」に関する『懐風藻』の記事からも推察されます。それによると「智蔵」は「呉越の間」に留学していたとされ、そのことから「南朝」の皇帝である「陳後主」に関するエピソードについて特に収集可能であった環境があることなどから、彼がもたらしたと見ることができるとされます。

 『旧唐書』の「裴矩伝」によれば彼は「『開業平陳記』十二巻を撰し、代に行わる」とされており(「開業」とは、「隋文帝」の年号である「開皇」と「煬帝」の年号の「大業」を合わせたもの)、この書物が一般に流布していたらしいことが推定できます。
 この『開業平陳記』については『隋書経籍志』の史部・旧事類に書名が書かれており、また『旧唐書』では「経籍志・藝文志」の「雑史類」に分類されています。「雑史」に分類されたということはその内容として「平陳時」(「陳」滅亡時)の各種雑多なエピソードが書かれていると思われますが、これを「智蔵」が「倭国」に持ち帰り、その中にあった「陳後主」の作とされる「詩」を改変して「大津皇子」のものとしてその心境を忖度したものではなかったかと推測されるわけです。

 これらのことからいえることは、この『懐風藻』に収められた詩文のうち特に初期のものはその成立時期がかなり早かったという可能性があることです。
 そもそも「智蔵」については、すでに考察したように彼が七世紀半ば以降に留学して帰国したとは考えられないことがあり、さらに彼は「呉」地方の「尼僧」に師事して勉学に励んだとされますが、「呉」つまり旧南朝地域が仏教の中心であったのはせいぜい「隋代」までであり、それ以降はやはり「唐」つまり中国北半部にその中心が移ったとされています。そのことと上に見る「詩体」や「押韻」などの実情は重なるものであり、実際には「隋末」から「初唐」にかけての時期が最も考えられるものではないでしょうか。
 それはまた『懐風藻』の中に「元日」のものとして造られた「詩」が複数有り、その解析からも言えることです。

 たとえば「藤原不比等」(史)の「元日」の詩として以下のものが書かれています。

「正朝観万国 元日臨兆民/斉政敷玄造 撫機御紫宸/年華已非故 淑気亦維新/鮮雲秀五彩 麗景耀三春/済済周行士 穆穆我朝人/感徳遊天沢 飲和惟聖塵」

 この冒頭の「正朝」という語について解釈が複数あるようであり、「元日」という意義や「天皇」が親しく皆の前にいるという意義であるなどの理解がされているようですが、ここでは字義通り「正当」な「王朝」という解釈が最もふさわしいのではないでしょうか。それは「年華已非故 淑気亦維新」とあるところからも分かります。
「年華已非故」とは改元して新しい年となったことを示すと思われますし、さらに「維新」となると単に年が改まったというだけではなく「新王朝」が始まるという意義が認められます。
 そもそも「維新」の語は『隋書たい国伝』に出てくる「倭国王」の言葉の中に「大国維新之化」というものがあり、この言葉は通常「煬帝」に向けたものと思われていますが、実際には「文帝」に向けられたものであり、彼が「受命」を受けて「隋」という新王朝を開いたということを捉えて「維新」という語が使用されていると思われますが、それと同義であると思われます。つまり「藤原不比等」の詩の中の「元日」は「新日本国王」の「即位」して以降最初の「元日」であり、その時点で「改元」され、新王朝が名実共に始まった時点のものと思われるわけです。
 
 またこの「不比等」の「詩」の中に使用されている「万国」という表記はそのまま『孝徳紀』の「万国」に通じるものです。

「八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修『萬國』。…」(東国国司詔より)

 この「詔」は「東国国司」に出していることでも分かるように、それまで版図には入っていなかった「東国」を領域としたことを示す語でもあります。その意味では「蝦夷」の領域に勢力を伸ばした時期が最もふさわしいといえるでしょう。そう考えると、実体としてはもっと遡上する時期を想定するべきです。
 既に述べたように「蝦夷」が初めて「倭国」の使者に同行して「唐」に赴いたのは「太宗」の時ではなかったかと考えられ、「朔旦冬至」を祝うために訪れた「六四〇年」が最も蓋然性が高いものと推量します。
 また「周行士」については客人として多くの人がいるという意味と捉えることができると思われます。これは新たに倭国の版図に入った「東国」の人々を指すものではないでしょうか。(同様の意見は既にあります。(※2))
 またこれは当然「我朝人」と対比的に使用されていると思われ、「我朝」というのが「本朝」につながる性質の言葉であり、その本拠が「筑紫」にあったというのは「大伴部博麻」に対する詔からも推察できます。
 結局「正朝」とあり「万国」とあるのは一種の「宣言」であり、この時点で「新王朝」が作られたことを示すものと思われるわけです。「隨天神之所奉寄」という表現も自ら「天降った存在」と規定したところからのものではなかったでしょうか。
 
 さらに同じく『懐風藻』中に「春日応詔」と銘打たれた詩群がありますが、そこでは「重光」という語が使用されています。これは「日」「月」が重なって光る意義であり、「天皇」と「上皇」など至上の人物が二人いるときに使用される用語です。
 これは通常『続日本紀』とも照合して、「文武」と「太上皇」である「持統」の二人と理解されています。(※2)
 しかし、これら「春日応詔」と題された詩群に共通しているのは「琴」が奏されたらしいことであり、そこで演奏されていたのは「流水」という「古典」の「琴歌」であったようにみられます。

「春日侍宴  主税頭從五位下黄文連備
玉殿風光暮 金塀春色深 雕雲遏歌響 『流水散鳴琴』/燭花粉壁外 星燦翠烟心 欣逢則聖日 束帯仰韶音」

 これは当然「七弦琴」による演奏であるはずですが、しかし『続日本紀』に記された「大寶二年」の詩宴では「西閣」で「饗宴」が行われたようにみられ、さらにそこでは「五常・太平楽」が演奏されたと書かれており、これは『懐風藻』とは食い違っています。

「(七〇二年)二年春正月己巳朔。…癸未。宴群臣於西閣。奏五帝太平樂。極歡而罷。賜物有差。」

 通常これらの「楽」では「琴」つまり「七弦琴」は使用されません。このことは『続日本紀』の記事がそのまま『懐風藻』の内容と整合するとは言えないこととなります。そしてそれは「大神朝臣高市麻呂」の詩で裏付けられます。

 彼は「持統」が「農事」の時期に「行幸」しようとしたとき「脱冠」して阻止しようとしたため、その後官を辞し蟄居していたらしいことが窺われていますが、この詩では「不期逐恩詔」とあり、これを捉えて「脱冠」して諫言した後不遇の時代を送っていた彼が「長門の守」に再度任官された後の事とする理解があるようですが(※2)、それでは「不期」とは言えないでしょう。この表現はまだ「任官」を許されていない状態で国家的に慶賀すべきことがあったためにいわば「恩赦」が行われたことを示唆するものであり、それによって復権した時点の詩であるとみるべきでしょう。すでに復権して任官されている状態なら特に「不期」という表現を使う必要がないと思われるからです。
 更にこの「高市麻呂」の詩では「従駕」と表現され、「行幸」が行われたことを示唆します。それは「春日応詔」詩群の全てで「池」「松」「山」「小川」など「園池」の存在が推定出来る情景が描かれていることからも明らかです。これらが「宮殿」の内部に設けられたものではないことは明らかであり、宮殿とは別の場所にそのような(多分半分は人工的な)「園池」が存在していたらしいことが窺えます。

「五言。春日。応詔。一首。紀朝臣麻呂。
恵気四望浮。重光一園春。/式宴依仁智。優遊催詩人。/崑山珠玉盛。瑤水花藻陳。/階梅闘素蝶。塘柳掃芳塵。/天徳十堯舜。皇恩霑万民」

「五言。春日。応詔。二首。(大宰大弐従四位上巨勢朝臣多益須)。二首
姑射遁太賓。([山]+[空])巌索神仙。/豈若聴覧隙。仁智寓山川。/神衿弄春色。清蹕歴林泉。/登望繍翼径。降臨錦鱗淵。/糸竹時盤桓。文酒乍留連。/薫風入琴台。?日照歌筵。/岫室開明鏡。松殿浮翠烟。/幸陪瀛洲趣。誰論上林篇。」

 それに対し『続日本紀』の記事では「西閣」とされこの時の宮殿がいずこか明確ではありませんが、いずれにしろ宮殿の内部であることが強く推察でき、「高市麻呂」などの詩の背景として考えられる「園池」とは違う場所であることが考えられ、その意味でも別の時期、場所の「詩群」であることが推察されるものです。(上の詩でも「梅」が詠われていますが、当時「梅」がまだ「王権」に直結する場所にしか植えられていなかったと思われ、その意味でも「筑紫」界隈にその「園池」の場所が求められるべきでしょう。)

 これらのことから「春日応詔」の詩群がその全体として「六四二年付近」というよりそれ以前の時期であることを示します。それは「元日」詩群では「重光」つまり「天子」が二人いると思われる表現が使用されていないことでも推測できます。つまり「春日応詔」詩群と「元日」詩群は別の時期のものであり、「春日応詔」詩群がやや先行しているらしいことが理解できるでしょう。

 『懐風藻』の序文を見ると最終は「淡海先帝」という人物で終わっており、これについては「天智」であるとされています。それ以降の天皇については何も記載されていません。そしてその後に漢詩群が置かれていますが、それは「大友皇子」から始まっており、これら「詩群」はその配列からも「天智」の代に読まれたことが考えられます。その「大友皇子」の詩(冒頭の詩)も「藤原不比等」の詩と同内容と言え、読まれたタイミングも同じ「元日」であったという可能性が強く、またそこに「智蔵」の漢詩が収められていることを考えるとこの「元日」の詩宴が行われた年次は「智蔵」の帰国以降の至近の時期である「初唐」の時代が最も推定され得るものであり、それらを考え合わせると「六四一年」の元日が最も考えられるのではないでしょうか。(このことは「藤原不比等」という存在が「父」とされる「藤原鎌足」と重なる人物であることが推定されることとなり、「鎌足」という存在は「架空」であったとみられることとなります。)

 ところで「漢詩」はもっぱら男性によって詠われたと思われますが漢詩を作ることが慣習として普及した後も、女性は「歌(和歌)」によって情景や感興を詠うのが常であったと思われます。たとえば『万葉集』をみると「春秋優劣歌」というものがあり(巻一の十六番歌)、「詔」により「額田王」が「歌(和歌)」を奉っていますが、その「詔」をみると本来答えとしての「頌」は「漢詩」であったらしいことが窺えます。

01/0016 近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇謚曰天智天皇] / 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
冬木成  春去来者  不喧有之  鳥毛来鳴奴  不開有之  花毛佐家礼抒  山乎茂  入而毛不取  草深  執手母不見  秋山乃  木葉乎見而者  黄葉乎婆  取而曽思努布  青乎者  置而曽歎久  曽許之恨之  秋山吾者
(冬こもり  春さり来れば  鳴かずありし  鳥も来鳴きぬ  咲かずありし  花も咲けれど  山を茂み  入りても取らず  草深み  取りても見ず  秋山の  木の葉を見ては  黄葉をば  取りてぞ偲ふ  青きをば  置きてぞ嘆く  そこし恨めし  秋山吾は)

 ここでは「競憐 春山萬花之艶 秋山千葉之彩」というよう「詔」の中で「駢儷体」が使われており、これは「漢詩」によって答えよと言う意向がそこにあったことが窺えるものです。それに対し「額田王」は「歌(和歌)」でもって「判じた」というわけであり、当時女性にとって漢詩が必須の教養であったというわけではないことが窺えます。
 逆に言うと上の「春日応詔」時点でも女性陣は「和歌」でもって応えたであろう事が推察されるものですが、『万葉集』をみてもそれに該当する歌は残念ながら見えません。また「春秋優劣歌」段階での各官人達が作ったはずの「漢詩群」は『懐風藻』には載っておらず、またそれ以降の史料のどこにもみることができません。以上からは『懐風藻』も『万葉集』も非常に「断片的史料」であるということであり、この時代の「詩歌」の様相はかなり未知数の部分があるといえそうです。
 さらにこの『懐風藻』では「天智」以降については「文武」の作品だけが載せられており、その間の「天武」「持統」「斉明」とそれ以前の「舒明」の詩(漢詩)が載せられていません。「持統」「斉明」(皇極)は「女帝」でしたから「漢詩」は作らなかったともいえるわけですが、「天武」不在の理由が不明といえるでしょう。これについては明確とはなっておらず、『懐風藻』の本質論としてまだ確立していない点です。


(※1)金文京「大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」」(『東方学報』京都第七三册二〇〇一年)
(※2)山野清二郎「大宝二年春の詩宴」(『鎌倉女子大学紀要』二〇一〇年三月)


(この項の作成日 2015/02/27、最終更新 2017/01/23)(旧ホームページ記事を転載)

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『懐風藻』の「日嗣」の審議

2018年12月24日 | 古代史

 「長屋王」に関して『懐風藻』記事を取り上げます。

 「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。「日嗣皇子(御子)」とはまったく事なるものであり、「日嗣」は皇位そのものです。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされているからです。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それを理由として「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」自身が「日嗣」の座にあったこと(「天皇」であったこと)を示唆するものと思われます。

 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物でないことは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し「新天皇が即位した時点」における前皇后への尊称とされますから、この「皇太后」呼称は、「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「皇位」にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが(※)、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。『懐風藻』の作者(淡海三船と推測されています)にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。
 本来「直系」云々は「即位」の際の継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)

 これが「高市皇子」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市皇子」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そして、この主張に異を唱えようとした「弓削皇子」を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。(「兄弟相承」という伝統ある形に戻そうというもくろみであったかも知れません)
 この「葛野王」の意見は多分に「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であるのが基本となっていることを念頭に置いたものと理解できるでしょう。
 そもそも、ここで「皇太后」が「王公卿士」に対して「誰」を「日嗣」とすべきか「意見」を聞く機会を持ったと言うことは「高市皇子」の子供が「未成年」であること、それに対し「高市皇子」の兄弟に「成年男子」がいたことがあったと思われます。それはここで「意見」を述べようとしていた「弓削皇子」などの存在として描写されています。そのような状況であったからこそ、彼ら「高市皇子」の兄弟の誰かに「日嗣」を委ねるべきか、それとも別の方法を採るべきか、それを「皇太后」が決しかねた結果、審議が行なわれることとなったものと考えられます。

 ところで既に述べましたが、この『懐風藻』ではその序文と「智蔵法師」についての略歴を書いた部分の解析から「淡海帝」というものが「阿毎多利思北孤」を指すのではないかと推定されることとなりました。つまり「七世紀半ば」という時代から実際には約「干支一巡」遡上するという可能性が考えられる事となった訳です。
 このことはこの「淡海先帝」や「大后天皇」だけのことではないと思われます。つまり可能性としては『懐風藻』全体に言えることなのではないかと思われ、そうであれば、この「高市皇子」死去に伴う「日嗣の審議」という記事自体も「干支一巡」程度遡上するという可能性を考えてみる必要があると思われます。
 つまり「高市皇子」は「七世紀前半」の人物であり、当時「倭国王」であったと推定されることとなったわけですが、その名を「天皇名」として持っていたという可能性が(当然)あり、「高市天皇」という呼称が当時されていたという可能性が考えられますが、それは『書紀』に「或本伝」として「舒明天皇」の別名が「高市天皇」であることが「ひっそりと」書かれていることにつながっています。

「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午条」「葬息長足日廣額天皇于押坂陵。『或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。』」

 この「舒明天皇」は『書紀』によれば「六四一年」の末に死去したとされ、これは「九州年号」では「命長二年」のこととなります。

「舒明十三年(六四一年)冬十月己丑朔丁酉条」「天皇崩干百濟宮。」

 この「舒明」死去後「皇后」とされる「皇極」が即位しています。この時「二人」には「中大兄」という子供がいましたが弱冠であり、そのため「皇極」が即位した(称制か)ものです。このようにその状況が良く似ており、実際の年次として不自然ではないと思われます。
 『懐風藻』の審議がいつ行われたものか年次としては不明なわけですが、この「葛野王」の詩の後に並べられた多くの漢詩(「応詔」とされる詩群)が「大宝元年」に行われた「宮中」の祝宴の際に歌われたものと推定されており(※)、この「審議」もその直前のことではなかったかと考えられることとなるでしょう。つまり「皇太子」が正式に決定され、その間「皇太后」が「称制」することとなったことで「王権」の方向性が決まり、それを祝して「宴」が挙行されたものと推定されることとなります。

『扶桑略記』には「舒明」の時代に「度量衡」が定められたという記事があります。

「…舒明天皇十二年(六四〇),始定斗升斤両…」

このような「度量衡」の制定や変更は新しく権力を握ったものの行う事であり、その意味でこの年次付近に新王権が誕生したことを推定させるものですが、それは上の推論と矛盾しません。

 また「大宝元年」という年次そのものが既に挙げた『続日本紀』記事と同様「年次移動」が想定されるものであり、おそらく「干支一巡」の遡上が推定されていますから、「六四一年」のこととなって『書紀』の「舒明」の死去年次に重なります。そして彼には当時当時十六歳になる「中大兄」がいたとされますが、いわゆる「幼少」であり、そのため皇位継承に支障が出たものと考えられます。そのため「審議」が行われたと考えると『懐風藻』記事と重なるといえるのではないでしょうか。
 
(※)『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」が次のように反論します。「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶?之窺?,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)
 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったというわけです。そのような人物に対する「礼」としては行き過ぎであるというわけです。
 これは「葛野王」が主張しているものと同じ意味、内容と思われますが、『書紀』をみるとそれ以前に「兄弟」(同母兄弟)以外でも相続している例があり、「葛野王」の発言は実態とは合っていないと思われるわけですが、これが「太上皇」に対してそのまま受け入れられてしまっています。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2017/01/30)旧ホームページ記事より転載

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「お水取り」と「長屋王」

2018年12月24日 | 古代史

 前記事に引き続き「長屋王」関係の考察となります。

 東大寺で「春の風物詩」として行われている「お水取り」という行事があります。これは、本来は「修二会」という名称であり、東大寺の他にも、「奈良」の他の寺院でも行われているものですが、(たとえば「薬師寺」、「法隆寺」、「長谷寺」など)、全ての「修二会」は「悔過(けか)」という「懺悔」を行うものなのです。
 これらの寺院が「何故」、「何」について「懺悔」を行うのかはやや不明でした。しかし水野氏の研究により、これらの寺院で行われる「修二会」とは「長屋王」に対する「懺悔」である、と言う事が明らかになったのです。(※)まさに「炯眼」と言うべきであり、その「着眼」に敬意を表するものです。

 東大寺の「修二会」の場合、一連の儀式の中に「お水取り」という「水を汲む」動作が入る部分があります。
 「二月堂」の階段下には「閼伽井屋」(あかいや)という「井戸」があり、その井戸から「香水」を汲む訳ですが、その「閼伽井屋」は「堂」のようになっており、そこには「二月十二日うしの時」と書かれた額が掲げられているのです。(「閼伽井屋」は「お水取り」の時の「当役」の者以外は誰も入ることが出来ず、確認できませんが、「絵巻」では「額」が掲げられているようです)
 この「修二会」は多くの見所があり、現在でも地元の方々以外にも多くの観光客が訪れるものとなっています。その中には「巨大」な「松明」を振りかざしながら歩いたり、また、「走りながらの行」など奇妙な儀式が多いものですが、「修二会」ではなく「俗名」として「お水取り」の方がはるかに有名なわけですから、この部分がこの「修二会」のメインイベントと考えられます。
 この「二月十二日うし(丑)の時」と言う日付が意味するものは、この「修二会」のという行事の中で「メイン」となる「儀式」の本来の執り行われる日時が「旧暦」の「二月十二日うし(丑)の時」とであったということになると思われます。
 この「お水取り」は「東大寺」大仏の「開眼法要」が行われた「七五一年」から「一二〇〇年」以上絶えることなく続けられてきたものであり、非常に重要な意味を持っていると考えられますが、その「七五一年時点」で「この日付」と関連すべき「懺悔」しなければならないイベントがあったものでしょうか。

 水野氏の論に従えば「長屋王」が「左道」により「聖武天皇」の「皇太子」を呪い殺したというかどで逮捕され、自害させられたのが「七二九年二月十二日」であるとされます。『続日本紀』の中の日付入り記事で「二月十二日」というのはこの「長屋王」の件しかないとされています。
 その前日の「十一日巳の時(午前十時頃)」から「長屋王邸」で「舎人親王」達により尋問が続けられ、日付を越えた十二日になって「自害」させられたものと思われ、「うしの時」(つまり午前一時頃)という時間帯とも整合すると考えられます。
(以下「長屋王」自害に至る流れ)

「天平元年(七二九年)二月辛未条」「左京人從七位下漆部造君足。无位中臣宮處連東人等告密。稱左大臣正二位長屋王私學左道。欲傾國家。其夜。遣使固守三關。因遣式部卿從三位藤原朝臣宇合。衛門佐從五位下佐味朝臣虫麻呂。左衛士佐外從五位下津嶋朝臣家道。右衛士佐外從五位下紀朝臣佐比物等。將六衛兵。圍長屋王宅。」

「同月壬申(十一日)条」「以大宰大貳正四位上多治比眞人縣守。左大辨正四位上石川朝臣石足。彈正尹從四位下大伴宿祢道足。權爲參議。巳時。遣一品舍人親王。新田部親王。大納言從二位多治比眞人池守。中納言正三位藤原朝臣武智麻呂。右中弁正五位下小野朝臣牛養。少納言外從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等。就長屋王宅窮問其罪。」

「同月癸酉(十二日)条」「令王自盡。其室二品吉備内親王。男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自經。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士兵衛等府。」

 多分、自害の前に「最後の水」を飲んだものでしょう。あるいは「死後」水で清めるという儀式が古来からあったとされますから、それに従ったものかもしれません。これを「長屋王」の庭の「井戸」から汲んだのだと考えられ、それを再現した儀式になっているのではないでしょうか。それが「遠敷明神」と関係づけられているのは「贄」として多くの「海産物」などを「長屋王邸」にもたらしたのが「遠敷郡」であったことと関係があるものと推察されます。
 この「井戸」に関する伝承では「天平勝宝四年」(七五二年)に僧「実忠」が「修二会」を修した際に全国の神々を招いたとき、「若狭」の「遠敷明神」が漁に夢中になって遅刻し、そのお詫びに若狭の聖水を二月堂の観音に捧げることを約束し、「明神」が二羽の「鵜」を遣わし「二月堂」下の岩から鵜が飛び出し そこから、香水が湧き出したと伝わっています。
 つまり、この「お水取り」という行事は、後代に付加されたものではなく、当初から「修二会」に付随した行事であったこととなるわけです。このことは「お水取り」と「修二会」という行事全体が不可分のものであることを示しています。

 また、この「お水取り」に参加する「練行者」の人数は「呪師」を含めて「六人」と決められていますが、「長屋王の変」の際に「尋問」のために「長屋王邸」に入った人間の数も、『続日本紀』に拠れば「中納言藤原武智麻呂」、「舎人親王」、「新田部親王」、「大納言多治比真人池守」、「右中弁小野牛養」、「少納言巨瀬宿奈麻呂」の計六人とされていて、共通しています。

 「二月堂」の「本尊」は「十一面観音菩薩」であり、「大観音」と「小観音」と二つあって、いずれも「絶対の秘仏」とされているようです。そして、「修二会」の期間の前半七日間の本尊は「大観音」であり、後半七日間の本尊が「小観音」とされているようですが、推測すると「大観音」が「長屋王」であり、「小観音」は夫人である「吉備内親王」を表すものなのではないでしょうか。
 「十一面観音菩薩」が「長屋王」の「象徴」とされている、と言う事はそれがそもそも「長屋王」の信仰するところであったものであり、この「十一面観音」は「宇佐神宮」の「巫僧」であった「法蓮」の信仰するところの「密教仏」であったものです。
 そして、この「変」は実は「誣告」であった(つまり「冤罪」であった)ことが後に明らかになっており、このことで「聖武天皇」は「ノイローゼ」状態になったと考えられています。(彼を死に追い込んだ「藤原不比等の子供」も全員病死しており、そのこともまた、「聖武天皇」には「祟り」と映ったようです)
 「長屋王」の「夫人」の「吉備内親王」も、「吉備精霊」という「祟り神」として畏れられるようになります。
 そして、「聖武天皇」は「東大寺」を建立し「大仏」を造るわけですが、「開眼法要」以降「お水取り」が始まる、と言う事の中に、「大仏建立」も実は「祟り」に対する「畏れ」、「長屋王」と「吉備内親王」に対する「贖罪」という意味があったのではないかと考えられることとなるでしょう。
 
 それにしても少なからず「奇妙」ではないでしょうか。確かに「聖武天皇」の気持ちの中に「祟り」に対する恐れや懺悔の気持ちがあったとしても、「一二六〇年間」絶え間なく行われてきたと言うことや、奈良の他の寺院でも同様に行われてきた、と言うのは「ただごと」ではないと感じられます。
 いかに「冤罪」であったとしても、いかに「左大臣」という「人臣」を極めた地位にあった人物であったとしても、そのための「法要」とも言える「修二会」が「一二六〇年間」継続して、その間例え何があっても(戦争中でさえも)続いていたと言うことに中に何か別の意味を感じるものです。
 後に述べる「蘇我倉山田麻呂」の事件も「大臣」が「謀反」で「斬刑」に処せられる、というものであり、これも「誣告」であったという可能性がある事件であって、その意味では「長屋王」の一件と非常によく似ています。しかし、彼についての何らかの「懺悔」などが後の世まで伝えられている風情はありません。
 権力欲に取り憑かれた人物達の「陰謀」により「冤罪」が発生するなどは(そのような権力欲がむき出しになっていた)古代には珍しくなかったと思われ、大臣であった彼についても変わりはなかったものと考えられます。しかし、「長屋王」は明らかに「山田大臣」とは「違う」扱いをされているのです。
 それは「前述」したように「長屋王」が「倭国王」だった人物だからと考えれば首肯できるものであり、そのような人物に対して「謀反」を企て「反乱」を起こした結果について「懺悔」し続けなければならないこととなったのだと推察されるものです。

 これに関しては引き続き「水野氏」の研究があり、それに拠れば『太神宮神道或問』という書物など「神宮」関連史料のいくつかに上の「長屋王」自害の翌日の「二月十三日」に「天皇」が「御悩みあり」という状態となったとされています。

「…同年二月十三日天皇俄に御悩みありて、御薬きこしめすの間、卜食しめ給ふに、神祇官陰陽寮勘申しけるは、巽の方太神死穢不浄の咎によりて祟り給ふなりと申し上げければ…」(渡会芳延『太神宮神道或問』より)
 
 これは明らかに「長屋王」の死去についての「聖武」の精神的な「煩悶」を示すものであり、「長屋王」を自害に追い込むにあたって「聖武」自身はある意味「断固」としてこれを行なったものではないことが分かります。つまり「聖武」自身は「長屋王」に対する「遠慮」とある種の「敬意」を持っていたらしいことが知られ、そのことから推測すると「高市皇子」についての彼の兄弟の反感を「藤原氏」などが利用したという流れではないでしょうか。
 彼の後継を誰にするかという審議の際に「弓削皇子」が「兄弟継承」を主張しようとしたらしいことが推定され、それを封殺されたことから遺恨があったことが考えられます。
 その立役者は「舎人親王」ではなかったかと考えられ、その直後に出された「舎人親王」に対し「下座する必要がない」(敬意を払う必要がない)という「太政官」処分(以下のもの)は「聖武」の意志に沿った行動を取らなかった「舎人親王」に対する精一杯の反抗ではなかったでしょうか。

「同年夏四月癸亥条」「…太政官處分。舍人親王參入朝廳之時。諸司莫爲之下座。…」

 これについては「聖武」の精神的状況を示すと共に「伊勢神宮」そのものの「長屋王」に対する「死」を望んでいなかったこと、つまり「伊勢神宮」の意志に反して「長屋王」が死罪となったことを示すものと思われ、「伊勢神宮」の勢力も「親長屋王」的立場であったことが窺われるものであり、彼らも「旧日本国」勢力の一部をなしていたということが考えられるものです。

 「聖武天皇」は「筑紫太宰府」に対して「遠御朝庭」というように「敬意」を含んだ表現をしていることで知られており、彼は「旧日本国」つまり「九州倭国王朝」に対して一定の敬意を持っていたことが窺われるものです。「長屋王」に対しても「旧倭国王」として遇していたものであり、一定の信頼を寄せていたものと思われますが、その自分の意志を「無視」されたことが「舎人親王」への態度として表れているものと思われます。
 彼は「藤原広嗣」が反乱を起こした際には「皇后」(光明子)ともども「伊勢」へ逃げるとされましたが(結局は行かなかったものの)、この逃避の理由はこの「乱」が「筑紫」から起きたからであり、恐れていた「九州倭国王朝」勢力の反乱が起きたと見なしたという可能性も考えられるところです。それほど彼は「見えない旧日本国王権」に怯えていたものであり、それもまた「長屋王」死去に対する「悔恨」と「畏怖」が根底にあったものと推量します。


(※)水野孝夫「長屋王のタタリ」『古田古代史学会報』101号

 
(この項の作成日 2011/10/03、最終更新 2015/04/26)(旧ホームページ記事を転載)

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