古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『天武紀』の「新羅王」死去記事の存在

2018年12月13日 | 古代史

 全二つの記事で会報へ投稿した「論」を掲載しましたが、その後「天武紀」の「新羅王」死去記事についても実際とは異なることが推定されることとなりました。これについても以前ブログにアップしていますが、改めて再度掲載します。

 『書紀』によれば(以下のように)「天武十年」に「新羅王」死去を伝える記事があります。

(六八〇年)(天武)九年…
十一月壬申朔。…
乙未。新羅遣沙■金若弼。大奈末金原升進調。則習言者三人從若弼至。

(六八一年)十年…
六月己亥朔癸卯饗新羅客若弼於氣紫。賜祿各有差。

秋七月戊辰朔。…
辛未。小錦下釆女臣竹羅爲大使。當麻公楯小使。遣新羅國。是日。小錦下佐伯連廣足爲大使。小墾田臣麻呂爲小使。遣高麗國。

丙子。詔三韓諸人曰。先日復十年調税既訖。且加以歸化初年倶來之子孫。並課役悉兔焉。

九月丁酉朔己亥遣高麗。新羅使人等。共至之拜朝。

冬十月丙寅朔。…
癸未。地震。
新羅遣沙喙一吉飡金忠平。大奈末金壹世貢調。金銀銅鐵。錦絹。鹿皮細布之類各有數。別獻天皇。々后太子金銀。錦。霞幡。皮之類。各有數。

是月。天皇將蒐於廣瀬野。而行宮構訖。裝束既備。然車駕送不幸矣。唯親王以下及郡卿。皆居于輕市。而検校裝束鞍馬。小錦以上大夫皆列坐於樹下。大山位以下者皆親乘之。共隨大路自南行北。『新羅使者至而告曰。國王薨。』

十二月乙丑朔甲戌小錦下河邊臣子首遣筑紫饗新羅客忠平。

(六八二年)十一年春正月乙未朔癸卯。大山上舍人連糠虫授小錦下位。
乙巳。饗金忠平於筑紫。

二月甲子朔乙亥。金忠平歸國。

 これら「新羅」からの使者をめぐる記事をみると、「新羅国王」の「薨去」を告げたという記事が「是月条」に記されており、外国使者の到着という重要事項であり、且つ「国王」の死去という重大事が伝えられているにもかかわらず、「日付」が曖昧というのはそもそも不自然です。またこの「使者」は文脈上「沙喙一吉飡金忠平。大奈末金壹世」と同一と思われますが、彼らは「調」を貢ずるためにきた「進調使」のはずであり、「国王」の死去を伝えに来たわけではないと考えられます。(実際に多量の「調」を貢上しています)それならば別の使者が来たのかということになりますが、文章からはそのような気配は感じられません。
 また彼らに対して「倭国」サイドも「進調使」としての通常の対応をしているように見えます。特に「慰霊」の詔が出されているわけではありません。また「金忠平」たちが「喪使」であるなら当然彼らの帰国に併せ(同時ないし少し遅れて)「弔使」が派遣されるべきですが、そのような記録もありません。(それ以前に派遣されている「釆女臣竹羅」達は「遣高麗使」と同時に派遣されており、これは通常の外交儀礼を行うためのものであるのは確実であり、「弔使」でないとみられます。

 「壬申の乱」以降「新羅」と「倭国」の関係は良好であったはずであり、「新羅国王」(ここでは「文武王」となる)の死去という重大事に接したならば「弔意」の一つも表さないことなど考えられないことでしょう。このことは、これら「不審」に満ちた「新羅王死去」記事の性格として、「持統紀」「文武紀」記事と同様本当にこの年次の記事であったのかが疑われることとなります。
 この記事では「新羅国王」の死去の詳細について何らの情報も書かれていませんが、死去があまり時を置かず伝えられたとすると、「冬十月丙寅朔…癸未。」という日付に「筑紫」に到着したらしいことから少なくともそれ以前(つまり「春から夏」付近)の時期に「新羅国王」が死去したことが推定できます。しかし「文武王」の死去は「七月」ですから「旧暦」では既に「秋」となるはずですからその点で既に整合していません。そうであるなら「十月」に到着した「金忠兵」達が「進調使」であるはずがないといえます。

 すでに『持統紀』に記された「新羅王」の死去記事について、それが「善徳女王」についてのものという可能性を指摘したわけですが、当然それ以前の「新羅王」がこの『天武紀』の「死去」した「新羅王」ということとなるわけであり、そうであるならそれは「真平王」である可能性が高いと推量します。

 「真平王」は六三二年一月死去とされ、半年ほど外交活動を停止後隣国である「倭国」に「国王」の死去を告げたとすると「十月」頃の使者到着は不審ではありません。

「五十四年 春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔 贈左光祿大夫 賻物段二百 【古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶】」(『三国史記新羅本紀』より)

 すでにみたように「新羅」においては「国王」が死去した場合、通常の「朝貢」などの儀礼を停止する期間は数ヶ月以上一年未満程度と思われ、ある程度長い「服喪期間」が設定されていたと思われますから、その意味でも一月の死去と十月の喪使は不自然ではないものの、それが「進調使」であった場合は明らかに不自然といえるでしょう。
 これを「文武王」の死去記事とみると不自然であるのに対して「真平王」に関係した記事とみたとき違和感はなくなるものであり、『持統紀』『文武紀』記事と同様「年次」移動が推定されることとなります。その場合「移動」された「年数」は「六八一」―「六三二」=「四十九年」という年数が措定され、『持統紀』記事における推定移動年数(四十七年)とほぼ同じであることもまた「年次移動」の傍証ともいえるでしょう。

 但しこの三者以外の年次移動は確認できません。例えば「真徳女王」の次代は「金春秋」が「新羅王」であったわけですが、彼の死去はちょうど「半島」で「百済」「高句麗」の存亡をめぐって「倭国」を含む各国が熾烈な戦いの最中の時期であったものであり、「倭国」は当時「敵国」であったこととなりますから、当然のこととして「倭国」に「喪使」が派遣されるというようなことはなかったと推定され、そのためその事実が『書紀』の原資料(『日本紀』か)にも記録されなかったものであり、それを『書紀』の記事として反映させる必要性もなかったものでしょう。そのような事情からこれ以後の「新羅王」の死去記事がみられないとすると理解できるものといえます。


(この項の作成日 2017/05/10、最終更新 2017/05/10)(旧ホームページ記事より転載したものに加筆)

コメント

『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(二)

2018年12月13日 | 古代史

『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(二)

「趣旨」
 前稿に引き続き『文武紀』と『持統紀』の「新羅王」死去記事を考察し、『書紀』の「新羅王」記事が「神文王」ではなく「善徳女王」であること、また『続日本紀』の「新羅王」は「孝昭王」ではなく「真徳女王」であって、『書紀』『続日本紀』の双方に「記事移動」(粉飾)の可能性があることを述べるものです。

Ⅰ.可能性のある「新羅王」の抽出
 すでに見たように『持統紀』の「新羅王」死去記事も『文武紀』の「新羅王」死去記事も不審な点があるわけです。
 『文武紀』記事ではこの「新羅王」は「春」に死去したとされています。
(再掲『持統紀』記事』および『文武紀』記事)

(一)「(持統)七年(六九三年)…二月庚申朔壬戌。新羅遣沙飡金江南。韓奈麻金陽元等來赴王喪。」
「同年三月庚寅朔。…乙巳。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。勤大貳大伴宿禰子君等。及學問僧弁通。神叡等絁綿布。各有差。又賜新羅王賻物。」(『持統紀』)
(二)「大寳三年(七〇三年)」「春正月癸亥朔…辛未。新羅國遣薩韓金福護。級韓金孝元等。來赴國王喪也。…」
「同年閏四月辛酉朔。大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩飡金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。」(『文武紀』)

 ところで、『三国史記』を見てみると、「春」に死去した「新羅王」は以下の三名しかおりません。(ただし七世紀以降)

①「(真平王)五十四年(六三二年)春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百 古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶」
②「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克 八日 王薨 諡曰善德 葬于狼山 唐書云 貞觀二十一年卒 通鑑云 二十二年卒 以本史考之 通鑑誤也」
③「(真徳女王)八年(六五四年)春三月 王薨 諡曰眞德 葬沙梁部 唐高宗聞之爲擧哀於永光門 使太常丞張文收持節吊祭之 贈開府儀同三司賜綵段三百 國人謂始祖赫居世至眞德二十八王 謂之聖骨 自武烈至末王 謂之眞骨 唐令狐澄新羅記曰 其國王族 謂之第一骨 餘貴族第二骨」

 これら三名しか「春」に死去した王はいないというわけですから、『続日本紀』に書かれた、「新羅使」が持参した「表」の内容を信憑するとした場合、上の三名の「新羅王」のいずれかの記事が「混入」ないしは「移動」されたのではないかという疑う余地が生じます。
 これは『持統紀』の記事にもいえることであり、この「新羅王」が「神文王」とは考えにくいとすると、「十一月」(調使到着付近)以降「二月」までの間に死去した「新羅王」を他に検索することとなりますが、『三国史記』にはそのような例についてもやはり上の「春」に死去した三名以外確認できません。他の「新羅王」はいずれも「冬」ないし「春」の時期には死去していないのです。そうであればこの三名のいずれかが(一)と(二)つまり『持統紀』と『文武紀』に書かれた「亡くなった新羅王」である可能性が高いと推量します。(当然そのうち二名は連続していると見られることとなり、①と②か②と③という二つの組み合わせがもっとも疑わしいと思われます)

Ⅱ.該当する「新羅王」の比定
 『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」記事に「移動」があるとした場合、先の三名の「新羅王」が誰が該当するのかを考えてみると、②の「善徳女王」の死去に関する事情が注目されます。
 「善徳女王」の死去は上の死去した年次の『三国史記』の記事内容を見ても、当時の「新羅」国内の政治情勢の変化と何らかの関係がありそうであり、明らかに「急死」であったと思われます。
 推測によれば「善徳女王」は「高句麗」と「百済」が連係して(「麗済同盟」)「新羅」に脅威を与えるという可能性を考え、それから逃れるために「唐」に接近していったものと見られます。しかし、「唐」からは「援助」が欲しければ「唐」から「男王」を迎えるようにという「内政干渉」があり、これを受け入れなかったことで「唐」に支援を仰ぐべきという内部勢力との間に緊張関係ができていたと考えられます。そのため「女王」の地位を脅かすような国内勢力に対抗する意味からも、「倭国」への関係を持続させるために「調使」が送られていたものと思われ、そのような中で「反乱」が起き、その対応の中で(原因不明ではありますが)死去したものと見られるわけです。当然「倭国」への使者の派遣はもっとも速やかに行われるべきものとなるはずですが、実際「善徳女王」の死は「春正月」とされているのに対して、もし『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」であるとすると「喪使」が到着したのが「二月」というわけですから、「倭国」への「喪使」は非常に速やかに派遣されたらしいこととなり、先の推測が裏付けられることとなります。(註)ただし注目されるのはこの時ほぼ同時に「唐」へも「喪使」を派遣していたらしいことが『三国史記』から読み取れることです。
 『三国史記』によればこの時「唐」から「使者」が「新羅」を訪れ「前王」に対し「光祿大夫」を追贈すると共に「新王」の「真徳女王」を「新羅国王」と認め、「楽浪郡王」に封じています。
「二月 拜伊閼川爲上大等 大阿守勝爲牛頭州軍主 唐太宗遣使持節 追贈前王爲光祿大夫 仍冊命王爲柱國封樂浪郡王」(『三国史記』)
 この記事でも「唐」からの承認は「二月」つまり亡くなった翌月とされています。このような早さで「国王」の交代を「唐」が認めたのは当然「新羅」から「喪使」が派遣されたことに対する反応と考えられ、そうであれば「倭国」と「唐」へほぼ同時に(死後間もなくか)使者が派遣されたこととなって、当時の「新羅王権」として整合する行動と言えるでしょう。
 また、このように『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」を指すとした場合、『文武紀』の「新羅王」は当然その次代の③の「真徳女王」を意味すると考えざるを得なくなります。
 この「真徳女王」の時代に「新羅」は「唐」への依存と傾斜を深め、高官である「金春秋」親子を「唐」へ派遣し、「太宗」と懇意になるほどの関係となります。
「(貞観)二十一年,善德卒,贈光祿大夫,餘官封並如故。因立其妹真德為王,加授柱國,封樂浪郡王。二十二年,真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。詔授春秋為特進,文王為左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑并新撰晉書。將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。」(『舊唐書/列傳第一百四十九上/東夷/新羅國』)
 この『旧唐書』の記事にあるように「真徳女王」の死に際して「金春秋」は「唐」へは速やかに「喪使」を派遣し、「唐」もそれに応じ「金春秋」を「新新羅王」として速やかに認めているように見えますが、それに比べると「倭国」へは派遣が遅れたと見られ、それは『文武紀』の「国書」の内容として(「今年」「昨年」という表現が、「喪使」の「到着」が新年明けた後となったため齟齬することとなったこと)現われていると思われます。このように「喪使」の到着時期を見ても「唐」へ最優先で報告したのに比べ「倭国」への伝達は遅れたものとなったと見られ、それは「金春秋」政権の「対唐重視」という政策と整合しているように見えます。
 
Ⅲ.記事の「移動年数」について
 『書紀』によれば「善徳女王」の時代には「新羅」との交流は活発であり、頻繁な「遣新羅使」「新羅使」の往還が見られます。しかしそこには「善徳女王」の死去記事がありません。この時代の「新羅」との友好関係を考えると、「国王」の死去を知らせる「喪使」が派遣されないというのは、明らかに不審です。
 『天武紀』の記事中には「新羅」との間に使者が往来していることが書かれており、そのような関係が構築されていたとすると、「新羅」から「喪使」が送られたと見るのは不自然ではありません。それを考えると、本来『孝徳紀』には「新羅王」の「死去」及びそれを知らせる「喪使」記事が存在していたことが推定できます。これが『持統紀』に移動して書かれてあると考える事ができるのではないでしょうか。その場合本来の年次から「四十六年」の年次差で移動されていると考えられます。
 「真徳女王」についても「善徳女王」の場合と同様、『孝徳紀』には「新羅」からの使者記事そのものは見られるものの、「新羅王」の「死去」を知らせるものはありません。これもやはり当時の「倭国」と「新羅」の関係から考えて不審であり、同様に「記事」が移動されていると見る事もできるでしょう。そう考えると、(二)の記事については本来の年次から「四十八年」という年次を隔てて移動されていることが想定されます。つまり、両記事とも実際の年次と五十年近い年数の差をもって書かれていると考えられる訳です。
 ただし、その年数に「二年」の差があることとなり『書紀』と『続日本紀』が「連続」し、「接して」いることを考えると一見「不審」と見えますが、これについては、この両「新羅王」記事の場合、「神文王」と「孝昭王」の死去した年次に「合わせなければならない」といういわば「差し迫った」事情があったためと理解することが出来るでしょう。
 つまり、「記事移動」という「操作」あるいは「粉飾」を行うとするとその証拠を残さないようにするというのが強く求められるわけであり、「新羅王」に関する記事のような「外国」に関する記事の場合、「海外」にも史料が存在している可能性があるわけですから、それらと齟齬しないように記事を造る必要があると思われます。つまり、『書紀』『続日本紀』編纂の際に、それらの外国史料と比較検討されることを想定して「無理に」合わせている、あるいは「合わせざるを得ない」という事情があったものと見ることが出来ます。そのため移動年数に差があるものと考えられるわけです。

(註)
この考え方が正しいとすると、「善徳女王」の死去は一月八日であり、新羅からの喪使到着が二月三日となり、その間最大でも十八日間となりますから一見短すぎると思われるかもしれませんが、これがその他の例から考えて「対馬」への到着時点のことと考えると、「慶州」から「対馬」まで準備も含めて考えてもそれほど時間がかかるとは思えず、このとき「王」の「死」を伝えるという火急的任務を負っていたとすると短すぎるともいえなくなるでしょう。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』」(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
宇治谷孟訳『日本書紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫「平凡社」)
金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』(東洋文庫「平凡社」)
『旧唐書』は台湾中央研究院歴史言語研究所の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。

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