古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

平城京遷都の実態と藤原遷都との比較

2018年12月21日 | 古代史

 既に述べたように、「平城京」の各所の建物及び部材は「藤原京」から移築あるいは運ばれたものと見られている訳ですが、その中でも「白眉」といえるものは「大極殿」です。
 「平城京」の大極殿は「藤原宮」の大極殿を移築したものであり、また「恭仁宮」の「大極殿」もさらにそれを移築したものと判明しているのです。
 しかも、「考古学的調査」の結果『続日本紀』に示す「平城京遷都」と記された「和銅三年」(七一〇年)にはまだ「大極殿」も、それを取り巻く築地回廊も未完成であり、それどころかその場所は「整地」さえされていなかったと見られています。
 つまり『続日本紀』の「和銅三年」(七一〇年)正月の「元日朝賀」は明らかに「旧都」藤原京で行なわれたものであり、この時点では「平城京」で行なう事は不可能であったと見られています。(当然何もない空間では「儀式」は行えないでしょう。)

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔条」「天皇御大極殿受朝。隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎兵。引隼人蝦夷等而進。」

 また「平城京」には「大極殿」が東西二つあったと見られていましたが、近年その「東側」の大極殿下層から「掘立て柱建築」による建物跡が検出されました。
 これに関する一般的な見解は、「中央」の「大極殿」が「儀式空間」であり、また「朝堂」つまり「政務」を取るスペースとみなされ、「東側」の下層「掘立て柱建物」については「天皇出御空間」であってまたこれも「朝堂」とみなせるというものでした。
 つまり、「天皇」が直接タッチするかどうかで分けられていると考えられ、一種の「分業」という考え方が行なわれているようですが、これについては異論があります。
 私見ではこの「掘立て柱建物」は「仮宮」としての「内裏」であると思われ、「藤原京」からの「遷都」の際の「仮」の「宮殿」であったと思われます。この「掘立て柱」建物を造った段階で、「倭国王」はその「仮宮」に移動したものであり、この時点を以て「遷都」としたものと考えられます。これが『続日本紀』に記された「和銅四年」(七一〇年)の三月のことではなかったでしょうか。

「和銅三年(七一〇年)三月辛酉条」「始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。」
 
 つまり、この「遷都」記事は「東側下層」から発見された「掘立て柱建物」への「移動」を指すものと考えられ、その後おもむろに「藤原宮」の大極殿が「移築」され「西」の「大極殿」として建設されたと推定するべきでしょう。
 このようにこの「掘立て柱建物」の意義を「内裏」として考えると、政務及び儀式は依然として旧藤原宮とその周辺の「曹司」で行なっていたものと考えられます。
 そもそも「遷都」「遷宮」とは基本的に「天皇」の「居所」が移動することであり、「政務」の場所はあくまでもそれに付随するものであって、「政務」を司る高官が(共に)移動するしないは「遷都」とは直接関係しなかったと思われます。
 「王」の居するところが「都」の中心ですから、それが移動したならば「遷都」と言いうる訳です。「政務」を取る場所が変わらなくても「天皇」の「居所」が移動するような場合は「遷都」ないしは「遷宮」という形容となったと思われます。
 そして、この「平城京」の「遷都」に関わる状況は、その前代の「藤原京」遷都の際の様子によく似ていると考えられるものです。

 「藤原京」においても、出土した木簡の解析によって「東面回廊」の完成は「七〇三年」以降であり、また『続日本紀』の記事によれば「七〇四年段階」で宮殿予定地には民家があったとされます。しかし「遷都」については『書紀』に「六九五年」の年次で書かれているわけであり、これを「平城京」の状況に重ねて考えて見ると、まず「掘立て柱建物」を「大極殿」(というより「内裏」)として「藤原京」内の「どこか」に建て、そこに天皇(この場合「倭国王」)が居する状態となった時点で、「遷都」と称していると思われます。
 それは「中務省」に関する木簡が「大極殿」の中からは出ておらず、至近の「官衙地域」から出てくることにもつながっていると考えられます。
 「中務省」に関連する木簡が大量に出土するのは、「宮域」の外部(左京七条一坊付近)からであり、この付近に「中務省」が存在していたことを想定させるものですが、「中務省」と「天皇」とは本来直結しているものであり、「天皇」の言葉を直接「詔」として文書を作成するというのが役目であることを考えると、この時この至近に「掘立て柱」建物の「仮宮」として「内裏」が存在していたことを推定させるものです。
 そして、その後おもむろに「宮地」に入る民家を立ち退かせ、跡地に礎石建物として「大極殿」を造り、並行して「回廊」など「築地塀」を作って区画する作業を行なったと見られるのです。
 このように考えると、「平城京」移転に際して同様の「手法」がとられたと見ることができると思われ、「平城京」の場合、「遷都」からその「大極殿移築完了」まで「五年」(七一〇~七一五)を要しているように見えますから、それは「藤原京」においても同様に「五年」あるいはそれを上回る建設期間があったことを物語りますが、「藤原京」の場合「大極殿」は「移築」ではなく「新築」であり、「設計」も含めると明らかに「移築」よりも時間がかかったと考えられ、そうであれば「七〇四年」の「宅地移転」という記事から、少なくとも「二~三年」は必要であり、(「聖武」の時代「恭仁宮」への移築は二年かかっています)「七〇六~七〇七年」あたりで「大極殿」の建物が出来上がり「回廊」も完成して区画されたこととなります。つまり「遷都」と記された「六九五年」から「十二年」程度は経過していることととならざるを得ないものと思料されます。
 しかし、「平城京」造営を計画したのは『続日本紀』によれば「和銅元年」(七〇八年)の事であり、既にその時点で「候補地」の選定が終わっていたらしいことを考えると、実際には「藤原京」が「完成」して程なく「移転」(遷都)の計画が起きたこととなります。
 これらのことは「文武」「持統」はその在位期間のほとんど(あるいは全部)を「仮宮」としての「内裏」で統治したという事となり、「藤原宮御宇」という言葉の実態が示されることとなったと思われます。つまり彼等の治世期間中は「藤原宮」は「未完成」であったと言うことになるでしょう。

 また「平城京」への「藤原京」大極殿移築が完了したのは「和銅五年」と考えられ、それは「平城京」において「大極殿」という表記の初出が「霊亀元年」(和銅八年)(七一五年)の「元日朝賀」の儀式の際であり、この時点が「移築完成」のタイミングであったと思われます。
 また、この「霊亀元年」は「元正」即位の年でもあります。

「靈龜元年九月庚辰条」
「受禪。即位于大極殿。詔曰。朕欽承禪命。不敢推讓。履祚登極。欲保社稷。粤得左京職所貢瑞龜。臨位之初。天表嘉瑞。天地■施不可不酬。其改和銅八年。爲靈龜元年。大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸從赦除。但謀殺々訖。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不原者。並不在赦限。親王已下及百官人。并京畿諸寺僧尼。天下諸社祝部等。賜物各有差。高年鰥寡孤獨疾疹之徒。不能自存者。量加賑恤。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。免天下今年之租。又五位已上子孫。年廿已上者。宜授蔭位。獲瑞人大初位下高田首久比麻呂。賜從六位上并■廿疋。綿■屯。布八十端。稻二千束。」

 このことは、この「平城京」遷都及び「藤原宮殿」移築という事業が「元正」のためのものであったという事を推察させるものであり、「旧日本国(倭国)」王権の隠蔽がこの時代に行われたことを示すものといえるでしょう。(「旧京」である「藤原京」の廃絶というものは何らかの「呪術」(祟りよけ)によるという可能性が考えられ、そこで何らかの忌まわしい出来事が起きたとみると整合すると言えます)

 『日本帝皇年代記』の「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあります。あたかも「平城京」の前の「都」は「難波」にあったかのようです。

「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(『日本帝皇年代記』(上)より)

『日本帝皇年代記』と同様『扶桑略記』にも「平城宮」への遷都記事に「難波宮」からという表現が見られます。

「和銅三年庚戌三月辛酉。始遷都于平城。従難波宮。移御奈良京。定左右京條坊。…」(『扶桑略記』より)

 これらの記事は『書紀』『続日本紀』とは明らかに異なるものですが、『書紀』の記述を絶対視しないのであれば、これも検討のまな板に載るべきものです。
 これらの記事には「藤原京」が脱落しており、これが単に錯誤であると見るより「藤原京」に対する私たちの考え方を変えるべきと思われるわけです。つまりこれらの記事の背景にあるものは(すでにみたように)「藤原京」が「新日本王権」から見て「他の王権の京」であるという事実ではないでしょうか。
 「新日本王権」に直接つながる「京」の系譜としては「難波京」があったものであり、「藤原京」は直接つながるという性格のものではなかったと見られます。それは『書紀』そのものが「持統」で終了していることや、またその持統から「禅譲」を承けたとされているなど「持統朝」が「新日本王権」とは異なる王権であったと見られることと関係しています。


(この項の作成日 2013/04/07、最終更新日 2017/10/13)(旧ホームページ記事から転載したものに加筆)

コメント

「平城京」遷都の理由

2018年12月21日 | 古代史

 『続日本紀』によれば「七一〇年」に「平城京」へ「遷都」したこととなっており、その理由としてはいろいろ言われています。
 ひとつには京内を流れる川が「内裏」(宮殿)近くを経路としていたため、河川への汚物の流入により、「内裏」の衛生状態がかなり悪化したこともその理由とされています。
 また、「遣唐使」を派遣したことにより、「唐」の都「長安」の「築城」の形式を学んだこともその理由の一つとされています。「藤原京」は「宮殿」が「京の中心域」にある、古いタイプの都城形式であり、「長安」などの、「宮殿」が「京」の「北辺」にある形式の存在を知り、それを模範とするべきと考えたかもしれません。(平城京はまさにそのような「北辺」に「宮殿」があるタイプです)
 しかし、それらの事情があったにせよ、「藤原京」が出来てから余り「時間」が経っていないにも関わらず、「新京」を作る意味についてはわかりにくいものがあります。
 『書紀』によれば「六九五年」に「藤原京」へ「遷都」しているように見えますが、『続日本紀』の「七〇四年」の条には「藤原の宮地を定めた」という記事も見えます。その記事によれば「宮域」とされた場所に多数の「烟」(戸)があったことが記されています。(「宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟」とあります)これはそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、『書紀』に示す工程の「信憑性」を疑わせるのに十分です。
 さらに、「藤原京」から出土した「木簡」によって「東面回廊」の完成が「七〇三年以降」であることもまた明らかになっています。
 これらのことから、「藤原宮」の完成は実際には非常にに遅かったこととなりますが、そのことは即座に「平城京」の完成と年次が接近することを意味します。つまり「完成間もない」にも関わらず「新京」築造を開始したこととなってしまうわけであり、「急いで」新京造営が決まり、また移転したこととなると思われるわけです。
 「平城京」造営を計画したのは『続日本紀』によれば「和銅元年」(七〇八年)の事であり、既にその時点で「候補地」の選定が終わっていたらしいことを考えると、実際には「藤原京」が「完成」して程なく「移転」(遷都)の計画が起きたこととなります。しかも、重要なことは「平城京」への「遷都」と共に、「前宮」である、「藤原宮」の「解体」が行われたことです。

 「平城京」の遺跡からは「藤原京」から運んだと思われる「部材」が多数確認されています。たとえば「藤原京」で「宮殿」の周囲を囲う「築地塀」に使用された「柱」部材が、「平城京」の「樋」の部材として使用されている例があります。この部材は総数「千本以上」ありますが、全て「引っこ抜かれ」運搬されています。後には「穴」しか残っていない状態でした。
 通例「新京が」でき、「遷都」が行われても、「前京」を必ず「解体」しなければいけない理由はありません。現にその後の「長岡京」でも、(後期)「難波京」でも、「平安京」でも、以前の「京」を、しかも「一切合切」解体し、運んで再利用した、ということは確認されていないわけです。これは「藤原京」に限って行われたことなのです。
 これを「古代のリサイクル」と称する向きもあるようですが、そのような性質のものではないのではないかと思えます。それではその後の「新京」を作る際にも「継続的に」前京を解体することが行なわれなかったこと、つまりこれが「前例」とならなかった理由を説明する必要があります。
 「新京」に移ったからと言って、「前京」の部材を「全て」持って行き、再利用したり、廃棄したりするような行動は明らかに「不審」であると思われます。
 これらの行動により「藤原京」は、いわば「跡形もなくなって」しまうわけですが、これは「藤原京」という「政治舞台」の「隠滅」を謀ったのではないか思われます。

 『書紀』によれば「飛鳥京」では以前より「遷宮」が行われていました。「王」の代が代わった際には別の場所に「宮殿」を立て替える、という「遷宮」を行ってきていたものです。
 それに対し「倭国」では「宮殿」は代替わりでは立て替えられず、そのまま使用されていました。「藤原宮」ができたのは「難波宮」が火災にあったからであり、同じ場所に建て替えをしなかったのは、「呪術的」な意味もあると思われますが(火災発生した宮殿に対する忌避)、「飛鳥」が元々「倭国王権」の「離宮」的場所であり存在であったからであると考えられます。
 つまり、「倭国王」は、「難波宮殿」被災後は「離宮」である「飛鳥宮殿」の「エビノコ郭」に建てられた(仮の)「大極殿」に所在していたと考えられ、「儀典」などの以外には、常にそこにいたものと推定されます。このことから、新宮殿建築においても「飛鳥宮殿」からほど近い場所が選定されたものと考えられ、すでにある程度人々が居住していた地域ではあったものの、その街並みをある程度生かした形で「藤原京」が作られているものと考えられます。
 このようにして、「藤原京」は「飛鳥」に作られたものですが、それはあくまでも「倭国」の「王都」であり、「倭国王」の「宮殿」であったわけです。
 「新日本国」に政権が移った時点の「八世紀」の「元明」政権にとってみれば、それは「存在してはならない」ものの一つであったのではないでしょうか。このため、急いで「平城京」という、中国「北朝」の影響を強く受けた「京」を造る事とし、「南朝」系王朝である「倭国」の王都であった証拠を全て「隠蔽」しようとしたと推察されるものです。

 『続日本紀』の「和銅元年二月十五日条」には「元明天皇」が以下の詔を出したとされています。

「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。」

 これは「新都造営」の「詔」ですが、この「詔」は原典があります。それは「隋」の「高祖」(文帝)の詔です。
 彼は新都の造営を決意し、「開皇二年(五八二年)六月」以下のような「詔」を出しました。

「朕砥奉上玄、君臨万国、厨生人之倣、処前代之宮、常以為 作之者労、居之者逸、改創之事、心未邉也、而王公大臣陳謀献策、威云、義・農以降、至干姫・劉、有当代而屡遷、無革命而不徒、曹・馬之後、時見因循、乃末代之宴安、非往聖之宏義、此城従漢、彫残日久、屡為戦場、旧経喪乱、今之宮室、事近権宜、又非謀笠従亀、謄星揆日、不足建皇王之邑、合大衆所聚、論変通之数、具幽顕之情、同心因請、詞情深切、然則京師 百官之府、四海帰向、非朕一人之所独有、荷利於物、其可違乎、且股之五遷、恐人尽死、是則以吉凶之土、制長短之命、謀新去  故、如農望秋、錐暫鋤労、其究安宅、今区宇寧一、陰陽順序、安安以遷、勿懐脊怨、竜首山川原秀麗、卉物滋阜、卜食相土、宜建都邑、定鼎之基永固、無窮之業在斯、公私府宅、規模遠近、営構資費、随事条奏」

 この「元明」の「詔」は見比べておわかりのように、文章の前後を入れ替え主語や目的語を入れ替えているものの、ほぼ全文が「隋」の「文帝」の「詔」からの「剽窃」、といって悪ければ、「手本」としたものとなっています。
 ここで「隋」の「高祖」の詔が「手本」として出てくる理由はどこにあるのでしょうか。それは『書紀』や『続日本紀』のかなりのものが『隋書』を手元に置きながら編集したからであり、その時点では依拠すべき史書として『隋書』が最も重視されていたことを示しています。

 中国では「前漢」の「武帝」以来、多くの「王朝」が「長安」(旧城)に都城を築き、都としてきました。「後漢」以降「魏晋朝」には「東遷」して「洛陽」を都としていましたが、その後の「北魏」を除き「北朝」は「前趙」「前秦」「後秦」「西魏」「北周」と連続して「長安」を「都」としてきたものです。そして「隋」が成立すると「高祖」(文帝)は「長安」からやや離れた「漢城」の南東の「竜首原」地域に新都を造営することとしたものであり、上の「詔」はこの時に出されたもので、この「都城」は「大興城」と名づけられました。
 この場所は「文帝」が「北周」時代に将軍として支配していた地域であり、その場所にたいする思い入れがあったことは確かですが、それとは別に「新都造営」の動機として言われるのは、「隋」の「文帝」にとって「旧長安城」という歴代の「北朝」の都を捨て、新都を造営することで新しい権力構造を構築することが主眼であったと見られるものであり、それは「文帝」においてそれまでの「北朝」政権とは違う次元の王朝を構想していたからであると考えられます。そして、それは「南朝」征服という事業に結実したわけですが、「元明」においてもこれと同様の意味があったのではないかと考えられるでしょう。つまり「周礼」方式といえる「藤原京」を捨て、「北朝」形式のレイアウトを持つ「平城京」という「全く新しい」都を構築することで、旧来の権力構造の再構築を図ったものであるとされているわけです。
 「元明天皇」はその意を「隋」の「文帝」の「詔」を真似ることで、実現しようとしていたと考えられます。
 これは「前述」したように「平城京」の造営と移転というものが「元明天皇」の「新日本国王権」にとって、「藤原京」を造営した「日本国王」(旧倭国王)という存在(権力)と「隔絶」していることを意味するものであり、「隋」の「文帝」の時代に「南朝」を征服し滅亡させたように、彼らにも「前王朝」を「否定」する意が込められていたと考えられます。


(この項の作成日 2011/09/25、最終更新日 2017/01/30)(旧ホームページ記事から転載)

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