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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「戸」と「家」についての論(2)

2018年12月22日 | 古代史

前回は「戸」と「家」に関して会報に送って不採用と思われるものの前半部を掲載しました。今回はその続きの後半部を掲載します。

「戸」と「家」について(二) 

「趣旨」
 前稿に引き続き「戸」と「家」について考察し、「戸」は「国家」が管理している戸籍情報であり、「家」はそれとは異なるものであること。『倭人伝』では「戸」は「官」から提供された「公式データ」であること。それに対し「家」は「推計」したデータであると推測されること。「一大国」と「不彌国」が「家」で表されているのは、軍事的情報を制限する倭王権の方針で「戸籍」に関するデータが示されなかったと考えられること。以上を考察します。

Ⅰ.「魏使」が「戸数」を知るためには
 既に考察したように「戸」とは「魏」の「戸籍」と同様のものと考えられるわけですが、これは別の言い方をすると「戸数」とは「公式」なものであり、「戸籍」に基づくものであるといえるでしょう。そう考えると、それが通常の戸籍でも「兵戸」や「」などの特殊な戸籍であっても、「魏」からの使者が「戸数」を知るには「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「諸国」の「官」から受けなければならないこととなります。
 明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものであると考えられます。そのような資料が「魏使」に対して開示されたとすると「兵戸」あるいは「」のような特殊な戸籍であった場合は、「戸数」ではなく「家数」が開示されるという可能性が考えられ、この「一大国」と「不彌国」の「家数」表示がそうであったという事も想定可能でしょう。
 但し、その場合は「魏使」はその地域(「一大国」「不彌国」)について「軍事」に関連した地域であるという認識が形成されるわけですから、『倭人伝』中にその徴証が見えて然るべきですが、その様な事を窺わせる記述はこの両国には見あたりません。
 もし少しでも軍事関係の情報が入手できたなら必ず「魏使」はそれを書き留めたでしょう。この『倭人伝』の原資料は「卑弥呼」に「金印」を仮授するために派遣された「魏使」の復命書であるという考え方もありますが、それが正しければ「軍事情報」はこのような夷蛮の国に赴いた際の把握すべき最重要事項であったはずであり、その「軍事情報」が「一大国」と「不彌国」について見えないということはこれが「兵戸」「」のような特殊戸籍であるという認識を「魏使」が持たなかったことを示します。
 しかも、「一大国」の「家数」は「概数表示」となっています。そこでは「許」(ばかり)という言葉で「家数」が示されています。他の「戸数」表記に現れる「余」というものも「概数表示」であるように思えるかもしれませんが、これは表現を曖昧にしているだけであり、「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという表現と考えられます。しかし「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明らかに異なると思われます。
 「官」から「公的情報」を入手したなら、他の「戸数」表記同様に「余」表示も含めて「確定値」として表現されて然るべきですが、そうはなっていないことから「担当管理」(卑狗など)から正確な情報が開示されなかったという可能性が示唆されます。
 これらのことから、この両国の「家」表記の理由として最も穏当な解釈は、「官」から「戸数」を開示されなかったから、と言うものが(ある意味単純ではあるものの)最も考えられるものです。

Ⅱ.戸数が開示されなかった理由について
 前項で「一大国」と「不彌国」については「魏使」に対して、「戸籍」の基づくデータが提示されなかったという推定を行ったわけですが、その様な事となった理由としては次の事が考えられます。
 既に考察したようにこの当時「倭国内」で「戸籍」が作成されていなかったとは考えられないとしたわけですから、それが提示されないとすると、技術的というより政治的な理由であったという可能性が高いと思料されます。それについては色々考えられるものの、もっとも可能性が高いのは、やはりそれが「軍事情報」だからと言うことではないでしょうか。「軍事」に関する情報は「隠せるものは隠す」という方針ではなかったかと思料され、裏を返すと「戸籍情報」が開示されなかった「一大国」と「不彌国」には「軍隊」(あるいは軍事的施設一般)がいた(あった)と言うこととなるのではないでしょうか。
 つまり、この時の「魏使」に対しては「軍事」に関する情報等をまだ明らかに出来る(共有する)ような友好関係が構築されていなかったのではないかと考えられ、それはこの「魏使」の訪問が実質上「初」のものであり、「卑弥呼」が最初に「魏」に対して「遣使」した事に対する褒美の品などを下賜するために派遣された際の記録がベースになっているということが推量されることとなるでしょう。この時に「親魏倭王」の「印」等を「卑弥呼」の「宮殿」で「拝仮」されるということとなったものであり、それ以降は「魏」に臣従する「候王」として存在していくということとなったものと思われますが、この段階はその直前ともいうべき状況であったことが窺えるものです。
 このような事情があったため、「倭国王権」はそれが、(たとえ「魏」に対するものであったとしても)「軍事」に関する情報は極力「秘匿」したものと考えられ、「魏使」が通過した際この両国については「戸籍」に関する「資料」を見る機会がなかったか、あるいは担当官吏(卑狗)などが「教えてくれなかった」というような事情があったと考えることができるでしょう。
 「魏使」等はそのような場合はやむを得ず、何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきではないでしょうか。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。
 このように「諸国」に官が配置されているような体制は他の東夷伝には全く見られず、「倭人伝」に特有のものといえるものであり、「中国」以外では「例外的」に「倭国」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものです。それを「魏」の王権でも重視していたことは確実であり、「卑弥呼」に「親魏倭王」という称号を与えたのはそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」でありまた少なからず「畏敬」の念も含んでいたものと思われます。
 このような事を考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」や当時の倭国で広く行われていたと考えることは当然可能と思われ、この時点で既に「戸籍」が「軍事」「税」という国家にとって最重要なものの基礎として使われていたことは確実と思われます。そうであれば、「一大国」と「不彌国」の両方が「戸」表示でないのは、「戸籍」がなかったからではないことが強く推定できます。逆に言うと、この倭人伝の中で「戸数」表示がされているところは、それが「戸籍」に基づいていること、また「官」からその「戸籍情報」の開示があったと言う事を示すと思われる事を示します。
 つまり、そこに「戸数」が表記されている限り、時折言われるように「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。つまり「魏使」は実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなります。
 このことは『倭人伝』中の以下の文章からも推定できることでもあります。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
 つまり、「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、「遠絶」のため実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けたと言う事を明白に示すものと考えられます。

「参考資料」
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
久武綾子「古代の戸籍 -日本古代戸籍の源流を探る-」『愛知教育大学研究報告』四十号一九九一年
『三国志』は「台湾中央研究院」の「中央漢籍電子文献」サイトを閲覧

 

 以上会報へ投稿したものをここに掲載しました。最初に考察した時点から7年ほど経過していますが、基本的な論旨は現在も有効と考えており、大きな手直しは必要ないと思っています。というより「戸」と「家」に関する基本的な主張である「戸」と「家」とは内実として等しく、「制度」としての違いでしかないという部分はさらに確信するようになっています。
 以前から秦漢代において「律令制」の施行とともに「専制権力」の支配の到達地点として「個人」なのか「家族」なのかが議論されていたことが各種の論からうかがえますが、その中で示されていたのは、少なくとも「漢代」には「租」の免除などの施策が「個人」ではなく「家」に対して行われていることであり、それはそもそも「戸籍」に基づくものですから、「戸」と「家」がその時点で等質的に扱われていることを示すものと理解できます。
 他各種の徴証からも漢代には「個人」というより「戸」という単位で人民を管理統治していたものと思われ、その内実は「農業」にその生活基盤を置く「家族」であったと理解できます。「魏」においてもその実態はほぼ変わることがなかったものと思われ、『倭人伝』に出てくる「戸」と「家」も「秦漢」におけるものと同様であったと考えられるでしょう。

コメント

「戸」と「家」についての論(1)

2018年12月22日 | 古代史

以前「戸」と「家」に関し書いていますが( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/27518e7d3ed01868110a16b22c89b0e2 以下の記事)、これと同内容の論を会報に送ったのですが(投稿日付2015年8月7日)、現時点で未掲載となっていますのでいわゆる「没」となったと思われます。このままというのも何なのでここに掲載します。

「戸」と「家」について(一)

「趣旨」
 ここでは『魏志倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について検討し、「戸」が「魏」と同様の「戸籍」に基づくものであること、「家」は「兵戸」「」などの特殊な戸籍を表す表記と考えられ、また「戸籍」がないか「魏」と異なる「戸籍」の場合にも「家」で表されるという可能性が考えられること。『韓伝』の解析から「戸」と「家」とでは地域によってその内実が異なる事。以上を考察します。

Ⅰ. 「戸」と「家」について
 『魏志倭人伝』(以下『倭人伝』と略す)に中に出てくる「戸」については古田氏により解析が既に行われており(註1)、そこでは『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位』とされています。そして『…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』と理解されているようです。
 「戸」が「戸籍」に基づくもので、「その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」という理解は全く正しいと考えられますが、他方「家」についてはやや違う理解も可能と思われます。
 『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
 これについては古田氏は『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく「不弥国」は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』と述べられています。それによれば「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
 「卑弥呼」の前代以来倭国内は権力争いが続いていたわけであり、またその後は「狗奴国」との争いがあったことなどを考えると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。(「倭建命」の説話でも判るように古代においては「女装」など様々なテクニックを弄して王権内部に接近し、「偽計」により相手の命を奪うなどの方策が選ばれることがしきりにあったと見られます)
 「倭王権」がそのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「不彌国」の場合、「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所にあるわけですから、そこに国家が「戸籍」で管理できていない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」に対する理解は変更せざるを得なくなると思われます。

Ⅱ.中国における「家」の例
 「家」の例については『三国志』の他の部分では、「数詞」を伴う場合は(例えば下の例の「四千餘家」というような表現の場合)特定の意味があるように見受けられる事が注意されます。
「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」(三國志/魏書 魏書三 明帝 曹叡 紀第三/太和元年)
 ここでは「新城太守」である「孟達」が反乱を起こしたものの、「司馬宣王」率いる軍に敗れ、「部曲」四千餘家を率いて「魏」に帰った(降伏したの意か)とされています。つまり「四千餘家」は「部曲」であり、「部曲」とは「部隊」を構成する単位を示す用語であって(『書紀』に出てくる「部曲」はそれを転用したものと思われ、「軍制」との関連が窺えるものです)、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものですが、それを数えるのに「家」が使用されています。
 一般に『三国志』中では「家」の使用例は多く、それは通常の「家」(いえ)という場合が圧倒的ですが、特に『魏志』における「家」の出現例を見ていくと、上の例のように「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。それを示すのが以下の例です。そこでは「流入した」者達が「家」で表され、彼等は上と同様「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。
「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀彧曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者『十萬餘家』,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,『兵家』遂彊。」(三國志/魏書 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬)
 ここでは明確に「兵家」という言い方もされており、「兵士」と「家」の間に関係があることが示唆されています。
 他にも同様の例があり、いずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
 また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。
「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊、揚、益州諸軍事,進封陳侯,增邑二千,并前『三千五百戸』。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置『十家』。後召還屯宛。…」(三國志/魏書 諸夏侯曹傳第九/曹仁)
 ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「」というような人達についても「通常」の「戸制」に登録はされなかったものと思料されます。(後の「隋・唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる『大宝令』などにもそれは継承されているようです)
 これらの例から考えて、「魏」の標準の戸籍(「魏」の戸籍は現存していませんが前代の「漢」と同じであったものと推定されます)ではない戸籍に登録されている場合に「家」を使用するというように理解されるものであり、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や「戸制」があってもそれが「魏」とは異なるという場合にも同様に適用されると見られます。

Ⅱ.『韓伝』における「戸」と「家」の関係
 おなじ『三國志』の『韓伝』においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されており、しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この『韓伝』の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。(註2)そこでそれが事実か実際に計算してみます。
『魏志東夷伝』の『韓伝』には「馬韓」に関する事として「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」と書かれています。
 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一-五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また『韓伝』の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われます。結局「1対3」という値を大きくはずれない数字が期待できるでしょう。
 同様なことを同じ『韓伝』の「弁辰」について検討してみます。
『韓伝』には「弁辰」について「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」という記述があります。ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対3」程度という数字(比)とはかなり違う値となることが推定出来るでしょう。
 以上のことは、同じ『韓伝』の中において「戸」と「家」の関係は特に決まっておらず、よく言われるように両者の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものです。それは「倭」の中の「戸」と「家」の関係についてもいえるのではないでしょうか。
 このように『韓伝』の中で「馬韓」と「弁辰」の間において違いがあるのは、上に述べたように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、「韓」では「総人口」に対して「戸籍」制度が整備不十分のため、「捕捉率」(戸籍に編入されている割合)がまだ少なかったという事情があると思われ、特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定されることとなります。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったこととなり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できるでしょう。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられます。
 「馬韓」の場合『韓伝』の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく『韓伝』中に「法俗特嚴峻」とされており、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 次稿では「戸数」と「家数」についてさらに考察します。

「註」
1.古田武彦『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)で「戸」と「家」について詳説されています。
2.たとえば中村通敏氏の『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社)の中の論。そこでは「馬韓」については計算されていますが「弁辰韓」についての数字の検討がされておらず、この二地域の「戸」と「家」の関係が異なる事が見落とされています。

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