古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「藤原不比等」と「羊大夫」伝説

2018年12月29日 | 古代史

 群馬県に多野郡吉井町池(いけ)字御門(みかど)という場所があります。ここに「七一一年」の建立と伝えられる「多胡の碑」というものがあります。
 この碑には次のような文章が刻まれています。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

 これは朝廷が郡を設置して、それを「羊」という人物(?)に「給した」ということであるようです。碑文には時の朝廷の高官の名前が書かれています。(この碑文と同内容の記事が『続日本紀』の和銅四年三月六日の条にあります。それによれば「上野国の甘楽郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等六郷を割きて、別に多胡郡を置く」と書かれています)

 この碑文は「那須韋提」の碑と同様「朝廷」からの「文書」をそのまま書き写していると考えられます。その理由は「左大臣」と「右大臣」の名前の後ろには「尊」という敬称がついているのに対して、「宣左中弁正五位下多治比真人」というように「多治比真人」には何の「敬称」も付されていないことがあります。
 これは「宣」という言葉がついていることでも分かるように「弁官」としての「多治比真人」自身の言葉として「文章」が書かれているためと考えられ、それをそのまま「石碑」に引用しているものと推量されます。
 ちなみにこの「多治比真人」に該当する人物は「三宅麻呂」であると思われます。彼はこの「弁官符」が出された「和銅四年」(七一一年)の四年後の「和銅八年」(七一五年)にはその「左中弁」の上位職である「左大弁」の地位にあったことが確認されていますから、この「碑文」の「多治比真人」としては「三宅麻呂」しか候補がいないと思われます。
 この「碑文」の冒頭に書かれている「弁官符」という書き方は「弁官」の「符」からの引用です、という断り書きのようなものではないでしょうか。この「弁官符」が実質的な「太政官符」であったという考え方もあり、そうであればますます、その「符」の通りに書く必要があったと言うことが考えられます。
 そして「彼」(「多治比真人」)の言葉の中に「羊」に「給」う、というように「羊」という人物をある種「呼び捨て」にしているわけであり、また「給」うという言葉もいわば「上から目線」の言葉であって、そこに明確な「位階」の上下関係が存在していることを示すものです。つまり、この「羊」という人物はあくまでも彼よりも「目下」の人物であり、「在地」で任命された「郡司」であって、決して高い身分の存在ではないことが分かります。

 ところで、関東(現在の群馬県から埼玉県付近)には「羊太夫」伝説が各所にあり、それらの説には異同があってやや混乱がありますが、その内容としてはまず「羊」年の「羊」の日の「羊」の刻生まれであるため「羊太夫」と呼ばれた人物がいた、ということです。(ただし、「未年」という情報が欠落している伝承もあるようですが、「生まれ年」を「名前」とする例は圧倒的に多いものの、「年」の干支は「未」ではないのに それを名前にせず「月」や「時」が「未」であるからといってそれを名前とすることがあったとは考えにくいものであり、「年」「月」「日」「時」という四拍子が揃ったことで「羊」と称されるようになったと考える方が実際的ではないでしょうか。)
 また彼は本姓が「中臣氏」と考えられており、多胡家の墓地の石碑には「羊太輔・左大臣・正二位・藤原宗勝」と書かれていることや、「この仁、太政大臣の極官に任ぜられ候へども…」と書かれた文書も確認できます。(『古来之聞書』)
 さらに「青海羊太夫」とも呼ばれたようであること、(「釈迦尊寺の石碑」)そして「三日間朝廷に参内しなかったため」「討伐された」、とされている事、またその討伐された日付としては「養老四年八月八日」であり、その「討伐」には「安芸」(広島)地方より徴発された軍が主体をなし、討伐の褒章として「上州」「信州」「武州」の三州を賜った、という事等々が伝えられています。

 生まれ年が「未年」であると言う事及び「朱鳥」年間であるとする資料から考えると、「六九五年」」という年次が該当するという可能性が検討されるべきですが、これを「朱鳥九年」とするものもあり、この「朱鳥」が「六八六年」を元年とするものであるとすると、一年の違いが生じます。これは「六八七年」を元年とする「持統称制」期間との混乱が確認されるものであり、かなり早期に「朱鳥」についての混乱と忘却が発生していたことを示唆するものです。
 そして、これらの伝承と重なる人物として「藤原不比等」がいると言われています。(※1)たとえば「不比等」も「未年」生まれであり、元「中臣氏」であること、「右大臣・正二位」の地位に上がり「太政大臣」に請われていること(ただし『続日本紀』によればこれを断っています)、また死後「淡海公(=青海)」の謚名をされていること、また、『続日本紀』による死去した日付は「養老四年八月三日」となっていて現地資料と非常に接近していることなどがあります。それに加え死去した際の『続日本紀』の「葬儀」に関する記事が簡易に過ぎることがあるとされます。彼は当時「右大臣」と言う地位(要職)にあるわけですが、そのような高位にあるものが死去した際の例としては異常に「簡易」であり、葬儀担当者を定めたわけでもなく、翌日には人事を行っており、喪に服した形跡がないことなどがあるというわけです。また、死去に際しては、九州で隼人征伐をしていた「大伴旅人」を急遽都に呼び返し、京内の軍事面を補強していることも何らかの軍事的事変の発生を想定させるものとされます。これらのことから、「羊」=「不比等」説というものが出てくるわけですが、上に述べたように「羊」は「多治比真人」より目下の人物であると思われ、その場合「藤原不比等」は対象外とならざるを得ません(但し同じ「藤原」ないし「中臣」氏族であるとは思われますが)。しかも「生年」が「朱鳥年間」とするわけですから、通常の考えでは「不比等」は全く候補として論外となるでしょう。
 但し「朱鳥」についてはすでに検討したように通常の理解と異なり「六四〇年前後」にその元年がある可能性が考えられますから、その場合の「未年」を考えると、「六三五年」あるいは「六四七年」が候補として浮かびます。それが「朱鳥十年」(九年は称制期間か)であるとすると、「元年」は「六二五年」あるいは「六三七年」となります。私見では既に「日本国」創建の年次として「六四〇年」を想定したこととの関連からみて、「六三七年」が「朱鳥元年」(改元の年)である可能性が高く、その時点で「称制」が開始されたとみるべきでしょう。
 そして「唐」で行われた「朔旦冬至」の儀式に「蝦夷」を伴って使者を派遣したのが「六四〇年」と考えられ、その翌年の正月の元日朝賀にその蝦夷も参加したというわけです。その際の「宴」で読まれた「漢詩」が『懐風藻』に収録されていると考えられるものです。

 地元の「羊大夫」伝承によれば「物部」滅亡の時点でそれに加勢していた勢力である「中臣」氏(「羽鳥連」とも「服部連」とも言う)が「関東」に「流罪」になったというように伝えられています。「羊大夫」はその子孫であると言うこととなっているのです。
 ところで『常陸国風土記』にあるように「高向大夫」とともに「中臣幡織田連」という人物が「アヅマ」の地を「統治」する事を任されています。
 彼らは「総領」とその「補佐」として「常陸」に所在していたものと考えられますが、「我姫(アヅマ)」の国をより細かく統治するためそれまでの「道―国」制を改め「広域行政区域」としての「国」を定め、従来の「クニ」を「県」として「国県制」を「アヅマ」に施行したものと推察されます。これらにより、「倭国」中央のつながりを確保すると共に、「自分たち」自身の「東国」全体に対する影響力の確保も合せて行ったものでしょう。
 「羊大夫」伝説の中心地は「北関東」であり、元々この地域は、ここに地盤があった「関東王権」の中心的な地域でしたが、「利歌彌多仏利」の「日本全国統一」という事業遂行の中で「行政」の網をかぶせられることとなったものと考えられますが、「倭国中央」の文化(宗教など)の強制などの施策を受け入れていく中で「地方政権」として矮小化されていったものと推量されます。
 このような中で「元々」「倭国政権」に近い立場であった地域である「常陸」から「総領」として存在する事となった「高向大夫」「中臣幡織田連」の支配を受けることとなったことが(後の)「羊大夫」伝説につながっていくこととなると思われます。
 ここで「羊」に付されている「大夫」という呼称は『常陸国風土記』の中でも「総領高向大夫」というように使用され、この時点の朝廷において「律令」が制定・施行された際に「五位以上」の官職に対する「称号」として使用され始めたものと思料され、「羊」もこの制度の中で「五位以上」の官職を得ていたという可能性もあります。
 「五位以上」となると「太宰府」「摂津職」などにおいては「次官」以上の地位に付くことが可能であり、「高向大夫」「中臣連大夫」として出てくるのは「惣領」という地位が、それら「摂津職」などの地位と実質変わらないことを示すもののようです。
 「羊」(「羊大夫」)という人物はこの「中臣幡織田連」の「子孫」ではないかと考えられ、「不比等」も同族だったのではないかと考えられるものです。
 このことに関して、伝承では「羽鳥連ないし服部連」の子供が「菊連」であり、その「子供」が「羊大夫」とされています。
 伝承では「物部守屋」滅亡の際に「羽鳥連ないし服部連」はその「一味」として「流罪」となって東国に来たとされています。また「羊大夫」が「多胡郡」を「給」されたのが「養老八年」とされこれは通常「七一一年」と考えられていますが、上に見たように「羊大夫」が「六三七年」という年次が彼の生年であるとみると、彼は「碑文」が書かれた時点で「七十歳」を過ぎたぐらいとなります。決して不可能な年齢ではないとは思われます。
 「父」である「菊連」は「羽鳥ないし服部連」が「東国」に流されてから現地で生まれたとされていますから、「物部」の滅亡が「五八七年」のことであり、それから東国に流された後彼が生まれたとすると、想定した「羊」の生年と思われる「六三七年」までは約「五十年」ほどあり、これが「菊連」の年齢としてそれほど不自然ではなさそうです。

 また、伝えられる史料の中には「流罪」となっていた「羽鳥とその子供の菊連」が「大赦」を受けて復権したように書かれているものもありますが(※2)、これは実際には「六四七年」と推定される「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の死去の際の「大赦」と考えられ、この時点で「罪一等」が減ぜられ、元の地位や権利などを「復権」していたとみられます。
 一般に当時の「流罪」というものの有効期間は「王権の代表権力者」の生存期間に限られるようであり、ここでも「流罪」という決定をしたと思われる「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の親子が生きている間であったらしいことが読み取れます。「物部」が滅亡する事件発生の際に権力の座にあった「両天子」の死去を以て「罪状」が消滅したと考えられたのではないでしょうか。

 この「石碑」の周辺にはいくつか古墳が見られますが、それらの古墳のうち「初期」のものと考えられる古墳からは(北山茶臼山古墳)「三角縁画文帯盤龍鏡・玉類・刀類」が出土し、それはあたかも「三種の神器」のような組み合わせです。また、「五~六世紀」のものと推定される古墳からは「舟形石棺」が見られます。いずれの出土物も「北部九州」に関係の深いものであり、それは以前から「倭国」との関係が深かった「常陸」の領域と、「北関東」領域の関係が新たに構築されたことを示していると考えられます。
 前の論と併せ、「中臣氏」と「関東」の間には深い関係があったように思えることを述べました。その意味で「藤原不比等」という人物も「関東」と関係があるのではないかと考えられるものです。
 可能性としては「不比等」は関東の出身であり、何らかの「手柄」を立て「中央」に進出していったと思われます。
 それが「和銅」産出だったのではないでしょうか。


(※1)関口昌春『羊大夫伝承と多胡碑の謎』文芸社
(※2)『七興山宗永禅寺略記』


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して一部内容を改めたもの)

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「藤原不比等」について

2018年12月29日 | 古代史

 『書紀』に書かれた「大化の改新」の陰の主役とも言えるのが「藤原鎌足」です。「藤原鎌足」は「天武天皇」から元の姓である「中臣」に代え「藤原」姓を授かったものであり、「鎌足」の子供たちのうち、その「藤原」性を受け継ぐことを唯一許可されたのが「不比等」の子孫たちであったと『続日本紀』に書かれています。(他の子供たちは「中臣」姓に戻されています)

「文武二年(六九八)八月丙午十九。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。」

 また、「不比等」は記録によれば、出生に「あるいきさつ」があり、両親のもとで育てることがはばかられたため、「田辺史大隈」のもとで育てられ、それにより、「一名」「史」(不比等)、と言うということになっています。「一名」とは「通称」のことであり「本名」ではありません。この時代「通称」はよく使用されていたようであり、たとえば「大伴馬養」の場合は「長徳」という「通称」(字(あざな)と言うべきか)が知られています。しかしこの「大伴馬養」の場合は「本名」(諱)も伝わっているものであり、「通称」だけが伝わっているというのは「希」ではないかと思われます。
 また『公卿補任』などによれば「不比等」の実母は「車持君」の「娘」の「与志古」とも伝えられています。

「大宝元年条 中納言 従三位 藤原朝臣不比等   三月十九日任。叙従三位。廿一日停中納言為大納言。改直廣一授正三位。/内大臣大織冠鎌足二男(一名史。母車持国子君之女與志古娘也。車持夫人)。」

「田辺氏」と「車持氏」とは『新撰姓氏録』をみるといずれも「祖」を「豊城入彦命」としており、関係があったことが知られます。

左京 皇別   車持公  上毛野朝臣同祖 八世孫射狭君之後也 雄略天皇御世。供進乗輿。仍賜姓車持公
右京 皇別   田辺史  豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也
(『新撰姓氏録』第一帙/皇別)

 つまり私たちが知っている「不比等」は単なる「通称」であり、「諱」つまり本当の名は終生わからないという状態になっているわけです。
 彼についてはこのように謎が非常に多く(本名もそうですが)、その前半生については全く不明であり、『書紀』に登場するのは三十歳を超えてからです。『藤原家伝』にも「不比等伝」は設けられていません。「鎌足」の伝とされる「大織冠伝」「定恵伝」「武智麻呂伝」等あるものの実質的な「藤原氏」の祖とされる「不比等」については「伝」が建てられていないのです。
 また、自分の娘(「宮子」)を「聖武天皇」に輿入れさせていますが、その地位は「夫人」(ぶにん)であり、他の氏族(紀朝臣および石川朝臣)の娘が「妃」であるのに対して身分が低いのです。
 「妃」になるための条件としては当時「皇女」か「内親王」でなければならなったものであり、「紀朝臣」および「石川朝臣」は皇室と縁組みをしているのですが、「不比等」の場合は一般人(県犬養美千代)と結婚しており、「大化の改新」の立役者であり、大織冠を贈呈された人物の子供でありながら、皇室との関係が薄いのです。その理由として大きいのは「天智」の「近江朝廷」が「壬申の乱」で滅びたため、「中臣氏」も不利な立場になったことがあるでしょう。

 当時「右大臣」であった「中臣金」は「近江方」としてただ一人「斬刑」とされていますし、その子供達は「流罪」となってしまいました。「鎌足」はそれ以前に(諸説あるものの)「死去」しています。その子供である「不比等」については全く記録に表れませんが、「流罪」となっていたという可能性もあります。それは彼が預けられていたとされる「田辺史」も「乱」に参加し敗北しており、彼のような「朝廷」の重臣ではなかった者についての措置は『書紀』に記されていないものの、中には「流罪」となったものもいたとして不思議ではなく、そのため、「不比等」にも「責」が及んだという可能性はあります。つまり「不比等」は「田辺史」とともにどこかに「流罪」となっていたという可能性が考えられるわけです。

 このような「流罪」については「天皇」等主権者の交替時「大赦」が行われ「復権」していたと言うことが想定されますが、「不比等」の場合も「天武」から「持統」に交代後の「持統三年」段階で初めて『書紀』に登場します。これなども「天武」の死去にともなう「大赦」との関係が考えられますが、実際には「天武」の時代にも「大赦」は行われておりそれと齟齬するようにも見えます。これについては「既に配流」となっている者には適用しないという一言が加えられている場合があり、そのために「復権」できなかったと言うことが考えられるでしょう。

「(六七六年)五年…
八月丙申朔…
辛亥。詔曰。四方爲大解除。…。
壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。『唯既配流不在赦例。』…」

 「天武」の時代の「大赦」は「壬申の乱」の敵側の関係者を想定して、彼らについては「大赦」の対象としないという方針ではなかったかと思われるのです。

 その「不比等」等の「配流」の地について考えた場合参考となるのが「不比等」や「鎌足」など「中臣」という氏族について「常陸」の「鹿島」が出身地である、という伝承があることです。
 茨城県の鹿島神宮に伝わる『八幡宮御縁起』には以下のような文章があります。

「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」

 また『常陸国風土記』によれば「香島郡東大海 南下総常陸堺安是湖 西流海 北那賀香島堺阿多可奈湖/,古老曰 難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世 己酉年 大乙上中臣/■子 大乙下中臣部兎子等 請総領高向大夫 割下総国…」とあり、「中臣氏」とその「部民」である「中臣部氏」が「常陸」の領域において現地の首長層として存在しているようです。

 また「謡曲」の「香椎」の中では以下のように描写されています。

「(前略)干珠といふは白き玉。満珠といふは青き玉。豊姫と右大臣に持たせ参らせて。三日と申すに龍宮を出で。皇后に参らせさせ給ひけり。かの豊姫と申すは。川上の明神の御事。あとへのいそらと申すは。筑前の国にては。志賀の島の明神。常陸の国にては鹿島の大明神。大和の国にては春日の大明神。一体分身同体異名現れて。御代を守り給へり。(後略)」

 これらを通じて言えることは、「筑前国鹿の島(志賀の島)の明神」について「筑紫」が「本社」であり、その分社が「常陸」と「大和」にあるとされており、これらのことは「筑紫」と「常陸」の関係、及び「阿曇磯良」と「中臣氏」との関係が深いことを物語っています。(「常陸」の領域は「土器」も「九州」のタイプが出ますし、「装飾古墳」もあり、深い関係があったと考えるべきでしょう)
 その「阿曇磯良」を祀っている神社の本社は「筑紫」の「阿曇磯良」神社です。この神(人物)は「阿曇族」の守り神であると同時に「宗像」など他の海人族の信仰も多く集めていたものです。「常陸」に「鹿島明神」として「阿曇磯良」が祀られている、という事は、『常陸国風土記』の記述が不自然ではなく、「常陸」に「中臣氏」の基盤があったことを強く推定させるものです。
 これらのことは「中臣氏族」の一人と考えられる「不比等」についても「関東」(常陸)の出身ではないかという疑い(可能性)を示唆するものですが、それはまた「不比等」が「関東」に流されていたのではないかという上記の可能性にもつながるものです。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して転載)

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『新唐書日本伝』と漢風諡号

2018年12月29日 | 古代史

 『新唐書』の「日本伝」には「天之御中主」以降の各代の天皇名が記入されており、「光孝天皇」まで書かれています。

(以下『新唐書 列傳第百四十五 東夷 日本』の上からの抜粋です)

「…自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曽孫女神功爲王 次應神 次仁德 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閑 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極
 其俗椎髻無冠帶 跣以行幅巾蔽後 貴者冒錦 婦人衣純色長腰襦結髪于後 至煬帝 賜其民錦綫冠飾以金玉 文布爲衣 左右佩銀長八寸 以多少明貴賤
 太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢 遣新州刺史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還 久之 更附新羅使者上書
 永徽初 其王孝德即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子總持立
 咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云
 長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物 朝臣眞人者猶唐尚書也 冠進德冠 頂有華四披 紫袍帛帶 眞人好學能屬文進止有容 武后宴之麟德殿授司膳卿還之
 文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜
 開元初 粟田復朝 請從諸儒授經 詔四門助敎趙玄默即鴻臚寺爲師 獻大幅布爲贄 悉賞物貿書以歸
 其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡 歴左補闕儀王友多所該識 久乃還
 聖武死 女孝明立 改元曰天平勝寶
 天寶十二載 朝衡復入朝 上元中 擢左散騎常侍 安南都護
 新羅梗海道 更明 越州朝貢
 孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立…」

 この『日本伝』は、一般には「九八四年」に東大寺の僧「奝然」(ちょうねん)が「宋」の皇帝(太宗)に献上した『王年代記』が原資料であると推定されているようです。しかしこの『王年代記』というものもその正体が不明のものですが、その内容を見ると『古事記』の資料に『書紀』を接続したような奇妙さがあります。(初代が「天御中主」というのは『古事記』と同じですし、『書紀』中の「一書」に近いともいわれます)
 その『親唐書日本伝』の各代の天皇の名称に、一部「不審」な点があります。

 そもそも現在と違い「活字」ではなく、当時は「毛筆」で書かれていたものと考えられますから、誤字脱字ないし読み違いなどはあり得ますが、(「敏達」が「海達」になっていたり、「推古」が「雄古」になっていたりする)以下の例はそれとは異なると考えられます。
 まず、「各代」の天皇の「漢風諡号」が書かれているのに対して、少数ではありますが「和風名称」(諡号ではない)で書かれているものがあるのが気になります。
 例えば「孝徳」の次が「天豊財」と書かれています。

「…未幾孝德死、其子『天豐財』立。死、子天智立。…」

ここは「斉明」とあるべきところですが「漢風諡号」ではなく「和風諡号」が書かれています。
 他にも「称徳」についての記載と思われるところに同様に「和風諡号」である「高野姫」とあります。

「…孝明死、大炊立。死、以聖武女『高野姫』為王。死、白壁立。…」

 また、『書紀』や『続日本紀』などと「明らかに」食い違う記述も見受けられます。(次代の天皇を常に「子」ないし「女」と表現していることは除いて)
 それは「文武」以降の各代の「帝紀」です。

「…文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。…」「…聖武死、女孝明立、改元曰天平勝寶。…」「…孝明死、大炊立。死、以聖武女高野姫為王。死、白壁立。…」

 これは「文武」-「元明」-「元正」-「聖武」-「孝謙」-「淳仁」-「称徳」-「光仁」という『続日本紀』の流れと明らかに整合していません。
 古い時代のことが合わないならまだしも、割と最近のことであって、なおかつ「九世紀」の「日本国王朝」から見るとある意味「画期」的であり、その前までの「王朝」とは「一線を画する」ものであったはずの「八世紀」の各天皇についての情報が混乱しているように見えるのは不審としかいいようがありません。
 上のうち「阿用」は「阿閇」とも「阿部」とも呼ばれた「元明」を指すものと思われますが、やはり「漢風諡号」ではありません。また、「元正」(氷高)は完全に脱落しています。「大炊」は「廃帝」とされた「淳仁天皇」であると思われますから、「漢風諡号」がないのはまだ理解できますが、「光仁」についても「白壁」という「王名」がそのまま使用されています。
 つまり七世紀では「天豐財」、八世紀では「阿用」とされる「阿部」(元明)、「高野姫」と「白壁」については「漢風諡号」がつけられていないこととなります。

 この「漢風諡号」は有力な説として「淡海三船」が「天平宝字八年(七六四年)に「一括」で撰進されたとされていますが、この『王代記』ではそこには全ての天皇に「漢風諡号」がついていたわけではないことが示唆されることとなります。
 つまり上に挙げた「四個所」(四人)の天皇については当初「漢風諡号」が何らかの理由でつけられていなかったのではないでしょうか。
 しかもこの中に「重祚」したとされる天皇が二人とも含まれており、しかもその二回目の即位の方が漢風諡号の対象となっていないように見えるのが注目されます。(しかも共に「女性」であるという共通点があるようです。)

 この天皇達の治世はいずれも「淡海御船」以前か同世代であり、他の天皇達と違い「一括」で「諡号」がされなかったことについての事情が同様であった可能性があると思われます。 「諡号」は中国では本来「生時」の行いを評定し、それに基づき『逸周書』『諡法解』などの「書」に根拠を設け、その定義によって選定されたものです。
 しかし、「倭国」では「天皇」の諡号については「生前」の業績に応じた命名をしていなかったというのが定説になっているようです。しかし、上に挙げた状況を見ると、「確かに即位した」と「淡海三船」が「認定」した天皇だけが「漢風諡号」を得ているようにも見えます。その意味からは、彼らは何らかの理由により「正式即位」と認められていなかったという可能性があると思われます。つまりその各々の「重祚」という事情や、その在位時点の「悪行」が何らかの影響を与えた結果「漢風諡号」が付与されなかったという可能性があるのではないかと思われるのです。
 たとえば、「皇極」は、「斉明」として重祚して以降は「狂」という文字が付くほど「土木」「建築工事」を多発し、そのために「民」が疲弊し、呪詛の声が巷に溢れたとされています。その死去にあたっても「筑紫」の『朝倉社』の神木を切って「宮殿」を作ったことから「神の怒り」があったように書かれています。

「(斉明)七年(六六一年)…
五月乙未朔癸卯。天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時。斮除朝倉社木而作此宮之故。神忿壌殿。亦見宮中鬼火。由是大舎人及諸近侍病死者衆。
丁巳(二十三日)。耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。伊吉連博徳書云。辛酉年正月廿五日。還到越州。四月一日。從越州上路東歸。七日。行到須岸山明。以八日鷄鳴之時。順西南風。放船大海。々中迷途。漂蕩辛苦。九日八夜。僅到耽羅之嶋。便即招慰嶋人王子阿波岐等九人同載客船。擬献帝朝。五月廿三日。奉進朝倉之朝。耽羅入朝始於此時。又爲智興傔人東漢草直足嶋所讒。使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神。震死足嶋。時人稱曰。大倭天報之近。

秋七月甲午朔丁巳。天皇崩于朝倉宮。」

 この流れをみると「神の怒り」により「大舎人」など近侍しているものに死者が多く出たように書かれているとともに「博徳」の記録にも「讒」するという悪行を行った「足り島」という人物が「大倭天報」により「震死」するという事変が起きており、その延長に「斉明」の死があるように思われ、「斉明」の死因に「神罰」が関係しているかのようです。

 また「孝謙」は「淳仁天皇」(淡路廃帝)を排除し、「称徳」として「重祚」して以降「権力」を専断することが多発し、「吉備真備」あるいは「道鏡」などの「近臣」を利用して「国政」を「私」したとされています。
 また「白壁」は一旦「平民」に落ちた人物ですし、「元明」は「持統」や「斉明」とほぼ同じ事情により即位したものであり、「皇太子」がいないか幼少の場合に「皇太后」が代理で国事を遂行するという本来の意義の「称制」を行ったのではないかと考えられ、そのような人物に対しては「漢風諡号」を与えていないのではないかと考えられます。
 特に「元明」と「白壁」は、いずれも「皇太子」ではない、つまり「正統」とはされていなかった人物であり、「漢風諡号」が付与されていないように見える事はそのような人物が「即位」したことに対する「異議」の表明でもあったのではないでしょうか。
 このようなことも含め、「生時」の「業績」等を「評定」した結果、「漢風諡号」をつけることがためらわれたか、あるいは「諡号」を付与するに足らないと判定されたか、いずれかの場合に「和風名称」や「王子名」、「王名」などによる表記となっているのではないかと考えられるものですが、この事から現在の『書紀』の成立が『続日本紀』に記されているような「七二〇年」ではなかったという可能性があるものとおもわれますが、同時に『続日本紀』についても同様に本来の『続日本紀』は現在私たちがみているものとは異なっていたという可能性があることとなるものです。


(この項の作成日 2012/11/25、最終更新 2015/05/04)(ただし旧ホームページ記事に加筆して転載)

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