不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『書紀』と『続紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(一)

2018年12月12日 | 古代史

 『持統紀』と『文武紀』に、それぞれ「新羅王」の死去を伝える使者の記事があります。 
 これについては以前会報へ投稿していますが未採用のまま今に至っています。これを以下に掲載することとします。

『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(一)

「趣旨」
 以下は『文武紀』と『持統紀』の「新羅王」死去記事に注目し、その内容が『三国史記』や『旧唐書』などと相違する点について考察し、それら「新羅王」記事に不審があることを述べるものです。

Ⅰ.はじめに
 古田史学の会の会報(註1)やホームページ(註2)などで「大化改新論争」というものが行われていることを知りました。これは服部静尚氏により提唱されたもので、「改新の詔」が出された時期について「七世紀中頃」とする「服部説」とそれに反論する西村・正木両氏を中心とする方々との間に繰り広げられているものです。「多元史観論者」の間では「九州年号」の「大化」年間に出されたものとする説が多数であり、また「近畿王権一元論者」においても「改新の詔」についてはずっと後代のものとする議論が多数というのが現状です。服部氏は敢然とこれらに異を唱えているわけです。
 これについては正木氏の論(註3)に象徴的なように「五十年移動」して盗用しているとしてその「真」が「七世紀末」であり「偽」の方が「七世紀中頃」とする考え方があり、年次移動の方向としては「七世紀末」から「七世紀半ば」へと遡上する形で行われたものであって、それは「新日本王権」による過去に遡って大義名分を保有していたとする主張の表れというのが「多元史観論者」の共通項であるようです。当然服部氏の考え方はこれと正反対であるとならざるを得ません。この双方の論のいずれが正しいのか容易に決定できるものではありませんが、以下に述べるように、「新羅王」死去に関する『書紀』『続日本紀』の記事を解析すると、「七世紀半ば」付近の記事を「七世紀末」あるいは「八世紀初頭」へと移動している可能性があり、これは服部氏の考えを補強するものではないかと思料します。

Ⅱ.「新羅王」の死去記事の存在
『持統紀』と『文武紀』に、それぞれ「新羅王」の死去を伝える使者の記事があります。
(一)「(持統)七年(六九三年)…二月庚申朔壬戌(三日)。新羅遣沙飡金江南。韓奈麻金陽元等來赴王喪。」
「同年三月庚寅朔。…乙巳。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。勤大貳大伴宿禰子君等。及學問僧弁通。神叡等絁綿布。各有差。又賜新羅王賻物。」
(二)「大寳三年(七〇三年)」「春正月癸亥朔…辛未。新羅國遣薩韓金福護。級韓金孝元等。來赴國王喪也。…」
「同年閏四月辛酉朔。大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩飡金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。」
 これらの記事については一般に(一)が「神文王」、(二)が「孝昭王」の死去を知らせる記事と理解されています。
 (一)では死去した年次は不明ですが、おそらくその前年の「六九二年」であろうと理解されており、この年次に死去した「新羅王」としては「神文王」しかおりませんし、(二)では「七〇二年」の死去と考えられますから、これもまた「孝昭王」以外いないと(「安易」といって悪ければ「素直」に)考えられてきていたようです。しかし、簡単にそう断定していいのかというといささかの不審があるように思えます。

Ⅲ.『持統紀』の「新羅王」死去記事の不審について
 上の(一)の『持統紀』記事の場合、誰もこの「新羅王」を「神文王」として疑いませんが、彼は『三国史記』によれば「六九二年七月」に死去したと書かれています。
「(神文王)十二年(六九二年)…秋七月王薨諡曰神文。葬狼山東。」(『三国史記』)
 この死去時点から数ヶ月して「喪使」が倭国に訪れたというわけです。しかし、この『持統紀』の「喪使」の直前には「別」の「新羅」からの使者が「来倭」している記事があります。
「(持統)六年(六九二年)…十一月辛卯朔戊戌。新羅遣級飡朴億徳。金深薩等進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。務大貳川内忌寸連等祿。各有差。」(『持統紀』)
 彼等は「十一月」に来倭したわけですが、これは「十一月中卯」に行われる予定の「新嘗祭」に「調」を捧げるためのものであり(ただし『書紀』にはこの年の「新嘗祭」の記述はありませんが)、この日めがけて行程を組んでいたと思われます。(到着はその五日前です)そうであれば、この時の出発が「七月」以前、つまり「神文王」の死去以前であったとは考えにくいものです。『魏志倭人伝』の行程記事を考えても「新羅」(この場合「都」である「慶州」からと想定します。)と「倭」の間の通交にはそれほど時間がかからないと思われるからです。
 『倭人伝』では「狗邪韓国」(これは釜山付近かと推定されます)から「対馬」「一大国」「末盧国」を経て「邪馬壱国」まで「水行十日陸行一月」とされています。「七世紀」段階の「都」がどこかで議論があるとは思われますが、たとえばそれが「明日香」であったとした場合、『魏志倭人伝』の「邪馬壱国」までの行程に瀬戸内を水行する行程及び「難波」から「明日香」までの陸行の日数を加えることとなりますが、「斉明」亡き後「天智」が「遺骸」を伴って「帰還」した行程を見ると「十七日間」しか要していません。
「冬十月癸亥朔己巳。天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所哀慕天皇。…。
乙酉。天皇之喪還泊于難波。」(『天智紀』)
 「癸亥朔己巳」つまり「七日」に出発し「乙酉」つまり「二十三日」に帰還していると見られ、これに「明日香」までの陸路の行程を「水行十日陸行一月」に加えても全体としてせいぜい二ヶ月程度しか日数として必要としなかった可能性が高いと思われます。これに休憩や食料補給などの日数をさらに一ヵ月程度加えても三ヶ月程度が最大ではなかったかと思われ、「十一月」に到着した「新羅使」の出発が「七月」より以前であったとは考えにくいこととなるでしょう。
 しかも、彼らは「新羅王」の死を伝えるために来た訳ではありません。記事では「進調」と書かれていますから、上に見たように「新嘗祭」に対する貢物の進上であり、あくまでも「通常」の儀礼的交渉を行なったと判断できます。
 当時は、「中国」でも他の国においても「国王」が死去した場合、「喪」に服す期間が設定され、その長さは少なくとも数ヶ月程度はあったと見るべきでしょうから、その間「諸儀礼」(特に外交に関すること)は停止されると考えられ、少なくともそのような時期に「倭国」に「進調」など「通常儀礼」のために使者が派遣されるというようなことがあったとは考えられないこととなります。
 例えば「新羅」の例では「七世紀前半」に死去した「真平王」の場合を見ると、正月に死去した後「唐」に「喪使」を派遣したらしいのを別とすると、「唐」へ「朝貢」としての使者を派遣したのが「十二月」と書かれています。
「(真平王)五十四年春正月 王薨諡曰眞平葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百…」(『三国史記』)
「(善徳王)善德王立…元年二月 以大臣乙祭摠持國政…十二月 遣使入唐朝貢」(同上)
 このように「新羅」においては「朝貢」などの通常の儀礼を停止している期間は数ヶ月以上一年未満程度と考えられ、相当程度長い「服喪期間」が設定されていると見られます。
 そう考えると『三国史記』に言うように『神文王』が「七月」に亡くなったとすると、この「十一月」の「調使」の存在は不審であり、それに引き続き(翌々月)「来倭」した「喪使」という組み合わせは互いに相容れないものとなるでしょう。
 
Ⅳ.『文武紀』の「新羅王」死去記事の不審の場合
 また、(二)の『文武紀』記事の場合、「新羅使」が持参した「表」では「新羅王」について「去年」の秋から具合が悪かったが、「今年」の春になって死去した、という意味の事が記されていたとされます。これについて「日本古典文学大系『日本書紀』」(岩波書店)の「注」では『この表は、正月に来着した使者が持参したものであるから、「去秋」は七〇一年、「今春」は七〇二年をいうが、七〇二年七月に没したとする三国史記新羅本紀の記述と異なる』とされ、疑義を呈しています。
 つまり「孝昭王」の死去した年次及び季節として以下のように『三国史記』に書かれたものと、「新羅使」が持参した「表」に書かれた内容が異なっているというわけです。
「(孝昭王)十一年 秋七月 王薨 諡曰孝昭 葬于望德寺東 舊唐書云 長安二年理洪卒 諸古記云 壬寅七月二十七日卒 而通鑑云 大足三年卒 則通鑑誤」(『三国史記』)
 このように『三国史記』では死去したのが「秋」(七月)とされており、「春」ではありません。これは「矛盾」であり、一種「謎」のわけですが、これはそのまま「謎」として未解明となっているようです。

 次稿ではこれら「新羅王」記事について、さらに考察します。


1.服部静尚「大化改新論争」(『古田史学会報』一二九号二〇一五年)
2.「古賀達也の洛中洛外日記」第一〇三三話 二〇一五年八月二十二日など
3.正木裕「「藤原宮」と大化の改新についてⅢ なぜ「大化」は五〇年ずらされたのか」(『古田史学会報』八十九号 二〇〇八年)他

 

コメント

「天武紀」から「文武紀」に至る記事群の年次移動の可能性について

2018年12月12日 | 古代史

 以上のように「六七五年」が初出とされる記事群およびまたこの翌年(六七六年)の「放生」記事および「六七九年」の「献杖(八十枚)」記事について検討しましたが、いずれもその内容から見て、その時点の導入とすると不審とみられるものです。
 これらの記事がこの『天武紀』に始めて現れるということ自体が、既に不審であると言えるでしょう。なぜならこれらは全て「隋・唐」に起源があるものであり、その「隋」や「唐」との関係は相当以前からあったものだからです。にも関わらず、これらの諸行事・制度等を、この「七世紀後半」という時点で取り入れることとなる「契機」あるいは「必然性」というものが全く見いだすことができません。
 たとえば「天武」の時代に「唐」との関係が強化されたとか、「遣唐使」が送られたいうこともありません。「遣新羅使」はあるものの「遣唐使」は全く見られないのです。つまり非常に長い間「唐」とは「没交渉」となっていたことが窺えますが、にも関わらず「六七五年」という年次に集中的に「唐制」が導入されるという理由が全く判然としません。
 そのことは「天武」という人物や彼の王権の「強さ」というものと重ねて考えることの困難さを示しています。

 いわゆる「日本的中華思想」というものが彼の時代に始まるというような考えは、その「中華思想」というものが「唐」からの輸入品であると見られますから、彼と「唐」との関係の薄さによっていともたやすく否定されるうるものなのです。
 つまり上に見るような各種の「唐制」の導入がここに書かれているような「六七五年」という年次のことなのかどうかが問われているといえるでしょう。
 このように「天武紀」の一部には年次移動の可能性が考えられるわけですが、「新羅王」の死去に関する「文武紀」と「持統紀」の記事にもそれは言えそうです。 

コメント

「放生」記事について

2018年12月12日 | 古代史

 『書紀』の「六七六年」の年次のこととして「放生」が出てきます。

「(天武)五年(六七六年)八月丙申朔…壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。唯既配流不在赦例。是日。詔諸國以放生。」

 このその記事の直後が「金光明経」の講説記事であることはこの二つに関係が深いことを推察させます。さらにその後「猟」をする際の「わな」などについて禁止令が出されると共に「禁漁期間」を設定するなど「資源保護」的なルールが定められます。さらに「指定された動物」について「食するべからず」という禁止令までが出されます。

「庚寅。詔諸國曰。自今以後制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。

 これらのことは「資源保護」もさることながら、仏教の本質である「不殺生」に基づいているといえるものです。
 「放生」という行動や思想は仏教の神髄ともいうべきものであり、そう考えると、この「放生」を行った人物は仏教に深く帰依していたと考えられますが、他方同じ人物が同時に「生贄」を伴った儀式を行ったとされます。

「(天武)五年(六七六年)八月丙申朔…辛亥。詔曰。四方爲大解除。用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。以外郡司各刀一口。鹿皮一張。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稻一束。且毎戸麻一條。」

 ここでは「用物則國別國造輸秡柱。馬一匹。布一常。」とされており、ここではただ「祓柱」としてありますが、この後の「天武十年記事」では「祓柱一口」とされていますから、ここでも「人()」及び「馬」が「生贄」として捧げられたことを示します。
(この祓柱としての「」と「馬」については生贄ではなく「神社」などに奉仕する「神奴」と「神馬」とされたという解釈もあるようですが、それであれば「解除」つまり「汚れ」を祓う儀式そのものが成立しないという可能性もあるでしょう。このような場合必ず「犠牲」が求められるものであり、それが「生身」でなくなって以降「人形」あるいは「銀人」などの「人」のイミテーションが発生したものであり、馬についても「土製馬」などの「生身」ではない「形代」が発生したものと思われますから、ここで「生身」の人と馬を要求している背景として彼等が実際に「神に捧げられる」ような儀式があったことを示すものであり、その意味でかなり前時代的であり、非仏教的であると思われます。それを示すように「土製馬」そのものの発生は(地域差はあるものの)六世紀代に遡るものとされており、この「天武」の時代には全国的に普遍的にも見られるものとなっていました。そうであれば「生身」の「祓柱」を要求しているこの記事はかなり遡上するという可能性が考えられるでしょう。)
 このように同じ「年次」と「月」に書かれた人物は本来同一人物であるはずですが、明らかに「放生」を行う人物像と「生贄」を伴う儀式とは両立しないと考えられます。その意味では「放生記事」の方が後出して当然といえ、「不殺生」を体現する「放生」を行なった人物は「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」こそふさわしい人物といえるでしょう。

 その「放生」という考え方は以下のような「薬師信仰」と共に「倭国」に浸透したと考えられます。

「藥師琉璃光如來本願功徳經 (玄奘譯 )」
「爾時阿難問救脱菩薩曰。善男子。應云何恭敬供養彼世尊藥師琉璃光如來。續命幡燈復云何造。救脱菩薩言。大徳。若有病人欲脱病苦。當爲其人。七日七夜受持八分齋戒。應以飮食及餘資具。隨力所?供養?芻僧。晝夜六時禮拜供養彼世尊藥師琉璃光如來。讀誦此經四十九遍。然四十九燈。造彼如來形像七躯。一一像前各置七燈。一一燈量大如車輪。乃至四十九日光明不絶。造五色綵幡長四十九?手。應放雜類衆生至四十九。可得過度危厄之難。不爲諸横惡鬼所持」

「佛説灌頂七萬二千神王護比丘呪經 (帛戸梨蜜多羅譯 )」
「爾時衆中有一菩薩名曰救脱。從座而起整衣服。叉手合掌而白佛言。我等今日聞佛世尊。演説過東方十恒河沙世界。有佛號瑠璃光。一切衆會靡不歡喜。救脱菩薩又白佛言。若族姓男女其有?羸。著床痛惱無救護者。我今當勸請衆僧。七日七夜齋戒一心。受持八禁六時行道。四十九遍讀是經典。勸然七層之燈。亦勸懸五色續命神幡。阿難問救脱菩薩言。續命幡燈法則云何。救脱菩薩語阿難言。神幡五色四十九尺。燈亦復爾。七層之燈一層七燈。燈如車輪。若遭厄難閉在牢獄枷鎖著身。亦應造立五色神幡然四十九燈。應放雜類衆生至四十九。可得過度危厄之難。不爲諸横惡鬼所持」

「同上」
「救脱菩薩語阿難言。閻羅王者主領世間名籍之記。若人爲惡作諸非法。無孝順心造作五逆。破滅三寶無君臣法。又有衆生不持五戒不信正法。設有受者多所毀犯。於是地下鬼神及伺候者奏上五官。五官料簡除死定生。或注録精神未判是非。若已定者奏上閻羅。閻羅監察隨罪輕重*考而治之世間痿黄之病困篤不死一絶一生由其罪福未得料簡。録其精神在彼王所。或七日二三七日乃至七七日名*籍定者。放其精神還其身中。如從夢中見其善惡。其人若明了者信驗罪福。是故我今勸諸四輩。造續命神旛然四十九燈放諸生命。以此旛燈放生功徳。拔彼精神令得度苦。今世後世不遭厄難。」
 
 これら「薬師関連」の信仰と共に「放生」という「不殺生」の極致というべきものも受容されたと考えられ、それは「施薬院」を造り「医療」に心を注いだという「聖徳太子」伝承につながるものであり、また「阿毎多利思北孤」に重なるものであるといえるでしょう。しかし、『書紀』では『天武紀』(「天武五年」(六七六年))になって始めて「放生」が記事として現れるのですから、これも大きな「矛盾」といえるものであり、これは本来年次として相当程度遡るべき記事であることが強く推測できるものです。


(この項の作成日 2013/02/14、最終更新 2015/05/09)(旧ホームページ記事を転載)

コメント

「献杖」記事について

2018年12月12日 | 古代史

 一連の「天武紀」記事の中に「献杖」という儀式に関する記事があります。

「(六八九年)三年春正月甲寅朔乙卯条」「大學寮『獻杖』八十枚。」

 この「献杖」という儀式は、元来「中国」の歴代王朝において「宮廷行事」とされていた「桃」の木から作った「杖」により「悪鬼を祓う」儀式を「正月卯の日」に行なっていたことのいわば模倣であり、輸入であると思われます。
 ただし『延喜式』に拠ればこれは「曽波木」(海石榴)の木で作ったものとされます。

(「大舎人寮」の項)
「凡正月上夘日供進御杖。其日質明。頭将舎人候承明門外。舎人叫門曰。御杖進牟止大舎人寮官姓名門候止申。訖掃部寮設案於中庭。頭以下舎人以上各執杖分為両行。入至案下立。/去案/三尺。
頭進奏曰。大舎人寮申。正月能上夘日能御杖仕奉弖進□良□久乎申給波久登申。勅曰置之。属以上共称唯。随次相転置案上。畢即退出。其杖『曽波木』二束。比比良木。棗。毛保許。桃。梅各六束。/已上二株為束。
焼椿十六束。皮椿四束。黒木八束。/已上四株為束。
中宮比比良木。棗。毛保許。桃。梅各二束。焼椿。皮椿各五束。/但奉儀見/両宮式。
拭細布四丈五尺。裹紙五百〓張。木綿六斤。木賊十五両。十二月五日申省。」

 ここでは「曽波木」とされ、その直後に出てくる「椿」とは区別されているようです。さらに「桃」も別にありますから、この「曽波木」というのは「石榴」を指すものと見ることができるでしょう。つまり「石榴」が「桃」の代用をしているとみられるわけです。
 さらに『延喜式』の別の部分には以下のようにあります。

(「兵衛府」の項)
「凡正月上卯。督以下兵衛已上。各執御杖一束。次第参入。立定佐一人進奏。其詞曰左右兵衛府申久。正月能上卯日能御杖仕奉弖進良久登申給波久登申。勅曰置之。医師已上共称唯。献畢以次退。其御杖榠(和名カラナシ此樹宜作杖見在東大寺云々)■三束。/一株為束。
木瓜三束。比比良木三束。牟保己三束。黒木三束。桃木三束。梅木二束。/已上二秣為束。
椿木六束。/四株為束。
中宮。東宮宮別榠一束。/二株為束。
木瓜二束。比比良木二束。牟保己一束。黒木二束。桃木三束。梅木二束。椿木二束。並各長五尺三寸。」

 ここでは「榠(和名カラナシ)」が挙げられており、やはり「椿」とは別物とされていたようです。ただしこの「榠」については「木瓜」と同じという説もありますが、上記中には別に「木瓜」があるため、それとは別と思われます。ただし、いずれも霊力があるとされる「桃」ではなかったものであり、ここでもやはり「石榴」が代用されたのではないでしょうか。それは「石榴」にも「桃」同様の「霊力」を認めたからに他なりません。

 そもそも「桃」に「悪鬼」を祓う力があるという考えは「イザナギ・イザナミ神話」に出てくるものが広く知られています。「イザナギ」は亡くなった「イザナミ」に逢うために「黄泉の世界」に行き、そこで「タブー」を破って「イザナミ」のありのままの姿を見たために、悪鬼となった「イザナミ」に追われることとなります。その際「桃」を投げつけて難を逃れたと言う事が書かれています。この段階では「桃」が主役ですが、「景行紀」になると「土蜘蛛」と戦うために「海石榴」で「椎」を作ったという記事が出てきます。

「(景行)十二年。…
冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。碩田。此云於保岐陀。到速見邑。有女人。曰速津媛。爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入縣禰疑野有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰國摩侶。是五人並其爲人強力。亦衆類多之。皆曰。不從皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇惡之不得進行。即留于來田見邑。權興宮室而居之。仍與群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢將隱山野必爲後愁。則採『海石榴』樹。作椎爲兵。因簡猛卒。授兵椎以穿山排草襲石室土蜘蛛。而破于稻葉川上。悉殺其黨。血流至踝。故時人其作海石榴椎之處曰海石榴市。亦血流之處曰血田也。」

 ここに出てくる「海石榴」という表記は「椿」をあらわすものと考えられています。但し「椿」という漢字は『書紀』には現れません。『風土記』の中でも『常陸国風土記』に現れるのが最も早いものです。(通常「椿」という漢字は国字であり、後に作られたと思われていますが、最も考えられるのは「天武朝」の以下の記事でしょう。)

「(天武)十一年(六八二年)…三月甲午朔。…丙午。命境部連石積等更肇俾造新字一部卅四卷。」

 この時点で漢字習得の発展として自らの発案で漢字を「創作」したというわけですが、実際には同じ漢字はすでにかなり存在していたもので、それについて知識が不完全であったことを示します。この中に「椿」という字があった可能性は強く(それは『常陸国風土記』の中にあることからも言えますが)その時点以降「椿」という漢字がある特定の樹木の名称として使用され始めたことを意味すると思われます。

 この「椿」はもともと中国にもあるもので、それを当時の「倭国」では知っていなかったということとなりますが、古典である「荘子」に「八千歳の仙木」として出てきます。
 「倭国」において「ツバキ」という木に「椿」という漢字を当てたのはその「常緑」であることなどからと思われますが、そのような知識によって「椿」という漢字を使用し始めたとすると、日本人というより渡来系の人達によるものかも知れません。
 しかし、後になると上の記事のように「石榴」或いは「海石榴」という漢字が当てられ始めます。この「石榴」「海石榴」はいわゆる「ザクロ」であり、「ツバキ」とは本来異なりますが、見た目などが非常によく似ており、そのことからそれまでの「椿」から「石榴」「海石榴」という表現に変わったと見られますが、そのような変化もまた、新来の渡来人ないしは彼等の影響を受けた日本列島の人間が主役であったと思われます。そして、それはその当時の中国の最新の知識であったものでしょう。
 つまり、『書紀』などでは「椿」表記はなく「石榴」表記があるわけですから、一見「椿」に先行して「(海)石榴」という漢字があったかのように思われるわけですが、『書紀』の編纂時期や『隋書』を踏まえた「元明の詔」との関連を考えると、元々「椿」という字の存在が先行すると考えられ、それが当時「ツバキ」に充てられていたと考えざるを得ません。それは「海石榴」という言葉(文字)が「西域」から「唐」に伝わった後出的なものであると考えられていることと関係しています。

 「唐」の時代には、その「西方」や「南方」(主に中近東諸国か)では「石榴」(ザクロ)は「ブドウ」などと並び「生命力」の象徴とも考えられていたものです。そのような知識が「唐」にもたらされたことと、日本で「ツバキ」を「石榴」と表記するようになることが強く関連していると考えられます。
 「唐」との交流から得た新来の知識によって「言い換え」「書き換え」が行なわれたものと考えられ、その表記の裏に「遣唐使」や「渡来人」などの存在の影響が強く感じられます。もちろん、その根底には「桃」や「海石榴」と同様の「破邪」の力が「ツバキ」という木にあるという理解があったものと思料されるものです。
 ただし、この「献杖」の儀式については、「唐」以前の歴代中国王朝でも古くから行われていたという儀式ですから、「桃」を「石榴」「海石榴」の木を使用することと後に用語として変えられていたとしても、儀式そのものの導入時期として「唐代」以降であるとはいえないこととなります。
 逆に言うと「唐」においてもこの儀式ではあくまでも「桃」の木を使用していたわけですから、この儀式そのものに「西域的」要素が混入していたというわけではないと考えられ、「倭国」においては「桃」の代わりに「ツバキ」を使用して行なわれていたものが、その後その表記が改められたと言うこととなると思われます。そう考えれば、この「献杖」という儀式の導入もそれほど新しくはない(少なくとも後代の偽入ではない)と考えられますが、そのような「唐」の儀式の導入などが図られるというようなことは「唐」との関係が安定していた時期にこそふさわしいと考えられ、それを考慮すると既に検討した諸儀礼と同様「初唐」の時期が相当すると考えられます。それは「此の後遂に断つ」とされる「高表仁」来倭以前であるという可能性が高いと思料されますが、(この年次については「六四一年」が推定されますが)他方「六四八年」に「新羅」を通じて国交を回復した時点付近にそのタイミングを見ることもできるかも知れません。
 この時点で「高表仁」に関するトラブルに対する謝罪の表明と同時に唐の制度の導入を行なったという可能性も考えられ、「暦」などの導入と共に「儀礼」に関することも取り入れられるようになったという可能性も考えられます。


(この項の作成日 2013/02/14、最終更新 2016/05/13)(旧ホームページ記事から転載)

コメント

「貸税」について

2018年12月12日 | 古代史

 既に述べた「薪新」と同様同じ文脈として「貸税」制度について書かれています。これは「貸稲」と同じと考えられ、辞書などでも「律令以前の制度であり、稲を貸与え利息を取る行為。」という説明がつけられています。
 『天武紀』には以下のようにそれまでの「貸税」の融資基準を見直すよう指示が出されています。

「天武四年(六七五年)夏四月甲戌朔壬午条」「詔曰。諸國貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以下應與貸。」

 この条の文章からは以前から行っていた「貸税」について、今後は貸す相手の貧富の状況を考慮に入れるようにとされ、その程度を三段階」に分けて、そのうち「中程度」の層以下に貸し付けるようにという趣旨と考えられます。(ちなみに後の「律令制」では「四段階」に分けています。)
 この「貸税」や「貸稲」制は、既に見たようにその起源は、「百済」で発見された木簡の状況から、「七世紀初め」にあると考えられ、この『天武紀』ではなかったことは確かです。
 また「改新の詔」に続く、「皇太子への下問の詔」では、「吉備皇祖母命」の「貸稲」は止めるとされていますが、「貸稲」(貸税)一般を禁止したものではなかったようで、「文面」からも「吉備皇祖母命」に限定されその「資金」を「解放する」という趣旨と思われると同時に、「公出挙」のように国家が「貸稲」(貸税)を行う前提として有力な「私出挙」である「吉備島祖母」の出挙を禁止し、国家がそれを接収したという性格があったものと推量します。
 この時点以降「貸税」(公出挙)は広く行われるようになったものとみられ、それは各諸国の重要な財源となっていたものと思料します。
 ただし、「百済」の例でも借り入れた「稲」の利子を一部しか払えないものや「全く」払えないものなどがいたもののようであり、「焦げ付き」が多数発生していたと見られます。このため、「公出挙」の財政の悪化を食い止めるため利息収入を上げる必要から、それ相応の収入があるものに対象を狭めた模様であり、それを示すのがこの「貸税」に関する「詔」であろうと考えられます。そこでは「中戸」以下とされていますが、それ以前は貸し付けの対象として「下戸」がほとんどであったのではないでしょうか。

 そもそも基礎的収入が絶対的に不足しているものに貸し付けても、返せないのは道理であり、しかも「利息」は「私的」なものでは最大十割がとされていましたから(「公出挙」に比べると少なかったと思われるものの)、倍にして返すことになります。
 「諸国」の「貸税」の場合は「五割」であったとみられますから、それでも1.5倍にして返さなくてはなりません。現在の「苗代」から稲作する場合、植える「稲株」の数倍の「稔り」がありますから、作柄さえよければそれも簡単なことかも知れませんが、反あたり収量が少なく、気温や日照りにも弱かったであろう古代を想定すると、「五割」でさえも返済は困難であったのではないかと推察されるものです。そう考えると、利息さえ返せなくなる者が頻発しても不思議ではありません。それは「百済」の木簡からも推定されることです。
 このような状況は「貸税」(貸稲)制度が始まって「すぐに」明らかになったことと思われ、それが数十年後の制度改定となるとは思われません。
 やはりこの「詔」は「貸税」の制度が「国内」に始められてそれほど日が経っていない時期のことと推察され、「七世紀初め」という「百済木簡」と同様の時期を想定すべきではないかと推察されるものです。
 
 ただしすでに述べたように(※)民間の「慣習」としては「貸稲」は弥生時代からずっと行われてきていたと思われ、『倭人伝』に引用された『魏略』にいう「春耕秋収を計して年紀と為す」とは「貸稲」という慣習があったことが前提とされるべきものであることを考察しました。これはその後も継承され「村落」という基礎的な共同体においては「公出挙」とは別個に住民同士の「互助システム」として在り続けていたと思われます。それが「班田制」という制度の制定と共に「公出挙」も行われるようになったものと思われるわけです。

(※)拙論『「春耕秋收」と「貸食」 「一年」の期間の意味について』(「古田史学会報」一二五号二〇一四年十二月十日)あるいは https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fd3e8666160e96e331cdf72acad5a49chttps://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/08de5a066c092706751c0639de3b5880 等のブログ記事

 
(この項の作成日 2013/05/30、最終更新 2015/07/02)(旧ホームページ記事を転載)

コメント