「隋」との外交をみると二つの重要な事象があり、そのことが倭国の統治や政治運営に強く影響したことが窺えます。一つは「天子」自称であり、そのことに対する「宣諭使」として「裴世清」が派遣された一件です。
このような「天子」を自称する様な存在は「隋」の版図内であれば征討の対象となるものであり、軍事力を展開するに相当する行動ですが、倭国は「隋」の版図というわけではなく、その様な行動には直接は結び付かないものの、「隋」から見て「好ましからざる存在」として映ったことは間違いなく、そのため「宣諭」という準軍事的内容の行動となったものと思われます。
「宣諭」はその使用例から見てもほぼ「軍事的緊張状態」にある地域にそれを緩和させたり、終結させるために派遣されるものであったと見られます。このことはこの時の「隋」にとって「倭国」との間は正常な国交状態とは言いがたいものであったことを示しており、かなりの緊張状態となっていたことを示すものです。
さらにそれに引き続き「琉球侵攻事件」がありました。「宣諭事件」については「隋皇帝(高祖)」は「謝罪」を要求したと思われ、倭国としてはそれを受け入れるしかなく、改めて「国書」を提出して、その中に「謝罪の言葉」を盛り込む必要があったと見られますが、そのための使者が「隋」を訪れていた時点で「琉球侵攻」事件があったものではないでしょうか。
「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國。言不相 通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」…」
「隋高祖」の謁見の前に「琉球」からの戦利品を見た時点で、使者は「夷邪久國」(屋久)が侵攻されたと誤解し、この一件が謝罪程度では済まないかもしれないと考え、直接的侵攻の可能性があることを急ぎ帰って報告する必要があると考えたものでしょう。
また、このことは「倭国」の使者には「屋久」の文物に知見があったこととなりますから、その意味でも「屋久」が「倭国」にとってはるか遠方の地域という認識ではなかったことがうかがえます。
その後帰国した使者から「隋」が「屋久」へ侵攻したという情報(これは誤解であったものですが)を聞いた倭国王は、防衛体制の構築の必要性を感じたものであり、その結果「南方」からの侵攻を想定し、「肥」から「筑紫」に「遷都」したものと考えます。
「隋」からは「鴻臚寺掌客」と「文林郎」として二回「裴世清」が倭国を訪問していることとなるわけですが、この間に「遷都」つまり都が移動しているとすると当然案内されたルートが異なることとなるでしょうし、そのような重要な情報が記録されなかったとか報告されなかったというようなことは考えられません。このことから「開皇二十年」段階でも「遷都」はしておらず依然として「肥」にその都があったであろうと考えられることとなります。
このように遷都したわけですが、そのうえでに「旧都」である「肥」には「鞠智城」を設け、南方からの防衛の拠点としたものであり、この段階で「前線防衛」基地として「鞠智城」、正都「筑紫」の防衛として「基肄城」「大野城」を構築すると共に、それら「山城」を結ぶ「官道」を「筑紫」から「九州島」の内部各地に通じさせ軍事力展開を容易にする施策の実行となったものと推量します。
「鞠智城」と「大野城」「基肄城」は『書紀』で以下に見るように同年次に「繕治」の記録があります。
「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」(文武二年(六九八)五月甲申廿五条)
しかし、関係する記事はこれだけであり、その「築城」の時期などは不明となっていますが、ここに「大野城」「基肄城」と並べられていることから、これらの「二城」の同じ時期の築城ではなかったかという可能性も指摘されています。
さらにその後「難波」に「鞠智城」と同様「山城」の延長線上にある型式の「城」の機能を兼ね備えた「平面山城」というべき「副都」を造り倭国防衛の体制を整えようとしたものと考えられます。この契機となったものは「高表仁」との「争礼事案」であったものではないでしょうか。
「唐皇帝」の全権大使として来倭した「高表仁」に対し「臣下」としての「礼」をとろうとしなかった「倭国王」あるいは「倭国王子」に対し「高表仁」が激怒して「国書」を手渡さずに帰国した一件です。このときも「倭国」は「唐」の支配下にあったわけではありませんでしたから「謀反」とは捉えられなかったものの、非常に心証が悪くなったことは確かであり、「倭国王権」としては「隋代」同様「侵攻」の危険性を考慮せざるを得なくなったものと思われ、東方に大きく移動した「難波」に副都と称して実質的な遷都を行ったものであり、そのために「東国」に対する統治強化策として「国境」の確定などを行ったものと思われます。
この「難波京」が「大阪湾」など遠くを見渡せる台地上に造られた最大の意図は「敵」の早期発見であり、早期対応であったと思われます。その意味で「西方」への警戒が主たるものであったと思われるわけですが、その関連で推測すると、当然「山陽道」という軍事道路も完成していたものであり、「筑紫」への侵攻があった場合すぐに「難波」など各地から「筑紫」へ軍事力を展開ができるように整備されたものと思料します。そうであれば途上に位置する「周防」「吉備」「讃岐」に「総領」が配置されている理由も明確となるでしょう。「総領」はその原型となった「隋」の「総管」が軍事的組織の中に位置づけられるものであり、「軍管区」を統率する職掌でした。彼ら「総領」も同様の意図の元設置されたと見るべきでしょう。