古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「放生」記事についての訂正と追考

2018年12月19日 | 古代史

 先日『書紀』の年次移動というテーマで書いた中に「放生」に関するものがありました。この中で「倭国」で「薬師信仰」が行われていた関連の経典として「玄奘」譯の「藥師琉璃光如來本願功徳」を挙げましたが、この例について「服部氏」より「不適当」という指摘があり、検討した結果、指摘の通りであり、ここにこの部分を削除することとします。
 そもそも「七世紀初め」にそのような仏教的考え方が導入されたという例として「玄奘」の訳による経典は全く不適当であり、論を構築するうえで検討が不足でした。

ただし他の例として挙げた東晋の「帛戸梨蜜多羅」による経典は依然として有効と思われ、ここでは東方におられるという「瑠璃光佛」(薬師如来)に対する信仰の一環として「放生」が七世紀半ばという時期以前に倭国内に存在していたことは確かとみています。

 さらに「履中紀」に出てくる「目の周りに入れ墨をしていた河内飼部」に対し「血の臭いに堪えられない」と「神託」があったと書かれています。

(履中)五年…
秋九月乙酉朔壬寅(十八日)。天皇狩干淡路嶋。是日。河内飼部等從駕執轡。先是飼部之黥皆未差。時居嶋伊奘諾神託祝曰。「不堪血臭矣。」因以卜之。兆云。惡飼部等黥之氣。故自是以後。頓絶以不黥飼部而止之。

 このように「血の臭い」を嫌うというのは「不殺生」という観点から「仏教」的な要素であり、このエピソードのベースに「仏教」があることがうかがえます。さらにこの漢文は「経典」の中にある文言にとても似ています。それは上に挙げた「帛戸梨蜜多羅」による経典がそうです。

「…是七神王當以威神。護國土之中有。雜毒之氣以撃人身。被輒寒熱起諸苞腫或乃徹骨。至潰之日濃血臭爛不可得近。唾呪不行或時致死。末世之中生此毒害。以某帶持結願經故。雜氣之毒不害某身。…」(佛説灌頂七萬二千神王護比丘呪經)

この中に「至潰之日濃血臭爛不可得近」という一節があり、まさに「血臭」により「近付けない」とするのですから「履中紀」の「神託」とされる文言によく似ていると思われます。
 他の経典にも「血臭」は出てきますが、「履中紀」の表現に近いのはこの経典であり、すでに挙げた「薬師信仰」と「放生」記事の出現という点とともに「倭国」の内部において「不殺生」という観念がかなり以前から浸透していたことをうかがわせるものです。

 この「経典」は「東晋」時代に訳されたとされていますから、倭国へは「仏教」の伝来とそれほど離れた時期に倭国にもたらされたとも思えず、その後の『法華経』伝来と「阿毎多利思歩孤」による国教化というエポックメーキングな出来事とともに「薬師信仰」として「倭国」内に急速に浸透していったものではないかと考えます。

コメント (1)

「筑紫」への遷都の動機など

2018年12月19日 | 古代史

 「隋」との外交をみると二つの重要な事象があり、そのことが倭国の統治や政治運営に強く影響したことが窺えます。一つは「天子」自称であり、そのことに対する「宣諭使」として「裴世清」が派遣された一件です。
 このような「天子」を自称する様な存在は「隋」の版図内であれば征討の対象となるものであり、軍事力を展開するに相当する行動ですが、倭国は「隋」の版図というわけではなく、その様な行動には直接は結び付かないものの、「隋」から見て「好ましからざる存在」として映ったことは間違いなく、そのため「宣諭」という準軍事的内容の行動となったものと思われます。
 「宣諭」はその使用例から見てもほぼ「軍事的緊張状態」にある地域にそれを緩和させたり、終結させるために派遣されるものであったと見られます。このことはこの時の「隋」にとって「倭国」との間は正常な国交状態とは言いがたいものであったことを示しており、かなりの緊張状態となっていたことを示すものです。

 さらにそれに引き続き「琉球侵攻事件」がありました。「宣諭事件」については「隋皇帝(高祖)」は「謝罪」を要求したと思われ、倭国としてはそれを受け入れるしかなく、改めて「国書」を提出して、その中に「謝罪の言葉」を盛り込む必要があったと見られますが、そのための使者が「隋」を訪れていた時点で「琉球侵攻」事件があったものではないでしょうか。

「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國。言不相 通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」…」

 「隋高祖」の謁見の前に「琉球」からの戦利品を見た時点で、使者は「夷邪久國」(屋久)が侵攻されたと誤解し、この一件が謝罪程度では済まないかもしれないと考え、直接的侵攻の可能性があることを急ぎ帰って報告する必要があると考えたものでしょう。
 また、このことは「倭国」の使者には「屋久」の文物に知見があったこととなりますから、その意味でも「屋久」が「倭国」にとってはるか遠方の地域という認識ではなかったことがうかがえます。
 その後帰国した使者から「隋」が「屋久」へ侵攻したという情報(これは誤解であったものですが)を聞いた倭国王は、防衛体制の構築の必要性を感じたものであり、その結果「南方」からの侵攻を想定し、「肥」から「筑紫」に「遷都」したものと考えます。

 「隋」からは「鴻臚寺掌客」と「文林郎」として二回「裴世清」が倭国を訪問していることとなるわけですが、この間に「遷都」つまり都が移動しているとすると当然案内されたルートが異なることとなるでしょうし、そのような重要な情報が記録されなかったとか報告されなかったというようなことは考えられません。このことから「開皇二十年」段階でも「遷都」はしておらず依然として「肥」にその都があったであろうと考えられることとなります。
 このように遷都したわけですが、そのうえでに「旧都」である「肥」には「鞠智城」を設け、南方からの防衛の拠点としたものであり、この段階で「前線防衛」基地として「鞠智城」、正都「筑紫」の防衛として「基肄城」「大野城」を構築すると共に、それら「山城」を結ぶ「官道」を「筑紫」から「九州島」の内部各地に通じさせ軍事力展開を容易にする施策の実行となったものと推量します。

「鞠智城」と「大野城」「基肄城」は『書紀』で以下に見るように同年次に「繕治」の記録があります。

「令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」(文武二年(六九八)五月甲申廿五条)

 しかし、関係する記事はこれだけであり、その「築城」の時期などは不明となっていますが、ここに「大野城」「基肄城」と並べられていることから、これらの「二城」の同じ時期の築城ではなかったかという可能性も指摘されています。

 さらにその後「難波」に「鞠智城」と同様「山城」の延長線上にある型式の「城」の機能を兼ね備えた「平面山城」というべき「副都」を造り倭国防衛の体制を整えようとしたものと考えられます。この契機となったものは「高表仁」との「争礼事案」であったものではないでしょうか。
 「唐皇帝」の全権大使として来倭した「高表仁」に対し「臣下」としての「礼」をとろうとしなかった「倭国王」あるいは「倭国王子」に対し「高表仁」が激怒して「国書」を手渡さずに帰国した一件です。このときも「倭国」は「唐」の支配下にあったわけではありませんでしたから「謀反」とは捉えられなかったものの、非常に心証が悪くなったことは確かであり、「倭国王権」としては「隋代」同様「侵攻」の危険性を考慮せざるを得なくなったものと思われ、東方に大きく移動した「難波」に副都と称して実質的な遷都を行ったものであり、そのために「東国」に対する統治強化策として「国境」の確定などを行ったものと思われます。

 この「難波京」が「大阪湾」など遠くを見渡せる台地上に造られた最大の意図は「敵」の早期発見であり、早期対応であったと思われます。その意味で「西方」への警戒が主たるものであったと思われるわけですが、その関連で推測すると、当然「山陽道」という軍事道路も完成していたものであり、「筑紫」への侵攻があった場合すぐに「難波」など各地から「筑紫」へ軍事力を展開ができるように整備されたものと思料します。そうであれば途上に位置する「周防」「吉備」「讃岐」に「総領」が配置されている理由も明確となるでしょう。「総領」はその原型となった「隋」の「総管」が軍事的組織の中に位置づけられるものであり、「軍管区」を統率する職掌でした。彼ら「総領」も同様の意図の元設置されたと見るべきでしょう。

コメント